レイテ沖海戦

戦 艦

世界最大の「大和型」戦艦を解剖する

昭和9年/1934年、日本は米英との海軍戦力差を埋めることを阻害している「ロンドン海軍軍縮会議」が昭和12年/1937年に失効されることから、その後米英がそれに合わせて更に強力な戦艦を建造することは間違いないとし、それに対抗すべく最大級の戦艦の建造を計画しました。 それが、今や国民の誰もが知る、世界最大の戦艦【大和】です。 日本は当時最新の「長門型」を除くと、のきなみ艦齢が20年を超えている戦艦ばかりでした。
駆逐艦

島風【島風型駆逐艦 一番艦】

「丙型駆逐艦」は昭和14年/1939年の「マル4計画」では試作艦である【島風】の建造が決定され、そして昭和16年/1941年に起工。 続く昭和17年/1942年には「マル5計画」で16隻の建造が計画されました。 しかし昭和17年/1942年はあの「ミッドウェー海戦」があった年です。 まさかの大敗北に直面した司令部は、航空戦となった戦争が【島風】を置き去りにしていることを痛感してしまったのです。
駆逐艦

秋月【秋月型駆逐艦 一番艦】

マル4計画では「甲型駆逐艦」である「陽炎型・夕雲型」、「丙型駆逐艦」である【島風】の建造が決定されましたが、もう1つ、両者とは全く役割の異なる駆逐艦の建造も計画されました。 それが「乙型駆逐艦・秋月型」です。 「秋月型」は「防空駆逐艦」とも呼ばれ、敵艦隊への攻撃が求められたこれまでの駆逐艦や「甲・丙型」と違い、空中を飛び回りながら攻撃を仕掛けてくる航空機から艦隊を守るために計画されました。
軽巡洋艦

矢矧【阿賀野型軽巡洋艦 三番艦】

【矢矧】は不遇の「阿賀野型」の中では最も戦闘に参加した軽巡でした。 竣工からわずか2ヶ月後に【阿賀野】は撃沈、【能代】とともに【矢矧】は敗北の続く帝国海軍を支えるべく奮闘します。 【矢矧】は竣工早々、第十戦隊の旗艦に就任し、昭和19年/1944年6月には「マリアナ沖海戦」へと挑みます。
軽巡洋艦

能代【阿賀野型軽巡洋艦 二番艦】

【能代】が竣工したのは【阿賀野】から8ヶ月後。 【阿賀野】ですら「ミッドウェー海戦」後の登場でしたが、【能代】は同じく非常に重要な戦いであった「ガダルカナル島での戦い」すら知らず、山本五十六連合艦隊司令長官が殉職してからの竣工でした。 「阿賀野型」が時代遅れであることは【阿賀野】の項でも述べていますが、その中でも【能代】は意地を見せています。
軽巡洋艦

阿武隈【長良型軽巡洋艦 六番艦】

【阿武隈】は浦賀船渠で起工。 5番艦【鬼怒】の起工から1ヶ月後と、特に問題なく建造は開始されます。 しかし問題は、【阿武隈】どころか日本そのものを文字通り揺るがします。 大正12年/1923年9月1日、【阿武隈】進水から半年後に関東大震災が発生し、【阿武隈】が建造されている浦賀も甚大な被害を受けました。
軽巡洋艦

鬼怒【長良型軽巡洋艦 五番艦】

【鬼怒】は、「長良型」では唯一ブラウン・カーチス式オールギヤードタービンを使用(他の5隻はパーソンス式オールギヤードタービン)していました。 同じく川崎造船所で建造された【大井】もブラウン・カーチス式タービンだったため、これは川崎造船所が判断した採用だったと思われます。 唯一なのはこれだけではなく、【鬼怒】は同時に蒸気加熱装置を載せていました。
軽巡洋艦

五十鈴【長良型軽巡洋艦 二番艦】

【五十鈴】は「長良型」の中でもなかなか異彩を放つ存在です。 ひとつは、高速の軽巡洋艦として水雷戦隊の旗艦を期待された【五十鈴】からは、戦時中の功績が大きく、後世に名を残している艦長が多数輩出されているからです。 連合艦隊司令長官として名高い山本五十六元帥海軍大将(当時大佐)、「真珠湾攻撃・ミッドウェー海戦」で【蒼龍・飛龍】が所属する第二航空戦隊の司令官を務めた山口多聞中将
軽巡洋艦

多摩【球磨型軽巡洋艦 二番艦】

「球磨型」のニ番艦として登場した【多摩】は、【球磨】と同じく戦中は輸送任務や護衛・哨戒が多かったものの、【球磨】よりははるかに戦場に出る機会に恵まれた艦でした。 初陣は【球磨】と同じく「シベリア出兵」のための輸送で、この任務に就いたのは「天龍型」と【球磨・多摩】の4隻のみです。 「シベリア出兵」ということは第一次世界大戦直後ということですから、やはりベテラン艦であったことがわかります。
重巡洋艦

筑摩【利根型重巡洋艦 二番艦】

「改鈴谷型重巡洋艦」とも言える「伊吹型重巡洋艦」の1番艦【伊吹】の建造が始まるのですが、戦況の変化により【伊吹】は空母へ改装されることになり(しかし空母にも改装されず建造途中で解体)、【筑摩】は帝国海軍最後の重巡洋艦となりました。 書類上の分類では【高雄型重巡洋艦 鳥海】が最後ですが、【筑摩】は【利根】同様、書類上以外の全ては重巡そのものでした。
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