起工日 | 昭和19年/1944年9月18日 |
進水日 | 昭和20年/1945年1月13日 |
竣工日 | 昭和20年/1945年3月13日 |
退役日 (解体) | 昭和34年/1959年11月以降 |
建 造 | 舞鶴海軍工廠 |
基準排水量 | 1,289t |
垂線間長 | 92.15m |
全 幅 | 9.35m |
最大速度 | 27.3ノット |
航続距離 | 18ノット:3,500海里 |
馬 力 | 19,000馬力 |
主 砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門 40口径12.7cm単装高角砲 1基1門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 1基4門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 25mm単装機銃 12基12挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 2基 艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
※松型・橘型の艦の順序は基準によって異なります。
たった半年で多くの不運に見舞われた椎
【椎】は舞鶴で竣工後、第十一水雷戦隊に合流するために呉へと向かう予定でした。
しかし竣工時からモーターに不具合を抱えており、また呉や日本近海の空襲もあって、無理をせずに修復後に改めて出港となります。
途中、補給のために徳山へ立ち寄り、重油を補充してもらいました。
ところがこの重油の精製が粗く、中には塵などの細かいゴミがたくさん含まれていました。
このままでは効率が悪いだけはなく、最悪機器にも影響が出てしまいます。
仕方なく重油を一度全て組み上げ、清掃の上改めて綺麗な重油を補給することになってしまいます。
このようにトラブルが続いた【椎】でしたが、3月26日にようやく呉へ到着。
第十一水雷戦隊の下で訓練を始めることになります。
ところが未だ戦闘部隊には配属されていない【椎】は、近々に迫った「天一号作戦」のために第二艦隊に所属することになります。
当時はもう戦闘を行える船は数えるほどしかなく、動く船をとにかく揃えろ、という意図があったのかもしれません。
しかし当然ながら【椎】は戦闘用の駆逐艦でもありませんし、なによりまだ誕生して半月の赤ん坊です。
あまりにも経験がないため、やはり作戦からは除外されています。
5月20日、【椎】は第三一戦隊、第四十三駆逐隊に編入はされますが、行われることは今までと変わらず、基本的には待機、燃料が融通された時は訓練、というものでした。
6月5日にはアメリカに敷設された機雷に触雷し、主機をはじめ大きな損傷を負ってしまいました。
そしてこの機会に、同時に「回天搭載艦」としての改造も施されることになってしまいます。
さらに運が悪いことに、6月22日には呉への大規模な空襲が発生。
主機が修理中の【椎】は身動きが取れず、祈る思いで空襲が去るのを待ち続けました。
不幸中の幸いというか、今回のアメリカの狙いは船ではなく施設だったため、【椎】のいるドックは標的とはならず、【椎】にも被害はありませんでした。
しかし続く7月2日の空襲も含めて呉は市街地を含めて壊滅。
生き残っているドックだけが動き続けていました。
【椎】は引き続き「回天」を載せる工事を続けます。
工事を終えた【椎】は訓練が行われている平生へ向かいましたが、7月24日にはその平生にまたも空襲があり、ここで【椎】は戦隊の被害は軽微なれど二人の戦死者を出してしまいます。
これが【椎】の最後の戦闘となり、このあと呉で擬装繋留された【椎】はそのまま終戦を迎えました。
終戦後は復員輸送をおよそ20回行ったと記録され、その後昭和22年/1947年7月5日、ナホトカでソ連へ賠償艦として引き渡されました。
ソ連では名を『ヴォーリヌイ』と改められ、艦隊水雷艇(駆逐隊)として所属しますが、特に艦隊水雷艇としての活躍はなく、昭和24年/1949年3月には標的艦へ格下げされます。
名前は『TsL-24』に変更され、こちらでは昭和34年/1959年まで訓練の際に貢献することができました。
そして昭和34年/1959年11月、『TsL-24』は除籍され、その後解体されています。