ヤルタ会談

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【ヤルタ会談】とは、1945年2月4日~11日にかけてソ連の対日戦争参戦や、国際連合、戦後の日本領土の占領について、ソ連領クリミアのヤルタで行われた会談。

第二次世界大戦の大勢はほぼドイツの敗北で決しており、連合国は戦争終結後のドイツやポーランドの統治について話し合われた。
日本にとってはソ連の対日戦争参戦が決められた会談として名高いが、【ヤルタ会談】で最も争点となったのは第二次世界大戦の発端とも言えるポーランドの処遇であった。

ポーランドはドイツとソ連がほぼ同時期に侵攻し、あっという間に陥落、以後両者は事前に「独ソ不可侵条約」によって決められた国境線でそれぞれポーランドを占領していた。
しかし侵攻の翌年にドイツは「独ソ不可侵条約」を破棄してソ連へ侵攻、しかしソ連の強固な防衛力によってドイツは英ソ、さらには米との戦闘にさらされることになる。

独ソによって国土を奪われたポーランドは、ロンドンに亡命政府を置いていた。
イギリスは戦争終結後のポーランドはこの亡命政府が政権を担うべきだと訴えたが、もともとポーランドを手中に収め、社会主義の防護壁として扱いたいソ連はこれに反対。
結局アメリカの仲介によって、終戦後にポーランドで国民選挙を行い、国民が政権を選択する方式が取られることになった。
なお、この会談後にソ連は亡命政府の幹部を一方的に逮捕し、ポーランドはなし崩しに社会主義国家となっている。

ドイツが東西分割統治となったのは周知のとおりである。
ちなみに東西というのは単純な方角のことではなく、西側=民主主義陣営と東側=社会主義陣営のことを指している。
結果的にベルリンを除いて方角的にも東西真っ二つなため勘違いされやすい。

太平洋戦争についてでは、アメリカのルーズベルト大統領とソ連のスターリン書記長の間でかわされた密約で、ソ連の対日戦争参戦について話し合われた。
実はアメリカはソ連に対して太平洋戦争開戦翌日から参戦を望んでいたが、ソ連は「日ソ不可侵条約」を理由にこれを拒否していた。
しかし1943年10月の連合国外相会談では、ソ連が「対独戦争に勝利してから90日後に太平洋戦争に参戦する」と述べている。
そしてこの発言は【ヤルタ会談】によって正式に両国、さらにはイギリスを含めて決定され、8月9日にソ連は宣言通り「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄して日本へ侵攻した。

【ヤルタ会談】ではソ連の参戦の他にも、戦後のソ連の影響力についても話し合われた。
具体的には、樺太と千島列島の領有権をソ連に帰属させること、南満州鉄道と満州国の権益を譲渡、外モンゴルのソ連の影響力を維持することなどが決められた。
結果的にソ連と日本が戦争を行った期間は短いが、この密約と実際にある程度の侵略が行われていたことから、樺太・千島については現在までソ連領として占拠されている。

他にも国際連合をベースとした世界の国際レジームについて話し合われたが、結局米英ソのたった三カ国だけで世界管理の組織や領土問題について決められた、いわゆる「ヤルタ体制」には批判が多い。