【キ44】二式単座戦闘機『鍾馗』/中島

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二式戦闘機一型
全 長8.75m
全 幅9.45m
全 高2.90m
主翼面積15.0㎡
自 重2,095kg
航続距離1,000km(正規)
1,296km(増槽装備)
発動機
馬力
「ハ109」空冷星型複列14気筒(中島)
1,450馬力
最大速度605km/h
武 装12.7mm機関砲 2門
7.7mm機銃 2挺
100kg爆弾2発または250kg爆弾1発
連 コードネームTojo(トージョー)
製 造中島飛行機
設計者小山 悌 他
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日本初の重戦闘機は、性能抜群も使い道がないという致命傷

「キ10/九五式戦闘機」「キ27/九七式戦闘機」の採用が相次いで決定し、日本は従来の方針通り格闘戦能力の高い戦闘機を追い求めていました。
とにかく運動性能が相手よりも圧倒していれば、容易に敵の後ろに回り込んで仕留めることができるという方針で、そのためには戦闘機そのものは単発で軽量であるべきだという考え方が根強かったのです。
そして現場でもそれは同じで、複葉機が安定性、操縦性に富んでいたこともあって単葉機になっても重視される点は変わりませんでした。

ところが世界はというと、エンジンの性能向上と単葉機化、そして固定脚から引込脚への転換などもあり、どんどん速度重視の傾向へ傾いているところでした。
速度が速ければ、追いつけますし逃げ切れます。
そしてそれを叶えることができるエンジンの開発は続々と行われており、複葉機からは考えられないほど速度が増していきました。

例えば「九七式戦闘機」と同時期に採用、誕生しているドイツの「メッサーシュミット Bf109」は、一撃離脱戦法を前提として設計された最初の戦闘機と言われています。
つまり、特に敵戦闘機と長々戦うのではなく、一気に攻撃を仕掛けて追いかけられる前に逃げ切るという戦い方です。
もちろん爆撃機に対しては追い回す側に立ちますが、戦闘機同士の戦いにはできるだけ発展させないようにして、機体の高めるべき性能を絞り込んだものでした。
これは邀撃戦闘機だったので達成できたという一面もありますが、とにかく世界は速度が速ければ他の悪条件を補えるという考えが広まっていったのです。

こうなると、単に速いだけではダメになってきます。
一撃離脱戦法ということは、だらだら戦闘をせずに一気に敵機を仕留める必要がありますから、攻撃力も高めなければなりません。
つまり武装の強化です。
このことから、世界では「高速・重武装」の戦闘機の開発が俄かに盛んになってきたのです。

この潮流の変化に気付いた陸軍は、この流れに取り残されまいと戦闘機開発の方針転換を行います。
昭和10年/1935年には欧米視察団による視察が行われ、航空機の本場の機体や兵器の開発事情、運用理念などが調査されました。
そしてこの調査結果などをもとにして、昭和12年/1937年、陸軍航空本部昭和12年度陸軍航空兵器研究方針を策定し、機関銃搭載型と機関砲搭載型の2種類の高速重武装戦闘機の開発の道筋を造りました。
そしてこの2種類の機体をいずれも中島飛行機に開発するように指示をしています。
翌年には両者をより明確に差別化し、機関銃搭載型は従来の戦闘機に高速性能を加えたものである「軽単座戦闘機」、そして機関砲搭載型はこれまでの慣例を打ち破り、格闘性能を忍んででも高速性と重武装を重視する「重単座戦闘機」としました。

この方針に沿って中島が研究開発したのが、「軽単座戦闘機」である「キ43/一式戦闘機『隼』」、そして「重単座戦闘機」である「キ44/二式単座戦闘機『鍾馗』」です。
のちの出来事になりますが、昭和14年/1939年の「ノモンハン事件」では、「第一次ノモンハン航空戦」において「九七式戦闘機」がソ連機に対して圧倒的な強さを発揮したものの、「第二次ノモンハン航空戦」では「Bf109」同様に一撃離脱戦法を繰り広げて「九七式戦闘機」を苦しめました。
陸軍の判断は若干遅かったものの、それでも時流を見誤ってはいないことがここで分かります。

しかし「隼」は従来の戦闘機の上位互換であるべきだという現場の声が根強く、「九七式戦闘機」よりも運動性能が優れてかつ速度、上昇力が格段に向上した戦闘機にする必要に迫られてしまいます。
この影響で「隼」の開発は難航し、ついに前線にほとんど配備されていない状況で太平洋戦争に突入しています。

さて、一方の「キ44」ですが、これまでにない性能を持った戦闘機ですから開発も全く新しいものとなります。
これまでどれだけ軽くて軽快に動けるかということを考えながら設計していましたが、「キ44」はどれだけ速く飛べるかが重要な戦闘機になるのです。
中島ではもともとこの高速重武装戦闘機の到来を見越していましたが、いざ挑んでみるとやはり茨の道であることを痛感します。
これを踏まえて、開発時間も「隼」よりも長く取られていました。

性能要求として難題なのは最大速度600km/hという超高速性でした。
「九七式戦闘機」は最大速度は468km/hですから、130km/hも速度を上げる必要があります。
とんでもない速度差ですから、とにかくまずは搭載するエンジンを最大馬力のものにするのは必然でした。
「キ30/九七式軽爆撃機」「キ21/九七式重爆撃機」に搭載されていた、1250馬力の「ハ41」が当時の日本で手に入る最大馬力のエンジンが「キ44」の心臓となりました。

「ハ41」はサイズが大型になる関係上、どうしても胴体も大きくならざるを得ませんでした。

「キ44」
の特徴の1つがこの横から見た時の胴体の形状で、エンジン部分が最も太く、そこから尾翼に向けてどんどん細くなっています。
速度最重視というコンセプトから、とにかく軽量化を図ったために、風洞実験を繰り返してこのような形状になりました。

この太い前面に対して両翼はやたら短く、たった9.45mしかありません。
「九七式戦闘機」が11.31m、「隼」が10.84mですから、なるほどこれまでの戦闘機とは確かに全く異なるという印象を与えました。

武装は12.7mm機関砲が2門、7.7mm機銃2挺となり、これまでの戦闘機に比べると口径も数も大きく向上しました。
逆に敵機からの攻撃に対しては、防漏タンクと座席後部の防弾鋼板が設計の段階からすでに組み込まれており、ここも欧米視察の影響が出ています。

設計を進めていくうちに、想定よりも大きくなってしまったのが主翼面積でした。
重量が増えるにつれてそれに対応させることで主翼も大きくなっていき、これによって失速の危険を防ぐために着陸に必要な速度がどんどん速くなってしまいました。
さらに設計上、水平尾翼と垂直尾翼の距離が広いという特徴を有しており、この2つが離発着に必要な距離を長大化させました。

水平尾翼と垂直尾翼の距離を離したのは、安定飛行や射撃時のすわりをよくする効果があり、射撃命中率は確かに高かったようです。
ですが垂直尾翼は高さが低いことも相まって、離発着時の安定性は劣悪でした。
そして戦闘中の大きな動きに対しても失速に陥りそうになることが多々ありました。
このため「キ44」は経験の浅いパイロットが乗るとあっという間に墜落する恐れがあり、熟練のパイロットでも離発着で精神を削がれるほどのものでした。
垂直尾翼の重要性がこれでもかというほどわかる機体で、更新された「二型」では垂直尾翼の高さ、面積が大きくされています。

一方で中島は格闘性能をできるだけ落とさないように工夫をしています。
その1つがファウラー式蝶型フラップで、これをうまく使いこなせば旋回半径を狭くすることができました。
そしてこれを活用することで、長大だった着陸速度も抑えることができました。
しかし通常の操縦でも扱いが難しい上にこのフラップを自分で操作するのは一朝一夕ではとても無理で、逆に使うほうが危険ということでほとんど使われることはなかったそうです。
実際には日本の基準では広い旋回半径も、世界の戦闘機と比べるとまだ優秀な部類だったようです。

そしていよいよ審査に入ります。
射撃命中精度については前述の通り高い評価を得ることができましたが、着陸速度や失速の危険性はやはり問題視されました。
肝心の速度は、非武装時では626km/hの速度を発揮することに成功しましたが、武装状態ではついに600km/hを突破することができず、最終的な仕様は580km/hで諦めざるを得ませんでした。
5,000m到達時間も、5分という要求に対して6分半を擁してしまいます。
エンジンの調子も実はそれほどいいわけではなく、ちょくちょく不調を訴えています。
運動性能ももちろん軽戦闘機には劣るわけで、いくら速くても使いにくそうな印象が強かった「キ44」は採用されるかどうかわからなくなってきました。

そんな中、「キ44」は件の「Bf109」と模擬空戦を行うことになりました。
昭和16年/1941年に輸入されていた「Bf109」を操縦するのは、ドイツで現役バリバリのパイロットであるフリッツ・ロージヒカイト大尉
撃墜数68機という実績を持ち、終戦まで戦い続けた彼は、当時日本の外交特使に任命されて日本に在留していました。
ドイツ軍きってのエースパイロットが操る、ドイツ軍の最も有名な戦闘機「Bf109」に対して、我が「キ44」はいかなる戦いを繰り広げるか。
特に「Bf109」は重戦闘機の筆頭ですから、「九七式戦闘機」のような格闘性能至上主義の面々を黙らせるにはこの空戦で勝たなければいけません。
この結果次第で、「キ44」だけでなく「重戦闘機」そのものが採用か不採用かが決定されるといっても過言ではない、命運をかけた模擬空戦でした。

この時模擬空戦には「キ44」だけでなく、「九七式戦闘機、隼、キ45/二式複座戦闘機『屠龍』」も参加しています。
これらの結果を比較したうえで、「キ44」はついに総合力で「Bf109」を上回るという結果をたたき出したのです。
まず格闘性能面では、「キ44」どころか参加した4機種全てが「Bf109」より優位に立ったと結論付けられています。
双発の「屠龍」でも上回っているというのが凄いですね。
ですがこれらはいずれも高速性能や加速力で劣り、総合面では「Bf109」と同等もしくはそれ以下と判断されていまいました。
ところが1つ「キ44」だけが、この格闘性能以外でも「Bf109」に引けを取らず、十分な優位性を以て戦闘に臨めると認められたのです。
「キ44」ロージヒカイト大尉からも太鼓判を押され、これで難局を乗り越えた「キ44」は晴れて制式採用されることになりました。

採用されたことで、「鍾馗」は太平洋戦争開戦間近だったことから急いで生産が行われました。
実践テストを兼ねて南方作戦で「鍾馗」9機が初陣を迎え、そこでたちまち「バッファロー F2A」「ハリケーン MK.Ⅰ」を撃墜し、ついに本格的な戦場でも「鍾馗」、そして重戦闘機が欧米の戦闘機相手に十分戦えることを示したのです。

この時の戦闘に参加していた神保進大尉は、「使い慣れるに従って、こんないい飛行機は少ないと思った。その加速性がたまらなくいいので、うっかりすると日本機ではなく外国機に乗っているような錯覚にとらわれた。それほど従来の日本戦闘機にはない魅力があった」と述べています。
そして「鍾馗」はこれまでの評価とは裏腹に、熟練者ではなく、まだ若いパイロットでも十分に使いこなせる機体として評価されるようになりました。
結局乗るのが難しいという評価は、格闘性能が低いから結果的に扱いにくいという、過去の機体からの比較によるもので、単独での操縦難度は決して高いわけではなかったのです。

この頃日本ではエンジンを「ハ109」に換装した「二型」の制式採用に向けた動きが進んでおり、これによって不満足だった最高速度も605km/hまで、5,000m到達時間を4分20秒にまで押し上げることができました。
さぁこのまま「鍾馗」の華々しい活躍が、と言いたいところなのですが、「鍾馗」にはとんでもない欠点がありました。
確かに操縦のしにくさ、これまでの戦闘機乗りからの格闘性能の低さにおける不満、またエンジンの慢性的な不調は解消されていませんでしたが、そんなものではありません。
それは、航続距離の短さです。

増槽込みでも1,300km程度という距離は、特に太平洋戦線では明らかに短く、しっかりした滑走路がないと運用できない「鍾馗」にとっては致命的な短さでした。
この航続距離では、南方諸島では迎撃や周辺の警戒ぐらいにしか使えないため、増槽込みで3,000kmの距離を飛行できる「隼」とは雲泥の差でした。
結局戦える場所まで飛んでいけないという問題はそう簡単に解決するわけもなく、量産が進むのに機体は日本に取り残されたままという事態に陥ってしまいます。

もともとの重戦闘機の能力に即した活用方法を見誤った結果で、事実「Bf109」も航続距離はたった5~600kmぐらいです。
この性能だと、重戦闘機は迎撃にしか使えなかったのです。
この段階では「二型」はまだ量産されていませんが、「二型」の出番は果たしてどこにあるのか、誰もわかりませんでした。

そしてその出番を与えてくれたのは、誰あろうアメリカです。
昭和17年/1942年4月の「ドーリットル空襲」で、日本は当時絶対来ることはないと思われていたアメリカ軍による爆撃を受けました。
連敗続きのアメリカが強行した起死回生の一撃は日本を動揺させるのに十分な戦果を残し、これによって「鍾馗」は中国前線で一部配備されたのを例外として、本土や各地の基地防衛のための邀撃部隊として配備されるようになりました。
そして皮肉にも、戦況が悪くなるにつれて「鍾馗」の出番は増えていったのです。

やがて「B-29」の本土空襲が本格化してくると、「鍾馗」が出撃することも増えてきました。
ここにきてようやく「鍾馗」が国のために戦える時が来た。
と思ったら、相手が凄すぎてまたも「鍾馗」の活躍のチャンスは奪い去られてしまったのです。

「超空の要塞」である「B-29」の凄さは枚挙に暇がありませんが、とにかく高度10,000mという高さに日本はとことん手こずらされました。
まずこの高さまで昇り切れる航空機がかなり限られており、特に初期の航空機ではとても到達できる高さではありませんでした。
「鍾馗」は昭和13年/1938年に構想が始まり、昭和16年/1941年に配備された古い機体です。
とにかく馬力は足りないし重たいしと、「B-29」の戦場にすらたどり着けないため、「鍾馗」は飛んでも攻撃できずに引き返すという悲しい出撃を繰り返しました。
「B-29」撃墜用に、40mmロケット噴進砲を搭載した「乙型」7.7mm機銃12.7mm機関砲へ換装した「丙型」も搭乗しましたが、ほとんど無意味でした。
この「乙型」、重すぎて弾がたった9発しか搭載できなかったようです。

最終的には武装や防弾鋼板などを取り除いて体当たり特攻をするための震天制空隊まで編成される始末で、結局「鍾馗」「B-29」を撃墜した記録はごくわずかしか残っていません。
「B-29」以外の相手では、当時としてもそこそこ速い600km/hと12.7mm機関砲ですから戦うことはできましたが、そこでの戦果が日本を救うほどのものにはなりえませんでした。
「鍾馗」「キ84/四式戦闘機『疾風』」の配備が進むにつれて生産が中止となりましたが、合計1,175機が製造されました。

なお、ロージヒカイト大尉が評価した通り、「鍾馗」の機体としての性能はアメリカでも称賛されており、「急降下性能と上昇力が傑出邀撃機としてもっとも適切な機体」と評価されています。
中島でも設計の中心の一人であった糸川英夫技師「鍾馗」を個人的な最高傑作だとしており、返す返すも使いどころの見誤り、そして南方諸島を中心とした対米戦争が「鍾馗」の命運を絶ってしまったことが悔やまれます。