天龍【天龍型軽巡洋艦 一番艦】水雷戦隊という新組織を率いる小型高速巡洋艦の登場 | 大日本帝国軍 主要兵器
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天龍【天龍型軽巡洋艦 一番艦】

起工日大正6年/1917年5月17日
進水日大正7年/1918年3月11日
竣工日大正8年/1919年11月20日
退役日
(沈没)
昭和17年/1942年12月18日
マダン沖
建 造横須賀海軍工廠
基準排水量3,230t
全 長142.65m
水線下幅12.34m
最大速度33.0ノット
航続距離14ノット:5,000海里
馬 力51,000馬力

装 備 一 覧

大正8年/1919年(竣工時)
主 砲50口径14cm単装砲 4基4門
備砲・機銃40口径7.6cm単装高角砲 1基1門
魚 雷53.3cm三連装魚雷発射管 2基6門
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 混焼2基、重油8基
ブラウン・カーチス式ギアード・タービン 3基3軸
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駆逐艦を束ねる司令塔 実は生まれるのは後の天龍

日本は「筑摩型防護巡洋艦」以来、長らく巡洋艦の建造が行われていませんでした。
そんな折、欧州では第一次世界大戦が勃発。
遠い海上での戦いは、日本の帝国海軍にも刺激となり、そこでの戦況から日本に不足している力、日本が備えなければならないものを模索していました。
日本が着目したのは、「偵察艦・駆逐艦の先導艦」の重要度。
いかに優位な戦いを進めるかは、敵情だけでなく、戦場となる場所の環境も知っておかねばなりません。
そして日増しに成長していく駆逐艦の力をより大きく活用するための存在が必要になったのです。

当時駆逐艦の歴史はまだ浅く、駆逐艦そのものの性能は高いとは言えません。
しかしみるみるうちに高速になり、運用方法は必殺の魚雷を巨艦である戦艦や装甲の厚い装甲巡洋艦にぶつけることで一撃で沈めることができる驚異の存在です。
時代は駆逐艦を一大戦力とする新しい局面を迎えていました。

駆逐艦同士の殴り合いは、まだお互いの性能が大差ないため痛み分けに終わることも予測されます。
ならばその戦場に駆逐艦よりも強い存在を投入して、敵駆逐艦を排除して自軍の魚雷を敵の懐に送り届けてやろう、というコンセプトが「天龍型軽巡洋艦」誕生につながるのです。
「天龍型」「八四艦隊計画(大正5年度計画)」の一環で、駆逐艦よりも高い攻撃力、駆逐艦の砲撃に耐えうる防御力、駆逐艦と同等の速度をもつスペックでの建造計画が始まりました。

「天龍型」で最も重要だったのは、「駆逐艦並みの速度」でした。
駆逐艦を先導する嚮導艦が駆逐艦より遅いと話になりません。
「筑摩型防護巡洋艦」の最大速度は26ノットで、「天龍型」誕生前に存在していた「磯風型駆逐艦」の最大速度34ノットとは8ノットもの開きがあります。
これはつまり、「磯風型」が最大でも26ノットで動かなければ艦隊行動が取れないことを示しており、駆逐艦の大きな武器を殺してしまいます。
そして巡航速度というものがありますから、実際はもっと遅い速度での移動を強いられるのです。
「筑摩型」の能力が低いわけではありませんが、嚮導艦としてはとても活用できません。

この問題を解消するために、機関は日本で初めてギアード・タービンを採用します。
これにより速力は直結タービンだった「筑摩型」の26ノットより7ノットも速い33ノットを出せるようになりました。
「磯風型」とも1ノット差ですからほぼ問題ありません。
そして馬力は5年前竣工の「扶桑型戦艦」よりも高馬力の51,000馬力を発揮できる高性能巡洋艦になりました。
缶は8基が重油専焼、2基が混焼の計10基で、その大小と組み合わせの関係で、3本の煙突はそれぞれ太さや間隔が違うという変わった設計となっています。

武装は速射性の高い14cm単装砲4基でしたが、これは人力装填、魚雷は53.3cm三連装魚雷発射管2基でした。
14cm単装砲は、「金剛型」で採用された副砲の15.2cm単装砲だと人力装填である以上、砲弾が重すぎて日本人の体格に合わないという理由で、「伊勢型」から14cm単装砲になったことが要因です。
以後、軽巡洋艦の主砲は最終型である「阿賀野型」「大淀型」が現れるまでずっと14cm砲です。
「筑摩型」15.2cm単装砲でしたが上記のように速射性に難があったので、実質的な攻撃力の低下はなく、むしろ強化されたと言えるでしょう。
主砲と魚雷発射管ははすべて艦中央に配置され、両舷どちらにも指向できました。

防御力ですが、これはこれまでの防護巡洋艦・装甲巡洋艦とは決定的に違います。
両者とも戦艦にはもちろん敵いませんが、敵巡洋艦の砲撃に耐えることが目的で誕生しています。
しかし「天龍型」の敵は巡洋艦ではなく駆逐艦です。
ですからこんな重量のかさ増しになる装甲は必要ありません。
駆逐艦の砲撃に耐える、具体的にはアメリカが採用していた4インチ(10.2cm)砲に耐える程度の防御力にとどめ、とにかく軽量化と高速化を重視した造りになりました。
結果、船体は「筑摩型」に比べると2,000t近くも軽くなり、33ノットの速度達成に貢献しています。

設計は、軽巡洋艦の祖とも言えるイギリスの「アリシューザ級巡洋艦」を元に設計されましたが、だいたいは「磯風型」と、「八四艦隊計画(大正5年度計画)」で建造が計画された新しい「江風型駆逐艦」を大きくしていくようなものでした。
しかし性能は当時の需要をほぼ叶えていたものの、いかんせん軽量化重視の影響で小さすぎたため、居住性は壊滅状態でした。

さらに「天龍型」にとって不運なことに、【天龍】起工から1年半後の大正7年/1918年12月、アメリカがもっと大きな「オマハ級軽巡洋艦」の建造を始めたのです。
「オマハ級」は排水量7,000t、主砲が15.2cm砲、そして最大35ノットで役割が駆逐艦の嚮導艦。
「天龍型」同様、「オマハ級」もまた水雷戦隊旗艦の役割を担う存在として誕生したのです。

つまり、「天龍型」の戦場には「オマハ級」が出てくるということになります。
「天龍型」の防御は10.2cm砲を想定したものですから、15.2cm砲をぶち込まれたらたまったものではありません。
そして最大33ノットに対して35ノットで、しかも大口径ですから速度でも射程でも絶対に逃げ切れません。
「天龍型」は少なくともアメリカとやり合うことになった場合は、完全劣勢での戦いを強いられることになるのです。
(イギリスも「エメラルド級軽巡洋艦」が7,500tほどでしたが、仮想敵国ではなかったので。)

就役当時の【天龍】

大正6年/1917年の「八四艦隊計画完成案(大正6年度計画)」では、最終的に「天龍型」【天龍】【龍田】を含めて計6隻、そして同時に7,200t級という大型巡洋艦3隻が建造案として上がっていました。
7,200t級とは図らずもアメリカが翌年末に建造する「オマハ級」と類似する排水量でした。
しかし「天龍型」のスペックではどうも物足りないという事態になってきたため、もっと強くて速い嚮導巡洋艦を造るということになりました。
当時アメリカで計画されていた「レキシントン級巡洋戦艦」の速度が33ノット、そして日本で建造された「峯風型駆逐艦」は最大39ノットとギアード・タービンの能力を活かしてしてべらぼうに速くなりました。
このままでは「天龍型」は逃げ切れないし先導もできないということで、「天龍型」【天龍、龍田】の2隻のみ、7,200t級については高価になる上にこの39ノットに近い速度は出せないということで、お蔵入りとなります。
そして折衷案として登場するのが、いわゆる5,500t級と呼ばれる軽巡洋艦です。

幸いと言っていいのか、「天龍型」はこのように2隻で建造が打ち切られましたので、対「オマハ級」の戦力として大正7年/1918年成立の「八四艦隊計画完成案」で決定した5,500tの「球磨型」の建造が急がれることになります。
しかし「天龍型」は小さすぎために改装も非常に難しく、一部の換装を除いてほぼ竣工時の状態で生涯を全うしています。
計画時には強力な軽巡だったものの、悲しいことに誕生する頃にはすでに日米はより強力な軽巡の建造を進めていました。

ちなみに【天龍】は、【龍田】より2ヶ月早く起工するも、竣工は【龍田】より半年も後となっています。
これは初めて搭載したギアード・タービンの機嫌が悪く、故障や破損が度々見つかって竣工日が遅れてしまったのが原因です。
【古鷹】【加古】のようにネームシップが入れ替わることはなく、そのまま「天龍型」として名を残していきます。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

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開戦時は22歳 出番少なく活躍は難しかった

上記の通り、【天龍】は小さすぎるために改装が難しく、つまりは強化がほぼ見込めません。
そのため、戦艦ほどの大きさならどんどん世の潮流に合わせて強力にできる一方、【天龍】はただその歳月を過ごしていくことしかできませんでした。

加えて日本の造船技術の躍進により、昭和5年/1930年台からは駆逐艦よりも弱くなってしまいます。
技術革新の象徴とも言えるのが、昭和3年/1928年に駆逐艦の歴史を変えた「特型駆逐艦」の登場です。
はっきり言えば、「特型駆逐艦」「天龍型」よりも速く、強く、そして凌波性が高いので、「天龍型」の先導が逆に邪魔になってしまうのです。
昭和3年/1928年までは水雷戦隊旗艦をしっかりと務めますが、その後は後輩にその座を譲り、派遣艦隊や練習艦など、裏方に徹することになりました。

さて、平和な時代もその幕を下ろし、いよいよ血みどろの太平洋戦争が開戦します。
しかし時は昭和16年/1941年、竣工した大正8年/1919年から実に22年もの年月が経っていました。
【天龍】誕生に一役買った「磯風型」は6年も前に除籍され、同時期に誕生している「扶桑型、伊勢型」もすでに旧式扱いで働き場を失っています。

しかし【天龍】は、【龍田】とともに第十八戦隊を編成し、なんとか戦場での出番を勝ち取ります。
「真珠湾攻撃」と同時に行われた「ウェーク島の戦い」に参加した【天龍】でしたが、アメリカの予想だにしない反撃によって【疾風】【如月】が沈没し、【天龍】も機銃掃射を受けて1人の戦死者を出しています。
「真珠湾攻撃」の成功に湧く一方で、「ウェーク島の戦い」はなかなか苦い戦いとなってしまいます。

その後、南方での偵察や陸軍支援を経て、7月の「第一次ソロモン海戦」に突入します。
当初【天龍】「第一次ソロモン海戦」に不参加の予定でしたが、第十八戦隊の篠原多磨夫主席参謀の直談判によって半ば強引に第八艦隊の戦列に加わっています。
第八艦隊は旗艦の【鳥海】を除けば「古鷹型」「青葉型」2隻ずつの第六戦隊を抱え、これにもっと古い【天龍】【夕張】が続くのですから、司令長官の三川軍一中将も頭を抱えたことでしょう。
しかし篠原参謀の頑なさに折れ、やむなく参加を許可したのです。

しかしいざ進軍してみると、最初は不具合多発の【天龍】のお守りをするために艦隊の動きが鈍るという、まるっきりお荷物扱いを受けてしまいます。
おかげで前線には出れず、主力の後ろからついていくという有り様でした。
さらに唐突の参加だったため、【天龍】は無線電話の設定もできておらず、ろくに連絡も取れない中でかなり無茶な参戦だったことが伺えます。
それでも探照灯を投射し、なんとか駆逐艦1隻の撃破に貢献しています。

その後は輸送任務や艦砲射撃を行い、「第三次ソロモン海戦」の時には【天龍】は第七戦隊に所属。
ヘンダーソン基地への砲撃を行った第七戦隊の【鈴谷】【摩耶】の護衛についていますが、結局効果はなく、そのまま「第三次ソロモン海戦」でも敗北してしまいます。

この敗北によって「ガダルカナル島の戦い」は一気に敗色濃厚となり、東部ニューギニア方面の戦力がどんどん薄くなっていきました。
それに伴い、【天龍】は第十八戦隊に復帰、旗艦を務めますが、その隷下にはなんと10隻の駆逐艦を従えるという事態になっていました。
損耗著しい南方戦線で、使える艦を1つの組織に組み込んだ結果、旧型艦が旗艦を務めているとは思えない規模になっています。

その後の12月18日、【天龍】「マダン上陸作戦」の支援艦隊として駆逐艦4隻、輸送船2隻とともに航行していました。
その最中、魚影が【天龍】めがけて突っ込んできます。
発射したのは【米ガトー級潜水艦 アルバコア】
これから日本の船を何隻も沈めていく潜水艦の、最初の餌食となってしまいます。
もともと【天龍】の装甲は薄いため、機関室に直撃したあとは浸水を食い止めることができませんでした。
【涼風】が曳航を試みますが、その浸水が酷いために断念。
しかし浸水はまだ船に接近することができるため、多くの乗員が命を救われています。

一時、すべての兵装を取っ払い対空火器のみを重装備させる、防空巡洋艦化計画がありましたが、小さすぎる身体が仇となって実現しませんでした。
そのかわりに誕生したのが「秋月型駆逐艦」です。
もし防空巡洋艦化が実現されていたら、【天龍】の運命も変わっていたのかもしれません。

2018年10月13日 加筆・修正

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