全 長 | 6.34m |
全 幅 | 2.86m |
全 高 | 2.67m |
自 重 | 24.0t |
最高速度 | 45km/h |
走行距離 | 250km |
乗 員 | 5人 |
携行燃料 | 400ℓ |
火 砲 | 試作車:一式四十七粍戦車砲Ⅱ型 1門 |
量産型:五式七糎半戦車砲 1門 | |
九七式車載重機関銃(7.7mm) 2門 | |
エンジン | 三菱AL四式空冷4ストロークV型12気筒ディーゼル |
最大出力 | 400馬力 |
各 所 装 甲
砲塔 前面 | 75mm |
砲塔 側面 | 最大50mm |
砲塔 後面 | 50mm |
砲塔 上面 | |
車体 前面 | 75mm |
車体 側面 | 最大35mm |
車体 後面 | 50mm |
車体 上面 | 20mm |
車体 底面 | 12mm |
チト誕生の要因 独ソ戦がもたらした日本の新戦車構想
日本は戦車開発で大幅な遅れをとった状態で太平洋戦争に突入していて、【九五式軽戦車 ハ号】【九七式中戦車 チハ】のコンビで急場を凌ぐ一方で早急に欧米に対抗できる戦車の開発が必要でした。
その筆頭が【一式中戦車 チヘ】のわけですが、【チヘ】はあくまで【チハ】の防御力不足を解消させた、【チハ】改良車という位置づけでした。
なので【チヘ】開発の後に続いて、ちゃんと経験をもとに一から設計開発した、純新作の戦車の開発も進んだわけです。
【チヘ】に関しては結局【チハ】の砲塔を同じ一式四十七粍戦車砲に換装してこれもまた急場を凌ぐことになり、車両量産技術が乏しい日本は【チヘ】量産に伴う【チハ】減産を嫌い、【チハ新砲塔】の安定供給を優先する方針を取ります。
【チハ】改良とは言え生産工程も大幅な変更が必要だった【チヘ】は、昭和17年/1942年8~9月に試作1号車が完成しているのにもかかわらず、全く生産されずに埃を被ることになってしまいました。
そして【チヘ】よりも強力な57mm戦車砲を搭載した戦車が【四式中戦車 チト】になります。
言うまでもありませんが、この57mm戦車砲は【チハ】の九七式五糎七戦車砲ではなく、新開発の試製五糎七戦車砲新という戦車砲です。
【チト】は9月の「陸上兵器行政本部開発方針」策定によって開発が決定しました。
【チト】はこれまでの歩兵直協車輌とは異なり、一般的に想像される第二次世界大戦の戦車同様、対戦車戦を想定した戦車です。
決定時は「新中戦車 甲」と呼ばれています。
しかし計画当初では搭載砲は【チハ、チヘ】と同じ一式四十七粍戦車砲Ⅱ型で、対戦車戦を想定している割には特に意欲的な戦車ではないように思えます。
それもそのはず、計画時の【チト】はあくまで当初の戦車構想の流れの中で、完全に一から設計した従来の中戦車というだけのものだったのです。
ですが数字だけでは見えない要素は多かったと思います。
この頃は「日華事変」を含めて敵兵器の鹵獲が進んでいて、これらの材料が開発に大きく貢献していたことは間違いないでしょう。
また、この段階ですでに計画されていた新開発の57mm加農砲へと変更する可能性も含んでいました。
歩兵直協車輌はあくまで歩兵の障害となる敵兵や兵器、陣地を破壊し、またそれらからの攻撃に対応できるように設計されていましたが、戦車を破壊してくる戦車に対しては、設計時からそもそも標的ではなかったため威力不足になるのは仕方のないことでした。
第二次世界大戦での戦車の急激な成長と戦術の昇華を把握しきれていなかった日本は、慌てて【チハ】に一式四十七粍戦車砲を搭載して【M3軽戦車 スチュアート】を貫通できるように改造したわけです。
やがて主砲については九七式車載重機関銃を双連同基軸化した試製双連四十七粍戦車砲へと置き換えられることが決まり、そして最終的には検討されていた57mm砲への計画変更が決定しました。
この決定は開発が決まってから1年後の昭和18年/1943年7月の「兵器研究方針改訂」によるもので、上記の各国の兵器や戦況分析によって、ついに【チト】は日本初の対戦車戦を想定した戦車へと変貌していくのです。
当初の計画からも大幅にグレードアップし、スペックは試製五糎七戦車砲新を装備し、前面装甲は75mm、最大速度40km/hとなりました。
ですが、この「兵器研究方針改訂」というのは何も【チト】の性能をより高めただけではなく、どころか戦車開発の基準を根本的に改める重要な改訂でした。
すなわち、対戦車戦を想定した戦車というのは【チト】だけではなく今後の全ての戦車開発に関わってくることで、この改訂を以て日本の中戦車は歩兵直協車輌になることがほぼ消滅したわけです。
砲戦車が強大な威力を持つ固定砲塔車輌へと変わっていくのもこの「兵器研究方針改訂」によるものです。
中戦車に関しては搭載主砲のおおよその口径が最大57mmであったものが57mmおよび75mmへと大型化し、重量は最大20t程度だったものが一気に35tにまで増大。
そして中戦車の軸となるのはこの35t級75mm砲搭載の中戦車と、25t級57mm砲搭載の中戦車の2種類であるとなったわけです。
言うまでもなくこの「兵器研究方針改訂」に影響したのは独ソ戦による戦車戦訓です。
独ソ戦開戦となる「バルバロッサ作戦」が始まったのは昭和16年/1941年6月。
ドイツは完全な裏切りによってソ連西部をどんどん切り開いていきましたが、モスクワを目前にしてソ連の【KV-1重戦車】と【T-34中戦車】を中心とした決死の防衛線を突破できずに敗走。
これまで世界最強の戦車を持っているとされていたドイツ戦車を蹴散らしたソ連戦車の登場によって、戦車の開発合戦が猛烈に加速したわけです。
【T-34中戦車】の主砲は85mm砲で前面装甲は90mm+曲面装甲、一方これに対抗するために急遽製造(研究は独ソ戦前から)されたドイツの【Ⅵ号戦車 ティーガーⅠ】は同じく85mm砲で前面装甲100mmでした。
これに比べると日本の中戦車なんておもちゃみたいなものでしたが、このように中戦車性能は急転したため、日本もせめて側面装甲は抜けるぐらいの57mm砲や75mm砲を搭載した戦車を製造し、正面をぶち抜くのは砲戦車に任せるという方針を取らざるを得なくなったのです。
(当時の議事録によると、75mm加農砲では1,000m先の80mm装甲は抜けるという計算だったということですので、単純計算では75mm砲でも独ソの中戦車を貫通させることはできません。)
この「兵器研究方針改訂」の影響は非常に大きく、軽戦車においては改訂がないため事実上不要な車種となり、中戦車の大型化と砲戦車の固定砲塔+超貫通力を誇る砲の搭載が決まったわけです。
そしてこの改訂によって【五式中戦車 チリ】【試製五式砲戦車 ホリ】【試製十糎対戦車自走砲 カト】などが誕生することになります。
【チト】はこの改訂によって【チリ】と合わせて製造配備されることが決まりました。
数値性能は高いが国力が不足 対米戦は可も対ソ戦には到底かなわず
こうして【チト】は当初の計画よりも強力な中戦車として設計、製造が始まります。
とはいえ構想があっただけでまだ試作車もない【チト】ですから、そう考えると戦争も折り返し地点ですからこの時点でだいぶ出遅れています。
【チト】に搭載する予定の試製五糎七戦車砲新ですが、これが完成したのは翌昭和19年/1944年5月であり、結果論ですがこの時点でもうお先真っ暗です。
さらにはこの試製五糎七戦車砲新用に造られていた試作1号車に主砲を搭載して射撃試験を行ってみると、砲塔のリベットは緩むし傾斜面では砲塔旋回が困難だし、そもそも改訂の段階で貫通力不足がなんとなくわかっていましたがやっぱり貫通力は不足していて、1,000mの距離で傾斜60mmの装甲の貫通に失敗。
結局軽量重視の57mm砲と威力重視の75mm砲の2つの中戦車構想は非現実的なものであって、一番強い砲を載せる車輌を1点集中でどかどか造るしかなかったわけです。
そしてどういうわけかこの期に及んでもなお日本は75mm砲を搭載させる【チリ】に集中せず、【チト】に75mm砲を搭載させるという延命措置をとっています。
【チリ】の35tという重量は日本や戦地のインフラで対応できる重量ではありませんでしたが、それを忍んででも製造が決まったわけです。
じゃあ20tなら大丈夫だったのかと言われるとそうでもない部分も多く、鉄道輸送や渡河器材などは20tでも耐えられないものもありました。
これまではこのような制限もあったために【チヘ】の性能がいっぱいいっぱいだったのですが、これをオーバーしている時点で20tでも30tでも大きな差はなかったのです。
資材や製造ラインを二分させる必要もないですし、この段階で【チト】を捨てて【チリ】に集中(もしくはその逆)できなかった理由は何なのでしょうね。
結果的に日本は後述する主砲の半自動装填装置不具合によって【チリ】を断念し、【チト】へ集中していくわけです。
ともあれ【チト】には新しく【チリ】や【試製七糎半対戦車自走砲 ナト】に搭載予定だった試製七糎半戦車砲(長)が搭載されることになります(【チト】に搭載されたのは【チリ】用だった砲を【チト】用へ改修させたⅡ型)。
試製七糎半戦車砲(長)の元となったのは、世界的にも有名かつ優秀な兵器製造メーカーであるボフォースの75mm Lvkan m/29でした。
これは「日華事変」で鹵獲された兵器で、日本はこの75mm Lvkan m/29で航空機を多数撃墜されていたことからこの兵器の威力を非常に評価していました。
そしてこれのコピーとして四式七糎半高射砲を製造しましたが、いかんせんボフォース製の兵器は高性能であるがゆえに非常に精密で、結局終戦までに70門しか製造できませんでした。
この高射砲を【チリ】用戦車砲(つまりⅠ型)へと改良することになっていたのですが、ここにきて【チト】にも搭載する必要が出てきたため、さらに改良する必要が出てきました(これがⅡ型)。
Ⅱ型はⅠ型で搭載したものの不備が多かった半自動装填装置を取り外して、また照準を安定させるために平衡錘を取り付けたⅠ型の改良型です。
この影響で【チリ】もⅡ型を搭載することが決定し、また部品の共通化を図るために同じ七糎半である【ナト】の試製七糎半対戦車砲Ⅰ型を【チト】のⅡ型に合わせることになりました。
ですがこの改良によって【ナト】は4ヶ月ほど待ちぼうけを食らってしまいます。
さらには車体の重量に対して砲が非常に大きいアンバランスな【ナト】は、改良したⅡ型で砲を放つと衝撃の吸収度が減った結果猛烈な反動を受けることになり、このため更に改良が必要となって結局1門も完成せずに道半ばで終戦を迎えています。
ちなみにⅠ型の不良で苦労していた【チリ】も、Ⅱ型を搭載することは決まったもののそのⅡ型はまだ量産ではなく実験段階だったため、引き続き問題を解決するために努力していたのですが、結局【チリ】はいずれの砲を搭載することもなく、車体だけが1輌生産された状態での終戦となっています。
【ナト】には不運でしたが、Ⅱ型は五式七糎半戦車砲として仮制式採用となります。
そして五式七糎半戦車砲を搭載した試作2号車が昭和20年/1945年2月に完成し、3月17日からは実験が始まりましたが終戦によってついに実戦に投入されることはありませんでした。
話の流れで先に顛末をお伝えすることになってしまいましたが、【チト】の他の性能を見ていきましょう。
まず五式七糎半戦車砲は1,000mで75mmの均質圧延鋼板が抜けるとされています。
砲弾の一式徹甲弾は貫通力を非常に重視しており、炸薬は65gしかなくて爆発力は大きなものではありませんでした。
しかし抜けなければ爆発も何もないわけで、日本は何としてもいずれ現れる重装甲戦車に対応できるように努力したわけです。
ですが上記の実験の中では1,000mの距離で【シャーマン】の正面に砲弾を撃ち込んでも貫通できる可能性は低く、やはり正面以外の方向からの攻撃が必要だという結論になっています。
ということはもし本土決戦が行われてどこもかしこも傾斜装甲【T-34】が日本に上陸したとしたら、まぁ何の脅威でもなかったことでしょう。
ちなみにこの五式七糎半戦車砲、実は【三式中戦車 チヌ】にも試験搭載されたことがわかっています。
これは砲はそろっても【チト】の量産にはまだ時間がかかるということから、同じ口径である三式七糎半戦車砲を搭載しているのでこれを五式に換装しようというものでした。
試験は【チト】の最初の射撃実験が行われた3月17日から2日後の19日で、実験が終わった後すぐに【チヌ】へと搭載されて実験が行われたそうです。
この実験の前の7日にはすでに【チヌ】へ五式七糎半戦車砲を搭載できるように改修する決定もされたり、実験結果も悪くなかったことからこの計画は本気で進んでいました。
ですが【チヌ】の車体は【チヘ】です。
そしてもっと言えば【チヘ】の車体は【チハ】から装甲などは厚くなっているものの【チハ】と大幅に変わるわけではありません。
ということは【チハ】改良車に三式よりも長砲身の五式を搭載しているわけですから、バランスなんて二の次三の次でした(まぁ海軍の【海軍十二糎自走砲】なんてのもありますから、もはや【チハ】の車体はとりあえずまずは載せてみようという使われ方になっていましたが)。
むしろよくこの車体で五式を搭載できたものです。
ちなみに砲塔は【チヌ】のものを改良する形となっています。
防御についてですが、その前に【チト】には大きな問題がありました。
砲塔の前面を除いた箇所が3分割の鋳造製造であり、前面の圧延防弾鋼板と両側面+背面の防弾鋳物を溶接でくっつけるという方法を取りました。
鋳造は金型や砂型に溶かした鉄を流し込んで固めるという製鉄技術ですが、当時の日本ではまだ発展途上の技術でした。
ソ連やアメリカが次から次へと戦車を投入できた背景にはこの一体での鋳造技術があり、鋳造は重量は増しますが非常に高い量産性を持っていました。
1つ1つ鋼板を整形して曲げてリベットで打ち込んだり溶接をする必要がありません。
そして両国ともその重量に耐えきれるエンジンを製造することができました。
日本もなんとかこの苦境を打破するために鋳造を採用したわけですが、中途半端な技術でこの鋳造に取り組んだのが見事に裏目に出ます。
鉄は冷えれば縮みます。
なので型はそれを見越した大きさで造る必要があります。
ですが日本がやっているのは両側面と背面の3枚の個別の砲塔部品で、これらが冷えた後は個別に歪みを調整しながら溶接する必要がありました。
しかもその歪みは毎回異なるわけで、量産化を狙った技術が溶接をする技術者の腕に任せっきり担ってしまいます。
さらに正面の装甲よりも防弾性は低いのに厚みはありますから簡単に調整できるわけでもなく、また当時の技術者も学徒動員のような素人同然の人ばかり。
むしろ量産性を損ねる大失敗となったのです。
こんなこともあって【チト】の重量は24tという計画から29.5tほどにまで膨れ上がってしまいます。
一応装甲は車体前面が75mm、側面25mm、砲塔前面が50mm、側面が最大35mmとなっていますが、特に鋳造である砲塔側面の防弾性については疑わしいものです。
じゃあ車体や砲塔前面は大丈夫なのかと言われるとそれもそうではなくて、装甲の性能を高めるために必要だったニッケルの入手が困難であったことから、これまでよりも装甲のニッケルの含有量が低下していました。
なのでこれまでと同じ感覚で装甲厚と防御力を考えるわけにはいかないのです。
また、エンジンもこれまでの戦車に比べると非常に重くなることから400馬力を発揮する三菱の四式ディーゼルエンジンが開発されました。
通常だと馬力を増やすためには気筒の数を増やすのですが、それはそれだけエンジンのサイズが大きくなるのであまり好ましくありません。
そのためこの四式ディーゼルエンジンでは気筒そのものを大きくすることでサイズの膨張を抑えています。
過給器込みで500馬力の発揮が見込まれていて、これにより【チト】は30tに迫る重量でありながら40km/hの速度をしっかり出すことができ、また重い車体の操縦をサポートするために油圧サーボを搭載。
ブレーキもハンドリングも非常にスムーズだったと言われています。
履帯はこれまでの330mmから450mmへと幅が大きくなりましたが、これも約30tの車体を支えるためです。
しかし履帯の幅と同様に車体の幅も50cmほど大きくなり、危惧された通り鉄道輸送でも一部通行支障が出るエリアが出てきてしまいました。
すでに紹介の通り【チト】は戦争は参加することはありませんでした。
完成した車輌は2輌もしくは6輌と言われています。
昭和19年/1944年末に計画された「昭和二十年度各造兵廠作業計画」によれば、【チト】は昭和20年/1945年8月から納入が開始され、だいたい三菱:神戸製鋼=6:1の割合で4ヶ月で計200輌を製造するというものでした。
しかしどう見ても絵に描いた餅で、3月には早くもこの計画は破綻します。
砲塔はあんな状態ですし、車体の生産速度が早いのかと言われるとそういうわけでもなく、エンジンも完全新作ですから量産には程遠い。
だから急遽【チヌ】に五式が搭載されるということになったわけです。
さらに【チリ】の生産も有名無実化してしまい、状況としては【チリ】の役割を【チト】が果たし、【チト】の役割を主砲換装させた【チヌ】が果たすような形となりました。
製造元の三菱の中では砲塔を元通り溶接砲塔として製造するための図面が作成されていて、いかに鋳造砲塔が余計なことであったかがうかがえます。
戦後の【チト】の行方は知れませんが、まず終戦後にアメリカに接収されて「Type 5」、つまり【五式中戦車 チリ】と間違われた写真が撮られています。
そのあとはアメリカに輸送されたそうですが、それは1輌だけで、その後の行方も分かっていません。
残りの1輌もしくは5輌については、うち1輌が平成11年/1999年に中日新聞が「【チト】は静岡県の猪鼻湖に主砲を搭載したまま沈んでいる」という記事が掲載されたことで一躍脚光を浴びました。
証言をしたのは当時の陸軍整備隊班長だった大平安夫で、終戦後にアメリカ軍が上陸する前に【チト】を沈めるように命令を受けて沈めたというものでした。
この報道を受けて有志による調査が何度か行われましたが、【チト】と想定されるものは発見されておらず、発見された金属も【チト】とは考えにくいというものでした。
しかし猪鼻湖には【ウインザー・キャリア】と呼ばれる装軌式装甲車が沈められていて、しかもそれは戦後に引き揚げられた記録があることから本当に沈んでいる可能性もまだ残されていました。
ですが調査には資金と人材、引き揚げるのか引き揚げないのか、引き揚げる場合はそのあとどうするのか、また汽水湖であることから漁業を営む人も多いため、組合の協力も不可欠であることなど問題は山積み。
結局今以上の本格的な調査には至っておらず、この噂も嘘か誠か判明する日はまだまだ先なようです。