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【キ43】一式戦闘機『隼』/中島その3
Nakajima Ki-43

記事内に広告が含まれています。
  1. 一式戦闘機各機種に関するスペック
  2. 九七式戦闘機の後継機 どのような経緯で決まったか
    1. エンジンにかかわる性能
    2. 攻撃力・防御力
    3. 航続距離
  3. 九七戦は超えられない 採用への道は狭まる一方
  4. キ43復活 ところが組織間で一悶着
  5. 一式戦闘機「隼」一型
    1. 武装
    2. 航続距離
  6. ぶっつけ本番の問題児 怖いが強い一式戦闘機
  7. 一式戦闘機「隼」二型
    1. 増槽の更新と設計変更
    2. 攻撃力・防御力
  8. 一式戦闘機「隼」三型
  9. 計画された「隼」派生型

一式戦闘機各機種に関するスペック

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一式戦闘機「隼」一型

【キ43】設計の中心人物だった小山悌はこの時技師長となっていまして、ある日一本の電話が小山にかかってきました。
その内容は【キ43】採用するからすぐに東京に来て」というもので、何が何だかわかりません。
着の身着のまま深夜に群馬から東京入りすると、ほんとに陸軍が大真面目に【キ43】の量産体制に入るようにと言ってくるので、中島は頭がこんがらがります。
中島自身、【キ44】の開発に多くを賭けていて、【キ43】は第二案の強化のための改修や試作機製造、試験を行っているぐらいだったので、この決定は驚天動地でした。
別に【キ43】はいらない子扱いされていたわけではないのですが、まさか古い設計の【キ43】が必要になるなんて誰も考えていませんでした。
しかも遠戦仕様の設計を完成させて量産に移るのではなく、その古い設計にちょっと手を加えただけで量産に入り、その洗練化と遠戦仕様に対応した機体は後追いで生産するというのは予想できなかったでしょう。[1-P139]

中島は旧来の【キ43】用の治具を【九七式戦闘機】生産のものへ切り替えていた作業を慌てて中止。
【九七式戦闘機】は満州飛行機が生産を受け持つことになり、中島は「キ43遠戦仕様書」用のいわゆる【隼二型】にあたる設計に集中します。

満足に【九七式戦闘機】の代替になれない【キ43】の旧来仕様での量産はかなり強引でした。
確かに飛行実験部の研究により、縦方向や速度を意識した戦い方で【九七式戦闘機】と戦えることはわかりましたが、この仕様の【キ43】は遠くまで飛べる飛行機ってぐらいの能力だったので、これじゃダメだと評価を下した飛行機をほとんどそのまま前線に送りつけるという無茶苦茶なことを言っているのです。

まさかの復活を遂げた【キ43】でしたが、ここではこれから【隼】及び型式で統一いたします。
第二案に合わせた試作機が何機も製造される中で、【隼】は初期設計から垂直尾翼の位置形状変更、定速可変ピッチプロペラの導入、空戦フラップの導入、スライド式の水滴型風防といろいろ重要な変更が行われています。
一部は前述しておりますので、ここではさらなる変更点や紹介していない違いにとどめます。

まず垂直尾翼ですが、最初は末端から少し前に出た位置にあり、またその山も尾翼の中央付近にありました。
これが途中からカーブが緩くなり山のてっぺんも中心も後方寄りとなり、また配置も機体のお尻につながる場所まで下がっています。
尾部に関して言えば、3号機までは尾部が尖っていたものが途中から垂直尾翼の流れそのままに丸くなっています。

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武装

【隼】で大きな弱点として最後まで付きまとった武装。
【隼】の当初の武装は7.7mmの八九式固定機関銃であることは述べましたが、さすがに弱すぎるという問題認識はあり、12.7mm機銃の開発は急いで進められていました。
そして設計当時は間に合わなかったものの、【隼】開発がダラダラ引き延ばされた結果、開戦ギリギリになって「ホ103/一式12.7mm固定機関砲」が完成。
初期の【一型】は7.7mm機銃2挺のままでしたが、急いでこれが【隼】に搭載されたのです。

「ホ103」もちゃんとコピー元があり、ベースはアメリカのAN/M2 12.7mm機関銃(無断の借りパク)で、M2は今でも歴史に名を残し続けるベストセラーなので目の付け所はよかったです。
そのままコピーするのではなく、弾薬筒は12.7x99mm弾ではなく「ホ102」のブレダSAFATに使われている12.7x81mmSR弾適合に改造。
12.7x81mmSR弾は国産化されていた弾薬だったので、共通化のためでしょう。
サイズが若干小さくなるため、軽量化高速化のメリットと短射程貫通力不足のデメリットがありました。

「ホ103」は急いで生産中の【一型】に搭載することになりますが、完成したばかりの「ホ103」はスムーズな量産までに時間がかかることや、初期不良を懸念して片方にしか搭載されませんでした。
つまり7.7mm機銃と12.7mm機関砲が1挺ずつ機首に収まることになります。

最終的には2挺とも12.7mm機関砲が搭載されるようになります。
機関砲の換装は戦地でも行えるぐらい簡単だったようです。
この武装の3段階変化を中心に、これまで【一型】は甲乙丙の分類があると言われてきました。
ただし少なくとも軍資料の正式な分類としてはこの区分けは存在せず、甲乙丙は中島の内部資料の区分が公式のように扱われたものではないかという見解です。[3-P43][3-P119]

また部隊の運用記録から見ると7.7mm機銃2挺および12.7mm機関砲2門を搭載する機体の運用が見当たらないようで、【一型】はほぼ併用の「乙」と呼ばれていた機体の武装だったと思われます。[2-P145]
換装のしやすさから、現地で「丙」相当の武装となった【一型】も多くいたものと思われます。

12.7mm機関砲はできたてほやほやの新機関砲でしたが、それ以外にも武装には新しい顔がありました。
「ホ103」はM2重機関銃より軽量だったのですが、射程と炸薬量に劣る欠点がありました。
それを補うために、「ホ103」は主に3種類の弾薬が採用されていました。

まずは一式曳光徹甲弾ですが、これは一般的な徹甲弾です。
300mで12mm鋼板の貫通を記録しています。

「ホ103」ではこの徹甲弾の他に、「マ弾」とよばれる特殊な弾丸の射撃が可能でした。
まずは「マ102」という焼夷炸裂弾で、これは信管がないタイプで、命中すると爆発してそこが燃え広がります。
つまり内部ではなく外部から侵食させるための弾薬でした。

もう一つが「マ103」という徹甲榴弾です。
遅延信管を備えた「マ103」は、貫通弾を内部で破裂させることで破壊力を増そうとしたのです。

12.7mm機関砲では、特に当初想定されていなかった対爆撃機などの大型機を相手にすると、確実に仕留めるには接近戦で急所を狙う必要がありました。
「マ103」はこの弱点を補うこともでき、被弾したアメリカ機が20mm機銃弾を受けたと報告しているぐらいの威力でした。
ただし貫通炸裂弾は貫通力を高めることができるような魔法の弾丸ではありませんから、12.7mmで貫通できない相手には無力であることに変わりありません。

しかしこの「マ弾」には致命的な問題がありました。
機銃内で腔発をよく引き起こしていたのです。
腔発とは弾丸が砲の中で自爆してしまうことで、航空機だろうが船だろうが人が銃を構えていようが、その被害は大きなものになります。
弾詰まりなら最悪攻撃ができないだけで逃げ帰ることができますが、【隼】は機首に機銃が埋め込まれているので、こいつが爆発するとエンジンにも影響しますから、下手すれば飛行できなくなり真っ逆さまです。

安全性が確立したのは機械式信管から空気式信管に改められる1年以上先の話でした。
空気式信管になったことで構造が単純化され、生産効率は大改善された上に炸薬量も増やすことができました。

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航続距離

【隼】【九七式戦闘機】の大きな差別点となった航続距離ですが、これは遠戦仕様に少しでも近づけるために【一型】でも増強されています。
それを可能にしたのが搭載燃料の多さです。

もちろんこの長大な航続距離は増槽の力を借りることで可能になっています。
まだ【隼】が誕生しそうにない時代、【隼】の増槽は【九七式戦闘機】と同じスリッパ型で、容量は1基辺り133ℓだったものが160ℓに増加。[3-P44][3-P98]
さらに【隼】復活を目指すようになったことで、増槽は爆弾型の200ℓのものへ変更されました。
スリッパ型は投棄操作をしてからもなかなか落下してくれないという問題が【九七式戦闘機】使用時に挙がっていて、新設計された増槽が採用されました。
ただこちらも急な量産が間に合わず、初期型は160ℓのスリッパ型を使っています。
増槽2基で往路を賄うほどの燃料となり、これで【隼】【九七式重爆撃機】【九九式双発軽爆撃機】の護衛が可能なほどの航続距離を誇るマラソンファイターとなったのです。[3-P44]

ただし「ハ25」は馬力だけでなく燃費の良さも高評価であり、実際はこんなに燃料積む必要がないという明野からの反論がありました。
細かい計算は省略しますが、参謀本部は3,000km飛行するにはざっくり1,400ℓの燃料が必要だと試算しますが、明野側の飛行実験によると、そんな量搭載したら絶対余るというものでした。
わかりやすい比較だと、参謀本部は400km/h:140ℓ/hの燃費と計算し、一方実際に前線に送られてからの実測だと400km/h:118ℓ/hと結構な差があります。[3-P116]
つまり燃費を悪く見せて、自分たちの都合のいいように燃料ドカ積みできるような機体にしてんだろという文句なわけです。

【一型】は中島+航空工廠で754機製造されており、うち航空工廠製が51機だけあると思われます。[4]
※機数には資料により差があります(航空工廠製4機説)。[2-P145][3-P187]

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ぶっつけ本番の問題児 怖いが強い一式戦闘機

1941年4月、急いで製造された【キ43/一式戦闘機『隼』一型】量産1号機が完成し、そして30機が陸軍に引き渡されます。
ところが急ごしらえで試作機同然だった【一型】は、見えない問題の洗い出しができておらず、ここから死を含めた多くの災難が降りかかります。

まず6月17日、最初に【一型】が配備されることになった第五十九戦隊の訓練中、上空から目的機に対して射撃を行おうと降下していた時に急に機体がきりもみ状態になったかと思えば、やがて空中分解してしまう事故が発生。
さらに同じような事故が数日~1週間後にも発生し、空戦訓練は中止となり、急いで対策が検討されました。[1-P149][3-P116]

海中から引き揚げた機体を検証したところ、事故の原因がリベットの緩みや断裂であることはわかりました。
しかし立て続けの事故にもかかわらず製造がストップすることはなく、問題個所の修正を行いながら量産は続行し、また問題を起こした機体はすぐに改修して送り返すという、絶対【隼】は投入するという強い意志を感じます。
ただ繰り返しになりますが【一型】【二型】が出るまでのつなぎでしかないので、【一型】の改修はほとんどがその場凌ぎというか、簡易の対策に過ぎません。
引込脚が出ないとか勝手に降りるとかの不具合は相変わらず起こっていましたし、プロペラからの油漏れが風防に飛び散って視界が遮られたり、その油がブレーキドラムに侵入してブレーキの利きを悪くしたりと、誰も乗りたくない新型戦闘機だったのです。[1-P150]

厄介な問題は他にもありました。
新型である【隼】は本土で突然量産が決まった機体だったので、現地では海軍陸軍共にその存在を認知していなかったのです。
すわ敵の新型機か!と味方に襲われる【隼】
同士討ちの被害があったのかどうかはわかりませんが、斬るか斬られるかのの鍔迫り合いがおこったのは間違いないようで、パイロットはいつ事故が起こるかという不安だけでなく、どこから攻撃されるかという恐怖とも戦う羽目になりました。
こんなことでは命がいくつあっても足りないと、これまで翼の上下面にでっかく描かれていた日の丸は、新たに側面にも描かれるようになりました(1942年後半ぐらいから?)。
その他正面からでもわかるように、翼の前縁にも黄色い線が引かれるようになりました。[1-P151]

空中分解事故はこの後も発生していました。
【零戦】でもそうでしたが、【隼】は重さだけでなく強度もギリギリ一杯まで切り詰めていて、1本の糸がプツッと切れてしまうとたちまち壊れてしまう繊細な機体でした。
強度試験をしていても、【九七式戦闘機】に慣れているパイロット達はそれと同じ感覚で【隼】を操縦してしまい、結果機体に無理をさせて壊れてしまうという問題も明らかになります。

翼のしわやリベットの緩みは日常でしたが、事故による殉職者も出ており(檜與平少佐の述懐によると少なくとも4名)、9月下旬までに中国大陸にあった初期生産の【隼】は徐々に日本に撤収させられます。[1-P157]
最終的に211号機以前の初期生産分は廃棄や訓練用に回され、戦場には強度補強や強引な操縦を制御させるため、一定以上の力で舵を切ると逆に舵の利きを重くするようにスプリングを調整するなど、それなりに問題の対処が完了した212号機以降が送られるようになりました。[1-P167][3-P118]
211号機以前の生産分の回収は開戦後も続けられていて、さすがに一気にごそっと引き抜くのは無理でした。
ただこれまでがこれまでなので212号機以降でも信頼性は全くなく、無茶な動きが求められる戦闘機だというのに整備も操縦も繊細に行わなければならない面倒さが付きまといました。

【隼】の配備はあまりスムーズとは言えず、太平洋戦争が始まった時は56機しか【隼】は用意できていませんでした。
先の211号機以前の機体が回収された関係で、これまで生産された数の半分ほどが日本に戻っていたのです。
海軍が「真珠湾攻撃」【零戦】が各空母から続々と発艦していったのに対してかなりの綱渡りです。

12月8日、太平洋戦争が始まりました。
この時【隼】が配備されていたのは、飛行第五十九戦隊と、「加藤隼戦闘隊」と呼ばれた加藤建夫戦隊長率いる飛行第六十四戦隊です。
「フィリピンの戦い」で続々と爆撃機が到来する中、なぜか単発機がしっかり護衛についている光景にイギリス軍は戸惑います。
空母でもいない限り、単発機程度の航続距離でマレー半島にやってくるなんて、どこからきてどこに帰るのか全然想像がつかなかったのです。
【零戦】は当然として、視点を変えたことで2,000kmを超える飛行も可能になった【隼】はこうして生きる道を見つけることができました。

しかし長距離飛行が可能であることは両飛行隊もすでに経験済みです。
問題は安全に飛行ができるようになったのか。

1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎようとしているときの【隼】の評価は、「一式戦十分活躍せり。エンジン十分、機体強度、注意すればしわなど発生せず」というものでした。
他にも「防火タンク、効果あり」「キ43一個戦隊がキ27二個戦隊にあたる」など、扱いは危険だがその性能は現地のパイロットを十分満足させるものだったのです。[1-P181][3-P118]
これまでの【隼】の酷評からずいぶん様変わりし、ようやく【隼】も新戦闘機としての地位を確立させました。[1-P167]

【隼】が制式に採用されたのは昭和17年/1942年1月9日。
結局【二型】が戦場に出る前に【一型】【隼】だと認定されたことになります。
当然ですが、この段階では【一型】とは呼ばれておらず、【二型】誕生後に見分けるために【一型】と呼ばれましたが、正式名は【一型】ではなく【一式戦闘機】のままです。[4]

このように間に合わせ感満載の【隼】ですが、「十分活躍」とは具体的にどのぐらいの活躍なのか見てみましょう。
彼我の航空機の喪失率ですが、開戦から「蘭印作戦」が終了するまでの戦いで、【隼】:連合軍=16:61、つまり【隼】1機を撃墜するために連合軍は約4機の航空機を失っていることになります。
これはとんでもない戦果で、【隼】に勝負を挑んだ【F2A】【MK.Ⅰハリケーン】【P-40】が次々と火を噴いて墜落していくのです。
連合軍は【零戦】と並んで【隼】に対してとんでもない恐怖を覚えました(最初は【隼】【零戦】の見分けがつかなくて、両方とも先に実戦に出ていた【零戦】だと思われていたようです。静止時は見分けるポイントもたくさんありますが、初めてみると空戦時は確かに判断は難しそうです)。
戦いに戦死はつきものですが、あまりにも割に合いません。

一方で【九七式戦闘機】はさすがに米英の高速戦闘機に抗えなくなってきており、称えられた抜群の格闘性能が敵を脅かすこともなくなってきました。
徐々に【九七式戦闘機】【隼】と入れ替わって日本に送り返されていくようになります。

【隼】の破竹の快進撃はその後も続き、「蘭印作戦」で事あるごとに現れては敵護衛機を叩き潰していきました。
「蘭印作戦」をはじめとしたマレー半島にかけての戦いの中で、日本は撃墜破1,539機、鹵獲203機、空襲などによる撃破が246機と記録されています。
一方で日本側の損害は258機と言われていて、航空機が絡む戦果は往々にして過大に計算されがちではありますが、それぐらい【隼】の性能は当時の連合軍が保有する機体に比べて戦闘力が高かったのは間違いないでしょう。

しかし火力不足は【隼】に無理強いをさせることにもつながりました。
軽戦闘機の攻撃対象に爆撃機が含まれていないことは何度か述べていますが、実際爆弾ドカドカ落されながら「あいつ俺の相手じゃないから知らね」と無視するなんて馬鹿なことはありません。
特に【鍾馗】は諸問題を抱えて全然戦場に集まっておらず、護衛も迎撃も全部【隼】が担わないといけない状態だったのです。
なので大型爆撃機が現れても、【隼】は火力不足を承知で戦わなくてはなりませんでした。

加藤中佐(2月19日昇進)は5月22日、アキャブ飛行場の彼方から1機(護衛もなしとは)のイギリス軍【MK.Ⅳブレニム双発軽爆撃機】が現れ、邀撃のために出撃します。
ところが5機が離陸して【ブレニム】を攻撃したものの、5挺の7.7mm機銃を搭載した【ブレニム】は手ごわく、逆に2機が被弾して離脱してしまいます。
攻撃を受ける範囲を減らすために【ブレニム】は低空飛行をしていて、残された加藤中佐達は上空からの攻撃を強いられました。

どれだけ撃っても【ブレニム】に痛打は与えられず、戦闘は数十分に及びます。
そして上空から機関砲を放ちながら接近し、機首を上げて腹を晒したところに、反撃の銃弾が叩き込まれました。
被弾した加藤機は火を噴き、とても飛行場まで戻ることができません。
軍神(生前から呼ばれていた)加藤中佐は、この日墜ちたのです。

大型機への対策としては対進攻撃、いわば正面突撃が威力不足を補いました。
【ブレニム】のように爆撃機は特に後方の防御を強化していますが、前面はそこまでではない上にパイロットもいるので圧倒的に被弾に弱いです。
すれ違った後にまた前に出る必要はありますが、複数の戦闘機で協力すれば十分な効果を発揮しました。

加藤中佐が戦死する少し前の1942年3月、陸軍は【キ43】の正式な愛称として【隼】を公表しました。
彼の死の影響もあり、雑誌や映画で続々と取り上げられる【隼】は当時日本で最も知られた戦闘機、いや航空機であり、現代のように「旧帝国軍の戦闘機と言えば【零戦】なんてことは全くありませんでした。

しかし【キ61/三式戦闘機『飛燕』】がエンジンの問題で不安定さを終始抱えており、火力不足を反省した【隼】の後継機と言える戦闘機は3年後の【キ84/四式戦闘機『疾風』】まで待たなければなりませんでした。
となると、陸軍は【隼】の改良だけでなんとか性能を高めていくしか戦い続ける方法がありません。

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参照資料

Wikipedia
ニコニコ大百科
[1]戦闘機「隼」 著:碇 義朗 光人社
[2]零戦と一式戦「隼」完全ガイド 著:本吉隆 野原茂 松田孝宏 伊吹秀明 こがしゅうと イカロス出版
[3]一式戦闘機「隼」航続力と格闘戦性能に秀でた対戦闘機戦のスペシャリスト 歴史群像太平洋戦史シリーズ52 学習研究社
[4]一式戦闘機「隼」研究所
[5]WW2航空機の性能:WarbirdPerformanceBlog