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浜波【夕雲型駆逐艦 十三番艦】
Hamanami【Yugumo-class destroyer】

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起工日昭和17年/1942年4月28日
進水日昭和18年/1943年4月18日
竣工日昭和18年/1943年10月15日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年11月11日
第三次多号作戦
建 造舞鶴海軍工廠
基準排水量2,077t
垂線間長111.00m
全 幅10.80m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:5,000海里
馬 力52,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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遺影が並ぶ三十二駆 劣勢を肌で感じるフィリピン海

【浜波】の竣工は昭和18年/1943年10月15日。
姉たちと同じく第十一水雷戦隊で訓練を積むことになりますが、1つ上の姉である【早波】とは誕生までに3ヶ月の差があり、太平洋戦線が大きく後退していることもあってこの差は大きいものでした。

12月15日、【涼波】が沈没したためにその穴埋めとして第三十二駆逐隊(第二水雷戦隊所属)に編入されます。
【浜波】はすぐにトラックへの輸送任務を負い、25日に佐伯を出港。
翌昭和19年/1944年1月7日、トラックに到着した【浜波】はそこから次々に船団護衛を行うことになります。

17日には第二海上護衛隊の所属となって、主にトラックとパラオを移動する船団を護衛し続けました。
2月12日、【浜波】【給油艦 佐多】を中心とした7125船団を護衛して、今回もトラックからパラオへ向かって出撃します。
しかし1日、船団に向かって1本の白い線がぐんぐんと接近してきました。
魚雷の航跡です。
幸いにもこの魚雷は命中することはなく、【浜波】は周辺に爆雷を投下して接近を食い止めました。
この魚雷の主は現在のところ明らかになっていません。

難を逃れた7125船団でしたが、危険は1回とは限りません。
17日には今度は【米サーゴ級潜水艦 サーゴ】が現れたのです。
【サーゴ】は発見されることなく船団に向けて魚雷を発射。
その魚雷が【佐多】【日朗丸】に立て続けに命中し、【日朗丸】は轟沈、【佐多】も艦尾が沈下するなど航行不能に陥ります。

【サーゴ】はすたこらさっさと逃げ出して【浜波】らは反撃することもできず、【日朗丸】乗員の救助と【佐多】救援を急ぎました。
【佐多】【新玉丸】による曳航での移動が可能となったことで、7125船団はやがて航行を再開。
追撃を受けることはなく、20日にパラオに到着しました。

3月に入ると日本はマリアナ、カロリン防衛のために日本→トラックと日本→パラオへの大々的な輸送作戦である松輸送を実行します。
日本→トラックの方の東松輸送がいろんな意味で有名ですが、日本→パラオの西松輸送も2回行われていて、【浜波】は西松1号輸送台湾→パラオ間、タパ04船団の護衛に就きます。
タパ04船団は無傷で16日にパラオに到着したものの、14日には水上偵察機が潜水艦らしきものを発見して爆雷を投下。
それを見た護衛の【朝顔】が警戒のために付近に爆雷を投下していた中、魚雷が1本発射されたのを発見します。
この魚雷は命中せずに事なきを得ましたが、撃破の手ごたえもなく、船団は無傷ではありましたが薄氷の上を進むが如しでした。

その後も船団輸送を繰り返していた【浜波】でしたが、4月にリンガへ、そして5月にはタウイタウイへ移動します。
これは「あ号作戦」の準備のためで、タウイタウイには戦艦や空母も勢ぞろい、まさに艦隊決戦を目前に控えた豪華なメンバーが集結していました。
しかしその周辺には潜水艦が多数攻撃のチャンスを狙っていて、下手に出回ろうものならあっという間に魚雷の餌食になってしまいかねませんでした(実際は数隻程度)。
そのため訓練もかなりの制限を強いられた上、哨戒活動のために駆逐艦も気が休まる時がありませんでした。

そんな中で6月5日から8日の4日間では連日駆逐艦が潜水艦に撃沈されるという悲劇に襲われます。
7日は同じ第三十二駆逐隊の【早波】【米ガトー級潜水艦 ハーダー】が魚雷で沈没してしまいます。
さらには連合軍は日本が想定していなかったマリアナ諸島に出現したことで、「あ号作戦」の目論見も崩壊。
そして19日、連合艦隊は「マリアナ沖海戦」で歴史的大敗を喫するのです。

二水戦は前衛部隊に所属しており、【大和】【愛宕】らが中心となる部隊です。
しかし空母へ向かう敵機の群れを吸収することはできず、戦果もかなり限定的なものでした。
空母3隻、しかも【大鳳】【翔鶴】は航空戦ですらなく潜水艦による攻撃の沈没であり、戦いは救いようのない形で閉幕しました。

昭和19年/1944年6月30日時点の兵装
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 7基7挺
単装機銃取付座 7基
電 探22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

7月7日、【米ガトー級潜水艦 ミンゴ】との戦いに敗れて【玉波】が沈没します。
【玉波】は第三十二駆逐隊旗艦だったため、旗艦は【浜波】が引き継ぐことになりました。
実は【早波】も沈没した時は旗艦であり、これで第三十二駆逐隊は2回連続旗艦が沈没していたのです。

10月に入り、【浜波】はリンガへ入りました。
今回もまた大艦隊が集結していましたが、部隊は大きく4つに分けられ、リンガにいたのは第二艦隊、いわゆる栗田艦隊でした。
もはや空母も艦載機もパイロットも擦り切れてしまった日本は、敵が真っ先に撃滅したい機動部隊(小沢艦隊)を囮とし、その隙にフィリピンのレイテ島に回り込んで突撃するという無謀な作戦に打って出ます。
これが「捷一号作戦」と呼ばれるもので、【浜波】は二水戦の一員として捨て身の作戦に参加したのです。

ところが壮大な作戦の意図こそアメリカには気付かれなかったものの、栗田艦隊は動きはしっかりマークされており、23日には「パラワン水道の悲劇」、24日には「シブヤン海海戦」でともに大打撃を受けています。
戦艦の力がどうにも活かしきれない太平洋戦争の中では、【愛宕】【高雄】のダブル離脱の方がダメージは大きかったかもしれません。
それでも栗田艦隊はレイテを目指して進軍を続け、ついに25日にはレイテの北部を通過。
そしてその栗田艦隊の前には、大きな大きなニンジンがぶら下がっていたのです。

勝利に飢えていた栗田艦隊は、大海原で正規空母群の蜃気楼に目が眩みます。
その正体は似ても似つかぬ小型の護衛空母だったのですが、栗田艦隊は護衛空母目掛けて突撃を開始。
「サマール沖海戦」が始まりました。

全速力で逃げ出すのはタフィ3と言われる艦隊です。
低速、少量の艦載機、護衛も駆逐艦だけのタフィ3は、持てる力を振り絞って栗田艦隊に抗いました。
タフィ3が幸運だったのは、栗田艦隊に航空戦力が皆無だったことです。
艦載機からの攻撃を遮る戦闘機が必要ないため、いくら数が少ないとはいえ、艦載機による攻撃は有効でした。
加えて駆逐艦、護衛駆逐艦の働きも立派なもので、煙幕と魚雷で栗田艦隊を翻弄します。
全速力で逃げるタフィ3に対して、後ろから魚雷を撃ってもそう簡単には命中しません。
【浜波】は10,000mほどの距離で魚雷を発射したものの、やはり命中はしていません(到達予定時間の爆発は観測)。

最終的にタフィ3は5隻が沈没していたのですが、それに対して日本は【鳥海】【鈴谷】【筑摩】が沈没しています。
他に【熊野】が大破撤退していたり、その後の空襲などで多くの駆逐艦や【能代】が沈没するなど、日本のほうが被害は甚大でした。
そして何よりも、栗田艦隊が反転撤退したことで、レイテへの突入も行われず、これで連合艦隊は存在感を消失しました。

26日、撤退中の栗田艦隊が空襲されて前述のとおり【能代】が沈没します。
【浜波】【秋霜】とともに【能代】乗員の救助にあたり、また二水戦旗艦の喪失によって一時的に【浜波】が二水戦旗艦となっています。
その後【浜波】ら多くの駆逐艦は燃料不足を理由にコロンへの撤退が命じられました。
本隊に同行できたのは【磯風】【雪風】だけでした。

一方で前日に【鳥海】の乗員を救助してやはりコロンへ撤退中だった【藤波】は、同日に別の部隊の空襲を受けて沈没してしまいました。
【藤波、鳥海】の乗員はこの攻撃により総員戦死しており、同海域ではその後【不知火】も全く同じシチュエーションで全滅する最悪の結果を迎えています。
【藤波】沈没によって、第三十二駆逐隊は【浜波】ただ1隻となってしまいました。

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多号作戦は命をつなぐ作戦か 爆炎渦巻くオルモック

太平洋戦争の勝敗もほぼ決したと言える「レイテ沖海戦」
海戦後【浜波】は他の艦と共にブルネイへ帰港していましたが、数日後に「多号作戦」実施の為にマニラへ向かうように命令されます。
レイテへの船団輸送の護衛をすることになったのです。

11月2日にマニラに到着。
輸送船に物資が搭載される中、マニラも何度も空襲を受けていました。
そして5日の空襲は200機を超える大規模なもので、【浜波】は至近弾を受けるものの被害はありませんでしたが、【那智】が猛攻を受けて沈没。
さらに輸送作業も一時停滞してしまい、本来なら7日出撃の予定だったはずの第三次輸送部隊はそれが延期となりました。

代わって8日出撃の予定だった第四次輸送部隊が先行。
遅れることになった第三次輸送部隊は、この第四次輸送部隊が帰投してから出撃することになりました。
ですが天候の予測ではしばらく悪天候が続くとされたため、被害を抑えるためにも航空機にとって条件が悪いうちに輸送を終えてしまおうということになり、9日には第四次輸送部隊の帰投を待たずに出撃します。

しかし第三十二駆逐隊の大島一太郎司令(当時大佐)は航空護衛が非常に少ないことを理由に出撃に反対。
他に第二水雷戦隊の早川幹夫司令官(当時少将)も猛抗議をしていますが、結局命令系統は上が下に「やれ」と言えば話はそれで終わりなのです。
第三次輸送部隊の【島風】【浜波】【初春】【竹】を警戒隊とし、掃海艇と駆潜艇各1隻、また輸送船5隻という面子で出撃しました。

この大時化の中どれだけ輸送を行えるか、重要な任務を果たすべく部隊はゆっくりと前進します。
ところが天は心変わりをしてしまい、翌日の10日になると空はすっかり晴れ渡ってしまいました。
忸怩たる思いの中、【浜波】らは引き返してくる第四次輸送部隊と合流しています。
第四次輸送部隊は【高津丸、香椎丸、第11号海防艦】が沈没しており、行く先の過酷さを物語っていました。

この時護衛強化のために第四次輸送部隊から【長波】【朝霜】【若月】が第三次輸送部隊に加わり、代わって【初春】【竹】が第四次輸送部隊に合流。
この2隻はそのままマニラへと引き返し、第三次輸送部隊はオルモック湾へ向かいます。
ちなみに10日午前3時過ぎに【せれべす丸】が座礁してしまい、その救助など行うために【第46号駆潜艇】が共に離脱しています。

しかし、制空権を奪われている中での航行は常に危険と隣り合わせです。
第四次輸送部隊も空襲を受けていますし、またこの悪天候で【大発動艇】もかなりの数が損傷していることから大型物資の揚陸はほぼできず、兵士だけがレイテに上陸するにとどまりました。
そのため物資輸送がメインであった第三次輸送部隊の存在価値はより高まりますが、この青空でどれだけ輸送ができるか、皆不安に思ったことは間違いないでしょう。
その不安を煽るかのように、上空には【P-51】がプロペラ音を響かせながらウロウロしています。

11日になったころには魚雷艇が現れたためこれを撃退。
1隻が炎上したため部隊は沸き立ちましたが、この何倍もの炎が半日後にオルモック湾を覆うことになります。

9時ごろから触接があり、そして10時ごろには遂に大編隊がオルモック上空に展開されました。
この大編隊の目標は、ブルネイを出撃していた【大和】達を攻撃するために出撃していた第38任務部隊の艦載機だったのですが、発見できなかったことから引き返していたところにこの第三次輸送部隊と遭遇したと言われています。
真っ青な空に現れる無数の黒点、第三次輸送部隊は容赦なく押しつぶされていきます。

各艦輸送船を守るために煙幕を展開しますが、膨大な航空機の襲来だったため煙幕にも機銃と爆撃が次々に撃ち込まれます。
湾内は大声と爆撃音で一杯です。
水柱がドーン、ドーンとあちこちで上がる中、やがて1隻、また1隻と被弾して炎が上がり始めました。

そんな中【浜波】にも遂に爆弾が命中します。
舵は故障し、その後艦首付近の被弾に加えて魚雷も命中したらしく、【浜波】は艦首を喪失して航行不能となりました。
他にも次々に降り注ぐ至近弾によって【浜波】はボロボロになり、そしてその後は甲板に向かって弾丸が無数に撃ち込まれ、その瞬間兵士達はバタバタと死んでいきます。

ようやく空襲が落ち着いた時、まだ3番砲塔と一部の機銃だけが火を噴いていましたが、【浜波】はもう虫の息でした。
【浜波】は総員退去命令が出され、負傷者を手当てしながら短艇や浮揚物の投下などが始まりました。
足場は血でドロドロです、これほど人間には血が流れているのかと思うほど、甲板は凄惨な状態でした。
そんなところにこの空襲で唯一無事だった【朝霜】が救助の為に駆け寄ってきてくれました。

本倉正義艦長(当時中佐)は艦橋への集中的な機銃掃射よって左足首が吹き飛んでおり、大島司令と共に【朝霜】へ移乗されます。
空襲の合間を縫った素早い救助活動で、269名の救助が終わると速やかに【朝霜】【浜波】から離脱します。
黒煙の中に残る無残な【浜波】の姿が徐々に離れていきました。

主を失ってしまった【浜波】ですが、彼女を諦めない人物がいました。
【長波】艦長の飛田清少佐です。
飛田少佐は他の【長波】の乗員を引き連れて【浜波】を生き返らせようと奮闘します。
結果、最も重要な機関の再始動に成功します。
ところがその機関を動かすための真水が少なく、修理ができるマニラまで戻る量はとても残っていませんでした。
仕方なく【浜波】を陸上砲台にしようと、擱座させるためにゆっくりと進みます。

しかし海がそれを許してくれません。
潮流が【浜波】の進路を妨害し、速度も馬力も弱い状態の【浜波】では立ち向かうことができなかったのです。
結局一夜明け、飛田少佐らはレイテから派遣された【大発】に乗って【浜波】と別れを告げました。