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水上偵察機 『紫雲』/川西
Kawanishi E15K

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紫雲一一型
全 長11.587m
全 幅14.000m
全 高4.950m
主翼面積30.00㎡
自 重3,165kg
航続距離3,371km
発動機
馬力
空冷複列星型14気筒「金星二四型」(三菱)
1,500馬力
最大速度469km/h
武 装7.7mm機銃 1挺
爆弾60kg 2発
符 号E15K1
連 コードネームNorm(ノーム)
製 造川西航空機
設計者
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高速水上機は机上の空論 大淀の運命も変えた紫雲

日本は昭和12年/1937年に【零式水上偵察機】の製作を指示したころから、水上機にかなり熱心に取り組み始めます。
どの海上にも必ず空母を派遣できるわけではありませんし、陸上からの支援が受けられる距離にも限界があります。
戦艦や巡洋艦に搭載できる水上偵察機は、自軍により有利な情報を一刻もはやく手に入れるために必要不可欠でした。

ただ、日本はいつでも一挙両得を得ようとする癖があり、この水上機もまたその風潮に飲みこれます。
その例が【十二試二座水上偵察機】であり、また【瑞雲】であり、ともに「水上偵察爆撃機」としての役割が求められました。
残念ながら【十二試二座水上偵察機】は開発が断念され、本格的な水上偵察爆撃機は昭和18年/1943年に【瑞雲】が制式採用されるまで待つことになります。

一方で、のちに川西航空機が開発を命じられた【強風】は「水上偵察戦闘機」とも言える存在で、武装はもちろん、速度が艦上戦闘機に負けず劣らずの574km/hという無茶な数値を叩きつけられます。
川西も様々な方法を試してこの無理難題に立ち向かうのですが、最終的にこの【強風】【強風】としては大成せず、代わりに「紫電・紫電改」として陸上戦闘機に転用されることになりました。

そしてこの【強風】開発指令の1年前に当たる昭和14年/1939年に、やはり川西に製作命令が下ったのが、この【十四試高速水上偵察機】(のちの【紫雲】 )です。
上記の「水上偵察爆撃機」や「水上偵察戦闘機」とは違い、この【十四試高速水上偵察機】は、偵察機としての性能を極限までに高める高速の水上機を目指したものになります。

極限とはどれほどのものなのか。
蓋を開けてみれば、やはり目を疑うような数値が飛び込んでくるのです。

最高速度:高度4,000mに対して約555km/h
(※ ソースが曖昧ですので、話半分に見てください)

ちなみに日本の主力戦闘機だった「零式艦上戦闘機二一型」の時速は高度4,700mで約533km/h。
【零戦】並に速い水上機を造れというものだったのです。
(なお【強風】もまた、高度5,000mで574km/hというひっくり返るような最高速度を要求されています。)

【十四試高速水偵】のコンセプトは「敵戦闘機の制空権下でも強行偵察が可能」というもので、つまり敵戦闘機が飛び交う中に突っ込んでも逃げ切れる偵察機ということです。
逃げ切るためには何よりも速度が必要ですから、当時日本の最速機だった【零戦】ぐらいには速く、という要求に至ったのです。

川西はこの要求に対して、全く新しい機体を作り上げなければ実現不可能と、翌年に命令を受けた【強風】開発と並行し、過去の経験を総動員して開発に挑みます。
そのため、開発内容は実は【強風】と類似する点がいくつか存在します。

水上機は元々補助機体ですから、主力も主力、第一線のエースである艦載機に性能面で勝つのはかなり難しいです。
特に速度や運動面でネックになってくるのが、水上機が水上機たる所以、フロートの存在です。
フロートは重量も空気抵抗も生み出すため、速度の大敵でした。
川西はまずこのフロートの改良をはじめました。

まず、両翼に取り付けられる補助フロート(着水時にぶれた機体、特に翼が水に沈まないように翼の下に着けられた小さなフロート)を初めて引き込み式にします。
このフロートも空気を出し入れすることで縮んだり膨らませたりできるようにして、収納時によりコンパクトに折り畳めるようにしました。
補助フロートを引き込み式にしている機体は非常に珍しいです。

メインの主フロートですが、こちらは緊急時にはフロートを切り離し、重量・空気抵抗減による速度アップを図りました。
求められたのはあくまで最高速度ですから、「フロート落とせば最高速度が出ます」という構造でも間違ってはいません。
そもそもこれぐらいのことをしなければ当時の日本のエンジンでは要求を満たすことができなかったのです。

そのエンジンですが、もちろん当時最大馬力を誇った三菱の「火星」を採用。
ただ、この馬力は双フロートならまだしも、単フロートの【十四試高速水偵】にとっては大きな問題でした。
飛行機には大小問わず、プロペラが回転する際に発生する力の流れ、トルクが存在します。
もちろん馬力が強ければ強いほどトルクの力も大きくなり、機体の安定性を損ないます。
それが元々不安定な単フロートの水上機で発生すると、ある一線であっという間にひっくり返る危険性もあるのです。
通常の対策としては機体を厳密には左右非対称にしたり、また舵を若干傾ける装置などが付けられるなどの方法があります。

川西はこのトルクの解消のために、日本で初めて2枚の羽を前後に2つ組み合わせて設置し、それぞれを逆回転させて両方向に同じ力を送ることで抵抗を打ち消す(トルクを打ち消す)という二重反転プロペラを採用します。
こうすれば推進力も稼げますので、高速性を最重視する【十四試高速水偵】にはうってつけでした。
この二重反転プロペラは【強風】でも採用されましたが、構造の複雑さ、整備が困難などの理由から途中で却下されてしまいます。

その他、翼は層流翼、油圧式二重フラップ、武装は尾翼に7.7mm機銃一挺という性能でした。

こうして【紫雲】 は昭和16年/1941年12月に試作機が初飛行。
ところがこの【紫雲】 、名前とは裏腹に全くめでたくない結果を次々ともたらします。

風洞実験では問題なく作動したフロートの切り離しができない、フラップの動作不良、補助フロートが着水時にしぼんで役割を成さないなど、問題が続出。
補助フロートの作動不良によって試作一号機は転覆。
フロートの切り離しは、例え空中での切り離しが成功したとしても、胴体着水になることから試作機はお釈迦になるので、それをもったいないと感じて実験がされておらず、実際に敵機と交えた際に初めて発覚したという有様でした(この時は単にフロート投棄をしなかったという記述もあります)。

そして至上命題であった高速性。
これが468km/hしか出ないことが発覚。
これは川西の力不足というわけではなく、元々日本の技術力ではまだその数字を出すことができなかったと言わざるを得ません。
当然この速度では敵機から逃げることはできず、たった一挺の小口径機銃では焼け石に水です。

故障箇所の改修や、尾部の下部にフインを取り付けたり、補助フロートを固定式にしたりといろいろやっていくうちに、月日はどんどん経過していきます。
昭和17年/1942年10月にようやく海軍に領収されましたが、まだ問題は解消されていません。
しかし海軍は半ば強引に、当初から運用予定だった【大淀】にこの【紫雲】 を搭載すべく、試作機3機に加えて4機を追加発注しています。
【大淀】【紫雲】 搭載を見越した装備が施されており、搭載数6機の格納庫と巨大なカタパルトがそびえ立っていました。

昭和18年/1943年8月、ようやく【紫雲】 は制式採用されます。
しかし同年に上記の4機を加えた9機、翌年に2機の量産機が製造された時点で、【紫雲】 は製造中止が通告されました。
上記の他にも、【強風】で取りやめとなった二重反転プロペラの複雑な構造、フロートのキールの強度不足、自動操縦装置などからの油漏れなど、後から後から問題が噴出。
昭和19年/1944年6月に【大淀】に搭載された3機がパラオのアラカベサン水上基地に到着し、そこで哨戒活動を行うのですが、【紫雲】 のまともな活動はこの6月1日から8月12日のたった2ヶ月半でした。
計23回の出撃によって、2機が中大破しているものの、撃墜されることはありませんでした。
戦訓では「紫雲ノ如キ飛行機ハ今後制作セザルコト」と記載されていたようです。

【紫雲】 あっての運用を計画していた【大淀】も、この【紫雲】 用のカタパルトが撤去され、【大淀】はここから連合艦隊旗艦拝命という数奇な運命を辿っていくことになります。

【紫雲】 の総製造数は15機。
誰が見ても分かる失敗作でした。
【強風】【紫電、紫電改】という思わぬ副産物を生み出したのでまだ救いはあるかもしれませんが、川西は【紫雲】 【強風】、戦時中の航空機開発でかなり苦しい戦いを強いられたのです。

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