起工日 | 昭和19年/1944年6月20日 |
進水日 | 昭和19年/1944年9月30日 |
竣工日 | 昭和19年/1944年11月30日 |
退役日 (解体) | 昭和23年/1948年7月28日 |
建 造 | 舞鶴海軍工廠 |
基準排水量 | 1,262t |
垂線間長 | 92.15m |
全 幅 | 9.35m |
最大速度 | 27.8ノット |
航続距離 | 18ノット:3,500海里 |
馬 力 | 19,000馬力 |
主 砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門 |
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門 | |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 1基4門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
25mm単装機銃 8基8挺 | |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 2基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
イタリア船の護衛も1日経たずに頓挫 完治せずに終戦
【椿】は竣工後に第十一水雷戦隊に編入され、早速舞鶴から瀬戸内海へ移動。
もう戦艦どころか巡洋艦も動くことがなく、駆逐艦や海防艦が船団護衛でコッソリ活動していた時期でしたが、【椿】もそれに1日でも早く加わるべく激しい訓練に励みました。
ただこの時からすでに【椿】は「回天」の訓練にも参加しており、日本の底を目の当たりにしています。
2月5日、【椿】は訓練を終えて第一海上護衛隊に配属となり、いよいよ初任務が近づいてきました。
【椿】はモタ36船団の護衛を一部任され、門司から台湾の基隆へ向かうことになりました。
ところが【椿】は最初の一歩を踏み出す前にいきなり躓いてしまいます。
これまで不調を訴えたことがあったのかはわかりませんが、二号缶が過剰に熱を発するなど機関関係の設備で複数の問題が発生。
この影響で【椿】は13日の出撃に間に合わず、泣く泣く修理に回されました。
修理を終えた【椿】は、次発のモタ38船団を護衛することが決まり、今度はちゃんと16日に出撃することができました。
このモタ38船団は前年末に構成されたヒ85船団の門司~高雄間のことを指すという資料(「戦時輸送船団史」)もありますが、「第一護衛艦隊戦時日誌」のモタ38船団は本頁の2月出港のものを差しています。
【椿】は上海までモタ38船団を護衛し、そしてモタ36船団は被害なく輸送を達成しています。
3月15日、【椿】【櫻】【楢】【欅】【柳】【橘】の6隻で第五十三駆逐隊を編成いたしました。
そして4月に入ると、第二次世界大戦でイタリアが降伏した際に取り残された大型客船【コンテ・ヴェルデ】を日本に回航する案が持ち上がります。
【コンテ・ヴェルデ】はイタリア降伏後にすぐさま自沈処分がとられていましたが、ボロボロにしたあとで沈没させたわけではないので、引き揚げて使い回すことになりました。
【コンテ・ヴェルデ】は竣工時18ノットを超える高速客船で、これを輸送船に転用できればと考えられました。
【コンテ・ヴェルデ】の再活用は昭和19年/1944年6月から行動に移されており、浮揚作業中の8月に爆撃を受けて作業は一からやり直し、12月に浮揚が完了すると、機関等の修理が始まり、昭和20年/1945年4月に晴れて自力航行ができるまで回復しました。
仮に18ノットでまだ動くのであれば、高速輸送船として大変大変貴重な存在です。
すぐにでも日本に移して輸送船改装を行いたいわけで、4月10日、【寿丸】と改名された【コンテ・ヴェルデ】は【椿】【第21号掃海艇】【砲艦 宇治】の護衛を受けて上海を出発しました。
田中一郎艦長(当時少佐)の回想によると、護衛には他に水雷艇が護衛についたといいますが、その水雷艇は護衛中に機雷に接触して沈没してしまったそうです。
しかしこの数日で沈没していた水雷艇が存在しないため、これは誤りか、水雷艇ではない別の艦種だと思います。
ただし機雷が敷設されているのは事実です。
出発して間もなく、【寿丸】が機関故障を起こし、一時航行ができなくなってしまいました。
その時【椿】が反転して【寿丸】に接近したのですが、そこで【椿】の艦尾が磁気機雷に触れてしまいます。
この爆発で艦尾が傷付きましたが、ただちにタグボートが艦尾を抑えてくれて脱落を防ぎ、また排水も手伝ってくれたため大惨事にはなりませんでした。
この被害により【寿丸】の回航は一旦中止され、各艦上海へ逆戻り。
【椿】はタグボートに曳航されて江南造船所で修理が行われました。
一方【寿丸】の方はトラブルが解決したようで、翌日に【椿】に代わって【蓮】が護衛に就き、改めて日本へ向けて出発しています。
なお【寿丸】はこのあと終戦までの短期間で1回沈没、引き揚げてすぐにまた擱座しており、散々な目にあっています。
【椿】の被害ですが、上海では後部機械室と左舷推進軸の修理ができなかったため、【椿】は右舷のみで航行せざるを得なくなりました。
とりあえずの修理を終えた【椿】は、5月8日、シモ04船団の護衛で戦列に復帰します。
潜水艦の襲撃を避けるために陸地に沿って北上。
朝鮮半島に到着後は東進して対馬を経由し、17日にようやく山口県の油谷湾へ到着しました。
その後呉鎮守府所属となり、先の被雷による損傷の本格的な修理を受けることになりました。
ところが江南造船所で用意された発電機がどうも調子が良くないという新たな問題が発生。
代替の発電機の準備もままならず、また情勢も極めて悪かったことから損傷部分の修理はできないと言われてしまい、1ヶ月半が経過した7月の時点でも18ノット航行がやっとの状態でした。
そんな状態だったため【椿】は予備役に編入されるという話が出てきて、慌てて艦長が引き続き仕事させてくれと嘆願したそうです。
そんな折、日本はアメリカの空襲によって今まで以上に広範囲にわたって大きな被害を受け始めました。
「沖縄戦」が終わりを告げ、空襲の波は九州から中国地方に押し寄せてきました。
当時岡山付近の備讃瀬戸を活動範囲として警戒任務を行っていた【椿】でしたが、7月23日、24日と日が暮れるまで絶え間なく繰り返される空襲に翻弁されます。
時折火を噴く航空機がある一方、機銃を撃ちながら突っ込んでくる【F6F】に次々に兵士たちはなぎ倒されていきます。
対空指揮を執っていた艦長はこの時右太ももに貫通銃創があり、戦闘終了後、気が付けば長靴の中がジャボジャボとなるほどの出血があったようです(動脈あるからマジで危ない)。
24日の空襲で中破した【椿】でしたが、28日にも同様に空襲を受けてさらに損傷。
そしてこの空襲を最後に、終戦までの時を待ち続けることになります。
終戦後も機関不調が足を引っ張って復員船の役割も与えられず、昭和23年/1948年になるまで放置されていましたが、7月28日にようやく解体されています。