【九七式中戦車 チハ】

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全 長5.55m
全 幅2.33m
全 高2.33m
自 重14.3t
最高速度38km/h
走行距離210km
乗 員4人
携行燃料246ℓ
火 砲九七式五糎七戦車砲 1門
九七式車載重機関銃(7.7mm) 2門
エンジン三菱SA一二二〇〇VD
空冷V型12気筒ディーゼル
最大出力170馬力

各 所 装 甲

砲塔 前面25mm
砲塔 側面25mm
砲塔 後面25mm
砲塔 上面10mm
車体 前面25mm
車体 側面最大25mm
車体 後面20mm
車体 上面10mm
車体 底面8mm
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八九式に代わって開発 あくまで歩兵直協の57mm砲中戦車

帝国陸軍の最主力戦車であった【九七式中戦車 チハ】
日本の戦車は弱いというレッテルを、主力であったがためにベッタベタに貼られている哀れな戦車です。
「ブリキの棺桶」とまで言われた【チハ】は、果たして本当に弱かったのでしょうか。

昭和11年/1936年に陸軍は新しい中戦車の開発を始めます。
【九五式軽戦車 ハ号】が誕生してから、これまでの【八九式軽戦車】は重量10tを超えていたことから分類上【八九式中戦車】となりました。
しかし【八九式中戦車】は昭和9年/1934年にようやく量産化されたものの、日本初の国産戦車であったり、戦車能力の加速度的進歩によって早くも色褪せつつありました。
特に当時は速いほうだった20km/hという速度に遜色が見られ、速度重視のために他の能力を多少抑えたのに、その速度に優位性を見出せなくなった【八九式中戦車】は使いにくくなってしまったのです。

これを補う形で先行して高速性重視の【九五式軽戦車】が誕生しましたが、戦車隊を編成する上で【九五式軽戦車】【八九式中戦車】の性能差は大きく、連携した行動がとれない問題点は依然残ります。
このため、陸軍は中戦車も更新して新しい軽・中戦車を主力とした戦車隊の編成を目指したのです。

この新中戦車設計にあたって、2つの意見がぶつかり合うことになり、結局両方の試作車を生産することになりました。
前者が重量増・充実した性能、後者が重量減・性能不足を数で補充という理念でした。

日本では常々ネックになった重量。
まず国産ディーゼルを世界に先駆けて搭載しているとはいえ、その性能はお世辞にも世界基準でも高いとはいえず、10t付近での重量の増減は速度に大きな影響を及ぼします。
出力の対重量比はかなり低く、つまりエンジン出力が弱いということです。
じゃあ出力を増やそうとすると当然エンジンおよび車体が大型化しますから、それは後述の理由においてもできない話でした。

しかし当時の戦車はまだ対戦車戦を意識した戦車装備は必ずしも充実しておらず、まだまだ歩兵や施設を蹴散らすための車輌でしたから、歩兵の進軍、特にトラックなどの移動に影響を及ぼす低速というのは【八九式中戦車】と同じく問題でした。
とはいえ、世界の戦車砲の貫通力が日本同様ショボかったのかというとそういうわけではないのですが。

それだけではなく、日本はエンジンだけでなく車輌の量産力もまだまだ不足していました。
当時は車輌と言えば大半が軍用車で、一般車なんて全然普及していませんでしたから、造る技術が習熟していないのです。
そしてそれだけの重量のものが通過しないのであれば、道路や橋の耐久度も車に合わせていませんから、それぞれの寿命を縮めたり、最悪崩壊させてしまう危険があります。
また、1輌当たりの重量が増えると鉄路、海路で輸送できる数も減ります。
重くすれば強くなるけど、重くすれば運べないのです。

もちろん装甲の厚さなどにも関わってくる重量は、装甲と速度をどこまで妥協するかで決着がつくわけです。
そして前者が速度を妥協し、後者が速度を優先したわけです。
前者(重量13.5t、前面装甲25mm、エンジン出力200馬力)を【チハ】三菱重工業)、後者(重量9.8t、前面装甲25mm、エンジン出力135馬力)を【チニ】大阪工廠)として開発することになりました。

【チハ】の要目をまとめると、
【八九式】と同等の武装の精度性能を改善
三十七粍対戦車砲の近距離射撃に耐え得るもの
・超越壕幅、登坂能力は【八九式】と同等
・速度はなるべく速く、重量はできるだけ【八九式】よりも重くならないように
・戦闘室の広さは【八九式】と同等で、展望装置と無線を搭載・改善

【チニ】の要目は、
【八九式】より砲塔内の機関銃を撤去
三十七粍対戦車砲の中距離射撃に耐え得るもの
・登坂能力は【八九式】と同等も、超越壕幅は【八九式】より落ちても構わない
・速度はできるだけ速く、重量は【八九式】よりも抑える
・今の無線機をそのまま使用
・戦闘室を圧縮し、乗員を一人減らして狭さを許容

というものでした。

【九五式軽戦車】が速度を優先しているんですから、普通は中戦車は性能を高めたほうがいいと思うのですが、「第一次上海事変」での「熱河作戦」【八九式中戦車】【九二式重装甲車】に取って代わられた経験もあり、速度重視の意見を鎮火することができませんでした。
以下、昭和11年/1936年7月22日の第十四回軍需審議会で議題となった「新様式中戦車研究方針」での審議状況で、「機甲入門」より引用(一部注釈)します。

一.参謀本部および軍事課の意見は前に述べた通り、「できる限り軽い、小型の戦車を多数」(注
【チニ】案)であった。その理由は、わが国の財政上の制約、国内鉄道輸送の規格、当時の道路、橋梁の耐久力、海上輸送による限界、予想作戦地の地形などによるもので、わが国に戦車が誕生した当時の考え方そのままであり、対ソ用兵上の要求は何ら考慮されなかった。

二.装甲は三七ミリ対戦車砲の中距離からの射撃に対抗し得ることとしているが、これも従来と同じである。戦車側委員から、「この戦車が歩兵直同用である関係上、敵の戦車とは戦わず、敵の対戦車砲を射撃することもせず、これに対しては装甲で身を守り、自分の戦車砲は歩兵の行動を妨害(注 原文は「防害」)する敵を射撃する」という意見があった。結局、装甲は当初二〇~二五ミリであったのが要部では五〇ミリになった。

三.搭載する火砲については。歩兵直協の大原則から五七ミリ砲を改善する意見は皆無であった。このことは、歩兵学校の委員のいうとおり、対戦車戦闘はまったく考えていないということであった。

四.対戦車砲に対して戦車はどうするかという問題に対しては、「装甲で身を守る」という建前論のほか、これという方策なしで議事が進行している。1)

1)佐山二郎 『機甲入門 機械化部隊徹底研究』、光人社NF文庫、2002年、154項および166項

日本の戦車開発で唯一の競合試作となった【チハ】【チニ】
【チハ】試作車は2輌生産され、それぞれ「スイス・サウラー型直噴式ディーゼルエンジン」池貝自動車「渦流燃式ディーゼルエンジン」を搭載して性能比較ができるように考慮されました。
【チニ】には「三菱A六一二〇VD(e?)空冷直列6気筒ディーゼル」が採用されています。

いずれも計画内に収めることができ、また速度も走行能力も問題なし。
運航速度や安定性は【チハ】が勝る一方で、畝などでの動揺は【チニ】が有利。
ただし【チニ】の乗員3名、砲塔1人というのは【九五式軽戦車】の運用経験上、苦言を呈されています。
他にもエンジン出力の余裕がなかった【チニ】は、継続して最高速度を発揮することが難しいという問題もありました。

全体的に【チハ】有利と思える試験結果だったのですが、しかし【チニ】にはこの問題に対して安価・軽量という大きなメリット持っていまして、これぐらいの不満なら許容範囲だと立場を譲る気はありません。
ところがこの議論を吹き飛ばす大事件が発生するのです。
「支那事変(日中戦争)」が昭和12年/1937年7月に勃発したからです。

戦時体制ともなれば、少なくとも予算の面では大きな変化があります。
元々戦車に対する予算配分はかなり少なく、この影響で開発の遅延やサイズの小型化を受け入れていた面もありますが、前年の陸軍予算5億に対して一気に17億にまで膨れ上がりました。
これで【チニ】よりも高価である【チハ】を生産する障害が1つ消えたため、【チハ】を新中戦車として採用、早速量産が始まりました。
なお、【チハ】はその後の修正などで計画13.5tに対して最終的に重量15tとなっています。

主砲は前述の通り【八九式中戦車】の戦車砲を改良した九七式五糎七戦車砲を搭載。
貫通力は距離450mで最大30mmほどと言われていますが、【チハ】がこんな近距離まで接近できる装甲を持っていないので、現実的な数値ではないでしょう。
また砲弾も徹甲榴弾と言ったほうがいいもの、砲弾の弾頭そのものの強度が弱いという問題も解消されていません。
でも対戦車戦を全く考慮していないからこれでもいいわけです。
訓練中には「たまには徹甲弾も撃っとけよ」というぐらい、徹甲弾の使用頻度は低いと考えられていました。
照準には引き続き肩付け式を採用しており、速射性と命中精度には大きな利がありました。

装備については車長用のパノラマ眼鏡や無線設備の充実、対空機銃用の銃架などが備えられています。
無線機の充実に伴って、その電波を受信するアンテナが必要ですが、そのアンテナが【チハ】の大きな特徴である、砲塔上に設置されている鉢巻アンテナです。
実は無線機というのは世界的にもこれまで指揮車にしか搭載されていないケースが多く、全車両に無線機が設置されたというのは作戦行動上でも大きな進歩でした。
これに加えて日本は無線機なしでも阿吽の呼吸で連携できる訓練を日々積んでいたため、組織行動能力は高かったと言えるでしょう。

エンジンは「スイス・サウラー型直噴式ディーゼル」を国産化した「三菱SA一二二〇〇VD空冷V型12気筒ディーゼル」を搭載。
これによって最大200馬力の高出力を発揮することができました。
が、燃料噴射装置でトラブルが多発し、また騒音もめちゃくちゃ大きいという問題が浮き彫りになります。

走行中の騒音に対してはタイヤをゴムタイヤにすることや整備性の改善で一定の成果を上げることができましたが、冷却ファンの騒音はほとんど解消されなかったようです。
爆音と言えるほどのもので、隠蔽性なんて知ったこっちゃない、逆に「帝国陸軍、参上!」って言いふらしているほどでした。
燃料噴射装置のトラブルについては結局最大出力を抑えるという方法を取らざるを得ず、つまりエンジン性能を完全に発揮させることができなくなったわけです。
まだまだエンジン生産力・整備力が稚拙だった日本の悲しい現実でした。
なお、この経験をもとに統制型エンジンとなった際には、燃料の直接噴射式ではなく予燃焼室式を採用することになっています。

エンジン不良はほかでもあり、例えばこの燃料噴射装置が三菱製と日立製で全く異なる構造だったというのも問題でした。
いわゆる整備性の低下につながり、両方の整備力とその部品が必要になりますから、量産と修理面で大きな影を落としています。
とはいえ整備さえちゃんとしておけば壊れることはなかったようで、「マレー作戦」では1,100kmを58日で走破して電撃的な速度でのシンガポール陥落に大貢献をしています。

速度は最大38km/h。
【九五式軽戦車】や軍用トラックの最大速度が40km/hでしたから、ほぼ問題ない速度差です。
当時としては、攻撃力と速力を兼ね備えた優秀な中戦車と言っていいでしょう。

防御については【九五式軽戦車】で採用されている避弾経始を引き続き導入。
傾斜や曲面を多用し、またその生産に向いていて、かつ防御力の向上につながる溶接を車体底面と側面の接合や砲塔上面などで採用。
まだ全面的な溶接とまではいきませんでしたが、この経験をもって【一式中戦車 チヘ】では大々的に溶接を採用しています。
とはいえ、次に紹介する装甲そのものが別に分厚いものではなかったため、これらの取り組みがより防御力の向上につながったかと言われると疑問です。
たぶん手間の割には効果は薄いと思います。

装甲は計画通り37mm対戦車砲に耐えられる構造として、砲塔全周と車体前面を25mmとしました。
確かに実験でも九四式三十七粍対戦車砲に対して150mの距離でも貫通はしなかったのですが、戦車砲同様、日本の火器の性能は総じて欧米に劣っていましたから、「支那事変」で中国軍が少数ながらも使用したドイツ製の3.7
cm PaK 36
には角度90度、300mmという条件でも貫通されており、対外的な戦闘において信用できる数値ではありませんでした。
太平洋戦争中に本車輌を鹵獲したアメリカの実験でも、M3 37mm砲において320mの距離から正面装甲を貫通しています。

少なくとも防御面においては見誤りがあり(太平洋戦争ではなく、独製戦車砲の話)、徐々に欧州では対戦車戦を想定した戦車砲の開発が進んでいたとはいえ、それでも生産当時の世界の戦車事情の中では決して「明らかに弱い戦車」というわけではありません。
【チハ】は歩兵直協というその設計目的に見合った性能をちゃんと出しています。
みんな【チハ】が弱い弱いと言いますが、例えば太平洋戦争で「九五式戦闘機」で戦ったって弱いに決まってるのです。
問題は【チハ】にあるのではなく、【チハ】を使い続けるしかなかった日本の開発力・技術力、そして世界よりも劣っているからこそいち早く情勢を掴み、未来を見ることができなかった想像力の欠如なのです。
私は【チハ】は分不相応な環境に引っ張り出された挙句に弱い弱いと蔑まれているのが不憫だと思っています。

中戦車 【九七式中戦車 チハ 新砲塔】

全 長5.55m
全 幅2.33m
全 高2.38m
自 重14.8t
最高速度38km/h
走行距離210km
乗 員4人
携行燃料246ℓ
火 砲一式四十七粍戦車砲 1門
九七式車載重機関銃(7.7mm) 2門
エンジン三菱SA一二二〇〇VD
空冷V型12気筒ディーゼル
最大出力170馬力

各 所 装 甲

砲塔 前面25mm
砲塔 側面25mm
砲塔 後面25mm
砲塔 上面10mm
車体 前面25mm
車体 側面最大25mm
車体 後面20mm
車体 上面10mm
車体 底面8mm

貫通力を高めて対戦車戦を可能に しかし薄い装甲は如何ともしがたく

このような性能で誕生した【チハ】は、前述の通りすでに「支那事変」が始まっていたのですぐに生産が始まっています。
満州での冬季実験でもマイナス40度前後の環境で問題なく操縦できたことから、中国への侵出の障害は全くありませんでした。
とはいえ、これは日本のディーゼルエンジン全般の問題ですが、エンジンを温めるのにはかなり時間がかかったそうです(数時間レベル)。
「支那事変」では前述の3.7 cm
PaK
36
に貫通されたという事態も発生していますが、それでも中国軍の士気は総じて低く、戦争そのものは泥沼化するものの、開戦当初は日本は終始有利に事を進めています。
「ノモンハン事件」では4輌だけが戦闘に参加していますが、うち1輌が撃破されています。

この「ノモンハン事件」で日本は初めて戦車による対戦車戦を経験します。
この戦いにおいて日本の57mm砲ではソ連の【BT-5】の装甲を抜くことができず、また初速も遅い、射程も短いということで非常に戦いづらいということが身に沁みます。
この戦いでは結局対戦車砲と歩兵の活躍によってソ連軍に大きな被害をもたらしますが、戦車による恩恵は大したことがありませんでした。

この戦いの前から、「日本戦車の父」と呼ばれ、渡欧の経験などを活かして【試製一号戦車】の時から戦車設計に携わっている原乙未生(当時大佐)氏をはじめ、戦車に理解のある者(実はまだまだ戦車の地位は低い)は常々近い将来戦車対戦車が始まるから砲の強化は必須であると訴えていたのですが、これはいつも退けられて、その結果が【チハ】57mm砲搭載で現れています。
そしてこの「ノモンハン事件」によってようやく対戦車戦を考慮する必要があることを認めた陸軍は、重い腰を上げて貫通力の高い戦車砲を搭載した戦車の導入に動き出すのです。

とはいえ、すでに戦争中、また【チハ】の生産は軌道に乗りつつある中、ここで緊急に新戦車を開発してすぐにそちらへ移行することはできません。
何度も申し上げますが、日本の車輌製造能力は低く、あっちこっちで開発と量産をすることはできないのです。
特に戦車は設計・開発できるのが軍か三菱の二択ですから、船や飛行機とはまったく事情が違います。
となると、新設計を進める一方で現存車輌を改良するしかありません。

よく「ノモンハン事件」で初めてこの事実に直面したと言われることがありますが、これは正しくなく、意見を述べても却下され続けてきたわけです。
氏は【チハ】設計の中で、搭載砲の更新を見越して敢えて砲塔の中径を九七式五糎七戦車砲よりも大きくし、また車体そのものにも重量増に対応できる構造であるなど、重要な保険をかけていました。
最終的には戦車砲ではなく砲塔そのものを更新することになっていますが、砲塔が更新できたのはまさに氏の先見の明のおかげなのです。

昭和14年/1939年8月、【チハ】の主砲の威力を増大させるために、換装する高貫通力の戦車砲の開発とその砲塔の研究が始まりました。
開発にあたっては同じ口径で長砲身の57mm長加農砲も検討されていますが、昭和12年/1937年から研究されていた試製九七式四十七粍砲をさらに強化し、戦車砲、対戦車砲へとする案が採用されました。
これらは弾薬筒が共通化しており、やがて戦車砲は一式四十七粍戦車砲、対戦車砲は一式機動四十七粍速射砲として完成してます。

戦車砲は初速が810mと約2倍に。
貫通力は200mで50mm、500mでも40mm装甲が貫通できるとされ、格段の進歩を遂げています。
実際、側面を突く必要はありましたがこれで【M4中戦車 シャーマン】の装甲を抜くことができます。
そして【九五式軽戦車】にとっての天敵だった【M3軽戦車 スチュアート】に対しても正面からの砲撃で貫通が可能です。
中戦車が軽戦車に勝って喜ぶというのもちょっと変ですが、【九五式軽戦車】では歯が立たないですから止むを得ません。

一式四十七粍戦車砲は昭和15年/1940年に完成し、夏頃から試験を開始。
9月には【チニ】案消滅後も未練を捨てきれなかった陸軍参謀本部が試作(のち開発中止)していた【試製九八式中戦車 チホ】の砲塔に一式四十七粍戦車砲を搭載し、それを【チハ】に載せて試験を実施しました。
翌年には戦車学校、騎兵学校においてより実践的な試験を委託し、4月からの改修を経て、9月に無事に仮制式化、昭和17年/1942年4月1日に制式制定されました。

昭和16年/1941年10月には68輌の【チハ】が新砲塔への改装が始まっており、量産化が進んでいた【チハ】の強化が進みます。
砲塔はこれまで仰俯角・左右ともに肩付け式でしたが、新砲塔になるとこのうち仰俯角はハンドル操作へと変更になりました。
そして地味ですが、照準具のレンズには初めて距離測定用の目盛が入っています。
実はこれまで的までの距離が近い(射程が短いから)上に歩兵直協ということもあって、測距用の目盛は入っていなかったのです。
こちらの方が信じられないのですが、射程が少なくとも1,500m以上となったため、新たに付けられたわけです。
また、鉢巻アンテナも新砲塔ではなくなって、代わりに一本の直立式アンテナとなっています。

太平洋戦争開戦時、国内ではせっせと【チハ新砲塔(九七式中戦車改)】の生産が進みますが、まだまだ大半は旧砲塔、つまり57mm砲【チハ】が主力でした。
果たしてこの戦車砲で連合軍と戦えるのか、戦車隊は前々から攻撃力・防御力共に日本戦車に不満を持っていたので、不安がなかったといえばうそになるでしょう。

しかしその不安を払拭させたのが、高い機動性でした。
開戦と同時に、陸軍が是が非でも手中に収めるために電光石火の攻撃を仕掛けた「マレー作戦」
トラックと共に歩兵も高速で移動する、銀輪部隊で有名な「マレー作戦」ですが、それに追随できる戦車の存在は重要でした。
シンガポール陥落を最終目的としたこの作戦では、高い機動力を活かしてイギリス軍を翻弄します。
突破するのが極めて困難とされたジットラ・ラインを、夜戦を敢行するなどの奇策によって僅か1日で突破するなど、敵に息つく暇も与えずに進軍を続けました。
この日は猛烈な豪雨だったため、騒音もかき消されました。

連合軍には【スチュアート】が220輌もあったとされていますが、この日本の想像をはるかに上回る突破力と、歩兵らの果敢な攻撃によって、懸念された戦車戦に持ち込ませる前に多数撃破、また降伏、逃亡による無戦力化に至らしめています。
また、鹵獲した【スチュアート】を調査した結果、57mm砲ではにっちもさっちもいかないことがわかっていたため(側面300mでも抜けませんでした)、待ち伏せによる奇襲や、複数で「榴弾」でタコ殴りにするなどの対策をとっています。
そして鹵獲した【スチュアート】は、一部で揶揄されるように「日本最強の戦車」として日本の戦車隊に加わったのです。

このように、イケイケドンドンな太平洋戦争緒戦では【チハ】は旧砲塔型中心であっても立派に活躍をしています。
ですが一方でビルマの「ペグーの戦い」では【スチュアート】に対してボロ負けするなど、普通に戦うと劣勢にあることは紛れもない事実でした。
それを打破すべく、満を持して【チハ新砲塔】が戦場に到来し、いよいよ本格的な戦車戦が始まる!
と思いきやです、戦場が【チハ新砲塔】の活躍の場を急激に狭めてしまいました。

太平洋戦争の主戦場はオーストラリア北側に存在する南方諸島の数々です。
日本はここを占領していきますが、「ミッドウェー海戦」での歴史的大敗北と「ガダルカナル島の戦い」、またその周辺の制空権の喪失があって、輸送が大変危険な任務となりました。
輸送船は次々と空襲によって沈み、戦車の輸送は一向に捗りません。
また、戦場はジャングルですから、何とか戦車を送ったとしてもその戦車が戦える場所とは必ずしも言えません。
こうなると野砲・山砲や迫撃砲など、砲兵部隊のほうがよっぽど役に立ちます。
なので、【チハ】は太平洋戦争の主戦場にはついに姿を現すことはなく、末期の「ルソン島の戦い」でようやく姿を見せる程度でした。

【チハ】は引き続きビルマやフィリピンなどで戦闘を繰り広げており、さすがに【チハ新砲塔】では【スチュアート】に対しても戦うことができるようになりました。
しかし敵側も昭和18年/1943年ごろから【シャーマン】を投入してくると、日本はさらに劣勢に立たされます。

とにかく装甲が弱い。
【スチュアート】でしたら300mほどの距離で正面が抜かれますが、【シャーマン】37.5口径75mm戦車砲M3ですから、そりゃもう否応なく抜かれます。
さらに資材不足によって鋼材の質が落ちてくると、戦争末期では正に末期症状、12.7mm車載機関銃で攻撃される始末でした。
装甲を抜かれる射撃を1秒に十数発も受けるなんて怖すぎます。
それでも有効な攻撃になるぐらい、日本の戦車の装甲は数値以上の弱さがありました。
ということは【スチュアート】M3 33mm戦車砲でも問題なく抜けるわけですし、ともすれば榴弾砲でも貫通は無理でも大きなダメージを与えることができるため、防御力なんてあってないようなものでした。

いくらこちらの砲撃力が、側面とは言え【シャーマン】の装甲を抜けるといっても、真っ向勝負を挑むのは明らかな自殺行為でした。
【九五式軽戦車】【スチュアート】に対してとった方法同様、結局【チハ】も待ち伏せによる奇襲などで如何にして相手の虚をつくか、これに終始するしかありませんでした。
ですが勘違いしてはいけないのが、【チハ】は歩兵直協車輛です。
むしろ戦車戦なんて御免ですから、できるだけ戦車と戦わないように行動をとっています。

どうしても対戦車戦に目が行きがちですが、【チハ】はしっかりと歩兵と共に作戦に参加し、歩兵を守りながら防衛であったり進撃をしています。
ただ、悲しいかな、歩兵直協であっても敵の対戦車砲には成す術がないのです。
【チハ】は対戦車砲や対戦バズーカ砲などでどんどん撃破されていきます。
そして逆に、日本の対戦車砲で【シャーマン】を抜けるのかと言われると、これまた【チハ】同様側面や後部を狙うしかなく、かなり難度の高い任務でした。

後継となるはずだった【チヘ】は結局170輌生産されましたが日本を出ることはなく、また【三式中戦車 チヌ】も同様です。
【チヘ】は日本の兵器開発・生産力の弱さを体現し、主砲やエンジンの開発に手間取った挙句、装甲の厚い【チハ】程度ならすでに軌道に乗っている【チハ】でいいと量産されずじまい。
【チヌ】はすでに戦争末期のために本土決戦用として海外の戦場での救世主とはなりませんでした。

このような状況から、【チハ】はどれだけ苦しくても戦場に身体を張って飛び出していくしかありませんでした。
太平洋戦争・第二次世界大戦中の各国の戦車と比べるとあまりにも弱い【チハ】
まぁアメリカやイギリスはドイツの【Ⅳ号中戦車】(25t)とやりあってるわけですから、同じ中戦車と言っても重量半分ちょっとで貫通力も装甲もない【チハ】相手となるとそりゃ楽勝です。
こうなると逆に【チハ】に撃破された戦車の乗員はさぞ恥をかいたことでしょう。

例え日本が第二次世界大戦に参戦し、戦車事情を事細かに知りえたとしても、当時の兵器開発力では贔屓目に見ても【チヘ】が主戦力となっていたぐらいでしょう。
どちらにしても、もともとない技術力を絞りに絞って完成したものの、時代遅れと言わざるを得ない性能で戦い続けるしかなかった【チハ】【九五式軽戦車】は、有名であるが故に辛く悲しい兵器でありました。