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【八九式中戦車】その2
【Type 89 Medium Tank】

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世界初の空冷ディーゼル搭載 現代の当たり前を生んだ戦車

このような諸所の改良が行われながら、【八九式軽戦車】は少しずつ数を増やしていきます。
そして【ルノー乙型】の転落、さらには【九二式重装甲車】の導入と時代は進み、「満州事変」「第一次上海事変」では国産車両が主力として働いていました。

一方で、日本の戦車にはまだ大きな懸念材料が残されていました。
火災の危険度大のガソリンエンジンです。
戦車は貫通するだけならまだ修理もできますが、燃えてしまうとどうしようもありません。
それに乗員の致死率も格段に上がります。

この問題を解決するために、日本は思い切った行動に出ます。
まだ日本には全然そんな技術力がなかったのに、なんと世界で初めてディーゼルエンジンを搭載することにしたのです。
ディーゼルエンジンの燃料は軽油ないし重油であり、戦車に使われる軽油はまず値段が安いというコスト的利点がありました。
そして-40度で気化するガソリンに比べて、おおよそ40度で気化する軽油はたとえ漏れ出てもそうそう気化することはありません。
気化しなければ、燃料に直接火を放たない限りは火災は起こりません。
ガソリンの怖いところは、気化して空中に霧散したガソリンに火花などが飛び散ったときに火災を起こすことですから、これを解消するだけでも危険度は確実に落ちます。
そして気化したガソリンは有毒ガスになりますから、戦車内でガソリンが充満すると、燃えなくても死に至らしめます。

そして燃料を自国で調達できない日本にとってありがたいことに、ディーゼルはガソリンエンジンよりも遥かに燃費がいいのです。
気化の心配が低い軽油は保管も楽で、安い、安全、燃費がいい軽油+ディーゼルの組み合わせは理想的でした。
当時は例なく、そして終戦までにディーゼルエンジンを搭載した戦車は非常に少なく、日本も実践に配備された戦車の数こそ少数ですが、計画された戦車のほとんどはディーゼルエンジンでした。

さらに、日本は一般的な冷却方法であった水冷から空冷方式へと転換しています。
これはまさに戦訓から学んだものであり、すなわち冷却水が寒い満州では凍ってしまうという問題でした。
エンジンにとって冷却は要です、オーバーヒートしたエンジンは格段に性能が落ちますし、無理して使うとエンジンそのものが完全に壊れてしまいます。
そのために冷却液と冷却装置(ラジエーター)がありますが、性質上防御を強固にさせづらいラジエーターがやられてしまうと戦車は死んだも同然です。
しかしいくら外が寒いとはいえ、空冷方式をとっていないエンジンは外気だけでは冷やしきることができません。

他にも、長期移動になった場合の冷却水の補給の心配もあります。
行く先々で水を十分に補給することができればいいですが、水源の乏しい地域だと戦車よりも兵士の命を守らなければなりませんから、エンジン用の冷却水を確保できない可能性があります。
また、寒冷地だとせっかくの水も凍ってしまい、取水するのが困難なケースも想定されます。
【八九式軽戦車】は当初南方での運用を想定されていましたが、全く逆の満州での戦いに出撃した結果、この寒冷対策は喫緊の課題として浮かび上がってきました。

このような経験を踏まえて、【八九式軽戦車】は新しく空冷式ディーゼルエンジンを搭載したものを製造することが決定。
今では当たり前になったディーゼルエンジン、戦車性能が軒並み世界に比べて劣っている日本において数少ない先見の明と言えるでしょう。
三菱がエンジン開発を担当することになり、1年かけて何度も試験と研究を積み重ねて国産の戦車用ディーゼルエンジンを開発しました。

昭和8年/1933年末にA六一二〇VD 空冷直列6気筒ディーゼル搭載の【八九式軽戦車(以降乙型)】が誕生。
早速極寒の北満で走行試験が行われ、その後も様々な実験を続けます。
この間には【九五式軽戦車】の開発も行われており、この実験は新しい戦車にも影響する重要な取り組みでした。
そして昭和10年/1935年7月、戦車第2部隊練習部にて実用試験を行った結果、ついに世界初の空冷式ディーゼルエンジン搭載戦車として制式採用されることになりました。
また【九五式軽戦車】もこのエンジンの小型版であるA六一二〇VDeを搭載して同年末に仮制式化されています。

ディーゼルは万能ではなく、振動、騒音がうるさいという点、ガソリンエンジンに比べて出力不足なので大型になる点、また始動が遅い(なのでできればずっと暖めとかないといけない)という欠点はありました。
しかし軽油の値段がガソリンの半分、そして燃費がガソリンの2/3でしたから、経済的なメリットは計り知れません。
この【乙型】誕生によって、ガソリンエンジン搭載型は総じて【甲型】と称されるようになります。
なお、甲と乙の違いはエンジンの違いによってのみ区別され、車体の改良とは関係ありません。
一時、車体がこれならエンジンもディーゼルでしょと決めつけていた時があったようですが、この【乙型】誕生と車体後期型が普及したタイミングは少しずれがあるため、混在している車輌が存在しています。

ちょうど同じ時期、全備7.4tの【九五式軽戦車】仮制式化に伴って【八九式軽戦車】【八九式中戦車】へと名称が変わります。
【八九式中戦車】【甲型】が合計220輌、【乙型】が184輌以上は製造されたと記録されています。

さて、【八九式中戦車】の活躍ぶりですが、まず「満州事変」で初陣を飾ります。
「満州事変」では敵戦車がいなかったために歩兵部隊としては大変ありがたい存在だったことでしょう。
「第一次上海事変」でも戦車戦に陥ることはありませんでしたが、ここでは敵の7.92mm機関銃や13mm機関銃を受けると、貫通はしないけど(若干例あり)後で見たらベコベコ凹んでいるという装甲の弱さが露呈しています。

しかしそれよりも深刻だったのは荒れ地での弱さでした。
昭和8年/1933年2月から行われた「熱河作戦」では悪路に足を取られた【八九式中戦車】が遅々として進まず、結局【九二式重装甲車】が先頭に立って作戦を遂行。
開発当初から南方戦線での使用を目的としていたにもかかわらず、その踏破性能を【八九式中戦車】は有していなかったのです。
また、追撃戦が主となった戦いでは、かつてのように塹壕突破を重視した戦車が必要ではなくなったということも明らかになりました。

この後に【八九式中戦車】【乙型】が量産に移りますが、これに次いで【九七式中戦車 チハ】の生産が始まります。
そして【八九式中戦車】【九五式軽戦車】、4輌の【チハ】が初めて挑んだ戦車戦が、「ノモンハン事件」です。
昭和14年/1939年5月から始まった「ノモンハン事件」で、日本の各戦車はとにかく貫通力が不足しているという現実を突きつけられます。
戦闘そのものは日本のほうがかなり優勢(ソ連崩壊までは弱い日本の戦車はけちょんけちょんにされたという説が一般的でした)で、実際に敵戦車の撃破もそうとうな数に及んでいます。
まだ複数の資料を読み込んでいないのですが、Wikipediaによると装甲車両の損失数は日:ソ=36:397とあります。
もちろん全部戦車の戦果ではなく、むしろ歩兵、砲兵の戦果が大きいとは思いますが、にしても損耗比1:10とは驚きです。

とはいえ、短砲身の57mm戦車砲では決して有効打になる攻撃を安定して与えることができませんでした。
砲弾が炸薬を多く搭載していた徹甲榴弾だったため、ちょっとでも当たり所が悪いと貫通せずにぐしゃっと潰れてしまうそうです。
また「ノモンハン事件」で最も多く投入され、そして最も多く撃破された【BT-5】の45mm戦車砲も、【八九式中戦車】の装甲は楽に抜くことができます。

前述の通り歩兵、砲兵の活躍が大きいため、そんな露骨に戦車砲で吹き飛ばされた戦車は双方少ないと思われます。
「ノモンハン事件」の前年の「張鼓峰事件」では、砲兵や対戦車砲が悉くソ連戦車を屠っていまして、ソ連側は戦闘意識や指揮系統の悪さから戦車の優位性を全く発揮することができていませんでした。
この流れは「ノモンハン事件」でも改善されておらず、日本は数の上では圧倒的に不利であったのに、戦意、戦法でこれを覆したのです。

ですが忘れてはならないこととして、日本の戦車、途中で引き揚げてます。
つまり、確かに日ソの損耗比は1:10ですが、日本の損耗率は3~40%であり、これは相当な数です。
戦車団に対して歩兵からも相当不満が噴出しています。
戦車砲で撃っても抜けないから結局対戦車砲で砲兵が戦うということになり、戦車不要論が一時期巻き起こるほどでした。
ソ連戦車は多くが燃やされていますが、これは日本が火炎瓶で攻撃したもの、またソ連が鹵獲を防ぐために自ら燃やしたものが混同しています。

ちょっと「ノモンハン事件」の戦況についての蛇足も入りましたが、【八九式中戦車】はこの【チハ】量産に伴って製造も減少し、「ノモンハン事件」があった昭和14年/1939年で生産が打ち切られました。
初の国産戦車として上々な仕上がりを持って誕生した【八九式中戦車】
戦車の戦い方が変わったため、実際にその力を遺憾なく発揮できたとはなかなか言いづらいですが、それでも日本戦車史のトップを飾るにふさわしい性能と開発経緯、そして以後の戦車開発に与えた影響は誇るべきものがあるでしょう。
また、日本で初めて軍から軍神と指定された西住小次郎大尉が操った戦車としても、【八九式中戦車】は有名です。

ちなみに、【八九式中戦車】には【甲型】「チイ」【乙型】「チロ」という秘匿名称が後から付けられました。
ですがもう【八九式中戦車】として完全に浸透してからの名称で、しかも航空機の愛称のようなものでもなかったために全然広まらず、一部の資料などで時々見かける程度です。

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