起工日 | 昭和12年/1937年11月4日 |
進水日 | 昭和15年/1940年8月8日 |
竣工日 | 昭和16年/1941年12月16日 |
退役日 (沈没) | 昭和20年/1945年4月7日 (坊ノ岬沖海戦) |
建 造 | 呉海軍工廠 |
基準排水量 | 64,000t |
全 長 | 263.00m |
水線下幅 | 38.9m |
最大速度 | 27.0ノット |
航続距離 | 16ノット:7,200海里 |
馬 力 | 150,000馬力 |
装 備 一 覧
昭和16年/1941年(竣工時) |
主 砲 | 45口径46cm三連装砲 3基9門 |
副砲・備砲 | 60口径15.5cm三連装砲 4基12門 |
40口径12.7cm連装高角砲 6基12門 | |
機 銃 | 25mm三連装機銃 8基24挺 |
13mm連装機銃 2基4挺 | |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 12基 |
艦本式ギアード・タービン 8基4軸 | |
その他 | 水上機 6機(射出機 2基) |
主砲
言わずもがな45口径46cm三連装砲、正式名称「九四式四十五口径四十六糎砲」という、ギネスブック認定の世界最大口径の戦艦主砲を備えたのが「大和型」です。
重要なのは45口径46cmという、砲身長との組み合わせであり、決して46cmだけで考えてはいけません。
単純にでかい砲弾を発射するだけなら昔から製造されていて、数字だけで見れば「伊カイオ・ドゥイリオ級戦艦(初代)」が45cm(20口径)砲(前装填式)を搭載しています。
この戦艦は何と明治13年/1880年誕生ですから、「でかい砲弾を発射できる砲を造れ」というだけならこんな時代からできたわけです。
しかしそれをどこまで遠くまで、つまり敵射程外から攻撃できるかが大事ですから、そのためには長い砲身がなければなりません。
有名なのが「秋月型」の65口径10cm連装高角砲で、高い高度を飛行する航空機を撃墜するために650cmもの長さが設定されています。
ちなみに当初は50口径という計画でしたが、技術もそうですがやはり重量がググっと増えてしまうため、敵の16インチ砲に対してすでに十分な威力を誇っている45口径で落ち着きました。
その砲身だけでも1本あたり165tもあります。
砲弾の数は1門当たり100発、砲身寿命が200発でした。
この46cm三連装砲ですが、「大和型」の存在そのものと言い換えてもいいため、同じく秘密中の秘密でした。
一応名目的に「金剛代艦」となっていますから、主砲の名称は九四式四〇サンチ砲とかなり一般的なサイズで呼ばれていました。
アメリカの諜報活動も虚しく、太平洋戦争が終結するまで「大和型」の主砲は41cm三連装砲であり続けました(可能性として46cm砲も考えられていましたが、それが有力ではありませんでした)。
ただ異常なのが、乗員も正確な砲のサイズを知らなかったということです。
明らかに「長門型」の41cm砲より大きいのはわかるけど、じゃあ一体何口径何センチ砲なんだというのは、特に砲撃に関わらない人はわかっておらず、アメリカの捕虜になった人も「知らされていない」と証言しています。
すでに41cm砲がビックセブンと言われる最大口径の主砲である中で、「ワシントン海軍軍縮条約」あけの米英の戦艦が次に搭載するのは同等もしくは以上のサイズになることは容易に想定されます(実際は41cmを上回る主砲を搭載することは両国ともありませんでした)。
そのため46cmというサイズは、悪くても同等、もし相手が41cmないし43cm程度の主砲であればこちらが上回るわけなので、このサイズ以上でなければ隻数に劣る米英には勝てないと踏んだわけです。
アメリカは太平洋にまわってくるためのパナマ運河を通過できるサイズで船を造らないといけない制約があります。
ホーン岬経由だと20,000kmも移動が発生する上に当然時間もかかりますから、それを許容してまで造る船にどこまでの価値があるかを考えるのは自然なことでしょう。
この最大サイズが幅33.5mで、実は「長門型」は改装の際にバルジを取り付けた関係でこのパナマ運河を通過することができません(34.6m)。
「アイオワ級」は32.971mともうスレッスレですが、この制限の中で46cm砲を搭載する戦艦を建造するのであれば、速度は23ノット程度になるという試算でした。
なので現実に現れた「アイオワ級」に対しては攻撃力に勝り、46cm砲搭載戦艦と対面することになれば速度で勝るということで、いずれの場合も「大和型」が有利になるという目算がたったわけです。
ちなみにアメリカはパナマ運河を通過できない船は造らない、というわけではなく、幻となった「モンタナ級」は全幅36.78mですから、最初からホーン岬経由で太平洋に出るつもりでした。
ただ「モンタナ級」建造計画と並行してパナマ運河に新閘門が建設される予定だったので、最悪のシナリオとして、現実の計画を上回る46cm砲を搭載してなおかつ「大和型」よりも速度が速い戦艦が早期に現れたかもしれません。
ホーン岬経由を容認すると、太平洋と大西洋の往来は非常に不便になりますから、有事の際にかなりのタイムラグが発生し、それを補うためには太平洋大西洋ともに同等の艦隊を展開する必要があります。
これもかなり現実離れしているため、46cm砲採用というのは当時の日米事情からすると正しい選択だったのかもしれません。
装甲の項目で若干触れましたが、主砲は前部2基、後部1基の3基9門となっています。
他の設計で検討されていた前部集中型の場合、前方火力は最大になります。
基本的に敗走を考慮しない艦種の為、前部集中というのは実はそれほど極端ではありません。
「ネルソン級」は初期の条約型戦艦ですが、後期の「リシュリュー級」でも四連装砲2基8門という装備ですからそこまで奇想天外な発想でもありません。
しかし前部集中型は後方射角がすこぶる悪いという欠点もあります。
言うまでもなく真後ろには撃てませんから、後方射撃はある程度艦を傾ける必要があります。
つまり一直線にガン逃げするときは副砲しかあてにならないわけです。
この弱点を少しでも補うため、前部集中型の戦艦は後部に副砲が集中しています。
重複しますが、前部集中型が採用されなかった理由として、このように攻撃力の偏重が大きいことが挙げられますが、このほかにも重量バランス、艦橋が後ろすぎて操艦に影響が出るのではないかという点、そして内部の弾火薬庫の配置に無理が生じるということがありました。
46cm三連装砲の最大射程については最大仰角45度で42,000mですが、実はこれもまた世界最大射程ではありません。
最大射程は「伊ヴィットリオ・ヴェネト級」のOTO 1934年型 38.1cm(50口径)砲で、最大仰角35度で44,640mも飛ばせてしまいます。
とは言え砲弾の重さが885kgに対し、「大和型」は1,460kgと1.6倍の砲弾の重さですから一律に比較はできません。
「アイオワ級」の40.6cm50口径砲 Mk.7は1,225kgの重量で射程38,720mですから、砲身長はほぼ一緒ですが、たった3,000mほどですが「大和型」に利があります。
命中率は距離が遠くなれば、正しくは着弾までの時間が長くなればなるほど外れる要素が大きくなるので、射程いっぱいいっぱいでの砲撃を想定した動きは流石に運用側も考えていなかったでしょう。
こういうのは有効性とは別に、実現可能なカタログスペックも重要なのです。
相手はこのスペックをもとにした対策を打たざるを得ませんし、そしてそれは今この瞬間も全く変わっていません。
砲の旋回は水圧式で、旋回速度は2度/秒、俯仰速度は10度/秒とされ、90度旋回するのに45秒もかかります。
しかも傾斜角度が5度を超えると旋回ができなくなるため、そうそうありはしませんが転舵しながらの砲撃は実質不可能でした。
よしんば砲の照準があっていたとしても、傾斜や転舵中だと砲が安定しません。
戦車も走行しながら砲撃することなんてほとんどありませんから、結局地に足をつけて攻撃をするのが一番だということです。
なお、砲塔は実はローラパスという旋回用の台の上に乗っかっているだけです。
なので船がひっくり返ると砲もスポッと抜けてしまいます。
装填速度は30秒で1発なのですが、装填のためには一度仰角を3度まで下げなければならないため、45→3→45の俯仰を含めると現実的な発射速度はおよそ40秒となります。
射程が短くなれば当然装填も最短30秒まで短縮することが可能です。
ただし運用上では観測による修正が必須で、最大射程だと第一射撃を行ってから着弾までに98秒もかかります。
そこから修正して第二射撃となりますと、一射撃に2分ほどはかかったと思われます。
また主砲の斉射に関しては説が分かれています。
衝撃に耐えることができないため、3門中2門しか発射できず、真ん中の1門は別で砲撃することになる、というものと、他の艦同様コンマ数秒のタイムラグをつけてほぼ斉射と変わらない砲撃ができる、というものです。
「大和型」そのもの設計者と、主砲の設計者でこの点の発言が異なっています。
その他細かいですが重要な部分として、この3門の砲身の尾栓は一番左側だけ左開き、右と中央は右開きとなっています。
これは全部右ないし左開きにすると砲身間隔が広くなって砲塔が巨大化してしまうからです。
ちょっとしたことですが、尾栓は右・中央は右開き、左だけ左開きで、この工夫だけで70tも削減しています。
この発射のタイミングをずらす理由は散布界を小さくするのが理由ですが、46cm三連装砲は日本戦艦としては初めての三連装砲で、命中率は良かった悪かったといろいろ書かれていてよくわかりません。
当然30km以遠になると劇的に命中率は落ちるでしょうが、現実的な交戦距離である20kmでもそこまで命中率は悪かったのかはよくわかりません。
単純に装備だけで考えれば悪いとは思いませんが、三連装砲の弊害なのか悪いという言葉のほうが多いです。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
砲塔の重量は1基辺り約2,760t。
おおよそ「秋月型」1基の重量で、最大の駆逐艦ですら「大和型」の砲1つにしかならないわけです。
さらに砲熕関連重量、つまり副砲や弾薬など全部ひっくるめると、12,000t以上。
これは重巡級に相当しますから、重巡1隻で「大和型」の攻撃面しかカバーできないという事もわかります。[1-P142]
使用された砲弾は九一式徹甲弾、一式徹甲弾と爆散型の三式弾が有名です。
これまで使用されてきた九一式徹甲弾は、被帽の強度不足により角度によっては貫通できる装甲でも貫通できない場合があったために、改良された一式徹甲弾が誕生しました。
九一式、一式は水中に着弾した場合も風帽が外れて、水中弾としての貫徹力を出せるような設計になっています。
しかし「大和型」が対艦砲撃戦のケースに恵まれたのが「サマール沖海戦」のみですから、ほとんどが三式弾の砲撃と思われます。
この三式弾もめちゃくちゃ効果が高かったわけではなさそうで、特に対策として射程外から編隊を解かれてしまうと、他の対空兵装同様、一網打尽とはいかなくなってしまいました。
しかし「ヘンダーソン飛行場艦砲射撃」のような対地砲としては、広範囲への破壊と火災が重要なため大きな役割を果たしています。
零式通常弾とともに最大55秒の時限信管付です。
主砲内部構造としては、砲弾が1門あたり最大100発の砲撃が可能な中で60発がすでに砲塔の旋回部(給弾室)に立った状態で収まっています。
こうすることで揚弾機からの給弾速度を上げることができ、長期戦の中で砲撃時間が長引いてしまうリスクを排除しています。
一方で装薬は安全の為に火薬庫から給薬室まで人力運搬することになっていて、1発360kgの装薬を1人60kg×6人でせっせと運び、揚薬筐で砲室まで巻き上げる構造でした。
この構造と固定装填方式は不便ではありましたが、自動装填など省力化するとさらに大型になってしまうということで、やむを得ずこのような構造となっています。
出典:日本戦艦物語〈2〉 福井静夫
最大の主砲である46cm三連装砲の貫通力ですが、算出方法などの違いもあってなかなか統一認識ができそうな貫通力のデータがありません。
一例として、
距離20km:垂直-566mm 水平-168mm
距離30km:垂直-417mm 水平-231mm
というデータがあります。
このデータをもとに「アイオワ級(装甲強化後)」をターゲットとすると、26km圏内に捉えれば舷側装甲を、30km以遠だと水平装甲を貫通することが可能です。
「安全戦闘距離」という考え方がありまして、データ分析によりこの船を相手にするときはこれぐらいの距離なら貫通されない≒致命傷にならないという距離が算出されます。
なので逆に言えば、「アイオワ級」は対「大和型」の戦いでは26~30kmという距離4kmの幅での戦闘を強いられるということになります。
最後に45口径46cm砲のスペック表をまとめました。
口 径 | 46cm |
砲身長 | 45口径 |
弾丸重量 | 1.460t |
弾丸長 | 1.9535m |
装薬量 | 330kg |
最大仰角 | 45度 |
最大俯角 | -5度 |
初 速 | 780m/秒 |
発射速度 | 約40秒/発 |
旋回速度 | 2度/秒 |
俯仰速度 | 10度/秒 |
最大射程 | 41,400m |
砲身重量 | 160t |
砲身間隔 | 3.05m |
輥輪盤直径 | 12.274m |
砲塔重量 | 2,774t |
前楯甲鈑厚 | 650mm |
天井甲鈑厚 | 270mm |
側壁甲鈑厚 | 250mm |
後壁甲鈑厚 | 190mm |
光学装置・砲撃の影響
そのべらぼうに強い主砲の命中率を高めるため、艦橋のトップにでーんと鎮座するのが巨大な15.5m測距儀と九八式方位盤照準装置です。
この15.5mという長さは、これもまた46cm三連装砲のために新たに製造された「大和型」専用の測距儀です。
改装された「長門型」が搭載した測距儀は10m、これは最大有効射程28,000mという射程を実用性あるものへするための光学装置なのですが、「大和型」の46cm三連装砲は最大有効射程が42,000mですから、測距儀もこの主砲に見合ったものを造る必要があったということです。
15.5m測距儀は大きさだけでなく機構も改良されており、これまで二系列での測定結果の平均から数値を算定していたものを三系列とし、さらに正確な数値算出を目指しています。
ちなみに煙突の後ろにある後部艦橋には10m測距儀が備わっており、さらに各砲塔にも15.5m測距儀が備わっています(主砲と測距儀を合体させているのは他の船でも同様)。
測距儀というのは読んで字のごとく距離を測る装置ですが、それだけではデータは不十分です。
九八式方位盤照準装置はこれらのデータを元に、目標の推定移動距離や方角、地球の自転であったり風速であったり、装填した砲弾の種類であったりと色んなデータを解析するもので、最終的な砲撃位置を九八式射撃盤改一が修正・決定します。
これで初めて砲撃始め、となるわけです。
砲側操作は手動でこの方向・数値に合わせて照準を合わせることになるのですが、アメリカやイギリスもレーダーとの組み合わせが強力だったというだけで、この射撃動作に関しては大戦を通じても全自動ではありません。
ただし測距儀もあくまで平均値を割り出すだけですから、実際の目標とは誤差があります。
40km先の相手を目標とする場合、停止・無風などすこぶる良い条件であっても誤差は最大で500mもあります。
しかもその距離は計測はできても水平線の先ですから見ることができません。
なので実際に命中したかどうか、またどれほどの誤差があったのかは搭載する【零式水上観測機】からの報告頼みというところもありました。
装置としては他に日本が出遅れたレーダーもあります。
「大和型」で存在感があるのは15.5m測距儀の上に載っている21号対空電探でしょう。
21号対空電探は【武蔵】は竣工直後から、【大和】は昭和18年/1943年5月以降と少し遅めです。
「大和型」の21号対空電探は水上射撃用への切り替えも可能なように試験と改良が施されたものでしたが、測距儀があるため水上射撃用として重宝されたかどうかは微妙です。
対空電探としては100km先の航空編隊を探知したほか、水上でも40kmほど先の戦艦の探知に成功しており、性能としては悪くないレーダーですが、いかんせん大きすぎるのが問題でした。
また測距儀の上についていますから、全周探知をするには測距儀そのものを回すしかないというのも柔軟性を欠くものでした。
続いて第一艦橋の側面にあるのがラッパ型の22号対水上電探です。
こちらも水上射撃用と兼用できるか試験するために搭載されたのですが、最初は不安定で観測はできても射撃の方面ではなかなか役に立ちませんでした。
改良が進んで精度が高くなったことで、「レイテ沖海戦」の直前に改良型の22号対水上電探改四と換装されましたが、こちらは測距儀よりも誤差が減ったということで評価は上々でした。
測距儀との併用で精度が増すほかに、全然大きくないので小型艦にも搭載可能でしたから一気に量産されています。
これらの電探は昭和18年/1943年5月以降に設置されました。
小型の電探としては、傾斜煙突と並んで特徴的な形の後檣にも13号対空電探が2基取り付けられています。
これは搭載が最も遅く、昭和19年/1944年になってからの設置となります。
さらに13号対空電探は21号対空電探よりも遠距離のターゲットの探知ができ、編隊は指示器の目盛以上の150km以上先のものを捉えることができました。
13号対空電探の誕生によって21号対空電探の出番はなくなったと言ってもよく、こちらも小型のため次々に量産、搭載されていきました。
ただ残念なことに、日本はこのレーダーで探知できたのはほとんど航空機だけで、せいぜい奇襲を受けないだけのお守りにしかなりませんでした。
アメリカのレーダーは航空機の探知はもちろん、夜間や煙幕内への砲撃、いわゆるレーダー射撃が強力で、このおかげでどれだけの艦船が海中に没したか。
結局性能はそこそこよかったものの、日本がアメリカから受けた闇討ちなどをそっくりお返しすることは一度もできなかったのが現実です。
砲撃の威力は敵だけでなく船そのものにも襲い掛かります。
【武蔵】での主砲発射試験の際、その砲撃の反動を調査するためにモルモットを入れたかごをあちこちに設置し、砲撃を行ったところ、かごは消滅し、中にいた動物も口にできない無残な状態となっていたようです。
当然ちょっと大きいだけの人間が剝き出しで立っていても同じ惨状になりますので、砲撃の際は2回のブザーを合図として、艦内に避難することになるほどでした。
トラック島での発射訓練の際は、耳に綿を詰めてそこに耳栓をして、飛行帽のような耳あてのある帽子をかぶり、さらにそこから鉄兜をかぶって初めてOKだったそうです。
しかし「レイテ沖海戦」の際には被害によりブザーが鳴らされないまま各砲の判断で砲撃が行われたことがあるようで、残念ながらこの時に死傷した人もいると思われます。
この爆風の影響が最も出たのは、機銃や高角砲手でした。
新造時の高角砲や機銃には爆風楯が取り付けられたのですが、増設された高角砲や機銃にはこういったものが取り付けられなかったため、ブザーが鳴るたびに攻撃を一時中断して壊れやすい照準器を外してから、艦内に逃げ込んで、砲撃が終わったらまた持ち場に戻るという余計な移動が頻発することになりました。
最終的には主砲3基よりも有り余るほどの対空兵器が必要だった「大和型」は、そのアイデンティティのために自分の身を守る行動をみすみす制限していたことになります。
副砲
この46cm三連装砲の脇を固めたのが、「最上型」に搭載されていた15.5cm三連装副砲です。
ただし再利用されているのは砲身だけで、砲塔は改良もあって新造となっています(副砲は新造とはっきり書いていない資料のほうが多いですが、新造が正しいです)。
明確に「最上型」と違うのは、砲塔が二重構造になっていることです。
内側に25mmの装甲が張られていますが、その外側には断熱用の鋼板をもう一枚巻いていて、装甲との間に細かな四角い穴がズラッと並んでいます。
ここから熱を逃がし、砲塔に熱がこもらないようになっています。
天蓋、後楯にも遮風防熱板が取り付けられています。
さらに1番砲塔の裏にはパラベーンが格納されていたという証言もあるようです。
また1番、4番砲塔には空中線支柱として三本脚のアンテナのようなものが設置されています。
副砲は旋回しますが、この時支柱も一緒にまわってしまうと空中線が引っ張られてしまいますから、上部の空中線がつながっている基部は回転するようになっています。
「最上型」から降ろされたときに惜しむ声が絶えなかったこの60口径15.5cm三連装砲は、2番砲塔と3番砲塔の背後、そして両舷中央部分に1基ずつ搭載されました。
副砲としてはこれも世界最大ですが、15cm砲ないし15.2cm砲を副砲にしているケースは他にも「リシュリュー級」「ヴィットリオ・ヴェネト級」「ビスマルク級」があるため、圧倒的というものではありません。
当然近づいてきた駆逐艦などの小型艦艇を処理するための搭載で、速射性の高さが売りでしたから過去の14cm砲などに比べると圧倒的に優秀な副砲でした。
この15.5cm三連装砲は「最上型」では両用砲としての使用は実質断念されていましたが、「大和型」では仰角を従来の設計通りの75度まで可能とし、また「最上型」では装備されていなかった対空用揚弾筒も装備されていることから、ちゃんと両用砲として使う気満々だったわけです。
「レイテ沖海戦」時は【大和、武蔵】とも両舷の15.5cm三連装砲は撤去して高角砲と機銃を増備していますが、この時1番、4番のも15.5cm三連装砲は対空砲としてかなりバンバン砲撃を行っています。
15.5cm三連装砲は射程だけで見れば長10cm砲をも上回るため、確かに両用砲としての性能は高いと言えるでしょう。
ただし使い勝手が悪かったのは過去の例から見ても明らかなので、対空射撃もできるがあくまで副砲は副砲、と認識する必要があります。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
一方で15.5cm三連装砲は「大和型」のウィークポイントの1つだという指摘も多いです。
「最上型」の時からそうだったのですが、この15.5cm三連装砲は非常に薄く、全面25mmしか厚みがありません。
一応副砲の下の中甲板にはコーミングアーマーがあって横からの砲弾はそこで受け止めることにはなっていますが、上空からの爆撃などに関しては非常に危険な構造でした。
揚弾機構は副砲の真下にあるため、そこには当然ですが装甲がありません。
つまり真上からの爆弾は、一直線に弾火薬庫まで突入する危険があったのです。
「大和型」の場合は最上甲板でも最低35mmCNC装甲(銅含有非浸炭装甲)で覆われていますが、それは非バイタルパートの話。
対して直下に弾火薬庫がある15.5cm三連装砲がたった25mmではあまりに危険です。
さらに砲塔の付け根部分は落角が甘くても貫通される恐れがあることが発覚したため、50mmCNC鋼+25mmDS鋼のコーミングアーマーに28mmの装甲が追加され、さらに垂直の空洞部分には不規則な防焔板を設置して、そこで砲弾、爆弾を受け止めることになりました。
防御力も一級品の「大和型」ではありますが、水雷防御の設計ミスと言い、この副砲の危険性と言い、リスクのある場所はとんでもない痛みを伴う設計でした。
「坊ノ岬沖海戦」では後部の副砲に爆弾が命中しており、火災まで発生していますが、沈没の直接的な原因になったかどうかはよくわかりません。
しかし15.5cm三連装砲の防御を万全にしてしまうと、今度は軽快性を損なってしまいます。
副砲の担当は対空、対軽量艦ですから、相手の動きに追随できる速度が重要です。
防御を重視して実際の使い勝手を大きく損なってしまうのも本末転倒なので、のちのコーミングアーマーや防焔板の処置が最も適した判断だったのではないでしょうか。
対空砲としての活躍も鑑みると、弱点というより諸刃の剣と評価すべきな気がします。
水雷防御は明らかに研究不足ですが、副砲に関しては、そんなとこまで言われたら煙突直上に焼夷弾を落とされたらどうなるんだとか、魚雷が推進軸に命中してその衝撃ですべての推進器が止まったらどうなるんだとか、単独で意味をなさない副舵なんてないも同然とか、言いたい放題になるレベルです。
それに言っても所詮副砲なので、万が一爆弾が直撃したらとっとと注水して弾薬庫を水浸しにしてしまうのが吉でしょう。
対空兵装
続いて対空兵装ですが、新造時はまだまだ弱々しいです。
12.7cm連装高角砲が両舷3基ずつ、また艦橋周辺には25mm三連装機銃が両舷2基、後部艦橋は10m測距儀の下に機銃座が置かれてここも両舷2基ずつです。
ただし【武蔵】はさらに4基多い12基だったとも言われています。
そして艦橋中段には13mm連装機銃が両舷1基。
これでも実は日本戦艦で最も多いので、意識してないことはないのでしょうが、実戦においては不足していたのは言うまでもありません。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
「大和型」の兵装については、上記の新造時よりも「レイテ沖海戦」時や「坊ノ岬沖海戦」時のほうがイメージとして浮かびやすいと思います。
ただ実は「大和型」の対空兵装の具体的な装備状況は確実なものが存在しません。
終戦による資料破棄の影響で、「大和型」はここまで有名にもかかわらず見つからない資料やデータというのがいくつも存在するのですが、対空兵装も確実な資料がなく、断片的な資料や写真解析などから今の形が最も真実に近いと判断されています。
「大和ミュージアム」の1/10模型もこの時の調査資料が反映されています。
「レイテ沖海戦」時の訓令では、対空兵装は12.7cm連装高角砲12基、25mm三連装機銃29基、25mm単装機銃26基、13mm連装機銃2基というものでした。
あまり注目されませんが、「レイテ沖海戦」時は【大和】では艦首に25mm単装機銃が3基設置され、その他主砲のすぐそばにも4基ずつ設置されたなど、潰れることもやむなしと言える場所にも設置されています。
艦首の機銃手なんてブザーが鳴ってから砲撃が始まるまでに避難できるのでしょうか?
さらに「レイテ沖海戦」の際は【大和】と【武蔵】でも装備状況が異なっていて、【大和】が2基の副砲撤去後に12.7cm高角砲を6基搭載したのに対して、【武蔵】は工期が短縮されてしまったことでそこに25mm三連装機銃が6基搭載されたとされています(対空兵装の強化は昭和19年/1944年4月ですから「マリアナ沖海戦」より前)。
増備された高角砲と三連装機銃はシールドの生産が追い付かず、シールド付きはすべて艦中央部の集中している甲板上のものに取り付けられ、他は全部シールドなしとなっています。
【大和】の「坊ノ岬沖海戦」時では25mm三連装機銃が5基ずつ甲板の外にはみ出しています。
一方で【武蔵】にだけ煙突の両脇に12cm28連装噴進砲が1基ずつ搭載されていたとも言われていますが、この兵器の国内での試射が昭和19年/1944年8月であることから、本当に搭載されたのかが疑問視されています。
とは言えあそこまで機銃や高角砲をドカドカ積んでも(積めると思った場所には計画以上に配備しているようです)、「シブヤン海海戦」でも「サマール沖海戦」でも「坊ノ岬沖海戦」でも日本はものすごい被害を受けています。
その一因として12.7cm連装高角砲の時代遅れ感、高角射撃装置などの脆弱さなどもありますし、25mm機銃ではでは急所じゃない限り撃墜はできない敵航空機の頑丈さもあるなど、対空装備が弱かったのは事実と言えば事実なんですが、あそこまでいくと制空権を完全に失っていることそのものが問題で、護衛戦闘機がないってのがよっぽど悪いです。
実は日本は機銃開発はめちゃくちゃ遅れていて、というか自力で生産できなくて、主要だった13mm機銃も25mm機銃もフランスのホチキス製の国産化でしかありません。
その前もヴィッカース製やルイス製と、海軍の機銃史には制式化された完全オリジナルの機銃が存在しないのです(武器メーカーが強すぎてたいていの国は買ってましたが)。
せめて、せめてボフォース40mm機関砲のコピーが出来ていれば、もう少し敢闘できていたはず、と思いたい。
武器メーカーの多い欧州から距離が離れているという地理的デメリットが大きかったかもしれません。
立場がそっくりそのまま逆だったとして、例えばアメリカの対空砲が全部「VT信管」を搭載していても、そこそこの被害は出ていたでしょう(日本の航空機の防弾力が弱いので蹴散らしたかもしれませんが)。
それほど彼我の有利不利の差は大きいものでした。
設計に携わった人たちは、「敵制空権の中で戦うことは想定されていない上に、航空機絶世の戦争となった中で、それでもあれだけ踏ん張ったんだから大したもんだ」と、基本的には「大和型」の頑丈さを評価しています。
参照資料(把握しているものに限る)