全 長 | 4.3m |
全 幅 | 2.07m |
全 高 | 2.28m |
自 重 | 6.70t |
最高速度 | 40km/h |
走行距離 | 250km |
乗 員 | 3人 |
携行燃料 | 130ℓ |
火 砲 | 九四式もしくは九八式三十七粍戦車砲 1門 |
九一式車載軽機関銃(6.5mm) 2門もしくは | |
九七式車載重機関銃(7.7mm) 2門 | |
エンジン | 三菱A六一二〇VDe空冷直列6気筒ディーゼル |
最大出力 | 120馬力 |
各 所 装 甲
砲塔 前面 | 12mm |
砲塔 側面 | 12mm |
砲塔 後面 | 12mm |
砲塔 上面 | 6mm |
車体 前面 | 12mm |
車体 側面 | 最大12mm |
車体 後面 | 8mm |
車体 上面 | 最大9mm |
車体 底面 | 6mm |
高速重視の軽戦車 旧時代の思想設計で対米戦車戦は厳しく
国産初の戦車である【八九式中戦車】が開発され、生産が始まったのは昭和6年/1931年。
しかし戦車の開発はできても戦車の量産態勢は全く整っておらず、十分な配備にはかなりの時間が必要でした。
そして設計が始まったのは昭和3年/1928年ですから、設計思想から3年の時が経過していました。
当時の技術向上速度は1年1年で大きく変わっていますから、3年の空白は結構な損失です。
この3年のうちに何があったのか、それは戦車の高速化でした。
【八九式中戦車】の最大25km/hは当時だと十分な速度でしたが、しかしその後騎兵科で開発された【九二式重装甲車】は、当然重量は違いますが40km/hの速度を発揮していました。
そしてこれと同じように軍用車両全体の速度が上がり、25km/hという速度は戦車としては問題なくても、陸軍運用としては遅くなってしまったのです。
世界でもこの傾向は強くなり、戦車も装甲を犠牲にして高速性を重視した軽戦車の開発が熱を帯び始めました。
この頃はまだ対戦車戦もそれほど意識されていなかったので、装甲の薄さは砲兵の対戦車砲などで対処するという考え方でした。
高速戦車の開発を決定づけたのは、ソ連の【BT-2】でした。
【BT-2】はアメリカの【クリスティーM1930】を輸入して参考、開発されたもので、これは履帯を履いても外しても運転できる新しい設計でした。
つまり、これまでは装輪と上部支持輪が別々となっていましたが、これを一つの大型転輪で兼用し、平地では履帯を外して他のトラックなどと同じ速度で運転できるようにしたのです(装輪用のベルトなどが必要になります)。
【BT-2】そのものは時代の変革の真ん中にあったために、ちょっと運用がし辛かったのですが、この後に開発された【BT-5】が1,000輌以上開発されています。
ソ連がこのような戦車を開発したとなると、対ソ戦を想定している陸軍としては黙っているわけにはいきません。
さらに昭和8年/1933年2月の「熱河作戦」では【八九式中戦車】が低速ゆえに歩兵の足を引っ張り、結局【九二式重装甲車】が中心となって作戦を行った経緯もあって、もはや【八九式中戦車】では軽戦車としての運用はできないことがはっきりします(最初は「軽戦車」だったのですが、改良によって重量が11tを超えて最終的には「中戦車」に分類されています。この段階ではまだ軽戦車)。
これを受けて、陸軍は高速の軽戦車を新たに開発することを決めました。
前述の通り、当時は世界的に見ても装甲よりも歩兵共同運用が重視されたため、今回開発が始まった【九五式軽戦車 ハ号】も軽量、高速、安価、量産向けであることが求められました。
そしてこの【九五式軽戦車】は三菱に設計段階から依頼をしており、初の民間開発の戦車となりました。
とにかく優先されたのは速度であり、エンジンには【八九式中戦車乙型】で採用されたA六一二〇VD 空冷直列6気筒ディーゼルの小型版であるA六一二〇VDeを搭載。
このディーゼルエンジンはちょうど完成したばかりで、目立ちませんが【乙型】の大きな功績と言えるでしょう。
だってここでA六一二〇VDが開発されていなければ、【九五式軽戦車】はガソリンエンジンになるか、完成が遅れていたわけで、となると【九七式中戦車 チハ】の開発にも影響しますし、「ノモンハン事件」でももっと被害が増大していた可能性があります。
サスペンションは【九四式軽装甲車】で初めて採用され、そして以後の日本戦車の標準となったシーソー式懸架装置が採用されています。
これによって履帯が確実に接地するようになったそうですが、ちょっとバウンドが膨らんで車体が大きく揺れることがあったそうです。
重量は【BT-2】誕生前にイギリスで開発されていて、すでに日本に輸入されていた【ヴィッカースMarkE】が自重6tだったことから、日本も機動力重視で6tとしました。
そして速度はトラックの最高速度として一般的だった40km/hとなり、この重量と速度を達成するための設計が始まります。
まず、主砲は九四式三十七粍戦車砲を採用。
軽戦車としては一般的なサイズで、初速は570m/sと【八九式中戦車】の九〇式五糎七戦車砲よりもかなり改善しています。
実は実用的な37mm戦車砲としては世界初の生産だったりします。
しかし貫通力はまだまだ不足していて、300mで25mmの装甲を貫通する程度でした。
当時の徹甲弾はどちらかというと徹甲榴弾と言うべき性能でしたが、炸薬量も当然サイズが異なる九〇式五糎七戦車砲より減りますから、実際には主砲のサイズとは別に弾薬の威力不足も否めませんでした。
ただ、前述の通り当時の軽戦車は世界的にも装甲<速度だったため、実際は当時のだいたいの軽戦車の正面装甲を抜くことはできたと思います。
砲塔は実は中心に設置されておらず、少し左側によっていました。
これも【ヴィッカースMarkE】の構造を踏襲しています。
副砲としては初期型が九一式車載軽機関銃(6.5mm)、のちに九七式車載重機関銃(7.7mm)が2門搭載されました。
1門は車体前面左側、1門は砲塔後部右側に取り付けられていました。
試作段階では車体前面の1門だけだったのですが、あとで追加されたようです。
乗員は車長兼砲手、操縦手、機関銃手の3名ですが、機関銃手は車体前方の機関銃が担当で、砲塔の機関銃は砲手担当です。
しかし砲塔が狭すぎて、装填も自分でやる必要がありますからかなり苦労したそうです。
邪魔なので勝手に砲塔の機関砲を撤去した車輌もありました。
装甲は砲塔、車体の正面が12mm、これは13mm対戦車砲でも貫通されてしまいますが、そこは軽快な操縦で回避することでカバーするしかありません。
12mmだと7.62mm徹甲弾に耐えるのが精いっぱいで、つまり一般的な機関銃でも抜けるか抜けないかぐらいの薄い装甲でした。
試作2号車が完成して実用試験を行った戦車第2連隊からはこんな武装、装甲で戦えるかと不満が続出したのですが、軽戦車はこれが限界、重装甲は中戦車以上でしか対処できないと完全に割り切った設計となりました。
昭和9年/1934年6月に試作1号車が完成。
射撃、走行試験を行い、性能は要求を十分満たしていることがわかってきます。
特に速度に関しては43km/hを計測し、また碓氷峠のような急勾配で複雑な地形でも操縦できることが証明されました。
しかし自重は7.5tあり、あとはこの重量を抑える方法が検討されました。
取られた方法は、履帯にしっかり噛むように誘導輪に取り付けられていた歯を削る、誘導輪と転輪に穴をあけて削るなどで、他にも車体から削れそうな部分を地道に削りました。
そして1tの減量に成功した試作二号車が10月に誕生。
再びの走行試験を経て、騎兵学校で実用試験を行いました。
その見解は、「形態及び重量概ね適当にして各部の機能及び一般の能力概して可なるをもって騎兵用戦車として適当なるものと認む。しかれども構造機能の細部に関して若干改修を要すべきものあり」というものでした。
そして年末から行われた北満での冬季走行試験でも、独立混成旅団の渋谷戦車部隊からは越冬性能は十分であると太鼓判が押され、【九五式軽戦車】はほぼ完成しました。
戦車隊からしてみれば性能不足ですが、装甲車が主力であった騎兵部隊からしてみれば装甲車がより強化されるわけですから、【九五式軽戦車】の誕生は嬉しいものでした。
諸改良を施した第二次試作車3輌が昭和9年/1934年11月に完成。
これには前後ハッチ付きの展望塔が加わり、さらに砲塔には避弾経始(跳弾させるための傾斜装甲のようなもの)を造るためにバルジが増設されました。
そして重量が1t減ったことにより、最高速度は45km/hを達成しています。
昭和10年/1935年12月に【九五式軽戦車】は仮制式化。
機動戦車、騎兵用戦車として翌年から直ちに生産が始まりました。
生産された【九五式軽戦車】は続々と海を渡って中国大陸に上陸し、旅団や戦車連隊に加わっていきました。
【九五式軽戦車】は、機械化を進めていた騎兵部隊にとっては大きな存在となり、また戦車連隊にとっても【八九式中戦車】の低速をカバーできる存在として運用されていきます。
そして【九五式軽戦車】の誕生によって【八九式軽戦車】は中戦車となり、また陸軍の戦車部隊構想も軽+重から軽+中へと変わっていきました。
懸念された通り装甲の薄さは対戦車砲の攻撃に耐えきれませんでしたが、しかし対戦車戦においてはほどほどに戦えています。
当時はどの国も一番怖いのは対戦車砲であり、決して戦車が最強というわけではありません。
「日華事変」では中国軍の持つドイツの3.7cm PaK 36対戦車砲によって撃破されたケースも存在します。
「ノモンハン事件」でも【八九式中戦車】【チハ】と共にソ連軍と戦いましたが、こちらでも貫通力不足が影響して、いくら相手の装甲が薄いとはいえなかなかしっかり撃破することは難しかったようです。
ここで活躍したのもやはり対戦車砲で、【九五式軽戦車】に搭載されている九四式三十七粍戦車砲の対戦車砲タイプは、戦車砲と違って初速も貫通力も高かったために多くのソ連戦車を打ち破りました。
この結果を受けて【九五式軽戦車】も主砲を換装。
もともと対戦車戦を想定していなかった設計でしたが、もはや戦車を投入する戦場で対戦車戦は避けられらないことを改めて認識したわけです。
生産後期型では九八式三十七粍戦車砲となり、こちらは九四式三十七粍対戦車砲とほとんど同じ貫通力を発揮。
実は九四式の戦車砲と対戦車砲では弾薬筒が統一されておらず、九八式はこれらを共通化するための新しい戦車砲でした。
350mで30mm装甲を貫通、初速は685m/sとなりました。
そして太平洋戦争に突入した日本は、対戦車戦を直接、間接的に経験している連合軍に対して圧倒的に不利な状況で戦うことになります。
【九五式軽戦車】の前に立ち塞がったのは、まさに難攻不落と言わざるを得ない【M3軽戦車 スチュアート】。
同じ軽戦車ではありますが、重量12.9tはおよそ倍、最大速度57km/h、さらに装甲は車体前面で一番厚いところだと44mmもあります。
これはひとえにエンジン性能の差であり、日本のエンジンだと装甲が12mmになるぐらいの重量に抑えるほかになかったのですが、技術大国アメリカは倍以上の260馬力を積んだことにより、これだけの重装甲を搭載することができたのです。
44mmだと【チハ】よりもはるかに厚く、日本における軽戦車の枠には全く当てはまらない存在でした。
加えて【スチュアート】のM3 33mm戦車砲は初速884m/s、450mで36mm装甲を貫通し、【九五式軽戦車】はこの砲撃に対して全く耐えることができませんでした。
どこからどう撃たれても確実に貫通される威力を持っていて、【九五式軽戦車】には【スチュアート】に肉薄し、側面や背後を取って近距離砲撃するしか戦う術が残されていませんでした。
遠距離で撃っても簡単にはじかれてしまうからです。
第二次世界大戦でドイツ戦車には全く歯が立たなかったM3 33mm戦車砲は、太平洋戦争で日本に猛威を振るいました。
それでも【九五式軽戦車】は主力軽戦車として終戦まで多くの地域に展開。
後継になるはずだった【九八式軽戦車】は、【九五式軽戦車】の量産、配備が優先されて生産が停滞したり、適した戦車砲の開発が遅れたり、やがては次世代中戦車のほうが急務になったりとかわいそうな運命を辿ってしまい、結局日本の軽戦車は終始【九五式軽戦車】が主力であり続けました。
既述の通り歩兵直協の軽戦車ですから、【スチュアート】や【M4中戦車 シャーマン】とは極力戦わず、歩兵、砲兵との連携を密にしながら、自分の戦う相手を見極めて戦果を残し続けます。
「占守島の戦い」でも【チハ】と共にソ連軍に対して果敢に挑みました。
戦車に対する予算の縮小、そして軽戦車の存在価値の低下によって、【九五式軽戦車】は昭和18年/1943年で生産が終了。
合計2,375輌が生産されました。
【九五式軽戦車】は太平洋戦争に対する戦闘能力は不足していましたが、しかし故障率が非常に少ないことから、現場では結構重宝されました。
40km/hの速度は移動にも支障をきたさないし、装甲車よりは装甲が厚いですから、やはり騎兵部隊にとってはありがたい存在でした。