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『橘型駆逐艦』
【Tachibana-class destroyer】

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艦型と個艦の説明を分けましたが、単純に分割しただけなので表現に違和感が残っていると思います。
基準排水量1,289t
垂線間長92.15m
全 幅9.35m
最大速度27.3ノット
航続距離18ノット:3,500海里
馬 力19,000馬力
主 砲40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm単装機銃 12基12挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 2基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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より早く、より安く、より多く 最後の量産型駆逐艦 橘型

戦況の悪化によって【松型駆逐艦 松】の建造が開始されたのは昭和18年/1943年8月。
当時はガダルカナルでの敗北を筆頭に、アッツ・キスカ島の放棄などによる北方海域の占領地域縮小と、日本は劣勢を挽回することができずにいました。
特にガダルカナル島を巡る戦いで、日本は数多くの主力の駆逐艦を失い、水雷戦を戦いの基盤としている帝国海軍としてみればこの状況はかなりの痛手でした。
そこで本来任されるべきではない輸送任務すら担っていた駆逐艦を本来の任務に戻すべく、主に輸送用として「丁型駆逐艦 松型」が建造されることになります。

ところが、一番艦【松】が竣工したのは昭和19年/1944年4月。
以降の「丁型」はおよそ6ヶ月ほどで竣工はしていましたが、この6ヶ月があまりにも大きい空白期間であることを日本は思い知ることになります。
ちょうど「丁型」が起工した頃、アメリカは建造中の空母の竣工ラッシュが始まるところでした。
正規空母・軽空母ともに続々と海上に姿を表すようになり、また新たに「護衛空母」という、小型・低速・少艦載数ながらも建造期間が非常に短い空母も登場しました。
この護衛空母は主に輸送船団に随伴し、航路に敵が現れた場合は他の護衛艦とともにこの艦載機が敵を排除します。

加えて海中にはもう一つの天敵、潜水艦がいます。
潜水艦を仕留めるのは主に速度と操舵性、装備に優れる駆逐艦の役割です。
そしてその潜水艦もまた、日本の占領海域に続々と押し寄せており、空海の敵により駆逐艦の損耗が著しかった日本にとって、とにかく駆逐艦の増備は急務でした。

「丁型」の当初の工期は10ヶ月が目標でしたが、それはさらに縮められて8ヶ月となっていました。
しかしそれすら遅すぎるということで、「丁型」の工期をさらに短縮しなければどうしようもなくなってしまいます。
これが昭和19年/1944年3月から計画が始まった「改丁型 橘型」誕生の時代背景となります。
工期は約3ヶ月、海軍駆逐艦史上最速の工期を求められました。

「改丁型」は工期短縮の手段として、これまで「駆逐艦」建造のノウハウの中でその短縮方法を模索していたところから、さらに幅を広げた「艦艇」建造全ての工程においての短縮方法を探しだすことにします。
そこで目をつけたのが、「海防艦」でした。
かつては旧式艦を沿岸警備として活用するために割り当てられた「海防艦」ですが、今や小型で量産がきく警備・護衛艦として大量に建造されている艦種です。

「丁型」についてはこちらで紹介しているので、ここでは「改丁型」での変更点などに絞って説明いたします。
まず工数は「丁型」が約85,000に対して「改丁型」は約70,000。
ここに大きく影響するのが、ほぼ全面に採用された電気溶接と、大幅に拡充されたブロック工法です。

「丁型」はかつての艦隊型駆逐艦のように徹底した軽量化だの上部構造物が重すぎるだのがないため、溶接は軽量化のためではなく工期を短縮するための手段でした。
その証拠に、艦隊型駆逐艦のDS鋼から軟鋼に変えたことで強度が不足するため、重くなるのは承知で鋼板の厚みは各所分厚くなっています。
「改丁型」ではそれだけではなく「丁型」の上甲板やシアーで使われていたHT鋼も全廃し、全てが軟鋼での建造となりました。
なので基準排水量も「丁型」が1,260tなのに対して「改丁型」は1,350tと約100tも重くなっています。

艦首形状については「丁型、改丁型」で明確に区別することができませんが、かつては一直線で艦底まで至る形が「改丁型」とされていました。
一方艦尾については「丁型、改丁型」の区別に役立つ箇所で、「丁型」ではこれまでの駆逐艦のように丸みのあるクルーザー型でしたが、「改丁型」では垂直にバッサリ切り落としたトランサム型になっています。
艦底も二重底構造だったものを単底構造となっています。

他には上甲板のキャンバーがなくなり、甲板は完全に平面となりました。
キャンバーとは側面の甲板を支えるための梁の膨らみで、実は上甲板はこれまで平面ではなく少し膨らんでいる状態が普通でした。
これは甲板の剛性を高めるためと、甲板に打ち上げられた海水を自然に流す、つまり水はけをよくするための構造でした。
しかし膨らみということは曲線ですから、「改丁型」ではこれが廃止されました。
近い場所だとその上甲板に繋がるフレアーも弯曲していますが、ここも折り曲げて(ナックルを付けて)平面と平面の接合となったのでフレアーとは呼べないかもしれません。

内部では機関でも省略があります。
中圧タービンと巡航タービンが省略され、高低の2つのタービンだけになってしまいます。
排水量は増えて巡航タービンは減っているのに何故か航続距離には変わりがありません。

艦橋は電波探知室が増設された影響でちょっとだけ後方に大きくなっていますが、これは比較対象がなければなかなか区別するのが難しいです。
比較するならむしろそのすぐ後ろにある22号対水上電探です。
「改丁型」は前檣の中段に22号対水上電探が搭載されていて、だいたい他の駆逐艦と似たような配置です。
ですが「丁型」はわざわざ22号対水上電探用に支柱のようなものが建てられてその上に設置されているので、艦尾が見えない場合はここさえ見れば「丁型」「改丁型」が一発で分かります。

電探は後檣にも新たに13号対空電探が装備されています。
武装は高角砲と魚雷に違いはありませんが、しかし機銃に関しては単装機銃が4基増えたほか、銃座も4箇所設置されたため標準での最大装備は計28挺となりました。

武装の変化は13号対空電探も大きいですが、それ以上に対潜装備にかなりの進歩が見られます。
これまで信頼性がなく駆逐艦や船団の被害増大を食い止めることができなかった九三式水中聴音機や九三式水中探信儀ですが、これらに代わって三式水中探信儀と四式水中聴音機が搭載されたのです。
いずれも昭和16年にドイツに訪れた視察団が入手した技術が結実したもので、ここでようやく艦艇に搭載することができました。

しかし四式水中聴音機はその性質上艦底に直径3mの円形の平面を作る必要がありました。
こんなものを作ると水流の抵抗になってしまうため、当初は速度低下を恐れて搭載を躊躇う声がありました。
また四式水中聴音機には海水を常に溜めておかなければならないので、若干でも重量が増えてしまうこともマイナスポイントでした。
ですがこのほんのちょっとの問題を嫌って対潜性能を低下させることこそ本末転倒、覚悟して最新兵器だった四式水中聴音機を「改丁型」に搭載することが決まりました。
そして使ってみれば懸念された速度低下はほとんど起こらず、案ずるより産むが安しとなりました。
これで「改丁型」は対潜に至っては帝国海軍最強の存在となったわけです。

他にはリノリウムを全面廃止したり、階段や手すりなどの構造物のメッキ加工がなくなって表面塗装のみになる、製造にひと手間がかかる鋼管材は極力使わず山形鋼を組み合わせる、戦訓に応じて舷窓が減少するなど細かいところで工数を減らす努力がなされています。
それでも【橘】は工期6ヶ月となかなか時間がかかっていて、アメリカみたいに日刊駆逐艦みたいな芸当はとてもできませんでした。
これは単純なマンパワー不足のほうが影響が大きいと思います。
劣勢の国が絶対陥ることで、国力が低下してから巻き返すのは非常に難しいのです。
結局「丁型・改丁型」は合わせて32隻しか竣工せず、量産性は確かにあったものの建造が始まるのが遅すぎたと言わざるを得ません。
むしろこの日本の動きは戦後の造船技術の向上に役立つことになります。

出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ

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