局地戦闘機 『天雷』/中島 J5N

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十八試局地戦闘機「天雷」
全 長11.500m
全 幅14.000m
全 高3.610m
主翼面積32.000㎡
自 重5,390kg
航続距離741km
発動機
馬力
空冷複列星型18気筒×2「誉二一型」(中島)
1,700馬力×2
最大速度596km/h
武 装20mm機関砲 2門(胴体)
30mm機関砲 2門(胴体)
60kg爆弾 2発
符 号J5N1
連 コードネーム
製 造中島飛行機
設計者中村勝治
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誉と海軍の悪癖に巻き込まれ、開発断念 天雷

昭和18年/1943年2月、日本は激戦に次ぐ激戦に遂に根負けし、「ガダルカナル島の戦い」において撤退作戦を開始。
この「ケ号作戦」実施の一ヶ月前、海軍はアメリカが実用化に向けて着々と開発をしている「B-29」に脅威を感じていました。
太平洋戦争後期から続々と本土上空を飛び交うようになったこの「B-29」は、「超空の要塞」(ちょうそらのようさい)とまで言われ、高度8,500m以上の高高度から悠々と爆撃をすることができる代物でした。
昭和17年/1942年に陸軍が開発した「二式複座戦闘機」は、やがて「B-29」迎撃用戦闘機として、通称「屠龍」(龍=B-29を屠る)と呼ばれるようになります。
それほど「B-29」は日本にとって迷惑な存在だったのです。

一方海軍も、手持ちの戦闘機は単発機が大半で、開発の中心が双発機や四発機などの大型機に移行しつつあるアメリカの航空機に手を焼いていました。
現在の敵機の中心である「B-17」「B-24」はともに四発機で、いくら日本の「零式艦上戦闘機」や開発中の「紫電」などが高性能だとしても、堅牢強固なこの2機種や「B-29」の迎撃は心もとなかったのです。

そこで海軍は、この「B-29」を意識した局地戦闘機の開発に取り組みます。
「十八試局地戦闘機」(のちの「天雷」)は、中島飛行機に開発させることが決定しました。
この時点で「B-29」の性能をどこまで把握していたのかはわかりませんが、「天雷」に求められたのは「高速性」「重武装」「上昇力」の3つでした。
特に重武装については、相手が大型機であるため幅広く使われていた7.7mm機銃では焼け石に水です。
装備したのは30mm機銃20mm機銃二挺ずつで、4門全てが機首側に取り付けられていました。
これは「閃電」同様、追い回す側に立つことを想定して火力を集中させるためでした。

しかし開発途中で、「夜間偵察機 月光」に装備されていた斜銃(コックピット付近から斜め上向きに銃身が出ていて、敵機の下側から銃撃ができます)が高評価を得たため、「天雷」の機銃も(おそらく20mm機銃が)斜銃に変更されています。

設計にあたった中村技師は、先ほども出てきた「月光」の開発にも携わっていたのですが、この時海軍の要求は過剰なもので、あれもこれもこなそうとした結果、いまいちパッとしない戦闘機として「月光」は完成してしまいました。
その教訓もあり、今回の「天雷」の開発においては、迎撃一本特化で設計されることになり、「月光」よりはゆとりある環境で設計が進められました。

機体は双発単座機とされ、エンジンは中島の「誉二一型」を二基採用することが決定。
速度は高度6,000mで667km/hと、最大速度470km/h足らずの「B-24」には簡単に追いつく速度が設定されました。
「B-29」も同じ四発機で、爆弾投下まではもちろん重量もありますからこの速度でも十分戦えると考えたのでしょう。
ちなみに当時の主力戦闘機の「F6F ヘルキャット」よりも速いので、速度面では遅れを取ることはなかったと思います。

続いて防弾性についてですが、日本の戦闘機にしては珍しく当初から各所に防弾装備が施されていました。
背面の防弾はなかったのですが、これは後方からの襲撃の可能性が本機の性能から見ても低いことや、あまりに硬すぎると前方から飛んできた弾がコックピット内で跳弾してかえって危険であることなどから、あえて採用していないと言われています。

一方で、防弾性を高めてしまうとどうしても重量が増えてしまうので、機体の設計では可能な限り軽量化を図り、またファウラー式二重フラップと前縁スラットを装備して高揚力性能を一層高めています。
加えて採用している「誉」は、2,000馬力の高出力だけではなく小型・軽量という大きなメリットもあるため、重量を抑えたい「天雷」には打ってつけのエンジンでした。

このように、これまでの航空機に比べるとまだ順調に開発が進んだ「天雷」は、計画から1年2ヶ月で試作機が完成しました。
ただ、搭載されている「誉」、このエンジンに苦しめられた機体はズラッと並びます。
「銀河」「流星」「烈風」「連山」などは、「誉」搭載を見越して設計され、その「誉」の不調によって活躍の機会を失いました。
「天雷」もまた「誉」のエンジン故障率の高さ、不調さに足を引っ張られ、計画を下回る計測値や不具合が多発します。

また、エンジンを覆っているエンジンナセルとフラップの気流が干渉し、無駄な空気の流れが発生して速度低下を招いてしまうナセル・ストールが発生することもわかりました。
この改善が思ったようにいかず、何度か修整をしましたが結局最高速度は597km/hに留まり、また上昇速度も6,000m/6分の要求に対して6,000m/8分と、こちらも要求を満たすことができませんでした。
さらに、開発中に海軍、特に技術畑ではない者の意見が追加でどんどん舞い込んできて、結局重量過多になり一層完成から遠ざかってしまいました。

ついには単座機に双発は不要という意見すら飛び交うようになり、「天雷」の居心地はどんどん悪くなります。
奇しくも「天雷不要論」とも言える双発単座機排除の流れが出てきたのは、「B-29」による空襲が徐々に本格化していた頃で、この空襲によって「誉」が製造されている武蔵製作所が爆撃、壊滅してしまいます。
敵味方双方ともから、強制的に「天雷」に当たれていた光を遮断されたのです。

昭和19年/1944年秋、「天雷」は開発機の絞り込み試験に通過することができず、正式に開発中止が下されました。
試作機6機のみが「天雷」として誕生しましたが、5号機、6号機は複座に改造されていました。
この後に開発が始まった「陣風」もそうですが、局地戦闘機は半数が「紫電・紫電改」に取って代わられ、後期開発組はほぼ実用化されることなく終戦を迎えています。