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『古鷹型重巡洋艦』
【Furutaka-class heavy cruiser】

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艦型と個艦の説明を分けましたが、単純に分割しただけなので表現に違和感が残っていると思います。
基準排水量 7,100t
全 長 185.17m
垂線間幅 15.80m
最大速度 34.5ノット
航続距離 14ノット:7,000海里
馬 力 102,000馬力
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

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戦艦が無理なら巡洋艦 重巡誕生のきっかけの古鷹

大正9年/1920年、海軍は最大の建艦計画「八八艦隊計画」を成立させます。
そこでは「天龍型」クラスでは他国巡洋艦に全く敵わないため、5,500t級巡洋艦の増備が盛り込まれております。
しかし巡洋艦の建艦計画は、8,000t級というもう1クラス上のものも含まれていました。

それこそが「古鷹型」、ではありません。
この大型巡洋艦の青写真ははっきりしておりませんが、14~18センチ連装ないし三連装砲を4~5基装備するものとされ、61cm連装魚雷発射管4基、35ノット以上というスペックの推測がなされています。
当時の日本が意識する必要があった他国の巡洋艦は、アメリカ「オマハ級」の15.2cm連装砲2基、同単装砲6基で常備排水量7,500t、イギリス「ホーキンス級巡洋艦」の19.1cm単装砲7基で基準排水量9,750t、同じくイギリスの「エメラルド級巡洋艦」の15.2cm砲7門で常備排水量7,550tという強大なものでした。
5,500t級では砲戦力ではどうしても見劣りするため、「八六艦隊計画」では5,500t級に集約されたものが再び大・中型巡洋艦の建艦計画へと移っていったのです。

ところがこの国家破綻を招きかねない未曾有の建艦計画の中では8,000t級の建造は夢のまた夢、さらに大正11年/1922年2月の「ワシントン海軍軍縮条約」の締結をもって崩壊。
大戦艦とそれを補佐する強力な巡洋艦・駆逐艦を編制する海軍帝国の誕生は露と消えました。

この計画で世界は戦艦の保有制限を受けます。
戦艦というと言わずもがな、当時の海軍軍事力の象徴であり、戦艦の強さこそ海軍の強さでした。
しかしその戦艦の増備に制限がかけられた以上、締結した5か国は他の艦種の強化に舵を切らざるを得ませんでした。

この状況において、日本は平賀譲という傑物を要していたのが大きなアドバンテージとなりました。
彼は大正9年/1920年6月に建造費圧縮に頭を悩ませていた海軍に【夕張】を逆提案し、そして建造にこぎつけるのですが、そのわずか2か月後の8月、再び平賀は新機軸の巡洋艦を逆提案。
彼は【夕張】の設計に絶対の自信、どころか失敗の可能性を全くゼロと判断していたため、実験要素としての【夕張】が誕生する前に、この設計を応用した強力な巡洋艦を提案することができたのです。

「夕張は同型艦を建造せず、試作的にただ1隻だけ建造する理由の一つが、わが海軍は劣勢だから、個艦対個艦では、彼より優越しなければならないという。それでは現在建造中の5,500t型もまた、米オマハ型等に対して満足なものではない。現在の財政状態からみて、極小の排水量で、夕張の設計と同じ方針で、列国巡洋艦をしのぐものを試みた結果が、これなのだ」

平賀はこう主張し、再び海軍の了承を取り付け、世界最強の巡洋艦の設計が進み始めたのです。

そこから2年、「ワシントン海軍軍縮条約」の締結によってこの巡洋艦の必要性は一気に戦艦級にまで高まります。
巡洋艦の制限は、基準排水量1万t以下、主砲口径5インチ以上8インチ以下。
これにより、主砲を最大の20cmとし、計画基準排水量7,100tで、海軍の理想とする巡洋艦「古鷹型(当時加古型)」の建造が11~12月に始まったのです。

「古鷹型」の第一モットーは、【夕張】同様「1グラムでも軽く」です。
手間暇がかかるために工期が長引いたり、tあたりの建造費はこれまでよりも高くなります。
しかし基準排水量1万t近い「ホーキンス級」以上の強さを誇る艦を7,100tで造り上げるわけですから、すなわち1万t建造にかかる費用よりも安く済めばいいわけです。
そして同艦よりも強いわけですから、文句のつけようはないでしょう。
また、技術や精度の向上という面でも貢献していました。

あまり注目される点ではないかもしれませんが、平甲板構造を採用したのは巡洋艦では「古鷹型」が初めてとなります。
この平甲板構造は巡洋艦では他国でも見られず、たとえ採用されても常用化には至っていません。
しかし平甲板といっても完全に水平というわけではありません。
艦首は大きなシアーを設けて凌波性を高め、中央部で水平、そして艦尾に向けて徐々に下がっていっています。
これにより構造も簡素化され、重量の軽減も図れたそうです。

強力なシアー、フレアの組み合わせ、そして速度と乾舷の高さ、復原力のバランスが緻密に計算された結果、これまでになく全長の長い艦影が見て取れます。
まだまだ「妙高型」のように洗練されてはいませんが、日本艦の特徴である、細長くスマートな姿はここから始まったのです。

防御は十分かといわれるとそうではありませんが、甲板と艦構造の一体化や、傾斜装甲をはじめとした舷側防御に苦心し、重量減と防御力強化を両立させています。
強がりっぽいですが、他国艦の防御も決して充実している構造ではなかったため、攻撃>防御のバランスは止むを得なかったでしょう。

注目の巡洋艦最大の主砲ですが、制限いっぱいの20cm単装砲が6基搭載されています。
しかし「古鷹型」で最も違和感があるのがこの主砲で、まずこの全長にもかかわらず単装砲6基であること、そしてもう1つが人力装填であることです。
(この排水量で単装砲6基搭載そのものが凄いことが霞んでいます。)

出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ

いずれも改装で改善されているとはいえ、なぜ新造時はこのような装備となったのでしょう。

それは、「1グラムでも軽く」というモットーに反するという理由によるものでした。
機械装填だとその装置を載せるだけでも大幅な重量増になりますし、人力装填で連装砲を搭載するメリットはまずありません。
そのため、長期戦になると圧倒的に不利になることを覚悟の上で、「古鷹型」は人力装填の単装砲を採用したのです。
また、主砲は正面火力が背負い式の2門だけというのも、正面砲撃の機会そのものが少ないとはいえ問題として残っていました。

もう1つの重要な攻撃装備、魚雷はどうでしょうか。
魚雷はこれまでの巡洋艦同様に61cm連装魚雷発射管を搭載していますが、その数なんと6基12門です。
最終的に重巡と分類されていますが、この段階ではあくまで強力な巡洋艦ですから、魚雷搭載数を増やしたいというのは当然のことでした。
性質上、魚雷搭載の意義が薄れる「妙高型」以降の重巡とは状況が異なります。

出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ

予備魚雷を搭載しているのも同様ですが、異なるのはその配置場所でした。
これまでは露天甲板と中甲板にそれぞれ配置されていましたが、「古鷹型」は平甲板構造となったため、その全てが固定式で中甲板に収納されました。
別に甲板上に設置することも構造上は可能でした。
ならばなぜ中甲板に収納したかというと、乾舷の高さが問題でした。

魚雷は信管の作動が命です。
過敏に反応しても、鈍感でもいけません。
アメリカの魚雷は開戦時は多くの不発を起こしており、日本も何度もそれに救われています。
ならもっと過敏にすればいいのでは、となるのですが、そうなるとちょっとした接触、それこそ海面にぶつかった程度でも爆発してしまう可能性があるのです。
また、入水の衝撃で爆発しなくとも壊れてしまったり、方角がずれてしまう危険性も大きく残されました。
中甲板に収納したのがまさにその理由で、上甲板から発射すると魚雷がまともに目標に達しないという問題に配慮した結果でした。
巡洋艦への魚雷搭載に否定的な平賀は、誘爆時の被害が大きくなるこの配置には大きな不満があったようです。

不満といえば排水量。
いつの時代も軍からの要求は設計者を悩ませますが、「古鷹型」平賀の手を離れてからちょこちょこ上積みがあったり、新技術に対応しきれずに現場判断での変更などが重なった結果、予定の1割増で基準排水量だけでも8,000t近くの重さになってしまいます。
普通ならこれだけ排水量が増えればいたるところでその悪影響が出てくるのですが、幸いにも原設計が非常に精密であったため、大きな問題なく「古鷹型」は誕生しています。

ただ、乾舷が排水量増の関係で想定よりも低くなってしまったため、窓が開いているとすぐに波によって海水が入ってくる、窓を閉めて航行していると海中が見える、なんてことが発生しました。
ついたあだ名は「水族館」。
以後の日本の艦なら構造物の重量が上がりそうですが、「古鷹型」の場合は船体の重量が上がったため、これでもトップヘビーにはなりませんでした。

就役当時の【古鷹】

1年2ヶ月で完成した【夕張】とは違い、3年以上の歳月をかけて【古鷹】が、さらに工事中のクレーン事故によって工期が遅れてしまった【加古】が3年半で竣工しました。
この竣工のずれのため、本来なら「加古型」となるべきだったのが「古鷹型」になるという結果につながります。

【夕張】に続いてまたしても日本が強力な巡洋艦を建造した。
これだけの火力で、これだけの排水量しかなく、そして航行にも全く支障がない。
かつて【長門】【陸奥】を生み出した日本が、再び世界最高峰の軍艦を作り上げたのです。

「ワシントン海軍軍縮条約」では巡洋艦以下の保有制限がかけられていないため、「青葉型巡洋艦」「妙高型巡洋艦」と次々に日本は高火力巡洋艦の建造を行いました。
当時世界はこの「ワシントン海軍軍縮条約」に応じた、いわゆる「条約型巡洋艦」の建造に苦心している最中でした。
「古鷹型」は「条約型巡洋艦」として建造されたわけではありませんが、結果的に初の「条約型巡洋艦」となります。

これに危機感を覚えた米英は、昭和5年/1930年に「ロンドン海軍軍縮会議」において巡洋艦の定義変更に踏み切ります。
ここで初めて『重巡洋艦』の誕生です。
そもそもこれまでは同じく『軽巡洋艦』という定義も存在しておりませんでした。
しかしこのままでは際限なく巡洋艦の大型化が進むことになるため、6.1インチ~8インチ以下の艦砲を装備した10,000t以下の船は『重巡洋艦』に分類されることになりました。
これによって【古鷹】は栄えある日本の重巡洋艦第一号として誕生しました。
そして同時に、「最上型軽巡洋艦」という条約の盲点を突いた新しい巡洋艦の計画も始まるのです。

なお、この条約によってかつて脅威と見られていた「ホーキンス級巡洋艦」も、旧式にもかかわらず19.1cm単装砲搭載のために重巡洋艦に分類されています。

「ロンドン海軍軍縮条約」によって重巡に分類された【古鷹】は、条約脱退後に更に強力な重巡にするために昭和14年/1939年に大改装を行います。
単装砲、しかも人力装填というかねてからの欠点を解消するために主砲を20.3cm連装砲3基へ換装。
魚雷も61cm四連装魚雷発射管へ変更し、配置場所も魚雷の性能が向上したために露天甲板へ変更。
中甲板だとどうしても誘爆時の被害が甚大となってしまいますので、魚雷は外に出しておくに越したことはありません。
それにこの時は魚雷にも盾(覆い)が取り付けられていますので、誘爆の危険性はさらに軽減されました。

缶も混焼缶を全て重油専焼缶へ換装し、これにより煙突の構造も修正(実は竣工直後に煙突を少し高くしています)。
また、全体的な重量増に伴ってバルジを追加設置しています。
艦橋も改修され、多少大きくなって速度が落ちますが、これで【古鷹】の改装は終了します。

注目すべきは、「古鷹型」「青葉型」とともに「友鶴事件」「第四艦隊事件」に端を発する復原力・強度改修工事を行っていない点です。
藤本喜久雄の腕が悪いとは決して言いませんが、時代と設計者本人の芯の強さ(我の強さ)の違いが招いた悲しい結果でした。

改装後の【古鷹】 後方は【衣笠】

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重巡洋艦
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※1 当HPは全て敬称略としております。

※2 各項に表記している参考文献は当方が把握しているものに限ります。
参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
勝手ながら本HPの参考文献、引用文献はすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。