起工日 | 大正11年/1922年2月16日 |
進水日 | 大正12年/1923年5月4日 |
竣工日 | 大正12年/1923年8月30日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年10月10日 |
(十・十空襲) | |
建 造 | 三菱長崎造船所 |
基準排水量 | 5,160t |
全 長 | 125.4m |
垂線間幅 | 16.22m |
最大速度 | 18.0ノット |
航続距離 | 14ノット:10,400海里 |
馬 力 | 7,500馬力 |
装 備 一 覧
大正12年/1923年(竣工時) |
主 砲 | 50口径14cm連装砲 2基4門 |
備 砲 | 40口径7.6cm単装高角砲 2基2門 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 石炭専焼4基、混焼2基 |
パーソンス式ギアード・タービン 2基2軸 | |
その他 | 補給用重油 1,900t |
予備魚雷 40本 |
未熟な潜水艦を束ねる母艦 戦争末期まで呂号をまとめた迅鯨
明治38年/1905年、日本で初めての潜水艦(当時は潜水艇)がアメリカから分解された状態でやってきました。
近代潜水艦の祖とも言える「ホランド級潜水艇」です。
当初はその不格好な図体からドン亀と呼ばれた潜水艇ですが、戦艦と巡洋艦という組織に水雷艇や駆逐艦が現れ、空には飛行機がポツポツと飛び始めています。
軍の兵器はこれからどのような発展をしていくのか。
その1つである潜水艇を日本は輸入していき、ゆっくりではありますが技術を学んでいきました。
その過程で、とにかく行動範囲が狭くて居住も困難と制約が多い潜水艦に対して、海上で補助できる船が必要になってきました。
そこで誕生したのが潜水母艦という艦種で、日本では最初は水雷母艦であった【豊橋、韓崎】が潜水艦用に使われるようになります。
やがて水雷母艦は廃止され、その代わりに潜水艇母船という扱いで海防艦となった旧式艦が改造されたりもしました。
大正3年/1914年に雑役船【駒橋丸】が竣工しますが、すぐに海防艦へと類別され、艦名【駒橋】となって【韓崎】と共に潜水母艦の役割を担うことになります。
しかし排水量1万tの【韓崎】に対して【駒橋】は1,100tしかなく、補給なり休養なりが必要な潜水母艦としてはかなり小型でしたので、【韓崎】がメインで運用されていました。
さらに大正9年/1920年には【海防艦 見島】や【防護巡洋艦 千代田】などが潜水母艦へと転用されることになりました。
やがて潜水艦もどんどん数が増えて大型化が進む中で、間に合わせの船で潜水母艦を賄うにも限界が来ていました。
【韓崎】も艦齢は30年近くなっていることから老朽化が進んでおり、また他の潜水母艦も全部流用されたもので統一感は全くありません。
海軍は多年この状況を脱却するために潜水母艦の新造を訴えてきたのですが、予算不足と大型艦建造のために却下され続けていました。
しかし「八八艦隊計画」の中に「呂号潜水艦」、つまりこれまでの潜水艦よりも行動範囲が広くなった二等潜水艦の潜水戦隊が編成されることになり、ようやく本格的な潜水母艦の建造が決定しました。
それが「迅鯨型潜水母艦」です。
潜水母艦は潜水艦の母港と言ってもよく、つまり潜水艦は母艦を起点として活動して、母艦に戻ってくるわけです。
初期の潜水母艦は小さい子どもについていく母親のような役割で、とにかく何が起こるかわからないから放っておくのは危ないから、補給だけでなく補助含めて常に行動を共にしていました。
しかし二等潜水艦戦隊の編成となると、これまでのようにある程度ともに行動することはなく、「いってらっしゃい」「おかえりなさい」と言ってあげて、乗員の食事と休息、寝床を与えつつ、各種補給や整備を行うのが役割となりました。
ちなみに潜水戦隊は3隻一個の潜水隊を三隊束ねて一個潜水戦隊となりますから、潜水母艦1隻につき最大9隻の潜水艦を管理することになります。
それに加えて戦隊は艦隊の一員となるわけですから、潜水母艦にはその随伴能力も必要となってきます。
なので、潜水母艦はこれまでとは違ってそれなりの速度と航続距離を持ちつつ、簡単な工作設備、各潜水艦の補給と乗員の交代や休息を行う船にならなければなりません。
さらには戦隊旗艦としての役割も兼務するのが都合がよく、司令部や通信施設も必要で、こうなると新造しか方法はありませんでした。
「迅鯨型」は14,500t級を2隻と【韓崎】よりも大型で計画されました。
とにかく狭苦しい潜水艦任務を終えた乗員を迎えるには居心地のいい空間を用意してあげなければなりません。
ですが、この計画は脆くも崩れ去ります。
「ワシントン海軍軍縮条約」です。
これによって「八八艦隊計画」は崩壊し、建造計画は一から見直しとなりました。
しかしこの条約では潜水艦の制限はなく、潜水母艦の配備は必要だということで「迅鯨型」は建造に向けて進みだしました。
ただし、排水量1/3で。
14,500tだった排水量はわずか5,160tまで抑えられ、さらに予算も削られと「迅鯨型」は誕生前から悲惨な目にあっています。
複雑な構造にする余裕はないから商船構造を基にすることが決められ、機関も廃艦のものを流用することになりました。
【迅鯨】は【土佐】で使われるはずだった混焼缶を2基使用していますが、元々は【天城型巡洋戦艦 高雄】のものを使う予定だったそうです。
ただ、船体設計は結局は軍艦式のものとなったようで、このどっしりした構えはのちの「香取型練習巡洋艦」の設計に役立ったといわれています。
排水量が減っても機関は変わらなかったので、速度は逆に16ノット計画だったものが18.5ノットにまで増加してます。
武装はある程度外に出ることから敵艦との遭遇を想定して軽巡洋艦並みの14cm連装砲を2基搭載。
最初はこの連装砲が間に合わなさそうなので単装砲を背負い式にして4基4門積む可能性があったのですが、直前になって間に合ったので予定通り連装砲2基となっています。
また、2隻とも竣工後にデリックと水上機、そして格納庫を増設していますが、これは軍事機密扱いで公表されませんでした。
旗艦としての役割ですが、船の大きさが劇的に小さくなったため、当初の一個潜水戦隊を束ねるのは難しくなり、1隻で二個潜水隊を統括するに留まりました。
その不足分は【長鯨】と分け合ったり戦隊に属さない巡洋艦が担うことになります。
もちろん前述の通り司令室や通信設備は用意しています。
「迅鯨型」は2隻とも建造能力保持のために三菱長崎造船所で建造されています。
「ワシントン海軍軍縮条約」の締結によって日本の軍艦建造速度は急停止してしまうので、軍艦の建造から距離が離れてしまうと有事の際に困ったことになるのです。
他にも【摩耶】の例のように救済のために造船所が指定されるケースもありました。
【迅鯨】は大正12年/1923年に竣工。
結局潜水母艦は【長鯨】とともにこの2隻しか建造されず、以後【大鯨】が登場するまでの10年間はこの2隻で潜水艦の面倒を見ていくことになります。
と思いきや、実はそうではありません。
「ワシントン海軍軍縮条約」によって、潜水艦の大型化に拍車がかかったのです。
制限のない一等潜水艦の増強が始まり、二等潜水艦の潜水戦隊旗艦としての性能を持って生まれたこの「迅鯨型」は、潜水艦の大型化に伴ってだんだんと能力不足になっていったのです。
計画変更で小型化したツケがここで回ってきました。
幸い戦争とは縁遠い時期でしたので、この2隻に加えて巡洋艦を潜水戦隊旗艦として運用することができ、【大鯨】が誕生するまではなんとか潜水戦隊をまとめ切っています。
訓練の際には「迅鯨型」は仮想敵として「米コロラド級戦艦」に扮していたそうです。
昭和9年/1934年には「友鶴事件」の被害を受けて復原性能の改善のためにバルジを搭載し、艦底には重りとなるバラストが積まれました。
この前にも改装が少しずつ行われていましたが、この改装によって基準排水量はなんと6,240tと当初より1,000tも重くなってしまいました。
しかし重量が増えても船体バランスがよかったのか、速力は低下しなかったようです。
そして同年には待望の新型潜水母艦の【大鯨】が誕生。
これでようやく一等潜水艦に適した大型の潜水母艦が誕生し、無理しながらも「迅鯨型」で回していた旗艦・母艦任務を引き継ぐことができました。
これにより「迅鯨型」は潜水母艦からはずれ、【迅鯨】は練習艦として後年を過ごすことになりました。
さらに昭和14年/1939年には【剣埼】も竣工し、この2隻が新しく潜水戦隊を率いていくことになる、はずでした。
ところが、この2隻は実は有事の際に短期間の工事で航空母艦に改装されるように設計されており、そして昭和15年/1940年には早速【剣埼】の改装工事が始まりました。
ということは【大鯨】も近いうちに空母になることは確実で、このままでは潜水戦隊旗艦と母艦にぽっかりと穴が開いてしまいます。
「海大型」は艦隊随伴型ですから一時凌ぎ的に行われていた軽巡での旗艦運用は可能で、また「巡潜型」には「甲型」という旗艦設備を持った特別の潜水艦も存在します。
しかし問題は二等潜水艦でした。
この状況において、すでに老朽化も進んでいた「迅鯨型」に再び白羽の矢が立ち、2隻は職務に復帰します。
また当初から計画されていた徴用船を特設潜水母艦とする計画も進みだし、とりあえず体裁だけは整っていきました。
昭和16年/1941年12月8日、太平洋戦争勃発。
【迅鯨】はこの時第四艦隊第七潜水戦隊の旗艦となっており、まずはウェーク島にほど近いクェゼリン島へと進出しました。
そして【大鯨】も開戦直後の昭和16年/1941年12月末に改装が始まり、いよいよ母艦任務は「迅鯨型」2隻が中心となって担わなければならなくなります。
しかしクェゼリン周辺での哨戒任務中、12月17日にスコールの中で【呂62】と【呂66】が衝突して【呂66】が沈没。
さらに29日には【呂60】が座礁して最終的には31日に処分されるなど、初任務の地で敵と戦う前に2隻の潜水艦を失ってしまいました。
その後、【迅鯨】はトラック島を拠点として、ラバウルやサイパンなどに進出。
もちろん【迅鯨】そのものが攻撃をする機会はないため、役割としては非常に地味ですが、呂号潜水艦は【迅鯨】のもとで各地で哨戒活動を行っています。
昭和17年/1942年7月14日には第七戦隊は第八艦隊の隷下に入ることになり、管轄する潜水戦隊も第十三潜水隊、第二十一潜水隊へ変更されました。
うち第十三潜水隊はかなり古いとはいえ一等潜水艦でした。
12月15日、第七潜水戦隊に新たに「呂百型潜水艦(小型)」が編入されることになりました。
評判がすこぶる悪い小型二等潜水艦は酸素魚雷を搭載することが可能だったのですが、この酸素魚雷の調整をすることが【迅鯨】にはできませんでした。
そのため代わりの船が必要なのですが、そこでやってきたのが【長鯨】でした。
【長鯨】は4月から佐世保へ戻っており、そこで予備艦となっていましたが、この「小型」配備に伴って【迅鯨】と入れ替わって戦地へ赴くことになったのです。
これにより【迅鯨】は呉に帰投し、以後【迅鯨】は練習艦兼警備艦として内地で働くことになりました。
内地にいる間、雷撃を受けた【間宮】や空母改装のために【伊吹】を曳航したりしています。
他にも甲標的や資材や資金難から誕生したコンクリート船の運用実験などで協力し、練習艦というよりかは雑役艦のような役割をこなしていました。
そして昭和18年/1943年11月25日には【長鯨】も日本に戻ってきています。
2隻がそろったところで、一度解散していた訓練部隊である呉潜水部隊が12月1日に再編されます。
とにかく潜水艦とその乗員を早急にそろえなければならず、【迅鯨】はこの部隊の旗艦として働き続けました。
【長鯨】はこの時第十一潜水部隊の旗艦についています。
昭和19年/1944年7月、戦況はますます悪化する中、【迅鯨】は【長鯨】【長良】【鹿島】と共に呉から佐世保鎮守府へ転属となり、南西諸島への輸送任務につくことになりました。
しかしもうどこに行っても潜水艦がうようよしている時期で、3回の輸送の中で【長良】と【対馬丸】を雷撃によって失っています。
【対馬丸】には沖縄からの学童疎開の生徒たちが乗っていて、【米バラオ級潜水艦 ボーフィン】の雷撃によってなんと1,500名近くの戦争とは何の関係もない人命が失われました。
そして9月18日、佐世保から沖縄へ向かっているところでついに【迅鯨】も潜水艦の獲物となってしまいます。
【米バラオ級潜水艦 スキャバードフィッシュ】が放った魚雷が2発【迅鯨】に命中。
沈みはしなかったものの航行不能になった【迅鯨】は、曳航されて何とか沖縄まではたどり着きました。
しかし修理できる設備もない中で【迅鯨】の復旧は絶望的でした。
沖縄までは満州国海上警備隊の【海威】が曳航しましたが、佐世保まで曳航するには船だけでなく護衛も必要です。
そんな余裕がこの時の日本にあるのかといわれると全くなく、【迅鯨】はこのまま沖縄に留まり続けました。
そして10月10日を迎えます。
沖縄 10月10日 「十・十空襲」の日です。
この空襲で沖縄はほとんど何もできず、空母17隻による大空襲でただ一方的に攻撃を受け続けました。
レーダーは航空機に反応していたのですが、もともと信頼性がないことからこの反応も無視されており、また10日はたまたま演習日であったことから、この空襲警報も演習だと勘違いして初動が遅れたためになす術がありませんでした。
さらに【対馬丸】の被雷沈没によって疎開へも恐怖を感じていて、沖縄にはまだ多くの住民が残されていました。
この空襲では艦船が次々と攻撃を受けて、その中には沖縄まで辛くも逃れた【迅鯨】も含まれていました。
本土で幾多の若い兵士たちを育ててきた【迅鯨】は、この空襲によって沈没。
水深たった10mという浅瀬での沈没だったため、終戦後の昭和27年/1952年7月7日に浮揚されて解体されました。