【ABCD包囲網】とは、日本の北部仏印進駐への抗議としてAmerica(アメリカ)、Britain(イギリス)、China(中国)、Dutch(オランダ)が経済制裁もしくは経済的な障害を配置したことに対する日本側の呼称。
四カ国それぞれの英語の頭文字を並べたものである。
1937年から勃発した「日華事変」において、日本は戦力的に優勢ではあったものの、中国側の抵抗は長引き、またバックについているアメリカ・イギリスからの「援蒋ルート」を経由した支援もあって拮抗状態となっていた。
すでに国際連盟からは非難決議案の全会一致と経済制裁が開始されていたが(当時日本は脱退済み)、アメリカはもともと国際連盟に加盟していなかった上、孤立主義を貫いており、第二次世界大戦含め支援はするものの対日強硬路線を押し出してはいなかった。
しかし1937年12月12日、【米河川砲艦 パナイ】が日本の機動部隊によって撃沈させられた「パナイ号事件」や、日本の東アジア構想に対する敵対心、米ルーズベルト大統領が行った「共同体は病人(=平和を乱す病気にかかっている侵略者)を隔離することを認めている」という内容の「隔離演説」「日米通商航海条約」の破棄を通告。
当時日本は多くの資源や材料をアメリカからの輸入に頼っており、この条約が失効した1940年1月からは、貿易は継続できたものの明らかに時間・量・金額ともに不安定となり、戦闘維持が困難となることは目に見えていた。
そのため、日本は至急資源の入手ルートを開拓する必要があった。
そこで目をつけたのが、北部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナムの北部)への進駐であった。
ここは「援蒋ルート」の中でも最大のもので、かつその先にある南方諸島の資源奪取をも計画する上で避けて通れない地域であった。
日本はまずは敵の戦闘力を削ぐために仏印経由の「援蒋ルート」封鎖を目指した。
すでに第二次世界大戦でドイツと休戦協定を結び、実質的に敗北していたフランスのインドシナ政府に対して日本は仏印経由の「援蒋ルート」閉鎖を迫った。
日本は24時間以内の回答を迫っていたことから、現場の独断でこの要求は受け入れられた。
当初発足直後だったフランス本国のヴィシー政権はこの決定に反対したが、インドシナそのものが奪われることを回避する必要があったことから、この決定は覆ることはなかった。
やがて日仏で協定が結ばれ、日本軍の進駐が認められた上、仏印経由の「援蒋ルート」は閉鎖されることになり、日本の望んだ形で1940年9月に北部仏印進駐は完了した。
加えて同時期に日本はドイツ、イタリアと「日独伊三国同盟」を結んだが、これはすでにドイツとの戦争を行っていたイギリスや、その支援を行っていたアメリカを大きく刺激した。
アメリカは輸出制限だった航空用燃料や屑鉄の全面禁輸を決め、両国の対立姿勢は鮮明になった。
そこで日本は次なる手としてオランダが占領していた東インド(現インドネシア)の資源を求め、オランダと交渉に入る。
東インドには石油やゴム、ボーキサイトなど、日本が欲してやまない資源の宝庫であった。
オランダもフランス同様、すでにドイツに対して降伏していたので、フランス同様圧力をかければ協定を結ぶことが可能だと考えていた。
しかしフランス国内で引き続き政権が国を運営していたフランスと違い、オランダは政府がまるごとイギリスに亡命をしていた。
そのためオランダは≒イギリスであり、フランスと違って堂々と反対の意を示す。
結局交渉が決裂したことにより、日本周辺ではアメリカから経済制裁、イギリスから敵対勢力に対する支援、中国との戦闘、オランダは交渉決裂に寄り米英側へ立つことが決まる。
この四カ国によって経済的に何らかの障害を強いられることになり、日本はこの四カ国による包囲を【ABCD包囲網】と呼ぶようになる。
この結果、日本はさらなる資源と、最悪の場合東インドを含めた南方諸島の占領を迅速に行うために南部仏印への進駐を決定。
アメリカは石油の禁輸や「ハル・ノート」などで日本に対して徹底的な圧力をかけるが、日本はこれに対して開戦を決意したと言われ、1941年12月8日の「真珠湾攻撃」を迎えるのである。