- 一式戦闘機各機種に関するスペック
- 九七式戦闘機の後継機 どのような経緯で決まったか
- 九七戦は超えられない 採用への道は狭まる一方
- キ43復活 ところが組織間で一悶着
- 一式戦闘機「隼」一型
- ぶっつけ本番の問題児 怖いが強い一式戦闘機
- 一式戦闘機「隼」二型
- 一式戦闘機「隼」三型
- 計画された「隼」派生型
九七戦は超えられない 採用への道は狭まる一方
設計着手から約1年後の昭和13年/1938年末、中島は【キ43】の試作機を造り上げ、陸軍に納入します。
【スーパー九七式戦闘機】というだけあって、【キ43】にはほとんど挑戦的な設計はなく、引込脚が採用された以外はだいたい【九七式戦闘機】の設計を引き継いでいます。
なので設計開始から試験飛行まで1年という期間はかなり早いほうでした。
とりあえず無事に飛行した【キ43】でしたが、その姿は【九七式戦闘機】を再評価する結果になってしまいます。
航続距離こそさすがに【九七式戦闘機】を圧倒しているものの、肝心の速度は【九七式戦闘機】より30km/ほど速い程度で500km/hにわずかに達せず、さらに運動性能は【九七式戦闘機】に格段に劣ることがわかりました。
これはオクタン価87の時の実績で、92だと500km/h以上の速度が出ましたが、当時の陸軍はみんな87オクタンだったので「いや92オクタンだと超えてるから」というのはさすがにズルでしょう。
昭和12年/1937年初飛行の【九七式艦上攻撃機】でも採用されている引込脚ですが(定速可変ピッチプロペラとファウラーフラップも搭載)、【キ43】の試験飛行ではどうもトラブルが多く、速度も伸びないし問題も起こるしとさらに足を引っ張ってしまいました。
【九七式艦攻】は主翼を折りたたむ構造上主桁が1本と2本で構成されていましたが、3本桁構成の【キ43】だと主脚が主翼の中に完全に収まりません。
なので主翼の付け根部分に張り出しを設けて直接風が当たらないようにはしたのですが、結局車輪は露出したままの状態でした。[2-P134]
引込脚が収まらなかったり勝手に降りたりする問題の原因はここにありました。
試作機が2号、3号と登場し、試験が続けられている中、【キ43】をさらに貶める事態が発生します。
「第一次ノモンハン航空戦」で、【九七式戦闘機】がソ連機を片っ端から叩きのめしていったのです。
もともと中国大陸での活躍で【九七式戦闘機】の評価は最高潮でしたが、この戦いで【I-16】などとの戦いでも圧倒的な力を見せつける【九七式戦闘機】に対して、この【キ43】は何てザマだとより酷評されてしまうのです。
この時はまだ航空機の評価を飛行学校が担っており、【キ43】は実際に戦闘を行ったパイロットから明野飛行場で審査を受けていましたから、比較されまくりでした。
この散々な結果に対して、このままじゃとても使えないので陸軍は【キ43】をさらに軽量化させて格闘性能の強化を図る案と、格闘性能は甘んじても更なる高速、そして武装強化をした案の2つを提示するように要求。
これらの内容は「第三次審査計画」として【キ43】の性能向上が始まりました。
第一案の内容を掘り下げると、引込脚の機構などを取り除いて固定脚とすることで80kgの重量を軽減。
また風防を開放化させ、昇降舵と連動するフラップが装備されました。
この改造を施されたのは4306号機と4307号機です。[3-P106]
昭和14年/1939年12月に改造は完了し、早速【九七式戦闘機】との模擬空戦に臨みましたが、結果はかなり残念なものでした。
旋回性は多少改善されたものの上昇力のアップはほぼ感じられず、速度は逆に430~440km/hに低下する有様で、第一案での【キ43】延命路線は早々に消滅しました。[3-P106][3-P139]
かわって第二案ですが、こちらは【九七式戦闘機】にない高速性やパワーを伸ばす、どちらかというと重戦闘機っぽくするというものになりました。
第二案の目玉はエンジンの換装です。
「ハ25」を二速過給機化したグレードアップ型の「ハ105」は、昭和15年3月ごろからゆっくりと完成していく予定でした。
ところが「ハ25」そのものがまだ初期不良を発生させていた時期とあって、構造がより複雑になる「ハ105」がまともに生産できるはずがありませんでした。
結局「ハ105」は2機の第二案用改造機にしか搭載できず、しかも油圧低下や振動などの根深い問題が「ハ105」を苦しめ、搭載は断念されます。
しかし「ハ105」はその後「ハ115」に発展して【隼二型】から搭載されるようになります。
「ハ105」の搭載には失敗しましたが、第二案は他に定速可変ピッチプロペラの新採用や蝶型空戦フラップ、両翼端の30cmカットといった違いがあります。
定速可変ピッチプロペラは速度や飛行角度に応じて羽の向きを切り替えることができるプロペラのことですが、日本はプロペラにおいても開発がかなり遅れていて、昭和14年/1939年までの生産分では固定ピッチプロペラを使っていました。
この定速可変ピッチプロペラですら、アメリカでは古い技術になっていたものを住友金属工業がライセンス生産しているレベルで、自力では生産できなかったのです。
【九七式戦闘機】のプロペラ設計を担当し、ドイツのユンカース社に出向いて技術を習得していた佐貫亦男が在独中に「独ソ戦」が始まって帰国できなかったことも、日本のプロペラ開発の遅れを助長させてしまいました。
プロペラ技術の優劣はさておき、このプロペラによってエネルギーの無駄な消費を抑えることができ、航続距離を延ばすという使命の一助になりました。
空戦フラップについては多少破れかぶれ感があるのですが、これはもともと【隼】のような中速かつ低速格闘戦を主体とする戦闘機に搭載する予定はありませんでした。
空戦フラップは旋回性能の向上につながる装置なのですが、これは翼面荷重の小さい、高速だが舵の重い航空機に使う予定で、実際【キ44】への搭載が決まっていました。
そんな装置が【隼】に使われた理由は、【九七式戦闘機】に勝てなかったからです。
【隼】は【九七式戦闘機】と同等以上の戦闘性能を求められていたため、【九七式戦闘機】に比較して大きく重い【隼】が勝つにはどうすればいいかと悩んだ末に、この空戦フラップも搭載されました。
こういう事情ですから、【零戦】に空戦フラップが搭載されていないのも頷けます。
空戦フラップは自動ではありませんから、生死を分ける戦いの最中に繊細な操作が必要になる空戦フラップを扱うのは簡単ではありませんでした。
しかし上手く使いこなせれば【零戦】を上回る旋回性能を誇りました(これは敵さんの評価ですが、ということは【零戦】の方が大きいのにフラップ使わないと【隼】は【零戦】に勝てないとも読めます)。
蝶型というのはその動きが蝶の羽のようだということから名づけられたのですが、内側の面積が大きいので、実際の蝶の羽とは動きが逆です、あくまでそれっぽいなって程度の決め方です。[2-P132]
この時同時に風防のスライド方式についても改められ、以前は真ん中だけが移動していましたが、改良後は中央から後方部分までが全部後ろにぐっと移動させることができるようになりました。
この形だと中央だけが動くタイプよりも視界が広くなります。
第二案改造機の飛行試験の結果を見てみると、空戦フラップを使用することで旋回半径が縮小され、【九七式戦闘機】を相手にしても以前よりは戦える能力を身に着けました。
一方で舵が重いという評価が下るのですが、それは機体が大きいし重いのですからないものねだりです。
格闘性能はまだ劣っていたものの、第一案では達成できなかった速度500km/h超え(高度5,000~6,000m)や、高度5,000mへの到達時間が5分12秒、6,000mなら6分21秒を記録し、明らかに【九七式戦闘機】をしのぐパワーを発揮。
これに加えて航続距離はもともと【九七式戦闘機】は足元にも及びませんから、パワーを駆使した戦闘であれば【九七式戦闘機】相手にも戦える、全く新しい戦闘機の未来がここに見え始めたのです。
この結果を受けて、明野からは5月に「【九七式戦闘機】に対して格闘性能が弱く、【キ43】性能向上第二案の高速化という方向性で構わないけど、それならもっと速度と上昇力が欲しい」という注文が付けられました。
第二案の性能を向上させる方向で了承しているということは、逆に言うと初期の【キ43】はそれもなかったので【九七式戦闘機】以下だという烙印を押されるのも無理はありません。
ただ明野の証言に対して、航空本部はまだ【キ27】の軽量化である【キ27Ⅱ】の実験を続けるとしており、【キ43】への自信がまだ弱かったことが伺えます。[3-P109]
一方で中島も、「パワーが足りん」と言われた中でそのパワーの源であるエンジン「ハ105」の不調が前述のとおりでありまして、延命したとはいえ第二案の灯火は小さくなる一方でした。
キ43復活 ところが組織間で一悶着
【キ43】が再び息を吹き返したのは、昭和15年/1940年に入ってからでした。
しかし息を吹き返したと言っても、差し伸べた救いの手のは前述の第二案改良型だけではなく、突然ガッと腕をつかんで引っ張る別の手もあったのです。
まず、前年に飛行審査を専門に行う飛行実験部という組織が航空本部に誕生します。
これまでの試験体制に変化が訪れたことで、実験隊長であった今川一策大佐の手で、【キ43】は設計当初から取り憑かれていた【スーパー九七式戦闘機】という呪縛から解放されることになります。
彼は「ノモンハン事件」で実際に飛行第五十九戦隊長として【九七式戦闘機】を指揮操縦して戦っていた人物で、彼だけでなく指揮官クラスの戦闘機乗りは、【九七式戦闘機】の強さに酔いしれるほど楽観的ではありませんでした。
なので彼は【キ43】のみならず、各々の特徴から機体が生き残る道を探っていました。
第二案に関しては「【九七式戦闘機】に格闘戦で勝てないのなら、他の能力をもっと上げろ」という要求ではありましたが、これは結局【九七式戦闘機】に比してどうこうという判断です。
しかし今川は「じゃあそれは【九七式戦闘機】よりも速い別の戦闘機じゃん」と考え、これまでの凝り固まった考えから一歩下がって【キ43】は見直されたのです。
【九七式戦闘機】がどれだけ優秀でも、当時の航空機開発競争全盛時代を10年も戦えるわけがありません。
開発の遅れはやがて【九七式戦闘機】を陳腐化させ、日本を再び航空機開発後進国へ追いやります。
であれば、【キ43】も時代を睨んだ新戦闘機として誕生させなければなりません。
折しも時は「日華事変」のど真ん中で、日本は中国大陸の奥地へと侵攻を進めていました。
重複しますが、中国大陸の奥地まで爆撃をするためには長距離飛行が必要で、その爆撃機を護衛する戦闘機もまた長距離飛行が求められていました。
これに応えたのが超航続距離を誇る【零戦】で、【零戦】はその圧倒的な航続距離と抜群の格闘性能で大活躍を見せていました。
偶然か必然か、同時期に製作が命令されて一足早くデビューしていた【零戦】の姿は【キ43】とそれなりに似通っていました。
そして戦いは長い航続距離が求められている、ということは、【キ43】も今の時点ですでに2,500kmの航続距離がありますから、これを活かせば生きる道があると考えられました。[1-P136]
一方で日本を取り巻く状況も目まぐるしく変わっていました。
対米、対英関係の急激な悪化です。
対米戦争となると舞台は太平洋になりますから、対中・対ソとは全く戦場が異なります。
陸上はとにかく陸がありますから着陸はできますし、たとえ着陸に失敗しても脱出はできます。
しかし海上を延々と飛行する場合は、まず着水が難しい、そして着水後の救助が難しい、そして脱出後の生存が難しいと悪いことだらけです。
つまり、航空機は飛んだら絶対に陸地があるところまで戻れるだけの燃料がないといけないのです。
これが短距離飛行しかできない【九七式戦闘機】では絶対に不可能なことでした。
【キ43】の独自性に注目が集まる中でしたが、旋回性能が【九七式戦闘機】に負けている事実は変わりません。
じゃあどう戦うのか、わざわざ敵と同じ土俵で戦う必要はないので、【九七式戦闘機】に勝っている戦い方を編み出せばいいのです。
飛行実験部は【キ43】を研究し、高馬力を活かした上昇力や宙返りなどの上下の移動、また単純に速度を上げて引き離すなど、違った方法で【九七式戦闘機】とは異なる独自の戦闘機としての地位を築きつつありました。
縦移動を重視した戦闘であれば、使いこなすのに時間がかかる空戦フラップに頼らずとも戦えます。
この戦い方はまさに「第二次ノモンハン航空戦」で【九七式戦闘機】が苦汁を舐めた【I-16】の戦法でもあり、また第二案に対する要求と同じでした。
ちょうど【キ43】の改良を進めている8月(今川大佐回想)、参謀本部からお誂え向きに「戦闘込みでタイ?仏印?からシンガポールまで900kmを爆撃機を護衛して往復できる戦闘機を来年(昭和16年/1941年)4月までに50機用意しろ」という要求が飛んできました。
とりあえず3案を出しましたが、うち2案は間に合わせの急ごしらえ(【キ17/九七式司令部偵察機】の20mm機関砲戦闘機化改造もしくは爆撃機に機銃搭載)で、本命は【キ43】しかないと今川大佐は自信をもって新生【キ43】のデモ飛行に臨みました。[1-P138][3-P110]
デモ飛行で【キ43】の扱い方に間違いがなかったことが証明されると、【キ43】開発の速度は急速に上がります。
【スピットファイア】の対抗策だった【キ44】の開発には時間がかかっていて、またこの後活躍を狭める原因にもなった航続距離の短さもあって、【キ44】はこの役目を負えませんでした。
つまりこの仕事ができる戦闘機は【キ43】しかなく、比較対象すらいないので【キ43】が採用されるのは決まったも同然でした。
11月9日の日付で記録された「キ43遠戦仕様書」というものがあります。
こちらも原本が未発見のため要件しか知れ渡っていませんが、これは
・蝶型フラップの装備
・定速可変ピッチプロペラの装備
・エンジンカウリングの改良
・爆弾型落下タンクの装備
・武装は現在のまま。新製品は13mmとする。7.7mmとの交換装備
・昭和16年3月までに13機を改修(及び4月末までに25~30機)
・天蓋を改修
・行動半径1,000km以上
・発動機は「ハ25」とする
という内容をもとに、参謀本部は至急【キ43】の改修を実行に移すようにというものでした。
13機の改修というのはこれまでの試作機全部に相当し、つまり完成している【キ43】は全部この仕様に変更するようにという事です。[3-P110]
「遠戦仕様書」は【キ43】の復活のきっかけとなりましたが、一方で明野ら実際に飛行機を操る側から見ると寝耳に水であり、【キ43】が全く毛色の違った戦闘機になっていると大きな反発がありました。
そもそも第二案の強化は引き続き求めているのに、それを勝手に別物にすり替えるとは何事か。
それに「遠戦」ということは、こいつは遠距離飛行をするための戦闘機であって、軽単座戦闘機の趣旨とは全然違うではないか、というものです。
長距離飛行が前提となると、復路の重い燃料を抱えたまま敵と戦う必要がある上に、その後また長い距離を飛び続けて帰らなくてはなりません。
第二案だったら速度も出るし上昇力もよくなったけど、それ、燃料ドカ積みの遠戦でもこの能力で戦えるんですか?
そもそも「陸軍航空兵器研究方針」では【キ43】の要求行動半径は600kmでしたが、いつの間にか1.7倍です。
しかもその行動半径1,000kmというのも、実態の飛行状況から見るととても信じられないということで、真っ向から対立しました(1941年1月17日に「飛行実験部改修意見対策」の場で、オクタン価をこれまでの87から海軍と同等の92にすることになったようですので、これが影響しているかも?【一型】は結局87のままだったらしい)。[3-P102]
この対立の原因は、明野や航技研と飛行実験部がそれぞれ航空機開発に口を出せる構造にありました。
本来は飛行実験部は航技研の下に入り、明野の声と合わせて審査できる構造にすべきだっただろうと、木村技師は述べています。[1-P132]
明野側は【キ43】を【九七式戦闘機】に代わる新軽単座戦闘機として扱い、飛行実験部側は今後の戦いに必要な性能を持つ戦闘機として【キ43】を扱ったので、ぶつかり合うのも当然でした。
しかし今や主導権は参謀本部側にありました。
参謀本部としてはシンガポールまで飛べる戦闘機が欲しいのですから、明野側の意見を封じ込めて遠戦仕様の【キ43】で強引に推し進めようとします。
別に遠戦仕様でも明野側が求める能力はだいたい備わっているのですが、性能が同じでも運用方法が違うのですから、明野側は納得しません。
ですが結局遠戦仕様の【キ43】で押し切られ、1941年4月30日には仮制式採用が決定され、ここに【一式戦闘機】の姿が確立したのです。[1-P116]
ちなみに仮採用が決まる前に【一式戦闘機一型】の生産は始まっていて4月には量産1号機すら完成していました。
そして場をつなぐだけの存在となった【一型】は、単に遠くまで飛ぶこともできる戦闘機であり、第二案相当でもなければ「遠戦」でもありません。
参照資料
Wikipedia
ニコニコ大百科
[1]戦闘機「隼」 著:碇 義朗 光人社
[2]零戦と一式戦「隼」完全ガイド 著:本吉隆 野原茂 松田孝宏 伊吹秀明 こがしゅうと イカロス出版
[3]一式戦闘機「隼」航続力と格闘戦性能に秀でた対戦闘機戦のスペシャリスト 歴史群像太平洋戦史シリーズ52 学習研究社
[4]一式戦闘機「隼」研究所
[5]WW2航空機の性能:WarbirdPerformanceBlog