軽巡洋艦

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大淀【大淀型軽巡洋艦 一番艦】

潜水艦。太平洋戦争にて日本が煮え湯を飲まされた主要因でした。 その隠密性は世界各国が認めており、海戦では海に浮かんでいないものが強くなりつつありました。 日本も当然、その潜水艦の運用能力の向上に努めます。 しかし潜水艦最大の弱点は、その索敵能力。 潜望鏡だけで海上をくまなく見渡することもできませんし、加えて舞台は終わりの見えない太平洋です。
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夕張【軽巡洋艦】

軽い、安い、強い、頑丈。 軍艦を造る上で非常に重要な要素です。 世界各国はいかにしてこの要素をバランスよく配分した船を建造するかが常に課題でした。 軽すぎると脆い、安すぎると弱い、強すぎると高い、頑丈すぎると重い・高い。 過ぎたるは猶及ばざるが如し、です。
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那珂【川内型軽巡洋艦 三番艦】

【那珂】は「川内型」の二番艦として起工し、横浜で順調に建造が進められていました。 ところが、まもなく進水式だという時に、突如関東を未曾有の大災害が襲います。 関東大震災です。 この延焼が横浜に襲い掛かり、横浜船渠もこの火事はなす術がなく全焼。 【那珂】も盤木が焼けたために船体は落下。
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神通【川内型軽巡洋艦 二番艦】

【神通】は本当は三番艦の予定でしたが、横須賀で建造されていた【那珂】が関東大震災によって竣工前に大破。 ほぼ再建造することになってしまったため、繰り上げで【神通】が二番艦となりました。 最新の軽巡とあって、【神通】は自らの宿命を果たすために訓練を重ねます。 しかし度が過ぎる訓練を重ねすぎた【神通】は、竣工2年で大事故を起こしてしまいます。 有名な「美保関事件」です。
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川内【川内型軽巡洋艦 一番艦】

5,500t級軽巡洋艦最後の登場となった「川内型」は、帝国海軍の軽巡洋艦の真打ちと言ってもいい存在でした。 何しろ建造予定は「長良型」よりも多い8隻。 設計も、かなり似ていた「球磨型」と「長良型」とは違い、「川内型」は違いがはっきりしています。
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阿武隈【長良型軽巡洋艦 六番艦】

【阿武隈】は浦賀船渠で起工。 5番艦【鬼怒】の起工から1ヶ月後と、特に問題なく建造は開始されます。 しかし問題は、【阿武隈】どころか日本そのものを文字通り揺るがします。 大正12年/1923年9月1日、【阿武隈】進水から半年後に関東大震災が発生し、【阿武隈】が建造されている浦賀も甚大な被害を受けました。
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鬼怒【長良型軽巡洋艦 五番艦】

【鬼怒】は、「長良型」では唯一ブラウン・カーチス式オールギヤードタービンを使用(他の5隻はパーソンス式オールギヤードタービン)していました。 同じく川崎造船所で建造された【大井】もブラウン・カーチス式タービンだったため、これは川崎造船所が判断した採用だったと思われます。 唯一なのはこれだけではなく、【鬼怒】は同時に蒸気加熱装置を載せていました。
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由良【長良型軽巡洋艦 四番艦】

【由良】の「初」は、竣工から3年後に訪れます。 これまで滑走台は搭載されながらも搭載機は艦上偵察機で、水上偵察機を運用することがなかった「長良型」でしたが、1926年、【由良】が日本軽巡で初めて水上機を常時搭載しました。 ちなみに「球磨型」も【木曾】を除いて水上機の搭載は可能でしたが、これはあくまで搭載可能というだけで、当時は水上機の能力やデリック運用の問題から実際に搭載することはありませんでした。
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名取【長良型軽巡洋艦 三番艦】

「長良型軽巡洋艦」の三番艦【名取】は、館明次郎少将が第二水雷戦隊の司令官についていた時の旗艦としてご存じの方もいるかもしれません。 この館明次郎、日本の水雷戦における戦術の飛躍的向上に大きく貢献したスペシャリストでした。 のちに「帝国海軍水雷術史」を編纂し、日本の水雷戦隊、特に第二水雷戦隊が敵国の脅威になっていく礎を築いた重要人物です。
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五十鈴【長良型軽巡洋艦 二番艦】

【五十鈴】は「長良型」の中でもなかなか異彩を放つ存在です。 ひとつは、高速の軽巡洋艦として水雷戦隊の旗艦を期待された【五十鈴】からは、戦時中の功績が大きく、後世に名を残している艦長が多数輩出されているからです。 連合艦隊司令長官として名高い山本五十六元帥海軍大将(当時大佐)、「真珠湾攻撃・ミッドウェー海戦」で【蒼龍・飛龍】が所属する第二航空戦隊の司令官を務めた山口多聞中将
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