起工日 | 大正10年/1921年8月10日 |
進水日 | 大正11年/1922年2月25日 |
竣工日 | 大正11年/1922年7月24日 |
退役日 (沈没) | 昭和18年/1943年12月18日 |
沖縄南島付近 | |
建 造 | 舞鶴海軍工廠 |
基準排水量 | 1,251t |
垂線間長 | 97.54m |
全 幅 | 8.92m |
最大速度 | 39.0ノット |
馬 力 | 38,500馬力 |
主 砲 | 45口径12cm単装砲 4基4門 |
魚 雷 | 53.3cm連装魚雷発射管 3基6門 |
機 銃 | 6.5mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 4基 |
三菱パーソンス式ギアード・タービン 2基2軸 |
北と南で潜水艦に振り回された沼風
【沼風】は【野風】【波風】【神風】とともに第一駆逐隊を編成し、千島・北海道の交通保護に従事します。
「日華事変」では華北・華中の沿岸作戦に参加。
太平洋戦争でも活動区域は変わらず、大湊警備府所属で千島列島や占領後のアッツ・キスカなどを頻繁に行き来して、輸送護衛や哨戒任務を継続していました。
もちろん南方の激戦地に比べると北方は安全ですが、それでも潜水艦や航空機の空襲がないわけではなく、時々その被害を受けた船の救助を行ったりしています。
ですが昭和18年/1943年に入ると「ガダルカナル島の戦い」で勝利を収めた連合軍は完全に優勢となり、その勢いは北方にも及んできます。
特に戦略的価値が大きいかと言われるとそうでもないアッツ・キスカ両島ですが、しかしアメリカにとっては唯一の自国領土の喪失エリアですから、国威回復のためにも奪還を目指して準備を着々と進めました。
この勢力拡大を受けて日本はアッツ・キスカへの輸送を増やしていきますが、【沼風】もこの輸送に参加しています。
ですが5月29日にアッツ島守備隊は玉砕全滅。
ここから日本はキスカ島の兵士たちをいかに救助するかという方向に転換して頭を悩ませるわけですが、その間にも顔を出してくる潜水艦を撃退すべく哨戒活動に励みました。
しかし6月6日、【神風】が追っ払った【米S級潜水艦 S30】を追撃していた【沼風】でしたが、視界を遮る濃霧により支援にやってきていた【白雲】と衝突してしまいます。
大湊で修理を行った後、【沼風】は11月30日に海上護衛総司令部部隊第一海上護衛隊に編入され、活動エリアが九州や沖縄にゴロっと変わります。
沖縄や台湾への船団護衛を行っていましたが、12月18日、【沼風】は基隆から門司へ向かう第227船団を守っていました。
そこへ敵潜水艦がお出ましとなり、【沼風】はこれに戦いを挑みます。
【米タンバー級潜水艦 グレイバック】を発見した【沼風】は爆雷を投下しますが、どうやら手応えはないようです。
逆に【グレイバック】はすぐさま反撃し、この魚雷が【沼風】と船団の【鉱石運搬船 玉嶺丸】に命中。
【沼風】は明け方まで何とか踏ん張りましたが耐え切れずに沈没。
【玉嶺丸】は轟沈しており、【沼風】の乗員は173名全員が戦死してしまいました。
この船団は15隻で形成されていたようですが、これだけの数がいて救助もなく全員戦死というのはなかなか謎ではあります。