【キ43】一式戦闘機『隼』/中島

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一式戦闘機二型
全 長8.92m
全 幅10.84m
全 高3.09m
主翼面積21.4㎡
自 重1,975kg
航続距離1,620km(正規)
3,000km(増槽)
発動機
馬力
「ハ115」空冷星型複列14気筒(中島)
1,150馬力
最大速度515km/h
武 装12.7mm機関砲 2門
連 コードネームOscar(オスカー)
製 造中島飛行機
設計者小山 悌
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陸軍一の戦闘機は、望まれて誕生していなかった

「キ10/九五式戦闘機」「キ27/九七式戦闘機」の採用が相次いで決定し、日本は従来の方針通り格闘戦能力の高い戦闘機を追い求めていました。
とにかく運動性能が相手よりも圧倒していれば、容易に敵の後ろに回り込んで仕留めることができるという方針で、そのためには戦闘機そのものは単発で軽量であるべきだという考え方が根強かったのです。
そして現場でもそれは同じで、複葉機が安定性、操縦性に富んでいたこともあって単葉機になっても重視される点は変わりませんでした。

ところが世界はというと、エンジンの性能向上と単葉機化、そして固定脚から引込脚への転換などもあり、どんどん速度重視の傾向へ傾いているところでした。
速度が速ければ、追いつけますし逃げ切れます。
そしてそれを叶えることができるエンジンの開発は続々と行われており、複葉機からは考えられないほど速度が増していきました。

例えば「九七式戦闘機」と同時期に採用、誕生しているドイツの「メッサーシュミット Bf109」は、一撃離脱戦法を前提として設計された最初の戦闘機と言われています。
つまり、特に敵戦闘機と長々戦うのではなく、一気に攻撃を仕掛けて追いかけられる前に逃げ切るという戦い方です。
もちろん爆撃機に対しては追い回す側に立ちますが、戦闘機同士の戦いにはできるだけ発展させないようにして、機体の高めるべき性能を絞り込んだものでした。
これは邀撃戦闘機だったので達成できたという一面もありますが、とにかく世界は速度が速ければ他の悪条件を補えるという考えが広まっていったのです。

こうなると、単に速いだけではダメになってきます。
一撃離脱戦法ということは、だらだら戦闘をせずに一気に敵機を仕留める必要がありますから、攻撃力も高めなければなりません。
つまり武装の強化です。
このことから、世界では「高速・重武装」の戦闘機の開発が俄かに盛んになってきたのです。

この潮流の変化に気付いた陸軍は、この流れに取り残されまいと戦闘機開発の方針転換を行います。
昭和10年/1935年には欧米視察団による視察が行われ、航空機の本場の機体や兵器の開発事情、運用理念などが調査されました。
そしてこの調査結果などをもとにして、昭和12年/1937年、陸軍航空本部昭和12年度陸軍航空兵器研究方針を策定し、機関銃搭載型と機関砲搭載型の2種類の高速重武装戦闘機の開発の道筋を造りました。
そしてこの2種類の機体をいずれも中島飛行機に開発するように指示をしています。
翌年には両者をより明確に差別化し、機関銃搭載型は従来の戦闘機に高速性能を加えたものである「軽単座戦闘機」、そして機関砲搭載型はこれまでの慣例を打ち破り、格闘性能を忍んででも高速性と重武装を重視する「重単座戦闘機」としました。

この方針に沿って中島が研究開発したのが、「軽単座戦闘機」である「キ43/一式戦闘機『隼』」、そして「重単座戦闘機」である「キ44/二式単座戦闘機『鍾馗』」です。
のちの出来事になりますが、
昭和14年/1939年の「ノモンハン事件」では、「第一次ノモンハン航空戦」において「九七式戦闘機」がソ連機に対して圧倒的な強さを発揮したものの、「第二次ノモンハン航空戦」では「Bf109」同様に一撃離脱戦法を繰り広げて「九七式戦闘機」を苦しめました。
陸軍の判断は若干遅かったものの、それでも時流を見誤ってはいないことがここで分かります。

さて、「軽単座戦闘機」である「キ43」、戦時中は陸軍戦闘機の中心ど真ん中で暴れまわることになる名機なわけですが、実はこの段階での「キ43」はある意味ではここまで活躍する必要がなかった機体とも言えます。
陸軍の重戦闘機志向は確かに世界の流れには沿っていましたが、その一方で軽戦闘機に対しては重戦闘機のサポート役に格落ちしており、必ずしも歴史のように前面に出て敵機をバババっと撃墜するまでの活躍は期待していませんでした。

ただ、「キ43」への要求の中は「九七戦に対し運動性で勝ること」となっており、「近接格闘性」という表現を排除していることに青木邦弘義技師は気づきました。
このことから、「キ43」は重戦指向であったと考えて、結局分類を分けたものの、「キ43、キ44」いずれも重戦闘機であったとも言えます。

しかしこの折衷案というか合併案というのは、中島を苦しめるものになります。
「キ44」が運動性能を妥協して高速・重武装という機体になったのに対して、「キ43」は武装こそ7.7mm機銃2挺と控えめとなっていますが、速度は500km/h以上、5,000m到達時間5分以内、格闘性能「九七式戦闘機」よりも向上、行動半径800kmと、ほぼ全体を通じて底上げを求められました。
上昇力と速度はエンジンの影響が大きいですが、しかし馬力が出すぎると運動性能に影響が出てきます。
そして行動半径は「九七式戦闘機」に比べると200kmも増えています。
これを達成するためには燃料搭載量を増やさなければなりませんから、必然的に重量も増えてしまいます。
こうなると翼を大きくしないといけないので、もっと重くなりますし抵抗も増えます。
つまり、速度向上、航続距離、運動性能のいずれもを向上させるというのは非常に困難な問題だったのです。

「キ43」設計の裏側には、抜群の格闘性能を持つ「九七式戦闘機」の大活躍がありました。
航空本部は重戦闘機への転換を求める一方で、現場は引き続き格闘能力に長けた戦闘機を求めていました。
つまり両方の希望をまとめ上げた機体を造るという無理難題が、「キ43」に押し付けられたのです。
航空機は作品ではありませんから、いくら上が考えても実際に使う人間に馴染まなければ意味がありません。
「キ44」がこれまでの戦闘機とはがらりと変わってしまい、特にベテランのパイロットから嫌われたのは、格闘性能が「九七式戦闘機」より落ちている一面があったからです。

中島は頭を抱えながらも「キ43」の開発に取り組みます。
とりあえずまずはエンジンで、これは「ハ25」が採用されました。
何かと比較される「零式艦上戦闘機」と同じエンジンで、当時の戦闘機用としては950馬力で最も出力の高いものでした。
続いてとにかく重量を抑えなければなりませんが、大型化は避けられないため、結果的に現状成功している「九七式戦闘機」の形をできるだけ崩さないように大きくするような対応となりました。

他にも可変ピッチプロペラを導入したり、引込脚を採用して抵抗を抑えたりと新しい取り組みも行われています。
また試作機の段階から防漏タンクも搭載されていました。
懸念された重量増に対する主翼面積については約22㎡となり、これは「九七式戦闘機」よりも約1.5㎡増で抑え込みました。

しか中島としては正直これ以上打つ手がなく、胴体が「九七式戦闘機」の延長線上にあるように、開発には「九七式戦闘機」を踏襲させるしか方法がなかったのです。
八方美人の戦闘機を造ることがいかに困難でかつ中途半端なものになるのかを実感しながら設計にあたっていました。
設計着手から約2年後の昭和13年/1939年末、中島「キ43」の試作機を造り上げ、陸軍に納入します。

その結果は誰の目から見ても明らかでした。
航続距離こそさすがに「九七式戦闘機」より勝りましたが、肝心の速度は「九七式戦闘機」よりちょっと速い程度(500km/hという記述もありますが、それだと「九七式戦闘機」の最大速度468km/hに対してほぼ要求を満たしているので、低評価につながりません)、運動性能は「九七式戦闘機」に格段に劣ることがわかりました。
結局「キ43」は、「九七式戦闘機」の格闘性能を航続距離に配分し、またエンジンが更新されたから速度が上がった、という、上位互換とはとても言えない戦闘機となってしまいました。

中島からしてみれば残念ながら予想された結果で、「キ43」は当然この状態では採用されることにはなりませんでした。
さらに前述の「ノモンハン事件」での「九七式戦闘機」の活躍もあって、格闘性能派にとって「キ43」は全くお呼びでない機体でした。
中島は引き続き「キ43」の改良を行っていましたが、その中で陸軍側からも更なる高速化、防弾鋼板の装備、武装強化などが求められました。
これは「第二次ノモンハン航空戦」の戦訓を反映させたもので、ソ連軍の「I-16」に追いつけず、また爆撃機「ツポレフ SB」に対して有効な攻撃ができなかった問題に基づいたものです。
この状況でさらに強化と言われても中島としては簡単に首を縦には振れず、さらなる試行錯誤が続きました。

陸軍はこの結果に対して、「九七式戦闘機」をさらに軽量化させて格闘性能の強化にある程度絞り込んだ案と、格闘性能は甘んじても更なる高速、そして武装強化をした案の2つを提示するように要求。
主翼を小さくしたり、引込脚を固定脚に戻したりととにかくできることは何でもやっていた中島
その中には「キ44」で採用されていたファウラー式蝶型フラップも含まれていました。
これは旋回半径の軽減や運動性能の向上を目指して設計されたものです。
「キ44」では当初は逆に邪魔だと使われることがなかったこの機能ですが、このフラップが「キ43」を救い出すきっかけになります。

最終的に軽量化して「九七式戦闘機」の強化案は不採用となり、「キ43」の道筋は現場の要求よりも陸軍本部のもともとの要求に沿う形へと進んでいきました。
高速性能強化ということで、エンジンはこの段階で開発がほぼ完了していた「ハ105」へ換装が決定します。
中島にとってはようやく強化要目が絞り込まれて少しホッとしたことでしょう。
このエンジン換装型が、のちの「二型」に相当します。

一方で日本を取り巻く状況も目まぐるしく変わっていました。
対米、対英関係の急激な悪化です。
「九七式戦闘機」では当初から航続距離の短さが問題となっており、その点においては「キ43」も評価されていました。
対米戦争となると舞台は太平洋になりますから、対中・対ソとは全く戦場が異なります。
陸上はとにかく陸がありますから着陸はできますし、たとえ着陸できずとも脱出はできます。
しかし海上を延々と飛行する場合は、まず着水が難しい、そして着水後の救助が難しい、そして脱出後の生存が難しいと悪いことだらけです。
つまり、航空機は飛んだら絶対に陸地があるところまで戻れるだけの燃料がないといけないのです。
これが「九七式戦闘機」では絶対に不可能なことでした。

対して「キ43」は通常時で1,600kmの航続距離を誇る上、増槽を加えれば最大3,000kmの移動が可能です。
3,000kmとなると「零戦」の3,350kmにはいささか劣るものの、陸軍機としてはずば抜けた航続距離ですから、太平洋戦線での活用には十分応えてくれます。

加えて「キ43」への援護射撃もありました。
新設された陸軍飛行実験部の部長であった今川一策大佐が、「キ43」を実用化するにはどのような戦い方をすればいいのかを調査していました。
その結果、「九七式戦闘機」よりも馬力が強いことを活かして、水平ではなく垂直での運動、例えば急上昇、急降下、また宙返りなどの縦の運動を念頭に置いて戦えば「九七式戦闘機」よりもより高い格闘性能を発揮できるとしました。
さらに中島が導入したファウラー式蝶型フラップを使いこなせれば、水平面でも「九七式戦闘機」に引けを取らない格闘性能を発揮できることが模擬空戦で判明。
「キ43」はここにきてようやく「九七式戦闘機」の上位互換らしい性能を見せることができました。

この時に陸軍の要求を満たせる戦闘機は海軍の「零戦」しかなく、またこの希望を反映させて一から設計できるとすれば川崎航空機が試作していた「キ61/三式戦闘機『飛燕』」でしたが、当然近々に配備することはできません。
結局「キ43」「二型」を量産することを前提として、現状使いようによっては戦える「キ43」を採用、すぐさま配備するしか方法はありませんでした。

このように紆余曲折を経て、昭和16年/1941年5月にようやく「隼」が制式採用されました。
採用前にすでに「隼一型」の生産指示は出ていたらしく、6月の段階で早くも40機ほどが完成していたそうです。

終戦まで連合軍に立ち向かう 大戦末期でも戦果を挙げ続ける

「隼」は6月に完成して早速漢口や広東へ配備されて実践デビューをしていますが、この時主翼の強度不足のため急激な操作を行なうと翼端が飛んだり、翼の付け根にしわが寄るといった問題が発生して、国内で補強工事が行われています。
そして「隼」の生産が決定してから約半年後、ついに太平洋戦争の火ぶたが切られました。
「真珠湾攻撃」「零戦」「九九式艦上爆撃機」「九七式艦上攻撃機」が空前の大戦果を挙げる中、「隼」はこの時まだ56機しか配備されていませんでした。
「九七式戦闘機」がまだまだ主力だったので、この段階での陸海軍での戦闘機のスペックでは大きな開きがありました。

とりあえず「二型」の量産が始まるまでは「一型」で急場を凌ぐことになった「隼」ですが、「一型」の中でも「甲・乙・丙」の3種類がございます。
甲が7.7mm機銃2挺、乙が7.7mm機銃1挺と12.7mm機関砲1門、丙が12.7mm機関砲2門のタイプとなります。

このように間に合わせ感満載の「隼」ですが、デビューするや否やとんでもない戦果を叩き出して陸軍を驚かせます。
空戦に入ると喪失比が日本:連合軍=1:4、つまり「隼」1機を撃墜するために連合軍は4機の航空機を失っていることになります。
これはとんでもない戦果で、「隼」に勝負を挑んだ「バッファロー F2A」「ハリケーン MK.Ⅰ」が次々と火を噴いて墜落していくのです。
連合軍は「零戦」と並んで「隼」に対してとんでもない恐怖を覚えました(最初は「隼」「零戦」の見分けがつかなくて、両方とも先に実践に出ていた「零戦」だと思われていたようです。静止時は見分けるポイントもいくつかありますが、空戦時は確かに判断は難しそうです)。
戦いに戦死はつきものですが、あまりにも割に合いません。

疑いたくなるような戦果を挙げ続ける「隼」に対して、国内では日本の戦闘機に愛称を求める声が高まってきました。
例えば上記の「バッファロー」「ハリケーン」のように、諸外国では機体に愛称を付けるケースがあります。
これほど目覚ましい活躍をしている「一式戦闘機」「キ43」と呼び続けるのは親しみがないということになり、昭和17年/1942年3月に陸軍が正式な愛称として「隼」を公表しました。
以後、「隼」は日本で最も知られた最高峰の戦闘機として、雑誌や映画などで頻繁に耳にするようになりました。
軍神と称された偉大なる戦闘機乗りである加藤健夫少将が5月22日に被弾の末に戦死した後は、より一層「隼」の名が轟きました。

続いて待望の「二型」の試作1号機が誕生しました。
まず「二型」はプロペラが2枚から3枚に増えています。
また両翼の長さが30cmずつ短くなったり、エンジンは当初予定していた「ハ105」からさらに進んで「ハ115」となりました。
速度はこのエンジン換装で515km/hとなり、さらに排気管を推力式集合排気管とした後期型では536km/hとなっております。
さらにさらに「二型」末期型では、この集合排気管を単排気管へと変更することで548km/hまで向上しました。
エンジンを換装していないのに、515km/hから548km/hまで向上するのですから、いかに排気エネルギーが二次利用のできるエネルギーであるかがよくわかります。

「二型」で敵が恐れたのは、格闘性能をより高めることができた加速力でした。
日本はついに高高度での高性能機を開発することはできませんでしたが、「二型」は低空では抜群の加速力を持っていて、特に低速からの加速力ではあっという間に敵機を引きはがしてしまうほどでした。
なので不意打ちに対処できる能力が高い上に、ともすればそこから一気に高い運動性を活かして後ろに回り込んだりもできてしまいます。
なのでアメリカは「隼」に対しては、低速時に不用意に攻撃を仕掛けないこと、攻撃をするなら急降下性能が劣っているから高い高度から突っ込んで降下しながら逃げることと戦い方を説いています。
そして当然ながら格闘戦に持ち込まないこと、持ち込ませないこと。
これはパイロットの命を守るために徹底された教えでした。

武装は「一型丙」のまま12.7mm機関砲2門。
実は「隼」共通の欠点の1つがこの武装で、主翼構造が複雑で余裕がなく、翼内へ装備できる機関砲の大きさが12.7mm機関砲1門ずつで限界だったのです。
やがて機関砲は20mmだったり40mmだったりとどんどん大型化していくのですが、ここが「隼」が終戦の瞬間まで戦い続ける上で大きなネックになったことは間違いありません。

この劣った武装に対しては、「マ弾」と呼ばれる新型の焼夷炸裂弾を採用することで補っています。
最初は暴発事故も発生していましたが、改善していくにつれて事故も無くなり、また生産効率が格段に向上したためにどんどん「隼」に採用されていきました。
この「マ弾」は貫通力が上がるわけではないですが、貫通後に機体内で炸裂しますから被弾後の威力が違います。
実際アメリカも20mm機関砲を搭載した「隼」が誕生したと誤認するほど、「マ弾」は有効的な武器でした。

一方で防弾性については向上しており、「一型」7.7mm機銃対応型の防漏タンクは12.7mm機関砲対応型に更新され、さらに途中から座席後部にも防弾鋼板が貼られるようになりました。
後期型では加えて70mm防弾ガラスや自動消火装置も取り付けられるなど、かなり人命を守るための配慮がなされています。

さらに設計上、増槽の代わりに最大250kg爆弾を2発搭載することが可能で、戦争末期では飛行第31戦隊、飛行第65戦隊が実際に爆弾を搭載して攻撃を行っています。
これに続く「三型」も爆装可能で攻撃を行っていますが、これらはいずれも速度が落ちるためなかなか爆撃を成功させるのは難しかったようです。

「三型」「二型」末期の単排気管装備型に加えて水エタノール噴射装置を搭載したものです。
これを組み合わせて最大速度は560km/hとなり、この当時としてはどちらかと遅いほうなのですが、それでも信頼性という面ではいまだ評価の高い「隼」をどうにかして戦場で戦える性能にしたいという思いから誕生しました。
この「三型」をもって、「隼」は武装を除いて数ある「零戦」の各型式のいずれにも総合力で勝るようになりました。
ですがこの水エタノール噴射装置はよく不具合を発生させており、また整備できる人員も少なかったことから、高評価を受ける一方で稼働率の低下を招いてしまいました。

ここまで「隼」のデビューと「二型、三型」の紹介をしてきましたが、その「隼」の活躍はどのようなものがあったでしょうか。
前述の通り喪失率が1:4という驚異的な数字を叩き出す「隼」でしたが、その後も「零戦」同様に連合軍にとっては恐怖の象徴でした。
しかし日本は「鍾馗」が戦争地域の問題によって本土や中国に引き返すことになり、「キ61」はエンジンの問題で配備が一向に進まない、結局日本は3年後の「キ84/四式戦闘機『疾風』」まで待たなければなりませんでした。

となると、陸軍は「二型」の排気管改良などでなんとか性能を高めていくしか戦い続ける方法がありません。
特に速度面ではどんどん差が開いてしまい、また多少の不利でも戦い抜けた「隼」でしたが、いよいよ形勢が逆転してきたことで損害が増えていくようになりました。
ですが損害が増えることと撃墜数が減ることはイコールではなく、依然として「隼」の性能は連合軍にとっては脅威でした。
特にビルマなどでの対英戦闘では「疾風」が配備されるまで十二分に役割を果たし続け、「スピットファイア」各型や「マスタング
P-51」「ライトニング P-38」
とは最後まで互角以上の戦いを繰り広げました。

一方で太平洋戦争の最前線であるソロモン諸島などでも、アメリカの反抗が増す中でも「零戦」と共同でこれに立ち向かっています。
「零戦」が手を焼いていた「B-17」を、武装で劣る「隼」が撃墜した記録も複数あり、依然として昭和17年/1942年末までは「隼」はよく戦っていました。

しかし「隼」がどれだけ強くても全体的な戦況の悪化はどうにもなりません。
補給路が妨害されたり航空施設が破壊されたりと、戦闘その瞬間ではなく運用全体面で「隼」は劣勢に立たされていきました。
対するアメリカは容赦なく戦闘機や爆撃機を送り込んでくるため、さすがに多勢に無勢となってしまいます。
そして次々にアメリカが各島に上陸してくると航空機の配備も下げざるを得ず、結果的に「隼」は不利な戦いを強いられることになりました。

昭和19年/1944年末にはついに特攻機としても使われるようになってしまい、華々しい「隼」の活躍の時は終わろうとしていました。
それでも「沖縄戦」や本土防空などで一部活躍したほか、あの「占守島の戦い」でも「隼」は北海道絶対死守のために戦いに参加しています(配備数僅かで戦果そのものはありません)。

そして終戦してからも「隼」は異国の地での仕事がまだ残っていました。
現地に残された「隼」はその国の軍の航空機として配備され、例えば「第一次インドシナ戦争」ではフランスが、「インドネシア独立戦争」ではインドネシアが使用しています。
特に「インドネシア独立戦争」は対オランダ、対イギリス戦争で、イギリスは戦争が終わったのにまた「隼」と戦いをする羽目になっています。

「隼」は総生産数が5,751機と記録され、これは陸軍最多、帝国軍全体でも「零戦」に次いで2位の生産数です。
旧式でありながらも終戦まで奮戦した「隼」は、開戦とほぼ同時に誕生した戦闘機であるにもかかわらず、ついにアメリカ戦闘機に1対1で負ける機体になり下がることはなく、「零戦」に比べて多少は強靭であることも含めて最後まで厄介な存在であり続けました。