基準排水量 | 700t |
水中排水量 | 1,200t |
一番艦竣工日 | 呂号第三十三潜水艦 |
昭和10年/1935年10月7日 | |
同型艦 | 2隻 |
全 長 | 73.00m |
最大幅 | 6.70m |
主 機 | 艦本式21号8型ディーゼル 2基2軸 |
最大速度 | 水上 19.0ノット |
水中 8.2ノット | |
航続距離 | 水上 12ノット:8,000海里 |
水中 3.5ノット:90海里 | |
馬 力 | 水上 2,900馬力 |
水中 1,200馬力 |
装 備 一 覧
備 砲 | 40口径7.6cm単装砲 1基1門 |
13mm機銃 1挺 | |
魚雷/その他兵装 | 艦首:53cm魚雷発射管 4門 |
搭載魚雷 10本 |
ロンドン海軍軍縮条約が生んだ二等潜水艦 小型長距離の海中六型
大正11年/1922年、日本は「ワシントン海軍軍縮条約」によって主力艦の建造が大幅に制限されてしまいます。
この時潜水艦は制限の対象外でしたが、しかし主力艦が造れなくなるとなると、制限のない船をできるだけ強力にするしかありません。
この影響で潜水艦の比重は一気に一等潜水艦へと傾き、二等潜水艦は「特中型、L三型」を最後に全く建造されなくなってしまいました。
しかし昭和5年/1930年、「ロンドン海軍軍縮条約」で今度は潜水艦にも保有制限がかけられました。
当時は戦力としてはまだ沿岸警備程度だった潜水艦は、この時すでに艦隊随伴、またはとんでもない距離で活躍できる海の忍者となっていました。
航空母艦と共に、この数年で潜水艦の活躍の場は無限大になったのです。
この条約締結に伴い、潜水艦は再び方向転換を迫られます。
潜水艦1隻の最大基準排水量は2,000t、そして潜水艦全体の基準排水量の上限は52,700tとなりました。
つまり、造れる潜水艦に限りができたのです。
ここで日本は、大型の潜水艦を1隻造るぐらいなら、その排水量を2つに割って2隻の小型潜水艦を造ったほうがいいだろうという判断をして、昭和6年/1931年の「マル1計画」で再び二等潜水艦が建造されることが決まります。
また、同時に戦時急造艦の研究もこの際行われることになりました。
「海中六型」は船体面では大きな変化はなく、「海中四型、特中型」の流れを汲んだ設計となっています。
変わったのは建造されていないうちに国産化に成功していたディーゼルで、「海中型」で艦本式ディーゼルが搭載されることになりました。
艦本式21号8型ディーゼルはこれまでのズルツァー式やフィアット式のような不具合はほとんどなく、またヴィッカース式のものよりも性能が高いと大変評判でした。
このディーゼルによって馬力が3,000馬力まで増加し、速度も19ノットに達しました。
さらに航続距離も12ノット:8,000海里と中型らしくない長航続距離を誇り、「特中型」のように沿岸警備と通商破壊作戦の兼務も可能でした。
その他一等潜水艦で揃ったデータも船体設計には活かされており、上記の「海中四型、特中型」をより洗練させた設計となりました。
「海中六型」は前述の通り一部研究目的な面もあったため、建造は2隻だけでしたが、十分な成功を収めていて、この2隻で二十一潜水隊を編成しています。
太平洋戦争では主にトラックやラバウル周辺で活動しましたが、【呂33】は昭和17年/1942年9月に、【呂34】は昭和18年/1943年4月に沈没しており、いずれも満足に力を発揮することはできませんでした。
同 型 艦
呂号第三十三潜水艦 | 呂号第三十四潜水艦 |