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【一式砲戦車 ホニⅠ】
【Type 1 Gun tank “Honi I”】

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全 長5.90m
全 幅2.33m
全 高2.39m
自 重14.7t
最高速度38km/h
走行距離10時間
乗 員5人
携行燃料241ℓ
火 砲九〇式野砲 1門
エンジン三菱SA一二二〇〇VD空冷V型12気筒ディーゼル
最大出力170馬力

各 所 装 甲

砲塔 前面50mm
砲塔 側面12mm
砲塔 後面
砲塔 上面
車体 前面最大25mm
車体 側面最大25mm
車体 後面最大25mm
車体 上面16mm
車体 底面8mm
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対戦車自走砲は砲戦車としても有能 痛恨の配備遅延が惜しまれる

【八九式中戦車】採用後、さらに実用的な高速戦車である【九五式軽戦車】【九七式中戦車 チハ】を開発した日本。
しかし戦車というのは万能ではなく、例えば日本の戦車はいずれも貫通力に乏しく、榴弾砲としての威力は発揮できても、徹甲弾の威力は大変貧弱なものでした。
当時の戦車は歩兵直協車輌という役割を持ち、すなわち歩兵と共に進軍し、歩兵の進軍を妨げるものを、戦車の装甲で耐えつつ、戦車砲でそれらを薙ぎ払うわけです。
その一方で、砲兵には戦車砲とは異なる火砲を揃えており、これは例えば対戦車砲であり、また山砲や野砲と言ったものです。
この中で野砲は口径100mm以下の加農砲を指すのが一般的なのですが、口径が大きく、貫通力も高いため、砲兵の中でも強力な火砲となります。

日本の戦車は特にこの野砲との貫通力の差が歴然であって、トーチカややがて現れる重装甲車両などは【九五式軽戦車】の九四式三十七粍戦車砲、【チハ】の九七式五糎七戦車砲では全く歯が立ちません。
そのためこれらを破壊するためにはどうしても野砲を活用するしかありませんでした。
本来はお互いの役割があるのでこのような事態も起きて当然なのですが、機械化がどんどん進む中ではこの棲み分けが問題となりつつあり、特に貫通力の弱い日本の戦車に対して野砲の重要性は高くなっていきました。
つまり、野砲の出番が増えるわけです。

そんな中、日本はついに「ノモンハン事件」で戦車同士の戦いを経験します。
戦車の開発が進む中で、国内では一部で戦車同士の戦闘は近いうちに訪れる、そしてその際に今の戦車砲の貫通力では不足するであろうことが懸念されていました。
そしてその不安は的中し、【八九式中戦車】含めて戦車の砲撃では全然ソ連の【BT-5】を撃ち抜くことができませんでした。
この戦いを振り返り、まず戦車では【チハ】の戦車砲を試製九七式四十七粍砲から発展、開発した一式四十七粍戦車砲へ換装することにします。
そしてそれだけではなく、強力な野砲を自走化する計画も始まったのです。

ここから、少し話の主語が変わってきます。
これまでは自走砲のお話でしたが、ここからはしばらく「砲戦車」の話になります。
ちなみに自走砲と砲戦車の違いはこちらより。
https://japanese-warship.com/army/tank-spa/#%E7%A0%B2
簡単に言えば、車輌の違いはなく、砲兵所属か戦車部隊所属かの違いによる名称の差です。
わざわざ言いかえるのは、以下の構想が戦車部隊によって発せられていることを明確にするためです。

もともとこの砲戦車(この時点だと「駆逐戦車」相当)の構想は昭和10年/1935年から始まっており、戦車が対戦車砲で破壊されることを嫌い、これらを排除して戦車の進軍を支援する形で、高威力の車輌開発が検討されていました。
日本の戦車砲が弱いのであれば、すでに威力があって成果も出ている山砲を車輌に載せて使えばいいんじゃないか、ということです。

ここで重要なのは、戦車部隊はあくまで車輌に載せる砲を選んでいるわけで、自走砲のように、砲を車輌に載せるという考えではないことです。
繰り返しになりますが、自走砲と砲戦車の違いは、所属がどこにあるかだけです。

この時の砲戦車構想は、昭和12年/1937年から開発が始まった【自走式戦車支援砲 ホイ】によって具現化される予定でした。
搭載する砲は四一式山砲で、砲口径は75mmですが短砲身のために初速は不足、また標的に戦車は含まれていなかったため、主に榴弾砲を使う予定でした。

その後、第二次世界大戦中に発生した独ソ戦の戦車事情と、「ノモンハン事件」の戦訓をベースに、この議論は更に熱を帯び始めます。
当初は車輌に砲を載せて固定させただけの構造だったのが、この際にほぼ戦車化と言ってもいい構造へと変化しています。
従来の考えだと、砲は後ろや側面がガラ空きで、砲の正面の装甲も装甲と言えるほどの厚みもない簡素なものでした。
そして砲の旋回もできないため、砲を指向する際は車輌そのものを動かす必要があります。

ところがこの時の計画では、これをさらに強力で使いやすいものとするため、砲はできれば旋回砲塔化(上面、後方は開放)、また正面装甲も分厚く、そしてターゲットにはついに敵戦車も加わることになり、ともすれば最強の砲を持つ戦車とも言える存在となりました。
この計画変更によって昭和14年/1939年6月に当初の【ホイ】案は廃止となり、【ホイ】は新たに旋回砲塔化、四一式山砲の貫通力を高めた九九式七糎半戦車砲を搭載した【二式砲戦車 ホイ】として制式制定されることになります。

この一方で、砲兵部隊でも同じように自走砲構想が成熟しつつありました。
砲兵部隊にとっても野砲の自走化は機械化していく情勢においては重要なことでした。
野砲も砲兵が引っ張って動かせばいいじゃないと思うのですが、野砲ってめちゃくちゃ重いんです。
例えば本項の【ホニⅠ】が搭載する九〇式野砲なんて砲身重量387kg、全重で1,400kgもありますから、運搬は6頭の馬や牽引車で引っ張る必要があります。
つまり、即応ができないわけです。
その点、砲そのものを自走化させれば移動も戦闘準備もスムーズですし、運搬用の馬や牽引車も不要になりますからいいことだらけです。

このように、日本の自走砲≒砲戦車事情は他国のものとは異なります。
そして自走砲はほとんど初期の段階から対戦車戦を想定した大口径砲を搭載、砲戦車は対戦車戦は想定しないも旋回砲塔を持ちたいという思いがありました。
なので【ホイ】は開発段階では対戦車戦は想定されていません。
そして【ホニⅠ】は対戦車戦の運用であることから、前面装甲が後述のようにかなり分厚くなっています。

元々山砲よりも強力な野砲を搭載する予定で計画が進んでいた自走砲は、砲兵部隊の手によって同年12月から開発が始まります。
名称【ホニⅠ】、これは昭和19年/1944年に秘匿名称が付けられた際に割り振られたもので、続く【一式十糎砲戦車 ホニⅡ】【三式砲戦車 ホニⅢ】の3種全ては車体が【チハ】の流用なので「Ⅱ、Ⅲ」と並んだのでしょう。

また、この開発初期段階では【ホニⅠ】は砲戦車とも呼ばれています。
実際【ホニⅠ】【ホイ】の計画見直し後の姿に近く、四一式山砲搭載の【ホイ】との比較の意味も込められていました。

【ホニⅠ】は昭和16年/1941年6月に試作車が完成し、10月からは陸軍野戦砲兵学校で実用試験が行われました。
当時の日本戦車よりもはるかに強力な破壊力を誇る九〇式野砲は、1,000mで70mm、500mで80mm装甲が抜ける計算でした。
砲は戦車砲と同じくハンドルだけでも左右に少し動かすことができましたが、野砲の一部改良のため、構造はほとんど野砲のままで、固定砲塔です。

砲口制退機という、砲撃時の反動を抑える装置は外されて代わりに補強用のリングが取り付けられました。
一般的な野砲だと砲から砲手の距離は多少離れていますが、自走砲は砲のすぐ後ろで照準を合わせたり砲撃をしますから、その衝撃をもろに受けます。
この砲口制退機はガスを後方に放出して反動を制御するのですが、このガスを砲手がまともに受けるために鼻血を出したりするケースが発生。
こんな状態では行動に支障が出ますから、補強リングに改められたわけです。
その他、後座長(砲撃時に反動で砲身が押し戻されるときの距離)を980mmから680mmにまで下げるなどの車載用の改修が施されました。

車輌には前述の通り【チハ】のものがそのまま流用されましたが、車載機関銃は取り外されています。
【チハ】の車輌は九〇式野砲に対して小ぶりなため、砲身長が車体をオーバーしていますが、それでも意外とバランスよくまとまっています。
重量も【チハ新砲塔】とほとんど同じの14.7tですから、【チハ】の特徴、そして【チハ】とともに行動することが求められるために絶対必要だった速度を維持することができています。

砲塔前面は25mmの厚みにさらに25mmの装甲を張り付けた、最大50mmという強靭なもの。
車体前面にも25mmにプラス16mmの装甲が追加された42mmとなり、【チハ】よりも正面火力に対する抵抗力は格段に増しました。
しかし側面は12mm、後方はそもそも開放式なので、不意打ちにはめっぽう弱くなります。
ですがそもそも自走砲は後方支援火砲ですから、側面や後方からの攻撃は想定されていません。

このように、必要な個所を強化し、不要な個所を削減した【ホニⅠ】は、【試製一式七糎半自走砲】として仮制式化されます。
砲兵からしたら、普通に戦えば戦車よりも強い自走砲となりますからこれ以上のものはありません。
そして戦車部隊からも、この【ホニⅠ】【ホイ】再設計版の誕生までの繋ぎとしては申し分ない(旋回砲塔じゃないだけ)性能だったことから注目されました。
【チハ】は一式四十七粍戦車砲を搭載した車輌への置き換えが進んではいたものの、貫通力は九〇式野砲の比ではありません。
戦車部隊からしても【ホニⅠ】は喉から手が出るほど欲しい砲でした。

結局、【ホニⅠ】は自走砲としても砲戦車としても確立したのですが、一般的には「砲戦車」として呼ばれることが多いと思います。
【ホニⅠ】は砲兵部隊にとっても戦車部隊にとっても待望の砲ないし車輌(以後車輌で統一)でした。
しかしこの生産が遅いというのは、戦時車輌の例に漏れず【ホニⅠ】も同じでした。
昭和17年/1942年終盤から生産が始まりましたが、生産速度が遅くて実戦配備された車両数はよくわかっていません。
資料の一例として、昭和18年/1943年以降に日立製作所亀有工場【ホニⅠ、ホニⅡ】合わせて124輌を生産したというものもありますが、バラつきが多くて何とも言えません。

【ホニⅠ】が配備されたのが明確なのは昭和19年/1944年11月にルソン島へ輸送された辺りからです。
しかし大規模な輸送中の11月25日、船団が空襲によって撃沈され、上陸できたのはその後の輸送で揚陸できた、たったの4輌でした。
しかしこの4輌は「フィリピンの戦い」の終盤、フィリピン防衛のための戦いで機動砲兵の主力砲としてアメリカ軍に堂々と立ち塞がりました。
何しろ【M3軽戦車 スチュアート】は当然として、【M4中戦車 シャーマン】の前面装甲も距離が近ければ確実にぶち抜ける威力です(傾斜装甲のため、数値上は500mで貫通可能ですがたぶん現実では無理だったでしょう)。

戦車壕に身を隠したり、擬装を駆使してアメリカ軍を徹底的に苦しめました。
とにかくその場にとどまらず、数発の砲撃ですぐに退避、【シャーマン】をじわじわ攻撃して戦力外へと追いやっていったのです。
進軍もかなり遅滞させたのですが、多勢に無勢であることは変わりなく、戦力差を埋めることはついにできませんでした。
それでも九〇式野砲の威力は凄まじく、なんどもアメリカ軍を撤退させることに成功しています。
【シャーマン】をゼロ距離射撃で攻撃して行動不能にしたという記録もあります。
【ホニⅠ】の4輌は4月18日に初めて1輌が攻撃によって埋没、そして6月3日に最後の1輌が破壊されるまで、6ヶ月間も戦い続けたのです。
もちろん他の野砲も攻撃に参加したとはいえ、ゲリラ戦と待ち伏せを駆使した陸軍の素晴らしい戦いぶりでした。

【ホニⅠ】はこの時に鹵獲された1輌だけがアメリカの陸軍兵器博物館にて保存されています。
配備数が少なかったというのは多くの戦闘車輌に当てはまるわけですが、この活躍を見る限りでも、実践参加がほとんどできていないのはなんとも悔しい限りです。