【キ100】五式戦闘機/川崎

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五式戦闘機一型
全 長8.82m
全 幅12.00m
全 高3.72m
主翼面積20.0㎡
自 重2,525kg
航続距離1,400km
発動機
馬力
「ハ112-Ⅱ」空冷星型複列14気筒(三菱)
1,500馬力
最大速度580km/h
武 装20mm機関砲 2門
12.7mm機関砲 2門
250kg爆弾2発
連 コードネーム(Tony Ⅱ)
製 造川崎航空機
設計者土井 武夫
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首無し飛燕を救え 空冷エンジンを組み込んで誕生したキ100

液冷エンジンという、日本にとっては高くても突破すべき壁。
川崎航空機がこの壁に果敢に挑む中で、大きなチャンスが訪れました。
最新の戦闘機「キ61/三式戦闘機『飛燕』」の開発を陸軍から命じられたのです。

これに対して川崎はドイツの「メッサーシュミット Bf109E」に搭載されているダイムラー・ベンツ製の「DB601」エンジンをライセンス契約し、その新戦闘機に搭載することにします。
これまでの空冷エンジンで問題となっていた、馬力の少なさとサイズの大きさ。
液冷エンジンは構造が複雑ではあるものの、機体の設計に向いた形状で空気抵抗を抑えることができます。
それに加えて空冷エンジンよりも冷却性能が高いため、エンジンの安定性が増します。
世界の戦闘機はどんどん速度が伸びる中で、日本も追随するためには液冷エンジンの成功が不可欠でした。

結果、「飛燕」「キ43/一式戦闘機『隼』」よりも格闘性能は落ちるものの、ほとんどのスペックで「隼」を凌駕する数値を生み出しました。
590km/hという快速、急降下に強く、また主力戦闘機となるべく量産にも向いた設計や製作工程を策定するなど、非常に素晴らしい完成度でした。
誰もが「飛燕」が連合国の航空機をまるでショーのようにバタバタと撃墜する姿を想像したことでしょう。

ところが、川崎はついに「ハ40」とそれの改良型の「ハ140」を安定供給することができませんでした。
技術も環境もとても当時の日本では液冷エンジンを扱うことはできず、故障に次ぐ故障でまともに使える「飛燕」は希少でした。
さらに現地でも当然液冷エンジンを整備できる人間がいないため、一度壊れるとほとんど放置状態となってしまいます。
飛べないし、飛んでも危ないし、修理もできない「飛燕」
「隼」が十分な能力を持っており、かつもともと現場に馴染んだ格闘性能重視の戦闘機であったことから、「飛燕」は敬遠されました。

一方で、機体そのものは量産性に富んでいたこともあってどんどん生産が進みます。
結果、機体は完成しているのにエンジンが入っていない、いわゆる「首無し」の状態の「飛燕」がエンジン待ちで行列を作る状態が発生。
現地では「隼」が孤軍奮闘している状態で、特に速度面で大きく劣っている「隼」は連合軍側の一撃離脱戦法に対抗できていませんでした。
別に「飛燕」なら追いつけたのかと言われると必ずしもそうではありませんが、しかし戦闘機の絶対数が不足しているのは変わりないため、この「首無し飛燕」にどうやって命を吹き込むかが至上命題とも言えました。
そしてそれに並行して、「キ84/四式戦闘機『疾風』」の配備が急がれました。

この状態で「ハ40、ハ140」の生産促進をしても糠に釘。
事態は液冷エンジンを生産するよりも、製造ラインの確立している空冷エンジンを搭載できるように機体を改造するほうが確実で早い、という結論を出すに至りました。

このエンジン換装の正式な決定は昭和19年/1944年10月ですが、実はそれよりもずっと前から空冷エンジン化は検討されていました。
昭和18年/1943年末には航空審査部飛行実験部部長の今川一策大佐が提言しており、また翌年早々には設計主務者の土井武夫氏もこの改装案を検討しています。
そして昭和19年/1944年4月にはついに「飛燕」の空冷エンジン化に舵を切ります。
9月には「ハ140」を搭載した「飛燕二型」の生産の打ち切りが決定し、「飛燕」の歴史はここで途絶えました。

空冷エンジンと液冷エンジンは形状が全く異なるため、「飛燕」の空っぽの胴体にそのまま空冷エンジンを突っ込むことはできません。
少なくとも前面部分は明らかに大きくなりますから、空気抵抗を受けて性能低下は免れません。
すなわち性能低下の度合いをどれだけ軽減させるか、あわよくばその性能低下を新しく搭載するエンジンの馬力で抑え込めればという思いを持って、急ピッチで「キ100」の設計が始まりました。
奇しくも同じ液冷エンジンを搭載していた「艦上爆撃機 彗星」も同様の措置が取られており、当初の「アツタ一二型、三二型」も「金星六二型」へと換装することが決定していました。

とにかく重要なのは性能を落とさないことです。
エンジンは「彗星三三型」の「金星六二型」の陸軍名称である「ハ112-Ⅱ」でした。
この「ハ112-Ⅱ」は「キ46/一〇〇式司令部偵察機三型」ですでに採用済みで、安定性もあって馬力も出ると評価されていました。

馬力1,500馬力は「ハ140」と同等で、サイズは直径1,218mmです。
「飛燕」の機首直径は840mmに対して、「ハ112-Ⅱ」はエンジンの周囲をカウリングで覆うと1,280mmとなりました。
もちろんこれに合わせて機首が大きくなりますが、このままだと機首と胴体に200mmほどの段差ができます。
実は「ハ112-Ⅱ」サイズに対応することそのものは比較的容易だったようですが、この段差は放置すると段差部分で空気が渦を巻いてしまい、空気抵抗につながります。

風洞実験の結果、当たり前と言えば当たり前ですが、段差を綺麗に埋めれば問題ないということが判明します。
そこで参考にされたのが、またもドイツの戦闘機「フォッケウルフ Fw190」でした。
「Fw190」はドイツでは珍しく空冷エンジンを搭載していますが、「Fw190」はこの機首の大きさをどうやってメリットへ転換するかがしっかり考えられていました。
その段差部分には、左右6本ずつ推力式単排気管が並べられていて、増した空気抵抗をこの推力式単排気管で相殺する意図があります。
推力式単排気管は「隼三型」でも採用されていますが、集中排気管よりも排気力が高くて速度アップに繋がっています。

このように、エンジンに関する問題は想定よりも早く解決することができました。
さらに液冷エンジンに必須である、胴体下部に半分飛び出ていたラジエーターが不要になったため機体はよりスマートになりました。
ラジエーター関連の撤去によって重量は300kgも軽減しています。

動き始めたのは4月ですが、正式な指示が出たのは10月。
それに対して12月には早くも設計は完了、翌昭和20年/1945年2月には初飛行に成功しています。

「飛燕」
の設計が素晴らしかったのを物語るかのように、ほとんどエンジンを切り替えただけの改良なのに、「キ100」は抜群の性能を発揮。
実験は省略されたものが多いのですが、陸軍は見切り発車で「キ100」の製造を決定します。
そしてエンジン待ちだった「飛燕」が続々と「キ100」に改良されていきました。
繰り返しになりますが、「飛燕」の機体製造はかなりスムーズだったので、「首無し飛燕」の処理が完了して次がない、ということもありません。

「キ100」は、まず速度は落ちましたがそれでも580km/hとそこそこの速度を維持。
それに落ちたといってもたった60機しか配備されなかった「飛燕二型」に比した場合で、メインの「一型丁」の560km/hよりは速いです。
重量は確実に低下し、これによって重量バランスが改善されたことから運動性も格段に良くなりました。
上昇力もある程度強くなったため、苦しんでいた「B-29」撃墜のための切り札としても期待されました。

武装は「一型丁」と同じく「ホ5」20mm機関砲2門と「ホ103」12.7mm機関砲2門を搭載。
そしてなんといっても安全に、安定して飛べるというのがなによりも魅力でした。
「隼」の問題は12.7mm機関砲2門が限界であったことで、「B-29」に戦いを挑んでもなかなか打ち破れない問題がありました。
それに対して「キ100」は高高度性能も日本の戦闘機の中では高いほうで、なおかつ20mm機関砲を搭載していました。
その機体が万全の態勢で配備できるというのは、当時本土空襲が繰り広げられている日本にとっては非常に心強かったのです。

模擬空戦では「疾風」3機を翻弄するほどの性能を見せつけ、『疾風』3機造るよりも『キ100』を1機造るべきだ」と言われたとか言われてないとか。
どちらにしても速度が速かった「疾風」に対して圧倒的な力の差を見せつけたことは、格闘戦に持ち込めばやはり日本の戦闘機は強いということの証明でした。
まぁ持ち込めないほどの速度差があるという根本的な問題があるのですが。

しかし「キ100」は連合軍との戦闘の中でも「マスタング P-51」「ヘルキャット F6F」を多数撃墜しており、この大戦末期に至ってようやく邀撃部隊に相応しい戦闘機が誕生したのです。
操縦しやすい、旋回しやすい、そこそこ速い、上昇力が高い、武装は強い、エンジントラブルも少ない「キ100」はパイロットから絶賛の嵐で、特に敵戦闘機に対して勝負を挑めるという何よりも重要な点が評価されました。
「B-29」撃墜のための出撃も多く、緊急で誕生した「キ100」はその誕生がもう少し早ければと悔やまれてならない戦闘機でした。

ですが勘違いしてはいけないのは、「キ100」は当時の戦況にマッチした機体ではありますが、決して傑出した戦闘機ではありません。
連合軍からしてみれば、これまでよりも強力かもしれませんが、かつての「隼」「零式艦上戦闘機」のように「逃げろ」「1対1で戦うな」と言われるほどの恐怖は欠片もありません。
だって「飛燕」が元ですから、2年前の機体ですよ?
バランスのとれた、非常に便利な戦闘機ではありましたが、このスペックで現場から大喜びされるほど、連合軍と日本の航空機の差は開いていたというのもまた真実です。

「キ100」「飛燕」からの改良を含めて390機が製造されましたが、空襲によって工場が爆撃されていくにつれて急激に生産力は低下しています。
また、「キ100」は実は制式採用はされていないため、「五式戦闘機」というのはあくまで通称となります。
当時はみな「キ100」と管理、呼称しています。

「キ100」「飛燕」改良型の風防はそのままファストバック式(機体と一体化)ですが、「キ100」として製造された機体の途中からは一般的な涙滴型風防へと変更されています。
加えて3機だけ、「ハ112-Ⅱル」という、排気タービン搭載の試作機が生産されていますが、これも生産が始まる前に終戦となってしまったために実戦配備には至りませんでした。
ただし試験結果は良好だったようです。

こう見ると、川崎「局地戦闘機 紫電・紫電改」と合わせて、思いもかけず当初の機体を改良することになり、そしてその機体が想像以上の評価を受けるというケースが目立ちますね。