【キ76】三式指揮連絡機/国際

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全 長9.56m
全 幅15.00m
全 高3.30m
主翼面積29.4㎡
自 重1,110kg
航続距離750km
発動機
馬力
ハ42乙空冷星型9気筒(日立)
280馬力
最大速度178km/h
武 装7.7mm機銃 1挺
爆雷搭載可
連 コードネームStella(ステラ)
製 造日本国際航空工業
設計者 
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STOL特化の陸上部隊補助機はいつの間にか潜水艦をターゲットに

航空機がどんどん発展していくに伴い、航空機での攻撃や偵察だけでなく、直接的な連携力を高めるための航空機も求められるようになりました。
爆撃機は陸上部隊に先行しますし、偵察機もまた、陸上部隊や爆撃機の攻撃のために先行します。
しかし陸上部隊が攻撃しているこの瞬間をサポートできる航空機、これはまだ存在していませんでした。
特に戦場は広大すぎる中国やソ連なわけですから、雑に動くことは許されません。

サポートというのは、例えば上空からの陸上部隊への指揮、攻撃成果の観測、前後部隊の短距離輸送や連絡などです。
これらはすべてある程度「直接協同偵察機」でもこなすことができますが、指揮や観測を行うには少々速度が速い問題がありました。
また、離着陸距離が短いのが特徴ではあるものの、もっと短く飛べる飛行機があるとなおよろしいということで、「キ36/九八式直接協同偵察機」とは別に、できるだけ陸上部隊に随伴して、サポートに徹するための機体の設計が昭和15年/1940年8月に始まりました。
機体の製造を任されたのは日本国際航空工業です。

この指揮連絡機「キ76」が国産される一方でドイツで実績のあった「Fi156 シュトルヒ」という連絡機の輸入も決定していました。
「Fi156」も同じく陸上部隊のサポート機で、求められる能力はほとんど同じです。
「キ76」はこの「Fi156」と機体性能を比較するために発注され、いずれか性能の良いものが採用されるという流れでした。

「キ76」で最も大切なのは、「九八式直協機」よりも短距離離着陸ができること。
この性能を持つ機体をSTOL機(Short Take Off and Landing/短距離離着陸機)と呼びます。
そのためには「Fi156」で採用されているフラップで、前縁に設置されている固定スラットが重要でした。
速度が出ていなくても揚力を稼ぐ必要があるため、この高揚陸装置がなければ話になりません。
現在の機体だとこのスラットは羽の一部に付けられているケースがありますが、「キ76」はこれを前縁全てに設置。
羽全体で空気抵抗を受けて機体を持ち上げるというわけです。
さらにスラットと連動して水平尾翼も動くようになっていて、機体全体で揚力稼ぎができるようになっています。

エンジンは「Fi156」の液冷式に対して空冷式を採用。
馬力がそれほど必要ではないですからここを日本式にするのは当然でしょう。
ただし、低速で飛ぶのはそれはそれで馬力が速度以上に必要なので(簡単に言えば踏ん張る力)、弱すぎるわけにもいきません。
エンジンは既存の軍用機のエンジンでは出力が出すぎるため、日立の「ハ42」の出力を少し抑えた「ハ42乙」を採用しました。
これで出力280馬力、最高速度たった178km/hです。
しかし最低速度は約40km/hとなり、超低速飛行による観測が可能になりました。

短距離離着陸性能においても、風考慮せずで離陸58m、着陸62mと言われ、さらに向かい風があれば40m前後での離発着ができる優れものでした。
いくら荒れ地に強くても、直線でなければ離発着、特に離陸は非常に困難ですから、この数字は短ければ短い程メリットがありました。
この距離は「Fi156」よりも短く、最終的に「キ76」が採用された主因であることは間違いありません。
最高速度はこの60m前後の短距離離着陸を可能にするために大きく妥協されました。

機体は全体的に「Fi156」よりも大きく、特にエンジンが液冷式よりも空冷式のほうが大きくなるために胴体は明確に異なります。
武装は7.7mm機銃が1挺、戦う機体ではないですし、そもそも戦って勝てる見込みもゼロの機体ですから保険中の保険です。
試作1号機は昭和16年/1941年5月には完成し、早速翌月に到着した「Fi156」との性能比較が行われました。

結果、前述していますが採用されたのは「キ76/三式指揮連絡機」でした。
大型とは言えSTOL性能は「三式指揮連絡機」のほうが勝っていて、また整備になれた空冷式エンジンであること、輸送に配慮して羽が後方に向けて折り畳めること、胴体側面の広い観測窓の評価などを受けて「三式指揮連絡機」「Fi156」に競り勝っています。
観測窓については「見えすぎる」とまで言われ、死角になりやすい機体下部の視界もかなり広く確保できたようです。

特にSTOL性能は凄まじく、他の飛行機が滑走路から滑走路へと飛ぶのをしり目に、校庭であったり、競馬場の内馬場であったり、砂浜であったり、牧場であったりと、とりあえずちょっと広けりゃどこでも降りることができました。
着陸距離が短いですから、滑走路に対して横殴りの強風が吹き荒れる中、なんと滑走路を縦ではなく横にして向かい風を受けながら着陸したというエピソードもあります。
もしこれが民間機であれば、今のセスナ機のような使われ方であっちこっちで飛行していたかもしれません。

しかし抜群の性能を持った「三式指揮連絡機」は、制式採用までに大きくタイムロスをしてしまいます。
低速故か操縦性に難があり、何度か修正作業が行われたこと、また実用審査でかなりの時間を要してしまったこと。
これにより制式採用が初飛行から2年半以上後の昭和18年/1943年12月にまで遅れに遅れてしまい、制空権の乏しい戦況においては「三式指揮連絡機」の活躍できる場所はほとんど残されていませんでした。
結局サポート機というものはサポートできる環境があってこそ役に立つわけで、それが成立していないと戦闘能力のない機体なんて敵機の撃墜記録に貢献するだけです。
このままでは「三式指揮連絡機」は誕生=引退という悲しい結末を迎えてしまいかねません。

そんな中、海軍が輸送に対して全然力を注いでくれないことから独自で輸送揚陸船を建造していた陸軍保有船の中に、「三式指揮連絡機」を必要としている船がありました。
【あきつ丸】です。
【あきつ丸】は特種揚陸艦に分類される輸送揚陸船で、改装によって奇々怪々、飛行甲板を持つという常識破りの船にこの後変貌します。
陸軍はここに同じく離発着距離の極めて短いオートジャイロ機の「カ号観測機」を搭載し、独自で潜水艦迎撃戦力を持とうと考えていました。
そのための実験まで行っていたのですが、国産初のオートジャイロである「カ号観測機」が生産速度が遅々として上がらず、陸軍への納入がかなり遅れていたのです。
爆雷搭載量も少なくて、対潜哨戒機としてはいろいろ問題がある状態でした。

そこで颯爽と現れたのが「三式指揮連絡機」です。
離発着距離は「カ号観測機」にはもちろん負けますが、全長152mもある飛行甲板になら楽々離発着できます。
また視界も非常に広いし、速度も遅いし、対潜哨戒機として輸送船護衛には打ってつけでした。
実験結果も良好だったため、【あきつ丸】「三式指揮連絡機」搭載のために飛行甲板の改装や着艦装備を整え、また「三式指揮連絡機」も着艦用フックの取り付けや爆雷搭載装備が備え付けられました。
「三式指揮連絡機」は100kg爆雷が2個搭載できて、威力は申し分ありませんでした。
ただ、急降下ができないので飛行の高さには注意が必要でした。

そしていよいよ【あきつ丸】から独立飛行第一中隊の「三式指揮連絡機」が発艦、昭和19年/1944年8月から11月の間、【あきつ丸】「三式指揮連絡機」は日本海の対潜哨戒任務に就きました。
この時【あきつ丸】は輸送しようにも輸送する先がない、もしくは非常に危険ということから輸送任務から外されており、「三式指揮連絡機」の母船として活動していました。
ですが来る日も来る日も米潜水艦は発見できず、運悪くこの時期は日本海側で米潜水艦が遊弋することはほとんどありませんでした。

そんな中、「レイテ沖海戦」で海軍が事実上壊滅した後、フィリピン防衛のために【あきつ丸】も輸送船団に加わるように命令が下りました。
この「ヒ81船団」には他の特種揚陸艦である【神州丸】【摩耶山丸】【吉備津丸】も参加し、護衛には対潜哨戒を主任務とする第九三一海軍航空隊を擁する【神鷹】と海防艦が就くことになりました。
これでついに「三式指揮連絡機」も戦果を挙げるチャンスが巡ってきた、はずだったのですが、この時は【神鷹】が対潜哨戒の中心となり、【あきつ丸】は輸送任務に全力を尽くすことになりました。
少しでも多くの物資をフィリピンへ送る必要があったので、「三式指揮連絡機」の搭載が輸送スペースを圧迫することから「三式指揮連絡機」はこの出撃では降ろされることになってしまいました。

「三式指揮連絡機」は福岡第一飛行場を拠点として引き続き沿岸の対潜哨戒任務に従事。
一方で伝わってきたのが、「ヒ81船団」の潜水艦による壊滅的被害でした。
対潜哨戒網をやすやすと突破した米潜水艦によって【あきつ丸、摩耶山丸】、そして【神鷹】までもが撃沈されたのです。
「三式指揮連絡機」はこの悲報を受けた後も九州、朝鮮半島で黙々と任務を全うし、そして終戦を迎えました。