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ビラ・スタンモーア夜戦

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(正式名称なし)ビラ・スタンモーア夜戦

戦闘参加戦力

大日本帝国連合国
第四水雷戦隊(司令官:楠正雄大佐)第68任務部隊
第二駆逐隊(指揮官:スタントン・メリル少将)
 駆逐艦【村雨】 軽巡洋艦【モントピーリア】
第九駆逐隊 軽巡洋艦【クリーブランド】
 駆逐艦【峯雲】 軽巡洋艦【デンバー】
  駆逐艦【ウォーラー】
  駆逐艦【コニー】
  駆逐艦【コンウェイ】
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数も性能も完全劣勢 為す術なく撃沈

1942年の激闘の末、ガダルカナル島を巡る戦いの主導権は完全にアメリカの手に渡り、日本はガダルカナル島からの撤退を視野に入れるとともに、周辺の基地強化を進める。
すでにニュージョージア島のムンダでは飛行場の造成が完了しており、また日本は鼠輸送によって駆逐艦を活用した輸送数を増やしていた。
アメリカとしては未だ反撃部隊を続々と投入してくる日本の足を折る必要があり、第67任務部隊と第68任務部隊が交代でムンダとコロンバンガラ島の砲撃を繰り返すようになった。

一方で、アメリカはこの太平洋戦争において日本を窮地に追いやる兵器の一つ、レーダーの開発とそれに伴う訓練に力を入れていた。
レーダーの仕組みは、簡単に言えば電波を飛ばして、何かに当たって跳ね返ってきた電波を受信することでその当たった対象物の場所と距離を受信する装置である。
当時の兵器としてのレーダーの恐ろしいところは、視認できない環境でもかなり正確に相手を補足できるところにある。

一方日本は上記の輸送を続けており、3月5日もブインからコロンバンガラ島へ向けて、【村雨】【峯雲】が出撃していた。
2隻はベラ湾を通過して21時30分にコロンバンガラ島へ到着した。
大発を利用して揚陸が急がれたが、長居はそれだけ空襲の危険を伴うため、ドラム缶を陸上から引き揚げる方法も並行して行われた。
そして約1時間後には必要な揚陸が完了し、2隻はすぐにコロンバンガラ島を離れた。
航路は往路の逆ではなく、そのままコロンバンガラ島を反時計回りに、コロンバンガラ島とニュージョージア島の間にあるクラ湾を経由してブインに戻る航路を取った。

その一部始終を見ていたのが、【PBY カタリナ】である。
20時30分、コロンバンガラ島到着前にすでに2隻の到着は報告されており、第68任務部隊はこの2隻を待ち伏せするために急ぎクラ湾へ向かった。
第68任務部隊は軽巡洋艦・駆逐艦3隻ずつの編成であり、戦力差は明らかであった。

果たして日本の2隻がクラ湾を経由するかどうかはこの段階ではわからない。
来た道を引き返した場合は恐らく追撃は難しかったと思われる。
しかしアメリカの陣取ったクラ湾には、誘われるかのように【村雨】【峯雲】の姿があった。

22時57分、【米フレッチャー級駆逐艦 ウォーラー】のレーダーに反応があった。
14km先に、動く物体。
【ウォーラー】のレーダー員は「島が動いている」と報告をしている。
23時1分、メリル少将は砲撃を命令。
レーダーによる観測砲撃が日本を苦しめる最初の海戦の勃発である。

【村雨】は唐突に東側で発生した光に驚いたが、種子島洋二艦長「稲光だろう」と気に留めなかった。
しかしその稲光が立て続けに発生し、次の瞬間には後方数百mの距離で大きな水柱があがった。
こんな稲光があるわけがない、艦内は戦闘準備に慌てたが、対応は「対空戦闘準備」であった。
周囲に敵影はない、照明弾も上がっていないし探照灯を受けてもいない、そして夜間の輸送は常に空襲の危険と隣り合わせであり、そしていよいよその時が来たと考えるのは当然であった。

しかし徐々に水柱の数に加えて静かな海に重々しい砲撃音が響くようになる。
そして見張員からも「敵発見!」の報告を受け、ようやく2隻は砲撃準備に移ることができた。
敵影は北東から迫ってくる、【村雨】【峯雲】は照準を右舷に定めた。

ところがすでにアメリカはすでに必殺の一手を放っていた。
言うまでもなく魚雷である。
23時15分、【峯雲】に魚雷が直撃した。
【村雨】は奇襲に対応するのが精一杯で、気づいた頃にはすでに後方で【峯雲】から黒煙と赤々とした炎が燃え盛っており、救助どころか沈没の瞬間を見る暇もなかった。
先頭を進んでいた【村雨】は砲撃の嵐を受けており、魚雷こそ回避したものの、第一砲塔、第二砲塔停止、弾薬庫も被弾して大炎上を起こした。

やがて速度は落ち、傾斜が進むようになると、総員退艦命令が下る。
23時30分、【村雨】沈没。
結局最後までほとんどアメリカ軍に対して反撃できず、一方的に【村雨】【峯雲】は撃沈させられた。
幸いにもコロンバンガラ島との距離はそれほど離れていなかったため、乗員は必死に西へ向けて泳ぎ続けた。
また、ボートや浮遊物に捕まって助けを待っていた者も、6~7日のうちの救助活動で多くが救われている。

数日後にラバウルへ移送された【村雨・峯雲】の乗員だが、その後に行われた研究会(報告会)では、日本のお家芸である夜戦で一方的に2隻も沈没していることに対して激しい言葉が浴びせられた。
司令の橘正雄大佐は、全く見えない状況から敵はほぼ正確に砲撃をしてきたことをつぶさに報告したが、レーダーを活用した夜間砲撃というものを初めて経験し、かつ報告を受けた上層部はこの証言に耳を貸さなかった。

「ビラ・スタンモーア夜戦」は、輸送は成功、2隻沈没という結果に終わった。
しかしアメリカはこの海戦をきっかけとしてレーダーのさらなる改良とそれを活用した戦術を昇華させることになる。
そして日本は「い号作戦」を発動させるも返り討ちにあい、戦況はよりアメリカ有利に傾いていくのである。

アメリカの圧勝

両者損害

大日本帝国連合国
沈 没
【村雨】 
【峯雲】