1型 諸元
排水量 | 274.4t(水上) 370.0t(水中) |
全 長 | 41.41m |
全 幅 | 3.9m |
最大速度 | 7.5ノット(水上) 3.5ノット(水中) |
馬 力 | 400馬力(水上) 75馬力(水中) |
2型 諸元
排水量 | 430.0t(水上) 540.0t(水中) |
全 長 | 55.0m |
全 幅 | 7.0m |
最大速度 | 14.5ノット(水上) 4.5ノット(水中) |
馬 力 | 700馬力(水上) |
海軍の言いなりはごめんだ 海軍に内緒で独自設計 通称まるゆ
「ガダルカナル島の戦い、ニューギニアの戦い」において、日本は陸海軍ともに攻めあぐねるどころか返り討ちにあっており、特に陸軍の攻撃についてはほとんど成功していませんでした。
当時の輸送手段はもっぱら鼠輸送と呼ばれる駆逐艦を用いた夜間輸送と、「モグラ輸送」と呼ばれる潜水艦を用いた輸送でした。
制空権を奪われている中で、本来の輸送船での輸送はあまりにも無防備で沈没リスクが高すぎたのです。
しかし鼠輸送・モグラ輸送が安全かといわれるとそうではありません。
鼠輸送中も空襲にあったり海戦に発展したり、モグラ輸送も微々たる輸送量しかないのに、潜水艦が陸上付近で浮上する危険性を冒してまでするものかという指摘がありました。
実際に撃沈されるケースも多く、敵であるアメリカ海軍太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツからも批判されるほどの手段でした。
海軍としてみれば、潜水艦を目的外の輸送で使うわ沈んでいくわでたまったものではなく、モグラ輸送は中止したいという思いがどんどん募っていきます。
そこで、海軍は陸軍に対して、新たに小型の「波号潜水艦」を海軍で用意するけど、人員はそっちで賄ってという提案をしました。
陸軍としては、潜水艦を用意してくれるのは確かにありがたいですが、この提案だと物を出す海軍の言いなりになるかもしれないという危惧が生まれました。
ならどうするか。
なんと、自分たちで輸送潜水艦を建造することにしたのです。
しかも海軍に協力してもらうのではなく、自力で。
それが「三式潜航輸送艇(通称まるゆ)」です。
しかしそう簡単なものではありません。
船ならともかく潜水艇です、構造が何もかも違います。
それに海軍に内緒ということは、海軍とつながりのある造船所であったり、設計士などにも依頼できません。
そこで陸軍は、調査や珊瑚採取などで実績を持つ「西村式潜水艇」を開発した西村一松に協力を仰ぎます。
するとあっという間に設計図が完成し、建造に必要な機材などの調達も始まりました。
一方、戦況はガダルカナル島からの転進と敵制空権下での輸送による惨事「ビスマルク海海戦」が発生。
結局航空護衛のない水上輸送は危険極まりなく、潜水艇での輸送は手段の1つとして検討せざるを得なくなっていたのです。
輸送の緊急性が高まってきた以上、海軍に内緒で物事を進めるのは得策ではないと考えた陸軍は、昭和18年/1943年4月にこの潜水艇建造計画を海軍に打ち明けます。
別に海軍としては、全部陸軍で用意していることですから文句が出るわけでもなく、この件については技術や資材協力などをすることになりました。
なお、この「まるゆ」建造計画は戦車よりも優先され、資材も戦車製造用のものから引っ張り込んでいます。
建造計画は昭和18年/1943年度中に200隻。
とてつもない数字を掲げることになりました。
ただ、設計はできましたが、建造する場所が問題でした。
造船所は開戦以来フル回転状態で、建造だけでなく修繕も行うわけですから、とても「まるゆ」の建造を頼める状態ではありませんでした。
そこで陸軍は日立製作所や大阪金属工業(現ダイキン)などの4社に建造を依頼し、早速建造がスタート。
試作艇となる【ゆ1】(1型)は1943年2月にはすでに起工していたようで、実はこのころには一部の海軍関係者とはこの陸軍仕様の輸送潜水艇の情報交換がされていたといわれています。
潜水艇とはいえ、あくまで輸送目的ですから「まるゆ」には潜水艦と違って魚雷がありません。
一応自衛用として四式三十七粍舟艇砲が装備されていますが、たった37mmでは船に穴をあけるのが精いっぱい。
全周視界があるので、どちらかというと機銃と合わせて対空装備の役割だったと思います。
馬力はたったの400馬力、大きさ40mととにかく小型でした。
しかし海軍が最初に提案し、数年後に実装される「波号潜水艦」もだいたい同じ大きさなので、輸送目的・量産優先だとこれぐらいのサイズが適していたのでしょう。
量産といえば、この「まるゆ」は量産工法として電気溶接・ブロック工法が用いられています。
当然建造期間も短く、【ゆ1】はたった9ヶ月で竣工しています。
さらに4社で建造した結果、各社設計をベースに独自の手直しを行ったりしていて、製造元によって性能が異なります。
場所によっては海軍の潜水艦並みの潜航速度を持っていたりと、高性能な面も持ち合わせていました。
12月30日、完成した【ゆ1】の潜航試験が行われました。
この試験には海軍関係者も出席しています。
最初は水平バランスが取れず前へ後ろへと傾いて、潜水ができずやきもきしましたが、やがて水平となり、すると、なんとそのままずぶずぶと沈んでいったのです。
潜水艦は基本的には航行しながら潜っていきますから、これを見た海軍はビックリして、「沈没した」と思ったそうです。
ところが陸軍一同は成功を大いに喜んでいました。
どういうことかというと、「まるゆ」は停止した状態で潜航する設計だったのです。
つまり決して沈没したわけではありませんでした。
ただ、その後艇内で制御トラブルがあり、ともすればほんとに沈没する危険性もありました。
この試験結果によって「まるゆ」の建造が本格的にスタートします。
しかし、潜航結果はOKでもそもそも初めての潜水艇です。
機器類は圧倒的に少なく、トイレもなく、船のトップである艇長室はたった1畳とそれ部屋じゃなくてスペースでしょっていうほどの狭さ。
トイレは一斗缶に直接していたらしく、つまり浮上して陸上や母船に到着するまで汚物は船の中なわけです。
海軍の潜水艦を見たときに、あまりの違いに愕然としたというエピソードもたくさんあります。
運用も機器類が少ないので経験に頼る面が多く、綱渡り運用でした。
他にも航続距離が8ノット/約1,500海里しかなく、ちょっと遠いところだと給油用の母船が必要だったり、水中航行可能とはいえ基本的には昼間は海底でお休み、夜間に浮上して航行するという使い方で、目的地到着まですごく時間がかかったようです。
また、「陸軍が「まるゆ」を製造したぞ、見た目はこう、大きさはこれぐらい」なんて海軍に説明していませんから、初めて「まるゆ」を見た時のエピソードも豊富です。
マニラ到着時に【球磨型軽巡洋艦 大井】?に「汝は何者なるや?潜水可能なるや」と打電(手旗信号?)を受けたり(【木曾】説が当初広まっていましたが、この時【木曾】は修理で横須賀にいました)、「第108号型輸送艦」が2隻の「まるゆ」を発見して攻撃しようとするも、流されているような速度で、何もしてこない小さな潜水艦らしきものに呆気にとられてしまい、そのまま見逃したということもありました。
日本郵船の【伊豆丸】が「まるゆ」を見たとき、謎の潜水艦が接近してきたとして沈められる前に突っ込んでやると、「まるゆ」に体当たりをしかけて損傷したということもありました。
商船にとって潜水艦は天敵中の天敵ですから、この行動も致し方ないでしょう。
実際の「まるゆ」の活躍ですが、やはり速度の問題と、竣工時期が昭和19年/1944年半ばからという、量産計画どこへやら、戦況も悪化の一途であまり有効な運用はできませんでした。
実践初投入(輸送そのものは前述のマニラなどがあります)が11月の「多号作戦」ですから、その後の輸送機会もほとんど残されていませんでした。
8月からは、やはり輸送量が少なすぎるということで、大型で速度も改善した2型の設計が始まります。
ですが、2型は起工が昭和20年/1945年5月とどうしようもない時期で、1型38隻の竣工に留まりました。
世界唯一の陸軍保有の潜水艇となった「まるゆ」ですが、戦争中に、隣に本格的なものがあるにもかかわらず全く新しい兵器を造るという、陸海軍の不和の象徴の一面だけを残して歴史を閉じています。