基準排水量 | 1,680t |
垂線間長 | 112.00m |
全 幅 | 10.36m |
最大速度 | 38.0ノット |
馬 力 | 50,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 3基9門 |
機 銃 | 12.7mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
燃費向上の成功の影に潜む、バランスと構造の悪さ
革命的な誕生となった「吹雪型」は「綾波型」でさらに主砲と設備の更新が為されてより強化されていきました。
しかし「特型」に全く不満がなかったわけではなく、それは重さであり、そして航続距離でした。
特に航続距離は要望が14ノット:5,000海里に対して4,500海里に留まっていました。
この2つは連動しており、つまり重いから燃費が悪くなり、そして航続距離も短くなっている、ということです。
「特型」が絶賛され、そして現場でも賞賛の嵐である一方で、このような問題点はくすぶり続けていました。
そしてその解決方法として検討されたのが、缶性能の向上です。
重量は「特型」の構造上、すでに電気溶接をはじめかなりの軽量化が施されており、これ以上の軽量化は船体に著しいダメージを与えかねなかったのです。
公試排水量1,980tと言う数字は決して現場が妥協したわけではなく、この数字が精一杯だったということになります。
ただこの排水量も実際には2,097tとなり、「特型」建造と同時進行で、機関の重量軽減・燃費改善は取り組み続けられました。
そこで開発されたのが、全く新しい缶ではなく缶の性能を補助するための空気予熱器でした。
空気予熱器というのは缶で水を炊く際に発生する熱を利用し、缶へ送り込む空気を熱するというものでした。
いわゆるエネルギーの再利用であり、
この空気予熱器は【漣】で実験的に搭載され、見事好成績を収めたことから新たに空気予熱器を搭載させた「特型」の建造が行われることになりました。
【漣】での実験結果は全力時で消費燃料10%減、低速時で15%減という、燃料が自前で調達できない日本にとっては垂涎ものでした。
さらに缶重量も10%軽減できることがわかり、こんなもんすぐ採用やということで急遽空気予熱器を搭載した「特型」の建造が決まったのです。
缶の登場により、恐ろしいことにこれまで4基搭載していた缶が3基で事足りる事態となりました。
缶を3基に減らしたことで缶の総重量は58t減少し、また全力時の燃料消費量はさらに改善されて14%となります。
重たくなってきたから重量を抑えたい、航続距離が短いから燃費をよくしたい、この2つの要求を一気に解決したことは「特型」の歴史の中でもトップクラスの改善でした。
言うまでもなくこの空気予熱器は以後の艦艇の建造や改修時に一部の艦艇に取り付けられています。
これによって艦の設計にも大きく影響するのは言うまでもありません。
2本の煙突のうち1番煙突を缶1基分としたために、1番煙突は2番煙突に比べてはっきりと細くなったのがわかります。
煙突が細くなったことで、地味ですが1番魚雷発射管がちょっとだけ低く設置されています。
缶1基の減によって浮いた58tは搭載燃料の増に割り当てられたようです。
さて、これだけで終わっていればよかったのですが、飽くなき強さへのこだわりは後に「暁型」を、そして多くの駆逐艦を苦しめることになっていきます。
まず「吹雪型」は船体構造のバランスはある程度とれていて、重心は下に、そして限りなく強力な兵装を有し、さらにずば抜けた凌波性を兼ね備えています。
皮肉なことにその重心を支えていたのは重量過多のために造機部長が懲罰まで受けるほどであった機関なのですが。
つまり足枷だった機関が「吹雪型」の復原性を守っていたわけです。
続いて「綾波型」ですが、主砲の換装、そして指揮所増設などによる艦橋の大型化があり、重心が「吹雪型」より少し上がっています。
そしてこの「暁型」は、缶軽量化に伴う艦底部重量の減少がある一方で、艦橋はさらに大型化するという非常にアンバランスな構造へと変化していきました。
「暁型」は「吹雪型」の射撃指揮所に位置する羅針艦橋の上部が魚雷発射指揮所となり更にそれが大型化、そしてその上に露天構造の射撃指揮所が設けられます。
魚雷発射指揮所はもともと羅針艦橋の後部にあったのですが、より視界を広げるために配置換えとなりました。
測距儀は3mに伸び、艦橋のサイズは駆逐艦のものとは思えないものとなりました。
今ある艦橋に上乗せしていった戦艦のパゴダマストとは異なりますが、構造物をどんどん上へと伸ばしていく過程はこれと似ています。
「吹雪型」では洗練されたデザインであったものが、やがて美しさが損なわれ、重厚さが目立つようになります。
主砲は12.7cm連装砲B型を継続しているようですが、一部にはB型改二が搭載されたという資料もありました。
魚雷もこれまでの露天式から誘爆の危険性を下げるために防楯式に変更されたため、3基の魚雷発射管の重量もより重くなり、また風圧面積も数倍にも膨れ上がります。
さて、「暁型」の状況を整理しましょう。
まず艦底部の缶が1基減り、58tが失われました。
この58tは例え搭載燃料を増加させたとしても、100%艦底部で使いきれるわけがありません、そもそも燃料は減ります。
そして艦上構造物では1番煙突が多少細くなり、そして若干ですが1番魚雷発射管の位置が下がり、重量と重心が少し改善されています。
しかし一方で艦橋が駆逐艦史上最大のものにまで大型化、魚雷発射管3基には新たに誘爆と機銃防御のための防楯が取り付けられました。
こうなると重心はどんどん上に上がっていき、安定性が失われて旋回したり波浪によって大きく傾斜する危険性が高まりました。
次型の「初春型」が最も顕著ではありますが、「暁型」も「初春型」に次いで不安定な駆逐艦であったことは間違いありません。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』
この影響は昭和9年/1934年の「友鶴事件」、そして昭和10年/1935年の「第四艦隊事件」として露呈することになります。
「友鶴事件」は「暁型」同様大変なトップヘビーであった重武装水雷艇の【友鶴】が計画値を下回る旋回、傾斜で転覆した事件で、これによりトップヘビーの「初春型」と「暁型」にはすぐにメスが入りました。
「暁型」は当然ながら艦橋の縮小が第一とされ、また方位盤照準装置と測距儀は新たに3m測距儀付きの九四式方位盤射撃塔へと置き換えられました。
重心を下げるためにバラストも搭載され、また主砲も高射砲としての運用がほぼないことからC型の砲楯に取り替えられています。
しかし翌年にも「第四艦隊事件」が発生し、「特型」や同時期に竣工していた巡洋艦に大小様々な被害が集中していたので、その設計で徹底的に行われた「軽量化」が仇となったのは誰の目から見ても明らかでした。
今度は各所の電気溶接で不適切な個所をリベット打ちへ変更し、設計上薄くしていた船首楼甲板と後部甲板を厚板へ変更するなど多くの補強が行われました。
そしてその代償として、【雷】の公試排水量は2,450tとなり、高速だった38ノットは34.5ノットにまで低下してしまいます。
しかし船は強さ以前に安定性、復原性がなければ、戦いの場で安心して航行することもできません。
帝国海軍はその点を踏まえ、重量が増加してでも船体の強化、安全性の向上を重視した改良を各艦に順次行っていきます。
なお、「暁型」が4隻だけである理由は、「ロンドン海軍軍縮条約」において基準排水量1,500t以上の駆逐艦の保有制限がかけられ、これ以上の建造ができなくなったためです。
この影響で、次の「初春型」は「暁型」以上の大きな爆弾を抱えることになります。