
起工日 | 昭和4年/1929年12月24日 |
進水日 | 昭和5年/1930年11月17日 |
竣工日 | 昭和6年/1931年11月14日 |
退役日 (沈没) | 昭和20年/1942年12月15日 |
第三次ソロモン海戦 | |
建 造 | 浦賀船渠 |
基準排水量 | 1,680t |
垂線間長 | 112.00m |
全 幅 | 10.36m |
最大速度 | 38.0ノット |
馬 力 | 50,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 3基9門 |
機 銃 | 12.7mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
燃費向上の成功の影に潜む、バランスと構造の悪さ
革命的な誕生となった「吹雪型」は「綾波型」でさらに主砲と設備の更新が為されてより強化されていきました。
しかし「特型」に全く不満がなかったわけではなく、それは重さであり、そして航続距離でした。
特に航続距離は要望が14ノット:5,000海里に対して4,500海里に留まっていました。
この2つは連動しており、つまり重いから燃費が悪くなり、そして航続距離も短くなっている、ということです。
「特型」が絶賛され、そして現場でも賞賛の嵐である一方で、このような問題点はくすぶり続けていました。
そしてその解決方法として検討されたのが、缶性能の向上です。
重量は「特型」の構造上、すでに電気溶接をはじめかなりの軽量化が施されており、これ以上の軽量化は船体に著しいダメージを与えかねなかったのです。
公試排水量1,980tと言う数字は決して現場が妥協したわけではなく、この数字が精一杯だったということになります。
ただこの排水量も実際には2,097tとなり、「特型」建造と同時進行で、機関の重量軽減・燃費改善は取り組み続けられました。
そこで開発されたのが、全く新しい缶ではなく缶の性能を補助するための空気予熱器でした。
空気予熱器というのは缶で水を炊く際に発生する熱を利用し、缶へ送り込む空気を熱するというものでした。
いわゆるエネルギーの再利用であり、
この空気予熱器は【漣】で実験的に搭載され、見事好成績を収めたことから新たに空気予熱器を搭載させた「特型」の建造が行われることになりました。
【漣】での実験結果は全力時で消費燃料10%減、低速時で15%減という、燃料が自前で調達できない日本にとっては垂涎ものでした。
さらに缶重量も10%軽減できることがわかり、こんなもんすぐ採用やということで急遽空気予熱器を搭載した「特型」の建造が決まったのです。
缶の登場により、恐ろしいことにこれまで4基搭載していた缶が3基で事足りる事態となりました。
缶を3基に減らしたことで缶の総重量は58t減少し、また全力時の燃料消費量はさらに改善されて14%となります。
重たくなってきたから重量を抑えたい、航続距離が短いから燃費をよくしたい、この2つの要求を一気に解決したことは「特型」の歴史の中でもトップクラスの改善でした。
言うまでもなくこの空気予熱器は以後の艦艇の建造や改修時に一部の艦艇に取り付けられています。
これによって艦の設計にも大きく影響するのは言うまでもありません。
2本の煙突のうち1番煙突を缶1基分としたために、1番煙突は2番煙突に比べてはっきりと細くなったのがわかります。
煙突が細くなったことで、地味ですが1番魚雷発射管がちょっとだけ低く設置されています。
缶1基の減によって浮いた58tは搭載燃料の増に割り当てられたようです。
さて、これだけで終わっていればよかったのですが、飽くなき強さへのこだわりは後に「暁型」を、そして多くの駆逐艦を苦しめることになっていきます。
まず「吹雪型」は船体構造のバランスはある程度とれていて、重心は下に、そして限りなく強力な兵装を有し、さらにずば抜けた凌波性を兼ね備えています。
皮肉なことにその重心を支えていたのは重量過多のために造機部長が懲罰まで受けるほどであった機関なのですが。
つまり足枷だった機関が「吹雪型」の復原性を守っていたわけです。
続いて「綾波型」ですが、主砲の換装、そして指揮所増設などによる艦橋の大型化があり、重心が「吹雪型」より少し上がっています。
そしてこの「暁型」は、缶軽量化に伴う艦底部重量の減少がある一方で、艦橋はさらに大型化するという非常にアンバランスな構造へと変化していきました。
「暁型」は「吹雪型」の射撃指揮所に位置する羅針艦橋の上部が魚雷発射指揮所となり更にそれが大型化、そしてその上に露天構造の射撃指揮所が設けられます。
魚雷発射指揮所はもともと羅針艦橋の後部にあったのですが、より視界を広げるために配置換えとなりました。
測距儀は3mに伸び、艦橋のサイズは駆逐艦のものとは思えないものとなりました。
今ある艦橋に上乗せしていった戦艦のパゴダマストとは異なりますが、構造物をどんどん上へと伸ばしていく過程はこれと似ています。
「吹雪型」では洗練されたデザインであったものが、やがて美しさが損なわれ、重厚さが目立つようになります。
主砲は12.7cm連装砲B型を継続しているようですが、一部にはB型改二が搭載されたという資料もありました。
魚雷もこれまでの露天式から誘爆の危険性を下げるために防楯式に変更されたため、3基の魚雷発射管の重量もより重くなり、また風圧面積も数倍にも膨れ上がります。
さて、「暁型」の状況を整理しましょう。
まず艦底部の缶が1基減り、58tが失われました。
この58tは例え搭載燃料を増加させたとしても、100%艦底部で使いきれるわけがありません、そもそも燃料は減ります。
そして艦上構造物では1番煙突が多少細くなり、そして若干ですが1番魚雷発射管の位置が下がり、重量と重心が少し改善されています。
しかし一方で艦橋が駆逐艦史上最大のものにまで大型化、魚雷発射管3基には新たに誘爆と機銃防御のための防楯が取り付けられました。
こうなると重心はどんどん上に上がっていき、安定性が失われて旋回したり波浪によって大きく傾斜する危険性が高まりました。
次型の「初春型」が最も顕著ではありますが、「暁型」も「初春型」に次いで不安定な駆逐艦であったことは間違いありません。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』
この影響は昭和9年/1934年の「友鶴事件」、そして昭和10年/1935年の「第四艦隊事件」として露呈することになります。
「友鶴事件」は「暁型」同様大変なトップヘビーであった重武装水雷艇の【友鶴】が計画値を下回る旋回、傾斜で転覆した事件で、これによりトップヘビーの「初春型」と「暁型」にはすぐにメスが入りました。
「暁型」は当然ながら艦橋の縮小が第一とされ、また方位盤照準装置と測距儀は新たに3m測距儀付きの九四式方位盤射撃塔へと置き換えられました。
重心を下げるためにバラストも搭載され、また主砲も高射砲としての運用がほぼないことからC型の砲楯に取り替えられています。
しかし翌年にも「第四艦隊事件」が発生し、「特型」や同時期に竣工していた巡洋艦に大小様々な被害が集中していたので、その設計で徹底的に行われた「軽量化」が仇となったのは誰の目から見ても明らかでした。
今度は各所の電気溶接で不適切な個所をリベット打ちへ変更し、設計上薄くしていた船首楼甲板と後部甲板を厚板へ変更するなど多くの補強が行われました。
そしてその代償として、【雷】の公試排水量は2,450tとなり、高速だった38ノットは34.5ノットにまで低下してしまいます。
しかし船は強さ以前に安定性、復原性がなければ、戦いの場で安心して航行することもできません。
帝国海軍はその点を踏まえ、重量が増加してでも船体の強化、安全性の向上を重視した改良を各艦に順次行っていきます。
なお、「暁型」が4隻だけである理由は、「ロンドン海軍軍縮条約」において基準排水量1,500t以上の駆逐艦の保有制限がかけられ、これ以上の建造ができなくなったためです。
この影響で、次の「初春型」は「暁型」以上の大きな爆弾を抱えることになります。
負けられない第三次ソロモン海戦の火ぶたを切った暁
【暁】は竣工後、前述した両事件からの改良工事を終えた後、早速「日華事変」へと出撃し、上陸作戦支援や輸送任務などで汗を流します。
この時【暁】は【漣】【狭霧】とともに第十駆逐隊を編成しており、他の3隻とは別の部隊でした。
第十駆逐隊は昭和14年/1939年11月15日付で解隊となり、その後【暁】は【雷】【響】【電】の第六駆逐隊に加わりました。
昭和15年/1940年2月から11月までは【暁】は特定修理を受けているのですが、この時に九三式水中探信儀と九一式方位盤が新たに装備されています。
太平洋戦争では【暁】は【響】とともに(第六駆逐隊第一小隊)南方部隊に配属となり(【雷、電】第二小隊は香港へ)、開戦後はカムラン湾への輸送を皮切りに、「フィリピン攻略作戦、セレベス島攻略戦、バタビア沖海戦」などで哨戒活動や支援任務を行っています。
昭和17年/1942年3月17日には【響、雷】とともに輸送帰りの【米ポーパス級潜水艦 パーミット】を発見。
【パーミット】は急いで潜航したため大きなダメージを与えることはできませんでしたが、実際は爆雷によって艦橋に損傷があり、とりあえず追っ払うことには成功しています。
4月11日から16日の間浦賀で整備を行った後、【暁】は【響】とともに【武蔵】を長崎から呉まで護衛した後、一転して北方の「AL作戦」への参加を告げられます。
5月28日、【暁】は【響】【多摩】【木曾】らとともに青森の川内湾を出発し、キスカ島を目指しました。
6月7日にキスカ島へ到着し、翌日にはキスカ港も抑えることに成功します。
しかし12日にはアメリカの空襲が始まります。
【B-24】が5機キスカ島に襲来し、周辺を警戒していた【響】が標的とされてしまいます。
この爆撃で1発が【響】の艦首右舷側に命中し、錨鎖庫付近で爆発。
さらに3発の至近弾もあったことで浸水が酷く、応急処置で何とか沈没は免れましたが、艦首の被害は甚大なものとなりました。
【響】は被害の受けなかった【暁】に後ろ向きに曳航され、5ノット前後の側でゆっくりゆっくり大湊を目指しました。
退避中も甲板付近が破れていた艦首の亀裂がどんどん大きくなり、15日ごろにはついに90度ほど剥がれ落ちてしまいます。
このままだと艦首そのものが波によって破断してしまう恐れがあったため、ワイヤーで落ちないように固定しながらゆっくり急いで大湊まで曳航を続けました。
大湊に到着したのは27日、出発が13日ですから何と2週間の船旅でした。
曳航を終えた【暁】は再びキスカ島へ向かいますが、敵潜水艦の跋扈によって予定がコロコロ変わってしまいます。
【霞】曳航のはずが駆潜艇沈没の救難を行ったり(【霞】は【雷、電】が曳航)、キスカの手前である幌筵や大湊での哨戒に変更になったり。
そして最終的には「ガダルカナル島の戦い」が勃発したことで再び南へ進出することになりました。
【雲鷹】の輸送護衛をこなした後、10月には本格的に前線に加わります。
この頃はヘンダーソン飛行場への砲撃と鼠輸送が海軍の生命線となっていて、17日にはその鼠輸送に参加。
見事輸送を成功させています。
24日、陸軍第二師団によるヘンダーソン飛行場総攻撃が行われることになり、それに合わせて海上封鎖と輸送を行うべく【暁】は【川内】や多くの駆逐艦と共にショートランド泊地を出撃します。
一時占領の報告があったもののそれは誤報であり、海軍は海上からの艦砲射撃も視野に入れつつ、海上艦隊を撃破するためにルンガへと急ぎました。
しかしヘンダーソン飛行場が健在ということは、このルンガ突撃は敵の制空権に突っ込むことになります。
【暁】は【雷】【白露】とともに突撃隊に任命されていました。
突撃隊はまずは揚陸作業中の【掃海駆逐艦(旧米クレムソン級駆逐艦) ゼイン】を発見し、間合いを詰めてから砲撃を開始。
しかし接近を悟った【ゼイン】もすぐさま逃走を図ったため、あまり追い回すとルンガ泊地から離れてしまうため命中弾1発で取り逃がしてしまいます。
その代わり、戻ってきたところで今度はやはり揚陸中の曳船【セミノール】と警戒中の哨戒艇【YP-284】を発見。
すぐさま砲撃を開始して、この2隻と他に輸送船と仮装巡洋艦1隻ずつの撃沈に成功しました。
ですが海岸の5インチ沿岸砲からの反撃によって三番砲塔に被弾。
火災が発生しますが注水が間に合って弾薬庫の誘爆は食い止めることができました。
一方【秋月】を旗艦とする第四水雷戦隊と【由良】を擁する第二攻撃隊は、突撃隊同様敵制空権内にあるにも関わらず強行を命令されていて、突撃隊の支援や同じく陸上への艦砲射撃を行うことになっていました。
しかし第二攻撃隊は戦闘機による護衛もない中で航空機部隊に発見されてしまい、波状攻撃によって【由良】沈没、【秋月】中破という被害を出してしまいました。
ヘンダーソン飛行場占領も失敗し、陸海共に追い詰められます。
11月9日、手立てがない日本は再びヘンダーソン飛行場への砲撃と輸送を行うためにトラック島・ショートランド泊地からそれぞれ出撃します。
12日から砲撃作戦を行う部隊が分離し、一路ガダルカナル島を目指しました。
砲撃の主体となるのは第十一戦隊の【比叡】【霧島】で、【暁】はその直営隊として【電、雷】らとともに参加しました。
今回の作戦では特に警戒隊の第四水雷戦隊と第十一戦隊の訓練の機会がなく、また道中のスコールによる一時北進もあって隊列は乱れてしまい、結局守られるべき第十一戦隊は【長良】を先頭に先陣を切る状態となってしまいます。
砲撃部隊は第十一戦隊を中心に直営隊が両側に分かれ、矢印のような形で南東へ進行。
【暁】は第十一戦隊の右舷側先頭にありました。
しかし第四水雷戦隊は二分され、【夕立】【春雨】は【暁】のさらに右舷側にあり、当初の計画よりもかなり後方に位置していました。
もう片方の【朝雲】【村雨】【五月雨】は予定とは逆の左舷側の直営隊の後方にあり、第四水雷戦隊は全く統制が取れない形になってしまいます。
そんな中、すでにこの艦隊がガダルカナル島に迫っていることを知っていたアメリカ艦隊も警戒を強めていました。
そこに午後11時20分ごろ、【米セントルイス級軽巡洋艦 ヘレナ】のレーダーに反応があり、25km先の日本艦隊を発見。
しかし旗艦だった【米ニューオーリンズ級重巡洋艦 サンフランシスコ】は搭載しているレーダーが旧式だったため、艦隊の情報共有や命令が遅延してしまい、先手を打てる状況だったのですが時機を逸してしまいました。
一方日本側は警戒隊からもアメリカ艦隊の存在の報告が無く、陸上からの報告でも敵影見得ずということから、予定通り艦砲射撃を行う準備に入りました。
しかしそれは隊列が乱れていなかったらの話で、第四水雷戦隊は予定よりはるか後方にいました。
これでは【長良】の視界と【夕立】の視界は大差ないため、警戒の任務は全く果たされていなかったのです。
午後11時44分、その【夕立】の眼前に、突然黒い影が飛び出してきました。
【米マハン級駆逐艦 カッシング】でした。
【カッシング】は艦隊の先頭にいて、【ヘレナ】からは全く報告が無かった方向からまるでビックリ箱のように現れた【夕立】に驚き、慌てて舵を左に取りました。
この時の両者の距離は、わずか2,700mでした。
この【夕立】の偶然による奇襲によって、「第三次ソロモン海戦(第一夜)」が始まりました。
【長良】や【比叡】もすぐに目視できるほどの距離で右舷前方に現れたアメリカ艦隊に対して、戦艦2隻は陸上砲撃用の三式弾をそのまま放つしかなく、また他の艦も遮二無二砲撃を開始しました。
奇しくも敵艦隊の中心部に突っ込むことになった【夕立、春雨】を除くと、【暁】は最も敵艦隊に近い位置にありました。
その【暁】に相対したのは、【カッシン】の後に続いて3隻の駆逐艦が全て左に逸れたため、先頭に躍り出ることになった【米アトランタ級防空巡洋艦 アトランタ】でした。
あまりに突然な出来事だったので駆逐艦はみな前方の動きに追随するばかりで、【アトランタ】も【夕立、春雨】が懐に飛び込んで切ることに気が付きませんでした。
ふと見ると駆逐艦が横切っていき、そして次の瞬間、【暁】の探照灯が【アトランタ】を暴きだします。
それと同時に、【アトランタ】への無慈悲な集中砲火が始まりました。
【暁】の砲撃はもちろん、【比叡】の初弾も【アトランタ】の艦橋に命中。
袋叩きにあった【アトランタ】は、しかし大炎上、2本の魚雷を受けながらも翌日まで沈まずにこの戦いを耐え抜いています。
ですがアメリカ艦隊は突然の会敵による司令官ダニエル・J・キャラハン少将の命令も悪く、「偶数番艦は左砲戦、奇数番艦は右砲戦」というものだったため、砲撃できそうな敵にも砲撃ができないケースもありました。
さらに【アトランタ】は後方の【サンフランシスコ】からの誤射も受けており、もう無茶苦茶でした。
一方で探照灯を照らした【暁】と【比叡】にも砲撃が集中しました。
探照灯は諸刃の剣、光源に向けてどんどん砲弾が飛んできて、【比叡】はこの砲撃によって操舵装置など多くが故障し、砲撃も散発的になり、旋回を続けることになります。
【暁】は先頭だったことから【アトランタ】と同じような末路を迎えることになり、まるで身を挺して艦隊の目となるかの如く大炎上しながら沈没。
【暁】の被弾経緯は色んな証言があって何が真実かさっぱりわかっていませんが、開戦後かなり早い段階で航行不能となっているようです。
生存者はたったの18名でした。
「第三次ソロモン海戦」によって、日本は【比叡】を失っただけでなくヘンダーソン飛行場への艦砲射撃も未達成となります。
戦果としては日本のほうが勝っていますが、【比叡】沈没はヘンダーソン飛行場という高い壁が存在する日本にとっては大損失となりました。
その傷を負いながら15日の再出撃となりますが、ここでも日本はアメリカに抵抗され、ついにヘンダーソン飛行場、そしてガダルカナル島の奪取を諦める方向へと進んでいきます。