【第二次ロンドン海軍軍縮会議・条約】とは、1935年12月9日にロンドンで開かれた、「ロンドン海軍軍縮条約」の改正を目的とした会議。
予備交渉で日本は米英との対立が深刻化し、日本は「ワシントン海軍軍縮条約」の破棄とロンドン海軍軍縮会議からの脱退を決める。
イタリアも脱退し、米英仏の三カ国で【第二次ロンドン海軍軍縮条約】は採択された。
予備交渉時の各国の保有制限主張はあまり意味をなさない。
【第二次ロンドン海軍軍縮会議】の肝は日米英の国際的軍事力に対する姿勢である。
日本は過去2回の軍縮会議において必ずしも不利な条件ではなかったものの、常に米英から大きな溝を空けられていた。
この状態では日本はいくら軍拡をしたところでアメリカには到底敵わない、しかし日本は「満州事変」などでアメリカからかなり睨まれていた。
そこで日本は思い切った行動に出る。
今まで煮え湯を飲まされてきた対米英6~7割という制限の撤廃を訴えたのである。
しかもそれは日本の軍備増強を求めるのではなく、逆に米英含め各国同数まで艦艇を大幅に削減するというものだった。
特に戦艦・空母に関しては、可能であれば全廃という主張をしている。
確かにこれが承認されれば、日本の軍縮は免れないが、敵対するアメリカも日本と同数の艦艇数にまで抑え込むことができ、軍備の目的を国家防衛とするのであれば、日米の軍事力均衡は結果的に戦争抑止につながると訴えた。
しかし、常識的に考えてもこの主張が通るわけはなかった。
米英ともに現状でも日本に対して優勢であり、またこの比率こそが日本の牙を削ぎ落としている事実から、それを撤廃するメリットなどどこにもなかった。
特にアメリカは引き続き制限下での増備を主張していて(イギリスは潜水艦全廃など、一定の軍縮をの姿勢を示していた)、比率についても米英は現状維持を主張した。
すなわち日本のこの無謀な訴えは、日本は平和維持のために身を切って世界に軍縮を訴えたのにもかかわらず、米英はそれを拒否し、引き続き日本を檻の中に閉じ込めるつもりだ、という立場を作るためのものであった。
これにより日本は国内でも正義感を示すことができ、堂々と「ワシントン海軍軍縮条約」から脱退することができた。
そして「海軍休日」は終わりを告げ、制限から解放された日本は「大和型戦艦」や「翔鶴型航空母艦」など、対米戦争を意識した軍拡が急速に進むことになる。