【キ61】三式戦闘機『飛燕』/川崎

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三式戦闘機一型乙
全 長8.74m
全 幅12.00m
全 高3.70m
主翼面積20.0㎡
自 重2,238kg
航続距離1,100km
発動機
馬力
「ハ40」液冷倒立V型12気筒(川崎)
1、100馬力
最大速度590km/h
武 装12.7mm機関砲 4門
連 コードネームTony(トニー)
製 造川崎航空機
設計者土井 武夫
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液冷エンジンを手懐けろ メッサーシュミットを超えた新戦闘機

昭和13年/1938年に陸軍航空本部昭和13年度陸軍航空兵器研究方針を策定し、これまで格闘性能を重視した戦闘機の開発に注力してきていたものを、世界の戦闘機ニーズの変化に合わせて高速・重武装のものへと転換を図りました。
そしてこれまでの格闘性能を重視した軽量型戦闘機を「軽単座戦闘機」、格闘性能が多少落ちてでも高速・重武装の戦闘機を「重単座戦闘機」と分類し、2機種で協力して戦闘機の編成を組むことを目指しました。
この分類が決まって、陸軍は中島飛行機に対して「キ43/一式戦闘機『隼』」「キ44/二式単座戦闘機『鍾馗』」の開発にあたらせます。

しかしこの狙いは早々に崩れていまして、世界の航空機技術の飛躍速度はまさに航空機の速度のように年を追うごとに早くなっていました。
そんな中で単発、双発ならまだしも同じ単座で2種類の戦闘機を開発しても、片方が相手を食えればもう片方は不要ですし、逆に片方が相手に食われるのであれば食われた側はやはり不要です。
世界の戦闘機能力が拮抗しているならまだしも、日本は常に航空機やエンジン技術で劣っていたわけですから、こんなゆとりなんて本来なかったのです。

まずこの研究方針が策定されてから初めて開発が指示された「隼」ですが、これは結局速度も戦闘能力も、さらにあとから航続距離も求められました。
もっと言えば武装も強化したかったのに、「軽単座戦闘機」であったがゆえに原設計のままでは大口径の機関砲を搭載できないという問題にもぶち当たっています。
結果的に「隼」は長航続距離も活かして破竹の大活躍を繰り広げるわけですが、「軽単座戦闘機」に対して「重単座戦闘機」と同じ要件を求めているのは明らかでした。

そして昭和15年/1940年2月に川崎航空機に指示されたのが、重単座戦闘機の「キ60」、軽単座戦闘機の「キ61」でした。
ところが蓋を開けてみれば「キ61」「隼」同様に高速で格闘性能が高く、武装も強い機体を求められていて、もうこの分類には何の意味もありませんでした。
この「キ61」を陸軍は「いわば中戦」と言っていたらしく、もう自分たちで単・重の分類の無用さを吐露しているようなものでした。
さらに、特に触れる必要がないのでここで述べてしまいますが、最終的に「キ60」「キ61」に劣るとされて不採用、結局軽単座戦闘機が重単座戦闘機の役目も担うことになったのです。
ある意味では常に最強の戦闘機を狙っていた海軍のほうが潔いかもしれません(その分無茶苦茶すぎる要求なのですが)。

さて、「キ10/九五式戦闘機」を陸軍に納入して、次の「キ28」では液冷エンジンの不調も影響して落選してしまった経験を持つ川崎
川崎は早くから欧州の液冷エンジンに着目していて、積極的に液冷エンジンの研究と採用を行っていました。
液冷エンジンは構造が複雑になり、扱いも難しいのですが、冷却性能が空冷エンジンも遥かにいいため、ハマればとんでもない馬力を発揮することができるのが魅力です。
さらにサイズも空冷より小型化できるため(重量はそれほど軽くならない)、機体の抵抗も抑えることができるからもっと速度アップを見込めるのです。

そして今回の要求を踏まえて、川崎は再びこの「キ61」に液冷エンジンを搭載して挑むことになります。
液冷エンジンはとにかく速度が出るというわかりやすいメリットがあります。
川崎のライバルが三菱重工業中島飛行機という二大巨頭である以上、川崎は両者にはない独自性である液冷エンジンで陸軍を唸らせたいという考えもあったことでしょう。

とはいえ、まだ川崎でも扱い慣れていない液冷エンジン。
当時川崎が生産の努力を重ねていたのは、BMW製の水冷・液冷エンジンでしたが、依然として安定した性能を発揮するには至っていませんでした。
とにかく構造が複雑で装置も多いため、設計も当然ながら造り上げる側の技術や設備も十分でなければならないのです。

しかしこの試行錯誤を繰り返している中で降ってきた「キ61」開発の話。
今までよりも遥かに速い戦闘機を造るとなると、さすがに新しいお手本が必要でした。
ということで、本場ドイツより最新の戦闘機「メッサーシュミット Bf109E」に搭載されているダイムラー・ベンツ製の「DB601」エンジンをライセンス生産することにしました。

ちなみに「DB601」は愛知航空機「艦上爆撃機 彗星」に搭載されました)もライセンス生産をするためにベンツと交渉をしていましたが、陸海軍の対立とか生産力の問題とかでいろいろ面倒なことが裏で行われています。
結局その影響でライセンス料を川崎愛知がそれぞれ支払うことになってしまい、まぁ無駄なお金をはたいています。
ただし、2社で生産するのであれば2社がライセンス料を払うことは当然です。
問題があるとすれば、1社に絞り込むことができなかった国内事情です。

「DB601」は1,000馬力のエンジンで、本来はこれに燃料噴射装置が搭載できるのですが、この装置のライセンス契約は得ることができなかったため、この箇所は三菱愛知の「アツタ」エンジン用に製造していたものを使わせてもらうことになりました。

本体を輸入したうえで、川崎は機体の設計とは別に「DB601」の発展型である「ハ40」のエンジン製造にも力を注ぐことになります。
これまで苦しめられてきていますし、何と言っても「キ61」の目玉ですから、「ハ40」にかける思いは一入だったことでしょう。

さて、エンジンの形状が空冷とは異なるため、機体の形状もまた空冷式のものとは大きく変わります。
空冷エンジンが円形で直径が長いことに対して、液冷エンジンは長方形型で奥行きがあります。
そのため機体は全体的に細くなりますが、一方で機首が長くなり、風防からプロペラまでの距離が空冷式よりも遠くなります。
空冷に慣れたパイロットからすれば、少し視界が狭くなる不便さはあったと思います。

液冷エンジンの要である冷却装置(ラジエーター)は、コックピットのすぐ後ろの下部に少しスペースを設けて埋め込んでいます。
そのため機体の中心部分の下側が不自然に角形で出っ張っています。
もちろん空気抵抗はばっちり受けますが、これでも他の箇所での抵抗を抑えることができたためにトータルとしては最小限の抵抗にとどめています。
アメリカの「マスタング P-51」も同じ場所にラジエーターを仕込んでおり、機体設計の上では間違っていなかったのでしょう。

風防と言えば、日本では珍しく風防の後ろが機体と一体化しているファストバック式が採用されています。
これは航空力学的に速度アップにつながる設計でした。
しかし前後共に視界が従来の設計よりも狭くなることから、「キ61」では「Bf109」と同じくコックピット内から機体下を覗くための小窓が設置されていました。

胴体は非常に頑丈に造られていて、かつ各ブロックをある程度造り上げてから一気にくっつける方法を採用することで生産効率が大幅に改善されました。
胴体とエンジンマウントもモノコック構造で一体化されており、製造速度は軽減できるしスペースはできるし強度もあるしといいこと尽くしでした。
さらに両翼の強度も素晴らしく、まず低翼のメリットを活かして左右一体構造としています。
これは羽の上に胴体が乗っているようなもので、翼の強度を高めることができました。
翼そのものも、私個人があまり理解ができていないのですがとにかくガッチガチに硬くて、逆にちょっと硬すぎて重いのではというほどでした。
しかしそれでもなお機体の性能が素晴らしかったため、この点での重量過多はそのままにされています。

この胴体部分と主翼の頑丈さは、降下限度速度が850km/hというとんでもない速度に達しており、つまり急降下にかなり強い機体ということになります。
「隼」が軽量化のあおりを受けて急降下が不得意だったこととは対照的です。
残念ながら航空機は飛行中の空中分解事故などがどうしても起こってしまうのですが、「キ61」に限ってはそのような事故は全く起こらなかったそうです。

武装は「隼」よりも強化はされましたが、この時期はまだ大口径機関砲の開発が進んでおらず、完成したばかりの12.7mm機関砲2門と7.7mm機銃2挺となりました。
本当なら12.7mm機関砲4門としたかったのですが、この「ホ103 一式十二・七粍固定機関砲」の信頼性はまだ高くなかったため、保険として7.7mm機銃が搭載されることになっています。
試作機では防弾鋼板は用意されていませんでしたが、防漏タンクは採用されています。

いよいよ本命の速度ですが、飛んでビックリなんと590km/hという快速っぷりでした。
この速度は速度重視だった「キ60」よりも30km/hも速くて、「キ60」の存在価値はほぼなくなってしまいます。
「Bf109E」よりも同じく30km/h速い「キ61」は、さらに旋回性能が小さく、運動性も上回っていて、結果を見れば「キ61」「Bf109E」を凌駕したことになります。
航続距離も増槽込みで「零式艦上戦闘機」に迫る3,200kmで、太平洋戦争の戦況にも見合っています。
まだ制式採用前の1942年秋ないし冬(採用はされていないだけで続々と量産は行われていました)、陸海軍の戦闘機や鹵獲した連合軍の戦闘機などの研究飛行が行われましたが、その際にパイロットからは操舵性の高さも絶賛されています。

さて、これまでの「キ61」の情報をまとめてみましょう。

・めっちゃ速い
・めっちゃ遠くまで飛べる
・めっちゃ頑丈、急降下に強い
・視界ちょっと悪い
・武装ほどほどに強化
・格闘性「隼」にはさすがに劣るが扱いやすい
・量産性が考慮された設計

凄いですね、いいことばっかりです。
では、いよいよ「キ61」の真の評価、そして闇についてご紹介していきましょう。

首無し三式戦 優秀な機体はあくまで当社比レベルの半端戦闘機

特徴がある機体はどうしても長くなりますね。
まだ半分ありますので頑張ってお付き合いください。

「キ61」は昭和18年/1943年10月9日に制式採用されましたが、実際には前年のうちから量産が始まっていました。
採用が昭和18年/1943年になった理由は、皇紀2602年にあたる昭和17年/1942年採用の機種が「キ61」を含めると3種類になってしまうからと言われています。
なお、「飛燕」という愛称が使われ始めたのは早くても昭和19年/1944年後半からのようです。

前述の通り、問題なく飛べば次世代戦闘機としては十分な能力を発揮できる「飛燕」
しかし「飛燕」は国内外から酷評される存在となってしまいます。
その理由があまりにも多く、その評価もむべなるかなと言わざるを得ません。

まずは本命のエンジンからいきましょう。
「飛燕」と言えば、「首無し」と呼ばれるエンジンが入っていない状態の機体が大量に発生したことが有名です。
そうです、エンジンの生産がとても遅いのです。

そもそも液冷エンジンは、開発するのもそうですが生産するのもすごく難しいのです。
生産に必要な部品、精度、材料、設備、技術、そのいずれもが日本の工場には備わっていませんでした。
材料で最も影響したのがニッケルで、希少価値が高く、装甲鋼板などの錬成で使われる重要な金属でした。

ですがニッケルは国内での採掘量が非常に乏しく、戦前から輸入に頼りっきりでした。
ところが開戦によってその輸入が途絶えてしまったため、極力ニッケルを使用しないように軍が指導。
その結果、「ハ40」はニッケル抜きで造らなければならなくなりました。

ニッケルを代用できる金属はないため、止む無く主金属となるクロムモリブデン鋼だけでエンジンを製造しますが、強度が全く足りずにクランクシャフトに亀裂が入るなどの事故が頻発します。
高周波焼入れや滲炭処理を施してみるも、ちょっと持ちがよくなるだけで結局ヒビが入ってしまいます。
愛知の「アツタ」はこれに加えて一般的な冶金で行われる、超高温での長時間の焼き入れを行ってなんとか問題をある程度解消していますが、「ハ40」はついにこの問題は解消することができませんでした。

細かく記述するとキリがないのであとは簡単に説明しますが、燃料噴射装置を製造するための機械がドイツから手に入れることができなかったので非常に煩雑となったり、よくある冷却液や油の漏れ、整備できる者が国内外でほとんどいないなど、頭の先からしっぽの先まで問題だらけでした。
国内で液冷エンジンの採用を推し進めていたのは川崎愛知だけで、軍もこの2社に任せっきりだったのが大きな過ちでした。
液冷エンジンを扱える人間の育成が全く進んでいなかったのです。

そしてこのいずれもがエンジンの精度を貶めるものであり、いかに液冷エンジンが技術の粋の結晶であるかがわかります。
戦況が悪化すれば悪化するほどこれらの改善も遠ざかり、特に学徒勤労動員が行われるようになってからは、言い方は悪いですが余計に精度劣化を進める有様でした。
ずぶの素人にさせる作業ではないのです。

エンジンの不良は当然稼働率の低下を招きます。
いくら速いとはいえ、それはまともに飛べればの話です。
飛べないし、飛んでも危ないし、修理もできない「飛燕」
こんな飛行機が現場で好まれるはずがありませんでした。
デビューしてしばらくもしないうちに引っ込まざるを得なかった「鍾馗」の配備を求められるほどです。
本土防空の際は飛べば飛ぶほど「故障で脱落していく」という酷い有様だったそうです。

このように完成するエンジンの数が完成する機体の数に比べて明らかに少なく、エンジン待ち、すなわち「首無し飛燕」が雁首揃えて並んでいたわけです。
この状況は同じく液冷エンジンを搭載していた「彗星」を手掛ける愛知でも陥っていました。
そして「ハ40」もまともに造れないのに、性能向上版の「ハ140」の製造が始まったのがこれに拍車をかけることになります。

「ハ140」は出力1,500馬力、過給器の大型化と水エタノール噴射装置を新たに設置したタイプで、当然速度や物足りなかった上昇力の改善につながることが見込まれました。
ですが当たり前のように問題を連発し、さらに製造工程が「ハ40」の5倍という非現実的なものに膨れ上がります。
こちらもやはり「問題がなければ」素晴らしい性能を発揮することができますが、宝くじを買っているわけではないのですから、こんな当選率の低い戦闘機を戦地に送り込まれても困るわけです。

「ハ140」を搭載した「飛燕」「二型」に分類され、昭和19年/1944年夏頃から生産が始まりますが、機体が374機製造されたにもかかわらずエンジンが入った「二型」はたった99機しか誕生せず、さらに39機が爆撃によって破壊されて、稼働した「二型」は60機にすぎません。
「首無し飛燕」で有名なのは、この「ハ140」を搭載する予定だった「二型」のことです(「一型丁」もエンジン待ちの機体はありました)。
「二型」は制式採用される前に製造が始まり、そして制式採用される前に製造が中止されています。

「飛燕」最大の特徴である590km/hの高速性能。
これも残念ながら、日本最速が対連合軍に対して必ずしも有利とは言えない現実があります。
「飛燕」のデビューが昭和17年/1942年末ごろからで、「ハ40」の慢性的不調があったために配備ペースは低調でした。

そして「飛燕一型」「甲~丁」までありますが、一番速いのは一番武装が乏しい「一型甲」で、メインの「一型丁」では速度が560km/hにまで落ちていきます。
「二型」は前述の通りたった60機しか配備されていませんから、ほとんど勘定に入りません。

そんな中で「飛燕」が戦いを挑むのは「ウォーフォーク P-40」「ライトニング P-38」
「P-40」は当時の連合軍の戦闘機としては決して強力な機体ではありませんでしたが、それでも速度は563km/hと「飛燕」より多少劣る程度でした。
その分を旋回性や上昇力などで補えば十分戦えると判断されており、「P-40」相手でも「飛燕」はおおよそ互角、エンジンがまともでない限り、常に優位性をとれるわけではありませんでした。

そしてアメリカのベストセラー戦闘機の1つである「P-38」は、初期型でも軽く600km/hを超えています。
性能が向上するたびに速度も格段に増していき、590km/hという速度は別に脅威でも何でもないのです。
そうなると、格闘性能が「隼」よりも劣る「飛燕」に対して何を恐れることがありましょうか。

加えて「飛燕」12.7mm機関砲まででしたらそうやすやすと撃墜されない防御力があります。
となると、「飛燕」「P-38」に完全に劣っており、さらにアメリカは基本的に1対1の戦闘をせずに編成を組んだ戦いを行っていましたから、「飛燕」はむしろ積極的に叩ける戦果稼ぎの獲物となっていたのです。

国内外から散々な言われようの「飛燕」ですが、劣勢でもエンジン不良があっても日本のために戦い、墜とし、そして墜とされていきました。
苦戦したのは事実ですが、全体的に日本の戦闘機は格闘性能は高めですから一方的に負け続けたわけではありません。
そして「飛燕」「彗星」とともに整備士の腕が育ちつつあり、一部の部隊ではかなりの稼働率改善も達成してます。

しかし「飛燕」が戦闘機として華々しく活躍したことは、本当になかったのでしょうか。
実は終戦が迫った昭和20年/1945年、「B-29」の迎撃でなんとか名を馳せています。
ですがその方法は、特攻ではないですが実質特攻とほとんど同じ方法、つまり体当たり戦法でした。


「B-29」
を仕留めるために必ず突破しなければならないのが、高度8,000~10,000mという高さです。
当時の日本のエンジンと機体の重量では、この高さまで到達できない機体ばかりで、「B-29」の縄張りに飛び込むためにありとあらゆる方法が考えられます。
「飛燕」に与えられた道は、武装も防弾鋼板も取っ払って、最軽量の状態で遮二無二「B-29」に肉薄するほかにありませんでした。

昭和19年/1944年11月7日、西日本の防空を任されていた飛行第244戦隊に、新たに震天制空隊、回天制空隊が編成されます。
彼らの任務は機体を大きな弾丸として「B-29」に突撃すること。
字面だけ見れば特攻そのものですが、ですがこの特攻は非常に高度な技術を要するため、できる限り生還してほしいという要望もありました。
ですからパイロットは突撃前に脱出をしたり、突撃するも機体を完全に破壊させずに生還したりと、一般的に知られている特攻とは異なる突撃方法でした。
この攻撃で2回も生還したパイロットもいます。

この制空隊の活躍を含めて、飛行第244戦隊は「B-29」を160機撃破し、うち70機を撃墜する活躍を見せています。
この中にはのちに配備された「キ100/五式戦闘機」の活躍もありますから、すべてが「飛燕」の戦果ではありませんが、「五式戦闘機」の配備が昭和20年/1945年5月からであることを考えると、相当数が「飛燕」の戦果であることは間違いないでしょう。
飛行第244戦隊はじゃじゃ馬の「ハ40」整備にも力を注いでおり、稼働率は他の部隊に比べるとかなり高かったようです。

ですが「B-29」が飛行高度を下げてくると、代わりに「P-51」「飛燕」の前に立ち塞がることになり、またも戦闘機対決で苦戦することになってしまいます。
量も質も勝る「P-51」相手に大立ち回りができるほど「飛燕」は高性能ではありませんでした。

最後に、「飛燕」の各型式をご紹介しましょう。
まず、7.7mm機銃2挺、12.7mm機関砲2門を搭載したのが「一型甲」となります。
本来であればこの型式は誕生しないはずでしたが、「ホ103」の生産遅れや信頼度が低いために誕生したというのは前述の通りです。
「一型甲」の生産数が388機というのが、「ホ103」の問題の大きさを物語っています。

そして当初の計画通り12.7mm機関砲4門となったのが、「一型乙」となります。
「一型乙」は約600機が製造されました。
極初期の一部を除いて、操縦席後部とラジエーターに対7.7mm機銃用の防弾鋼板が取り付けられています。
ですが飛行中に燃料タンクで弁の不良が発生するようになり、飛行中の燃料の重量バランスが崩れてしまうケースが増えてきてしまいました。
墜落事故にまで発展してしまったこの問題に対して、燃料タンクそのものを外してしまうという荒業も取られましたが、当然燃料搭載量は減少してしまいます。
さらにインテグラルタンクにも防弾ゴムを施した結果、燃料は755ℓが一気に500ℓにまで減ってしまいました。
当然航続距離の減少にもつながりますから、実は3,200kmという航続距離を発揮できたのは「一型甲」だけです。

「一型丙」は、ドイツの「マウザー砲」2門を搭載した型式です。
大戦中きっての精密機関砲で、国内での20mm機関砲「ホ5」の生産が遅れているために800門輸入されました。
サイズは大きめで、主翼内に収まらず砲身が飛び出ています。
液冷エンジン同様、日本で整備するのは非常に困難で、分解することは基本的には許されていませんでした。

「マウザー砲」
の弾丸は炸裂威力が通常のものよりも高く、20mmという口径以上の破壊力を生み出しました。
初速も速いために命中率も高く、1発の命中でとんでもない威力を誇る上に壊れにくいため、輸入の継続が叫ばれましたが、それは叶わず「一型丁」へと移ります。

「一型丁」はマウザー砲に代わって国産の20mm機関砲「ホ5」が搭載された型式です。
翼内武装はどうしてもブレが発生するのですが、「マウザー砲」はサイズの関係上翼内に収めるしか方法がありませんでした。
しかし「ホ5」「マウザー砲」よりも威力は落ちるものの小型で生産されたため、機首内に収めることに成功しています(当初は翼内の予定でしたが、あとで機首に収まるように機体・機関砲共に改良されたという記録もあるようです)。
ですがこれらの改良によって自重が330kgも増えてしまい、速度や上昇力などが低下してしまっています。
特に速度は560km/hとなってしまい、国内でもそれほど速いとは言い難い速度になってしまいました。
重武装の「一型丁」「飛燕」最多の約1,350機が製造されました。

そして「ハ140」を搭載した「二型」(その1つ前に「キ61-Ⅱ」という型式がありますが試作機8機の生産で計画中止となっています)は、これまでも説明していますが、簡単に言えば「一型丁」に「ハ140」が載るように改良された機体です。
まともな性能を発揮した「二型」は正規の状態で10,000mに到達できたそうで、返す返すも「ハ140」の生産低調が悔やまれます。
「ホ5」の搭載弾数は200発となりましたが、一方でインテグラルタンクへの防弾ゴムがより厚くなったため、搭載燃料がさらに減っています。

最後に、「首無し飛燕」の救済措置として異色のデビューとなったのが「五式戦闘機」です。
詳しくは「五式戦闘機」の項目で説明しますが、ようは「飛燕」の空冷エンジン化です。
機体が出来上がっているのにのんびり「ハ40」ないし「ハ140」ができるのを待っていられるわけがなく、絞り出した結果の産物でした。
時期が悪かったとはいえこの改良は成功し、短い機関ですが本土防空に大きく貢献しています。