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あきつ丸【特種揚陸艦】

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起工日 昭和15年/1940年9月17日
進水日 昭和16年/1941年9月24日
竣工日 昭和17年/1942年1月30日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年11月15日
五島列島沖合
建 造 播磨造船所
排水量 9,190t
全 長 152.1m
全 幅 19.5m
最大速度 21.0ノット
馬 力 13,435馬力
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神州丸から更なる進化 強襲揚陸艦の歴史

※「艦」の文字を多数使用しておりますが、帝国陸軍は「艦」とは呼ばず「船」を使うため、例えば「発艦」などの表記は陸軍用語としては使用しません。

昭和9年/1934年12月に誕生した【神州丸】は、それ以前に導入されていた【大発動艇、小発動艇】との相性も抜群で、大量搭載、早期揚陸ができる新しい輸送船の誕生に陸軍は大変喜んでいました。
昭和12年/1937年に勃発した「日華事変」に参加した【神州丸】は、その能力を最大限に発揮。
トラブルもなく、無防備になりがちな揚陸作業が今までとは比べ物にならない速度で行える【神州丸】の実用性は、誰が見ても明らかでした。

この活躍を確認した陸軍は特種船の増産を決定。
昭和13年/1938年から建造計画が始動します。
しかし陸上部隊だけでなく船艇にまで予算を割けるほどの余裕がなかったため、陸軍は海軍が【大鷹】などを生み出したのと同じように、民間の海運会社に「優秀船舶建造助成施設」制度を用いて造船の補助金を出す一方で、戦時徴用を認めさせて金銭のやりくりを行います。
最終的にはこの対象となって完成した船艇は全て太平洋戦争中の竣工だったため、竣工と同時に陸軍籍に置かれています。

【神州丸】は確かに優秀な船でしたが、どこからどう見ても怪しい船でした。
単なる輸送船にはとても見えず、外観の特異さは【神州丸】の数少ない欠点でした。
これを踏まえ、2隻目以降の揚陸艦の外観はできるだけ商船を模すようにし、中身だけ揚陸艦の装備を施すことになりました。

こうして2隻目として計画・起工されたのが【あきつ丸】です。
【あきつ丸】もまた、当初は商船偽装のために【神州丸】をベースとして、より怪しくないように設計されました。

【あきつ丸】とその姉妹艦の説明はひとまず後に回し、ここからは先に他の特種船の紹介をしていきましょう。

【神州丸】に続く特種船は、大きく3つに分類することができます。
「甲型(M甲型含む)」=10,000t級 商船偽装の特種船(貨物船型)
「甲(小)型」=5,000t級 小型の特種船(砕氷貨物船型)
「丙型(M丙型含む)」=10,000t級 一次形態は「甲型」に類し、二次形態として航空母艦型へ改装可能
の3つに分かれ、【あきつ丸】はこの中の「丙型」に分類されます。

ちなみにM甲型・M丙型の「M」とは戦時標準船のことを指し、M甲型には【摂津丸】【日向丸】、M丙型には【熊野丸】【ときつ丸】が当てはまります。
【摂津丸】は竣工が昭和20年/1945年1月と終戦間近で、さらに3月に機雷に接触したら途端に航行不能となってしまいました。
このまま終戦を迎えた【摂津丸】は、終戦後に復員船として活躍後、漁業工船として主に捕鯨船団の一員として昭和28年/1953年まで働き続けました。

甲型の3隻は出番にも恵まれ、戦争中に多くの輸送任務をこなしています。
甲型は上記の通り外観を商船風にしていましたが、中身は【神州丸】そのものでした。
甲型の上甲板には4つの船倉口があり、うち2番、3番倉口は【大発】用の大型なものでした。

ただ、基本的な構造は同じながらも、甲型の3隻【摩耶山丸】【玉津丸】【吉備津丸】にはそれぞれ違いがありました。
【摩耶山丸】の機関はディーゼルエンジンで、スクリューも2基搭載されていました。
【玉津丸】は煙突の外筒が【摩耶山丸】のものよりも低く、一部内側の排気筒がむき出しになっていました。
さらに【吉備津丸】は、機関も蒸気タービンで1番、4番デリックポストが門型ではなく単脚型と、それぞれ外観だけで見分けることは可能でした。

甲型の3隻は昭和17年/1942年12月以降の竣工で、すでに大規模な上陸戦の時流は過ぎ去っていたため、一般的な輸送任務が主となりました。
【摩耶山丸】は昭和19年/1944年12月に【神州丸、吉備津丸・あきつ丸】とともに「ヒ81船団」を編成してフィリピンへ向かいますが、【米バラオ級潜水艦 ピクーダ】の魚雷を3発受けて横転沈没してしまいます。

【玉津丸】は昭和19年/1944年8月、「ヒ71船団」の一員としてマニラへ航行中、【米バラオ級潜水艦 スペードフィッシュ】の魚雷が2発直撃。
たった4分で沈没し始めた【玉津丸】の犠牲者はものすごく多く、乗員4,820人のうち4,755人が亡くなっています。
この【スペードフィッシュ】は、「ヒ81船団」の襲撃にも関わっており、ここでは【神鷹】を撃沈させています。

【吉備津丸】は3隻の中では最も終戦間近まで戦い続けました。
昭和19年/1944年以降の死と隣り合わせの輸送任務も満身創痍ながらこなし、昭和20年/1945年1月3日、「マタ40船団」を編成して【神州丸、日向丸】とともに北サンフェルナンドから日本へと戻ります。
この際空襲によって【神州丸】を失い、【吉備津丸】もまた2発の直撃弾を受けますが耐え抜き、無事に日本へと帰還しました。
4月、神戸造船所の和田桟橋に繋留されている時に突如として浸水を起こし、沈没は免れたものの修理に3ヶ月を要してしまいました。
そして8月、瀬戸内海を航行中に機雷に接触して船体に大穴が空き、擱座した状態で終戦を迎えます。

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陸軍所属の輸送空母 強襲揚陸艦の誕生

【あきつ丸】をはじめとした丙型の紹介に移ります。
【神州丸】に続く2隻目の特種揚陸艦として、陸軍は予定通り商船に偽装した状態で【あきつ丸】の建造を行います。
ところが起工は昭和15年/1940年9月と開戦のおよそ1年前。
すでに対米戦争は時間の問題となっており、起工後まもなくこの商船偽装は取りやめとなり、第2形態となる空母型として進水・竣工することになりました。

空母型とした大きな理由としては、輸送任務に必至である護衛を自艦でも対応できるようにするためで、【神州丸】に比べると搭載船艇の数は減ってしまいますが、その代わりに「九七式戦闘機」が13機搭載できる設計となっていました。
また、【神州丸】にあったカタパルトがすぐに時流についていけなくなり、航空機発艦ができなくなってしまったことも、飛行甲板化に影響しています。

さて、飛行甲板を要するからにはもちろん航空機が発艦するのですが、【あきつ丸】の全長は152mと、空母としては大変小柄です。
さらに船尾にはデリックが設置してあり、これでは着艦できるスペースがないも同然です。

それもそのはず、【あきつ丸】をはじめ丙型は最初から発艦はできても、着艦はできない構造だったのです。
そのため、着艦制動装置もありません。
【神州丸】同様、飛び立った航空機は陸上に着陸するか、不時着水、落下傘による脱出などの対応が求められました。
かなりの希望的観測ですが、【あきつ丸】が任務を遂行できれば陸上も日本が制圧してるのだから着陸できる、という思考だったそうです。
陸軍はあくまで陸軍なので、【あきつ丸】も陸上との連携がとれてこそ最も成果を発揮できるという目論見でした。

【あきつ丸】は日本の初期型空母と同じく、甲板横に艦橋や煙突を有する島型空母でしたが、【熊野丸】は海軍の力を最初から借りて建造されたため、最新の空母に倣って艦橋を甲板下に、煙突は舷側に設置した平甲板型空母として建造されています。
【熊野丸】建造の頃には【あきつ丸】竣工の頃と随分時代が変わり、後ほど説明する「カ号観測機」「三式指揮連絡機」が着艦できることが求められていて、着艦の妨げになるデリックも左舷へ移されました。

武装はなかなか豪華で、後部甲板のスポンソンには八九式15cmカノン(加農)砲が4基配備され、さらには九八式20mm高射機関砲や75mm高射砲などの大口径高射砲がずらり、三八式野砲も10基搭載され、強力な武装を誇っていました。
加えて航空機を搭載しない場合は、九八式20mm高射機関砲をさらに7基、対水上戦用として八九式15cmカノン砲を4基増設ができます。

昭和17年/1942年1月に竣工した【あきつ丸】は、早速「蘭印作戦」に参加。
当時すでに優勢に戦いを進めていた日本は、最終的な目標であるジャワ島制圧を狙い、大規模な輸送船団をジャワ島へ送り込む計画を立てていました。
西部ジャワ島上陸部隊56隻、東部ジャワ島上陸部隊38隻、合わせて94隻の大輸送船団です。
【あきつ丸】【神州丸】が編成された西部ジャワ島上陸部隊は2月18日にカムラン湾を出港。
翌19日に東部ジャワ島上陸部隊はホロ島を出港します。

これを阻止せんと、ABDA連合軍艦隊がスラバヤ沖で立ちふさがります。
2月27日、「スラバヤ沖海戦」の勃発です。
3日間に渡るこの戦いで日本は完勝するのですが、長距離での砲雷撃が続いたため、相当な資源を消費してしまいます。

開戦後、【あきつ丸】【神州丸】と分かれてメラクへ上陸。
早速物資の揚陸を行い、重要な任務であった初陣は無事に終えることができました。
ところが一方で、バンタム湾で揚陸を行っていた【神州丸】はじめ輸送船団は、「スラバヤ沖海戦」の残存艦【豪軽巡 パース】【米ノーザンプトン級重巡洋艦 ヒューストン】【吹雪】ら護衛艦隊との「バタビア沖海戦」の中で、【最上】の放った魚雷を受けてしまい多数の被害を負ってしまいます。
被害はとても大きく、【神州丸】はこの被雷によって修理のために1年以上を棒に振ることになりました。

無事「蘭印作戦」での輸送を成功させた【あきつ丸】ですが、これ以後、【あきつ丸】は戦況の拮抗、やがて悪化という情勢もあって、強襲揚陸ではなく輸送の任務を多くこなすことになります。
そのため、せっかくの飛行甲板も発艦の機会に恵まれず、格納庫とともにトラックや「一式戦闘機 隼」の輸送などで使われました。

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対潜哨戒空母への改装も、機会を失い潜水艦の雷撃で轟沈

昭和18年/1943年中盤以降になると、アメリカの勢いがぐいぐいと増して、潜水艦が跋扈するようになります。
これは輸送船にとっても非常に厄介な問題で、さらに海軍がこの被害軽減にあまり熱心でなかったことから、陸軍は【あきつ丸】と建造計画中の【熊野丸】を対潜哨戒ができる護衛空母へ改装することにします。

陸軍は日本唯一のオートジャイロであった【カ号観測機】【あきつ丸】に搭載し、対潜哨戒機として運用できるようにするために実験を行います。
オートジャイロは離発着に必要な距離が航空機の比ではありません。
152mの短い全長でも難なく着艦できます。
着艦の際に邪魔になるデリックを回避するため、進入は左舷より斜めに行い、デリックを回避した後に機体を正面に向けて着艦する方法を取ります。
更に魚雷回避中の着艦も可能かどうかテストしてみたら、これもあっさりとクリア。
【あきつ丸】の運用改革は順調に進んでいる、かに見えました。

ところがこの【カ号観測機】、生産速度が全く上がらず、軍納入総数が98機、うち対潜哨戒用として運用できたのはたったの20機でした。
また潜水艦を沈めるための爆雷搭載数も少なく、実験を行ったにも関わらず【あきつ丸】で実用された例はなく、【カ号観測機】【三式指揮連絡機】に取って代わられることになります。

【三式指揮連絡機】は全く戦闘向きではなく、その名の通り連絡を受け持ったり、空中からの陸上指揮、着弾観測など、完全に補助役の飛行機でした。
【三式指揮連絡機】【あきつ丸】に搭載されることになった理由はその遅い速度で、低速飛行が可能だったので輸送船団周辺の哨戒には打ってつけだったのです。
【三式指揮連絡機】は通常1機が警戒し、警戒海域に入ると左右に1機ずつ、1機が前後方を警戒する3機態勢での運用となりました。

これに基づき、昭和19年/1944年7月から【あきつ丸】も護衛空母への改装が始まりました。
煙突や艦橋を右舷に移設して飛行甲板の有効スペースを拡張、また甲板上に存在していたデリックをこれも右舷煙突付近へ移設させます。
また格納庫を大きくし、着船制動装置「KX」、着船指示灯、着船標識を設置するなど、建造時は想定されていなかった着船に必要な設備が続々と増設されました。
この他高射機関砲や迫撃砲の増備も行われています。
この改装中に【三式指揮連絡機】の訓練も同時に行われ、独立飛行第一中隊が編成されました。

改装は1ヶ月で終了。
8月から早速【あきつ丸】と独立飛行第一中隊は日本周辺と釜山付近の対潜哨戒に入りました。
ところが、運がいいのか悪いのか、この時期はちょうど日本海域付近にはアメリカの潜水艦がいない時期と重なっており、どれだけ食い入るように海面を覗き込み、レーダーを凝視しても獲物は一向に見つけることができませんでした。

そんな空振りを繰り返していた中、11月に【あきつ丸】は突如任を解かれ、「フィリピン防衛戦」のための輸送「ヒ81船団」の一員になるように命令を受けます。
フィリピンは「レイテ沖海戦」によって海軍が壊滅した今、日本の最終防衛ラインとなっていました。
なんとしてもアメリカ軍を食い止めなければならない日本は、この「ヒ81船団」に全てをかけます。
【あきつ丸】をはじめ、【神州丸、摩耶山丸、吉備津丸】の特種船、【神鷹】とそれに乗艦する対潜哨戒のスペシャリスト「第九三一海軍航空隊」、海防艦7隻と【樫】、高速の輸送タンカー。
これまで編成された輸送船団の中でも、トップクラスの豪華さでした。

護衛には【神鷹】が就くため、【あきつ丸】は今回は純粋な輸送船としての参加です。
そのため輸送用に【三式指揮連絡機】【カ号観測機】は搭載していましたが、運用・哨戒用の【三式指揮連絡機】は下ろしていました。
その他対空装備も増設され、【あきつ丸】は出撃します。

11月13日、【あきつ丸】は伊万里で船団と合流し、翌14日、「ヒ81船団」はシンガポールへ向かって出発します。
しかし、今まで発見できなかったアメリカの潜水艦、これが示し合わせたかのようにウヨウヨと日本海行きに押し寄せていたことを、「ヒ81船団」は知る由もありませんでした。

このころ、海軍の暗号はアメリカにしてみればもう暗号でも何でもない状態で筒抜けとなっており、「ヒ81船団」の作戦はアメリカ潜水艦に獲物をくれてやる作戦と言ってもいいでしょう。
陸軍も海軍も、九七式欧文印字機という暗号器を使っていたのですが、実は両者は異なる構造・異なる解読難易度でした。
海軍の暗号が筒抜けなのは今に始まったことではなく、「ミッドウェー海戦」の時でも有名です。
ただ、海軍は自分たちの暗号が解読されたという発想を持つことなく、「ヒ81船団」の輸送作戦についても杜撰な管理状態で暗号を打電していました。
陸軍の名誉のために申し上げると、陸軍の暗号は漢字まで絡めて陸軍内での解読にも時間がかかるほどの複雑さで、連合軍はなかなか陸軍の暗号解読をすることができませんでした。

さて、アメリカに潜水艦を派遣させる作戦を実行した日本ですが、その標的となった「ヒ81船団」には出発翌日に早くも悲劇が訪れます。
15日正午、【神鷹】の対潜哨戒と【あきつ丸】ら特種船の水中聴音機で「ヒ81船団」は警戒を強めていました。
しかしその虚を突いたのが【米バラオ級潜水艦 クイーンフィッシュ】です。
発射された魚雷のうち2発が、【あきつ丸】の左舷船尾に直撃。
船尾には弾薬格納庫があったため、これが誘爆し、あっという間に船体の1/3が沈下してしまいます。
さらに左舷に急速に傾いた【あきつ丸】は、ボイラーでも爆発が発生、船艇ドッグは浸水が進み、もはや為す術がありませんでした。
戦死者約2,300名と、甚大な被害を残して【あきつ丸】は轟沈。

「ヒ81船団」の悲劇はこれにとどまらず、このあとも【神鷹】【摩耶山丸】が沈没。
船団は半壊し、6,000人以上の乗員が死亡してしまいます。

【あきつ丸】は結局、初陣でこそ揚陸作戦を完璧に成功させましたが、以後は揚陸ではなく輸送がメイン、さらに対潜護衛空母に改装後も実績はなく、最期も輸送作戦中に対潜哨戒機を下ろした中で潜水艦に沈められるという、悲しい歴史を歩み続けました。
しかし【あきつ丸】は、その存在に多大な価値を持っています。
戦後の揚陸艦は、島甲板空母型やドッグ型揚陸艦として船体の一部が甲板となっている揚陸艦が多く建造されました。
その中で、特に島甲板空母型の構造は【あきつ丸】と酷似しています。
実績は不足していても、【最上】はヘリ空母の発想につながり、【伊勢】【日向】の航空戦艦も同様です。
そして【あきつ丸、神州丸】もまた、強襲揚陸艦という新しい歴史を作り出した存在となりました。