
起工日 | 昭和16年/1941年8月8日 |
進水日 | 昭和17年/1942年7月18日 |
竣工日 | 昭和18年/1943年5月10日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年11月11日 第三次多号作戦 |
建 造 | 舞鶴海軍工廠 |
基準排水量 | 2,567t |
垂線間長 | 120.50m |
全 幅 | 11.20m |
最大速度 | 39.0ノット |
航続距離 | 18ノット:6,000海里 |
馬 力 | 75,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm五連装魚雷発射管 3基15門 |
機 銃 | 13mm連装機銃 1基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式高温高圧缶 3基 艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
最速の駆逐艦 抜群の性能を誇るも短命に終わる
【丙型駆逐艦 島風】は、「甲型駆逐艦」である「陽炎型・夕雲型」で妥協せざるを得なかった速度を復活させるため、逆に大型化を容認して設計された駆逐艦です。
その性能の高さはこちらで説明させていただきます。 ⇒ 『高速・長航続距離・重雷装・低燃費の最強駆逐艦』
速度が40ノットに達し、さらに雷装も五連装魚雷発射管を3基搭載した【島風】は、帝国海軍が長年追い求めた駆逐艦の最高峰でした。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
「丙型駆逐艦」は昭和14年/1939年の「マル4計画」では試作艦である【島風】の建造が決定され、そして昭和16年/1941年に起工。
続く昭和17年/1942年には「マル5計画」で16隻、つまり4つの駆逐隊を編成するための建造が計画されました。
しかし昭和17年/1942年はあの「ミッドウェー海戦」があった年です。
まさかの大敗北に直面した司令部は、航空戦となった戦争が【島風】を置き去りにしていることを痛感してしまったのです。
もともと高性能故に非常に高価、また複雑な構造から建造にも時間がかかっていたことがあり、この「マル5計画」は様変わりしていきます。
まず16隻の計画は8隻に半減。
その8隻も対空砲を強化したものが必要とされ、五式高角砲と呼ばれる12.7cm高角砲の搭載が議論されました。
この対空強化は【島風】に続々と機銃が増設されていることからも伺えます。
別項で述べた艦首の機銃台の他に、魚雷発射管の間にも機銃台と25mm三連装機銃が2基搭載されました。
しかしこの対策だけでは「丙型駆逐艦」延命には程遠く、やがて「丙型駆逐艦」の量産は頓挫。
高速・重武装の駆逐艦隊によって敵艦隊を叩きのめす、という夢は、「ミッドウェー海戦」によって潰えました。
そして逆に、帝国海軍のこれまでの要求に最も逆向するとも言える「丁型駆逐艦」の建造に舵を切っていくことになるのです。
このような理由で、【島風】は単艦で航海に出ることになります。
編成を組もうにも、【島風】は速すぎてバランスが保つことができませんでした。
竣工日は昭和18年/1943年5月10日。
時期としては太平洋戦争の山場のうち2つがすでに終わっています。
せっかく断トツで速い【島風】がいても、明らかに戦う舞台が違うよねって状態ですから、使い方がものすごい限定されてしまったのです。
12日に「アッツ島の戦い」が始まったとき、【島風】は第十一水雷戦隊で訓練を行っていました。
バタバタしながら訓練を終え、【島風】は30日に幌筵島に到着しました。
すでに第五艦隊がアッツ島の支援に乗り出しており、【島風】はここに加わる予定だったのですが、残念ながら移動中の29日にアッツ島は壮絶な玉砕を遂げて陥落してしまいます。
【島風】としては空振りですが、第五艦隊の仕事はまだ終わりません。
アッツ島が墜ちた今、もう1つのキスカ島を何とかしなければならないのです。
【島風】は横須賀に戻って呉などに移動しながら訓練を継続しますが、一方でキスカ島守備隊の救出の方法やタイミングを急ピッチで議論されていました。
【島風】は柱島にとんぼ返りすることになりますが、そこで8日に突如として沈没した【陸奥】の爆発を間近で目撃します。
その後も就役後に短時間しか訓練ができていなかったことから再び訓練が行われていたのですが、その間キスカ島では潜水艦によるちびちびとした救出が行われていました。
しかし見事に返り討ちに合い計3隻が撃沈されます。
結局こっそりゴッソリ1回でできるだけ救出するしか手段はなく、ここに濃霧に紛れて艦隊をキスカ島に送り込むことが決定しました。
奇跡の「キスカ島撤退作戦」です。
ここに【島風】も参加することになり、呉から再び幌筵島に向かいました。
【島風】に求められたのはその快速性でもなければ雷撃力でもなく、タイミング的に載っけたほうがいいよねと追加された電探でした。
アリューシャン列島の霧は半端なく、数百メートル先も見えない猛吹雪のような光景になります。
信号灯や浮標しか目印にならない中、電探を装備してかつ国内に留まっている【島風】は是が非でもほしい存在でした。
7月7日に実施された第一次撤退作戦は途中で霧が晴れたために断念。
座して時を待った【島風】は、7月26日に再び幌筵を出発しました。
この第二次撤退作戦の機会を待つ中、17日に【島風】は幌筵島付近で潜水艦を発見してこれに爆雷攻撃を行い、撃沈確実と報告しています。
戦時日誌以外の記録がないようですが、もしこれが真実であれば、アメリカの偵察の芽を摘んでることは作戦完遂に向けて大きすぎる戦果でした。
【島風】の九三式水中聴音機は比較的性能が良かったようです。
艦隊は遅すぎず速すぎず、また敵の動きも伺いながら進みます。
しかしあまりの濃霧に【阿武隈】と【国後】が衝突、更に連鎖的な衝突事故が発生するも、離脱は【若葉】1隻で難局を乗り越えました。
この時衝突された【初霜】に代わって【島風】が警戒隊の旗艦となっています。
そして突入を今日と決めた29日、唐突に現れた敵影に第一水雷戦隊旗艦【阿武隈】が攻撃を命令、【島風】とともに左舷に向けて魚雷を発射しました。
【阿武隈】は4本の魚雷を放っていますが、【島風】が放った魚雷の本数はわかっておりません。
しかしこの敵影、正体は小ぶりな島であり、神経を研ぎ澄ましていた結果機敏になりすぎた【阿武隈】見張員の見間違えだったのです。
【島風】がこの前に電探でアメリカ艦隊を捕捉したという報告を上げていたことも一因でしょう。
「一番が敵だ敵だとわめき立てあっと打ち出す二十万」
一番とは見張員のことで、二十万は現在で言うと20億円に換算されます。
これは4本の魚雷を発射した【阿武隈】で歌われた歌ですが、【島風】も複数の魚雷を発射していますので、実際はもっと多くのお金が島に吸い込まれたことになります。
このような勘違いもありましたが、「キスカ島撤退作戦」は無事成功。
5,000人の兵員を無傷で収容し、見事にキスカ島はもぬけの殻になりました。
ちなみに【島風】は兵員の収容そのものには関わっていません。
警戒隊という位置づけだったため、身軽である必要がありました。
キスカ島から無事撤退したあとの8月4日、それを追跡してきたのか【島風】に向かっていきなり魚雷が飛んできました。
回避が間に合わずあわや大惨事かと誰もが覚悟を決めましたが、幸いにして命中した魚雷からは爆音は聞こえませんでした。
不発だった魚雷に安堵する間もなく、【島風】はポイポイと爆雷を投下。
23発の爆雷で損害はあったようですが、撃沈したかどうかは定かではありません。
潜水艦への攻撃は翌月もありました。
9月15日、【長波】とともに【摩耶】【鳥海】を護衛してトラックへ進出。
トラック島から横須賀へ戻るところで、護衛対象の【大鷹】に3本の魚雷が命中(アメリカ記録では6本全部命中)し、うち1本が爆発しました。
【島風】はこの魚雷を放った【米バラオ級潜水艦 カブリラ】に対して爆雷で反撃しましたが、残念ながらこの攻撃では【カブリラ】は損害はなく逃げられています。
【大鷹】は同じく護衛していた【冲鷹】に曳航されて横須賀まで逃げ延びました。
その後も護衛・輸送で南方海域を駆けまわった【島風】ですが、11月にラバウル空襲から逃げかえった時に横須賀に帰投した際に故障が発覚。
それが機関部だったことが非常に問題でした。
なにしろ唯一無二の存在です、量産体制に入っている機関ではないため、部品の調達に時間がかかるという懸念がありました。
しかしこの問題は杞憂に終わり、【島風】の修理は1週間ほどで完了、再度トラックへ向かい、護衛任務に就く日々に戻っていきました。
年が明けた昭和19年/1944年1月8日、今日も今日とて【島風】は輸送船の護衛に出発しました。
バリクパパンからトラックへ向けて向かう3隻の輸送船と【島風】【第102号哨戒艇】【早波】という面々でしたが、途中でこの船団の護衛に加わるために【漣】【曙】もやってきました。
しかし14日、その加わった【漣】が突如大爆発を起こして沈没してしまいました。
船団はいつの間にか3隻の潜水艦に囲まれていたのです。
【漣】は【米ガトー級潜水艦 アルバコア】の雷撃によって沈み、更に【日本丸、健洋丸】も撃沈されてしまいます。
【島風】はその中で1隻の潜水艦を発見しましたが逃がしてしまい、船団は一気に半壊してしまいました。
トラック島から救援に駆け付けた【春雨】と合流し、生き残った【国洋丸】だけは送り届けました。
そこからもまるで「丁型」のように輸送と対潜哨戒ばかり。
機動部隊や戦艦などが5月中旬にタウイタウイ泊地に出撃してからは、周辺で通行料として大量の血を要求する潜水艦に抵抗できず多くの艦船が沈められました。
6月9日には対潜哨戒中に目の前で【谷風】が【米ガトー級潜水艦 ハーダー】の2本の魚雷によって轟沈してしまいます。
昭和19年/1944年8月22日時点の兵装 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm五連装魚雷発射管 3基15門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 25mm連装機銃 2基4挺 25mm単装機銃 7基7挺 13mm単装機銃 1基1挺 単装機銃取付座 7基 |
電 探 | 22号対水上電探 1基 13号対空電探 1基 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
「マリアナ沖海戦」でも日本は空母3隻を失うという完敗を喫し、【島風】はじめ水上艦は「ミッドウェー海戦」同様またしても敵艦と遭遇することはありませんでした。
帰投後呉で【島風】は魚雷を撤去したとありますが、果たして何本下したのかがわかりません。
この時に同時に機銃が大幅に増設されました。
打つ手のない日本は「捷一号作戦」を発動させ、とにかく使える戦力を注ぎ込んでレイテ島に突入するという無謀な作戦に出ます。
ただ、この多くの犠牲を前提とした作戦は栗田ターンが起こるまで意外と達成に向けて進んでいました。
【島風】はその本隊である栗田艦隊に所属しましたが、「シブヤン海海戦」で【武蔵】が断続的な爆雷撃によってついに沈没した際は、【武蔵】の乗員と、沈没して【武蔵】に移乗していた【摩耶】の乗員を救助しています。
この戦いの中では、【武蔵】のすぐそばで護衛をしていた【島風】にも近くに爆弾が投下されたり魚雷が飛んできたりと非常に危険な戦いでした。
しかし馬力が強いというのはありがたいことで、多少無茶でも急加速ができるのです。
このおかげで【島風】は魚雷を艦尾すれすれで回避しています。
翌10月25日、艦隊は潜水艦の襲撃に警戒を強めながら引き続き前進。
ところが【島風】は極度の緊張状態からポッと現れた小さな岩礁を魚雷艇と勘違いし、「敵見ユ」の信号を発して転舵します。
この時艦隊は24ノットという高速で移動していたため、その報告を受けて艦隊は動揺しました。
そんな中、同じく先頭で警戒を行っていた【秋霜】も逆方向に転舵してしまい、小規模ですが2隻は衝突してしまいます。
2隻とも艦首を、また【秋霜】はスクリュー部分も損傷しました。
日が昇っての「サマール沖海戦」では、戦力上では圧倒的有利な栗田艦隊でしたが、空襲と駆逐艦の妨害に苦しめられ、戦艦や重巡の遠方射撃はできても、駆逐艦のような魚雷を必殺兵器とする種別としてはなかなか苦しい戦いでした。
結果的に敗北もしていますし、【島風】はついに巡ってきた五連装魚雷発射管の出番をこの戦いで得ることはできなかったのです。
この時快速を活かしてグイグイ敵に迫った【島風】でしたが、【島風】は本隊である第一遊撃部隊第一部隊の所属だったため、追撃の先鋒となった【雪風】らとはことなり、交戦距離に入っていませんでした。
さらに先の「シブヤン海海戦」の動きも相まって燃料は多く消費しており、帰路での補給の時に燃料タンクを見てみるとほとんど底をつきかけていました。
もし栗田艦隊がそのまま突撃を続けた場合、【島風】は最後まで任務を果たすことができたでしょうか。
10月29日、【島風】はブルネイに到着します。
最後の一石だった「捷一号作戦」も大失敗に終わり、もはや艦隊による反撃は不可能でした。
しかし戦いは海だけではありません、フィリピンを守り、連合軍の進軍を阻むことは国防上どうしても譲れないものでした。
そこで「ガダルカナル島の戦い」同様、またしても駆逐艦によるレイテ島への高速輸送も実施されることになりました。
これが「多号作戦」です。
もちろん輸送船も参加しますが、これもまた敵の制空権内に突っ込むわけですから、遅い輸送船ばかりをダラダラ送り込むわけにはいきません。
「多号作戦」には高速の【一等輸送艦】も投入されています。
「サマール沖海戦」で第二水雷戦隊の旗艦であった【能代】が沈没してしまったため、【島風】はこの座に就くことになります。
日本海軍の駆逐艦の理想そのものであった【島風】の二水戦旗艦。
しかしその任務はすでに理想とは似ても似つかない、指揮系統として空席はまずいからという、ただそれだけのものになり下がっていました。
【島風】が参加するのは「第三次多号作戦」。
しかし出発地であったマニラは11月5日に大規模な空襲に合ってしまいます。
ここで【那智】が沈没して【曙】も大破してしまい、第三次輸送部隊の出撃は延期されます。
この際早川幹夫司令官(少将)は、マニラ空襲を受けた今、敵制空権内を低速の輸送船を伴って航行するなど危険極まりないと猛反対したのですが、勅命という最後通牒を受けて止む無く命令に従うことになりました。
この辺りは「ビスマルク海海戦」と全く同じで、「やれって言ってんだからやれ」と押し切る上層部と徒に被害が増えることを避けたい現場の軋轢がこの窮地にあってもなお解消されていないことの現れです。
前述の通り第三次輸送部隊は出撃を延期。
一方作戦そのものに支障がなかった第四次輸送部隊は予定通り、結果的には先行して11月8日に輸送に向かいました。
この時第三次輸送部隊は第四次輸送部隊が帰投後に出撃する予定でした。
この第四次輸送部隊の輸送は、台風により現地の大発動艇の大半が水没していて揚陸は困難を極め、空襲を警戒するために長居もできず、また陸上もオルモック湾を射程に捉える位置に火砲が配備されたことで、人員の揚陸は100%も物資類は微々たる結果となってしまいました。
帰路では空襲に合って【高津丸、香椎丸、第11号海防艦】が沈没しています。
遅れてしまった第三次輸送部隊は11月9日にマニラを出発。
第四次輸送部隊の帰投を待たずしての出撃となりましたが、これは悪天候が続くという気象班の予測から、航空機の行動がとりにくい今のうちに急いで作戦を終えてしまおうという判断からです。
駆逐艦オンリーなら楽ですが、ここには他に掃海挺、駆潜艇各1隻と輸送船5隻がいます。
とてもスピードが出せる船団ではありませんが、それを承知で行けと言われている以上、今更毒づいても何も変わりません。
ところが翌10日未明に【せれべす丸】が座礁してしまい、救助など行うために【第46号駆潜艇】が共に離脱。
さらに夜が明けると、予測とは裏腹に上空には青空が広がり始めました。
第三次輸送部隊の未来はこの青空の下で海の藻屑と散ることか。
快速で名を馳せた【島風】の散り際が時々刻々と迫っていました。
ゆっくりと進行中の船団の向こう側から、やがてこちらに向かってくる複数の船の姿がありました。
先行した第四次輸送部隊でした。
第四次輸送部隊は輸送船3隻に対して駆逐艦6、海防艦4という布陣で、第三次輸送部隊より護衛は厚い部隊でした。
そして駆逐艦の損害は【秋霜】だけだったため、ここで事前に計画していた一部が第三次輸送部隊に加わる・また入れ替わることになりました。
第三次輸送部隊は【島風】【浜波】【初春】【竹】といった4隻の駆逐艦がいましたが、【初春、竹】は性能としてはどうしても下になります。
そのため第四次輸送部隊から【長波】【朝霜】【若月】が加わり、【初春、竹】は第四次輸送部隊に入ってマニラへ帰投することになりました。
これで第三次輸送部隊は駆逐艦6、さらに【若月】もいますから幾分心強いです。
11日深夜、船団の近くに忍び寄る影がありました。
魚雷艇です。
魚雷艇ぐらいなら敵ではありません、景気づけと言わんばかりに3隻を沈めています。
しかし魚雷艇に発見されたということは、明日の無傷は絶望的と言わざるを得ません。
そして第三次輸送部隊は、【大和】らが出撃したことを察知し、この攻撃に出たものの空振りに終わっていた第38任務部隊の帰還時に発見され、オルモック湾は地獄すら生温い修羅場と化すのです。
時間はバラつきがありはっきりしませんが、9時ごろに【島風】の電探はばっちりその敵機の姿を捉えていました。
船団の空気は一層張り詰めました。
魚雷投棄、ここが我らの死に場所ぞ。
総数347機による艦載機が、第三次輸送部隊の痕跡すら残すまいと怒涛の爆撃と機銃掃射で襲い掛かります。
日本の護衛は「四式戦闘機 疾風」が約30機程度で、物の数に入りません。
駆逐艦は煙幕を展張しますが、その中から姿を見せた輸送船に我先にと敵機が突っ込み、4隻の輸送船は瞬く間に炎上沈没し、また【掃海艇第30号】も空襲で沈没してしまいます。
一方この駆逐艦のメンツはみなそれなりに機銃は増備していましたが、機銃は裸で操作するため、戦闘機からの機銃掃射で吹き飛ぶ肉片は目の当たりにすると卒倒するほどの量になります。
まるで使い捨てのように、倒れればどかして操作し、倒れればまたどかして操作をする。
死ぬまでに何発の弾を撃つことができるか、そんな状態でした。
【長波、浜波、若月】に次々と爆弾が命中します。
1隻、また1隻と総員退去命令が下され、どす黒い煙を吐き出しながら傾いていきます。
船からは重油だけではなく、血と肉の焼ける嫌な臭いが発せられています。
海に飛び込んだ乗員には無慈悲の銃弾が高速で浴びせられ、ここでさらに死傷者が増えていきました。
そんな中、【島風】と【朝霜】は未だ健在でした。
2隻とも機銃掃射や至近弾による被害は膨大で、やはり多くの死傷者が甲板にも艦内にも転がっている状態です。
ところが直撃弾は受けることなく、とにかく動き回って撃って撃って撃ちまくります。
【島風】はその足を活かして爆撃を幾度となく回避しますが、秒刻みで機銃の弾痕の数が膨れ上がっていきました。
無数の攻撃によって浸水も蓄積し、徐々に【島風】の動きは鈍くなります。
いくら機関が無事でも水に足を取られれば速度は落ちます。
【島風】は蜂の巣状態となり、やがて機関室にも銃弾が飛び込んで負傷者が出るほど。
こんな状態ですから機関室も浸水や被弾が増え、トロトロと流れるような速度にまで低下してしまいました。
【島風】からもついに総員退去の命令が下ります。
この時【浜波】からの目撃では【島風】の艦首はなく、また艦橋もぐしゃっと潰されていたようです。
すでに早川司令官も戦死し、上井宏艦長(中佐)も重傷を負っていました。
甲板だけでなく構造物の側面も、まるでペンキ缶をぶちまけたかのような血の海と化し、乗員はぬめぬめとする足元に気を使いながら急いで海に飛び込みました。
一方艦載艇を降ろして乗り込もうとするも、これも四方八方が穴だらけで浮かびやしません。
何とか1艘浮かびましたが、それも穴を木栓で塞いで水を掻き出してとギリギリの状態でした。
【朝霜】は隙を見て未だ沈んではいない【島風】の救助のために駆け寄ってきました。
しかしそれを妨害する戦闘機がひっきりなしに飛んできます。
敵機接近の度に【朝霜】は離脱するわけですが、3回目の接近で接舷を妨害された際、【島風】に残っていた松原滝三郎先任参謀(大佐)に「帰れ」と告げられます。
救助無用、ということです。
余りに危険なため、【島風】の救助はここで敵わなくなってしまいました。
しかし【朝霜】はその後、やはりまだ沈んではいなかった【浜波】の乗員を救助しようと今度は【浜波】に接近しました。
ちょうどその時、雀の涙ほどの支援ですが日本の戦闘機が20~30機ほど現れたため攻撃の波が途絶えます。
この隙に約200名の【浜波】乗員が救助されました。
【島風】唯一のカッターには士官と軽症者計21名(途中1人増えます)が乗っていましたが、3時間かけてメリダ岬に到着。
とにかく急いで上陸し、オルモック湾に残された【大発】を搔き集めて洋上の漂流者を救おうと考えたのです。
しかしその願いはメリダ岬到達間近に突然絶たれます。
停止していた【島風】の後部付近が突如大爆発を起こし、【島風】は爆沈してしまったのです。
あそこには、救助を待つ仲間たちが大勢残されていました。
鎮痛の想いでカッターはメリダ岬目前に迫ります。
そして上陸しようとしたところ、怪しまれた住民に狙撃され、ここで機関参謀の鈴木安照少佐が戦死してしまいました。
慌ててカッターは離脱し、翌日深夜3時ごろにようやくオルモック湾に上陸することができました。
辛くも生き残りオルモック湾にたどり着いた【長波】艦長をはじめとする他艦の生存者ですが、しかしここからも治療は満足に受けれないし衛生環境も食糧事情も最悪、長きに渡り生き地獄を味わいます。
【島風】に乗っていた生存者はわずか17名。
二水戦司令部も合わせて430名もの戦死者を出しました。
帝国海軍史上最速を誇り、そしてその力を随所に示した【島風】。
しかし鎮座するその大きな五連装魚雷発射管からは、ついに1つの戦果も生まれることはありませんでした。
そしてその活躍もまた、たった1年半のものでした。