キスカ島撤退作戦(ケ号作戦) |
中編(幻影艦隊)
作戦参加戦力
日 本 |
司令官:木村昌福少将 |
軽巡洋艦【多摩】 |
軽巡洋艦【阿武隈】 |
軽巡洋艦【木曾】 |
収容駆逐隊 |
・第十駆逐隊 |
駆逐艦【夕雲】 |
駆逐艦【風雲】 |
駆逐艦【秋雲】 |
・第九駆逐隊 |
駆逐艦【朝雲】 |
駆逐艦【薄雲】 |
駆逐艦【響】 |
第一警戒隊 |
・第二十一駆逐隊 |
駆逐艦【若葉】 |
駆逐艦【初霜】 |
駆逐艦【長波】 |
第二警戒隊 |
駆逐艦【島風】 |
駆逐艦【五月雨】 |
補給隊 |
海防艦【国後】 |
タンカー【日本丸】 |
ミ・ミ・ミ
キスカ島では救援艦隊の到着に備えて準備が進められた。
持ち運びが許されるものはかばん1つのみ。
すでにアッツ島守備隊の玉砕後に次は我々かと覚悟を決めて処分が進んでいたが、ここにきてその時に捨てることができなかったものも新たに処分せざるを得なくなってくる。
そこには涙を流しながら手紙を1枚1枚燃やしていく兵士たちの姿があった。
決行日は7月11日の予定である。
それに向けて守備隊もキスカ湾に向けて10日、11日早朝に各部署から出発。
白夜のキスカ島の上空にはガスが充満し、空襲の恐れはない。
雪道の足跡は本土帰投という希望に向けて続いていた。
一方、旗艦【阿武隈】には木村少将とともに作戦の立役者の1人である橋本大尉が天気図を睨みつけていた。
予測と実際の天気の変化にズレが生じてきていたのである。
第五艦隊司令部からは天候状況から作戦決行日の変更の必要はないときている。
しかし橋本大尉の見解は違った。
「キスカ島周辺の気圧上昇、キスカ島及び道中霧なし」
霧がなくては作戦成功はありえない。
木村少将は躊躇なく決行日を変更し、突入は7月13日となった。
これに伴いキスカ島守備隊も来た道を引き返すことになった。
11日、キスカ島はアメリカ艦隊からの艦砲射撃を受けている。
救援艦隊は11日は待機、12日に再びキスカ島目指して航行を開始した。
しかし蜘蛛の糸は徐々に誰に手にもかかることなく昇っていく。
13日は若干の霧があるものの視界がよく、厳しい警戒をかいくぐることはできない。
やむなく突入日は再び延期、翌14日となった。
13日、橋本大尉の判断とは異なり、霧は濃かった。
しかしキスカ湾付近には駆逐艦が警戒にあたっていた。
予測は外れたものの、予想外の遭遇を回避することができた。
この時には再び艦砲射撃を受けたとの証言もある。
運が良かった。
だがキスカ島で救援を待つ者としては、2度の待ちぼうけは応えた。
もともと無茶な作戦である、成功確率は限りなく低い。
しかし一度希望を持った後、その希望が失われるのは、端から希望がないよりも精神的ダメージは大きい。
再び持ち場へ戻るために、自分たちがつけてきた足跡を辿っていくのは辛かった。
突入は15日。
三度の延期である。
14日には台風の影響で昼ごろから徐々に霧が立ち込めてきた。
待ちに待った天然のカーテンである。
艦内でもいつまで経っても突入できないもどかしさに焦りを感じていたため、この台風は乗員たちの気持ちを奮い立たせた。
そしてここを逃せば、残された燃料からも突入はできない。
最後のチャンスであった。
15日午前2時、キスカ島の電信室に入電があった。
ス・ス・ス
その瞬間、電信室は歓声に沸いた。
「突入ス」の暗号であった。
キスカ島も霧で包まれている。
機は熟した、今こそキスカ島突入の時である!
向かう者、待つ者、全てが同じ気持ちだっただろう。
その希望はすぐに絶望へと変わる。
時々刻々と視界は広くなり、ついには青空まで目に映るようになってしまった。
午前9時頃、海上からの視界は20kmほど。
航行に何ら支障のない、平時であれば好ましい天候であったが、これほど青空を恨めしく思う日はなかっただろう。
【阿武隈】の中では木村少将が決断を迫られていた。
周辺の駆逐艦からは突入の催促が飛び込んでくる。
橋本大尉は苦々しく今後の天候の予測を報告する。
「突入予定時刻の15時、キスカ島は視界良好、アムチトカ島も同じく」
つまり、丸裸である。
木村少将の頭の中では数ヶ月前の地獄がよぎったことだろう。
「ビスマルク海海戦」、航空支援のない中、足の遅い輸送船を率いて敵制空権内を進軍。
突入すれば、輸送船こそ待機させることができるものの、その他の条件はすべて同じ。
加えて向こうには艦隊も揃えている。
「この任務は激戦の戦場に飛び込むより苦心と忍耐がいる。作戦は一水戦司令官に一任する」
皆木村少将を見ている。
彼の決断を待っている。
どれだけの時間が経っても、もう誰も声を発することはなかった。
やがて木村少将は有近六次参謀長に言った。
「先任参謀、帰ろう」
異論はなかった。
司令官の言葉である。
艦長は反転を命令、救援艦隊は一路幌筵島へと向かった。
「帰ろう。帰れば、また来られるからな」
誰に向けて発したのか、木村少将は最後にこうつぶやいた。
4時間後、敵に電波を傍受されることを恐れ、十分に距離をとってから【阿武隈】はキスカ島へある入電をした。
ミ・ミ・ミ
この入電があった後、キスカ島は暗澹たる空気で充満していた。
「突入不能」
我々の救いの手は、到着することなく帰るのである。
絶望だった。
皆、ただ死んでいないだけで、生きてはいなかった。
撤収作戦であったため、食料も撤収までの数日分を残して処分してしまっていた。
黙々と少ない飯を食い、黙々と持ち場へ戻り、黙々と兵器の再使用の準備を進めた。
こんな状態で、戦えるわけがなかった。
戦意はぷっつりと途切れ、空襲だろうがなんだろうが皆思い思いの行動をとった。
海を眺める者、野に寝転がるもの、そして銃口をこめかみに当てるもの。
峯木少将と秋山少将は焦りを隠せなかった。
作戦の中止はもとより、この失った戦意を回復させるのは到底不可能だった。
しかし撤収作戦そのものが無くなったとは聞いていない、彼らは必ずキスカ島へ来てくれる。
それを信じ、そしてその作戦を成功させる上でも、我々は引き続きここでアメリカと戦う姿勢を見せなければならない。
徹底抗戦をしてやる、何日でも足止めをしてやる、お前たちの計画を片っ端から壊してやる。
ここでの戦意喪失は白旗を掲げているも同じ。
相手に敵意がないことがわかればわざわざ霧の晴れる8月まで待つ必要はない、早々に上陸してくるだろう。
そうなれば今度こそ作戦はおしまいだった。
彼らは自分たちの気力も振り絞り、少ない弾薬での応戦を続けた。
木村少将への非難が止まらなかった。
決断力がない、覚悟がない、臆病者、霧が出る時期はあと僅かだ、燃料も少ない中どうするつもりだ。
言いたい放題であったが、木村少将はもともとこのような批判でへこたれるような人物ではない。
彼は純粋に水雷屋としての実力だけで少将まで上り詰めた逸材である。
彼は仲間を信じ、そして自分を信じることができ、そしてそれによって最大限の力を発揮することができる存在だった。
しかし彼も単に飄々としていたわけではない。
「結果はこの日航空機飛ばざりき」
この日、アムチトカ島から航空機はやってこなかった。
空襲に合う危険性は低かった。
突入すべきだったのかもしれない。
葛藤の中、彼は「この作戦は全員撤収であること」という信念を貫くために、木村少将は再びの出撃の時を得るために帰還した。
そして次は必ず成功させるという決意を持っていた。
一方軍令部や第五艦隊は「作戦実行」が最大の目標であり、極端に言えばどれだけ救われようがどうでもよかった。
どうせ成功確率が非常に低い作戦である、5割も助かったら十分な作戦である、多少の被害はやむを得ない、だが実行しないというのは言語道断である。
こういう言い分だ。
そもそも求めている結果が違う。
木村少将の覚悟は彼らのそれよりも遥かに重かった。
木村少将は【阿武隈】の甲板から釣りをしながら霧を待った。
幻影艦隊との戦い
19日、【阿武隈】の艦内が騒がしくなる。
第五艦隊の幹部が乗り込んできて、次なる作戦には我々も突入前日まで同行すると言うのである。
つまり、作戦実行まで見張ってやると言うことだ。
木村少将への不信感を全面に押し出してきた第五艦隊であったが、その彼らが同行する船【多摩】の艦長は、かつて「ビスマルク海海戦」で作戦強行を命令した神重徳大佐であった。
これに対して一水戦からは不満が噴出した。
作戦に同行するかと思えばそうではなく、見張って突入の命令を下した後は自分たちは見物するというのである。
しかも突入の決定は前日中に行うという。
15日に突入する、撤退すると決めたのは何日何時だったか、前日に決定などできるものか。
もともと第五艦隊や軍令部の木村少将への非難に納得がいっていなかったこともあり、救援艦隊の結束はより固まった。
なんとしても木村少将の立てた作戦を成功させてみせる。
5,200人を1人残らず救ってみせる。
奇跡の作戦まであと10日である。
7月22日、突入日が決まった。
7月26日である。
25日以降数日に渡って確実に濃霧が発生すると、気象台も橋本大尉も断言した。
同日夜、急遽救援艦隊は幌筵を出撃。
将旗は【阿武隈】ではなく、【多摩】に掲げられていた。
【阿武隈】と【木曾】には新たに陸軍の7cm高角砲と各艦10人の陸軍兵士が同乗した。
翌23日、早速待ちに待った霧が艦隊を包み込んだ。
しかしこの作戦で初めての本格的な霧は早速落伍艦を出してしまう。
【国後】と【長波、日本丸】が浮標を見失ってしまい、特に【国後】は電話もつながらない状態だった。
24日には7cm高角砲の試射も兼ねて発砲し、その音を頼りに合流を狙った。
そして無事に【長波、日本丸】は隊列に復帰することができた。
24日、【PBY カタリナ】のレーダーには、7つの反応があった。
しかしこれは救援艦隊を発見したわけではなく、レーダーの誤認であった。
この報告を受けて【ニューメキシコ級戦艦 ミシシッピ】らが出撃したが、当然報告を受けた場所に救援艦隊はいない。
空振りに終わった米艦隊は引き揚げていった。
25日、補給を受けて艦隊は迂回路からいよいよキスカ島へ向けて直進をする。
しかし航路上に潜水艦の反応があったことが【多摩】より伝えられる。
当然隠密作戦なので【阿武隈】らは回避をしたかったが、第五艦隊は到達の時間が遅れることを嫌い、わざわざ潜水艦に突っ込む航路を取れと命令してきた。
双方の不穏な空気は未だ解消されることはなかった。
幸い攻撃をすることも攻撃を受けることもなく、救援艦隊は北進を続けた。
突入予定日の26日、霧はますます濃くなって、視界は300mほどだったという。
日程は順調とは言えず、はぐれた【国後】とも未だ合流できていない。
各艦慎重に、浮標を失わないように航行を続けていた。
その瞬間、【阿武隈】の横(左が有力)からヌッと黒い影が現れた。
即主砲が向けられたが間に合わず、艦尾付近に小衝突した。
影の正体はこれまで姿を見せなかった【国後】だった。
視界がますます狭まった中で合流できたのは奇跡的であった。
被害も双方軽微であり、【国後】は再び作戦に参加することとなった。
木村少将は「これだけの事故が起こるほどだから霧の具合は申し分ないということだ」と笑ったという。
しかし衝突事故はこれだけではなかった。
【阿武隈】と【国後】の衝突の一方で、【初霜・若葉・長波】が連鎖衝突を起こしている。
【初霜】が【若葉】の右舷に衝突し、そのはずみで【若葉】の艦尾が【長波】にぶつかったのだ。
特に【若葉】の損傷は大きく、手痛い損失ではあったが【若葉】はここで撤退を余儀なくされてしまう。
もともと多めの艦隊を組んでいたのは幸いであった。
【若葉】座乗の第二十一駆逐隊司令は【島風】に移乗し、【初霜】は【若葉】の後を継いで【日本丸】の護衛についた。
しかし26日の突入は不可能とされ、突入日はまたも延期となってしまった。
決行の日は29日である。
霧の晴れる8月は目の前まで迫っていた。
26日、キスカ島。
ここでは激しい砲撃戦が行われていた。
実はアメリカは日本とキスカ島の通信を傍受しており、さらに先の潜水艦でその行動が本当であることがわかった。
その情報をもとにトーマス・C・キンケイド中将は待ち伏せをしていたのである。
読みどおり【ミシシッピ】はじめ大型艦のレーダーには次々と反応があり、距離15海里に日本艦隊がいると断定。
すぐさま進軍を開始し、目標に向けてレーダー射撃を行った。
敵にはレーダーはない、反撃はない、こちらは一方的に天然の煙幕から雨のように砲弾を降らせれば勝ちである。
アメリカはキスカ島上陸を目論む日本艦隊を壊滅させるために徹底的な攻撃を繰り広げた。
それに慌てたのが【ニューオーリンズ級重巡 サンフランシスコ】と駆逐艦たちであった。
いきなり「なにもないところに」戦艦や他の重巡が砲撃を始めたのである。
攻撃をしようにも目標がない、しかし戦艦や重巡はどんどんと砲弾を発射している。
彼らのレーダーにはなにか映っているのか、こちらのレーダーは故障しているのか。
演習とは思えない砲撃だ、必ず彼らは「見えない敵」に向けて攻撃をしている。
結局アメリカは36cm砲弾118発、20cm砲弾487発という猛攻をしかけた。
そして無事にレーダーからは反応がなくなった。
撃沈である、壊滅である、完全勝利である。
見えない敵は、本当に見えなくなった。
【サンフランシスコ】達は最後まで見守ることしかできなかった。
当然ながらそこに日本艦隊はいない。
その時日本は【阿武隈】と【国後】の衝突もあって、まだキスカ島からは遠く離れたところにいた。
【ミシシッピ】達のレーダーに映ったのは、アムチトカ島などの島の反響映像だったと言われている。
アメリカはこれで日本艦隊の壊滅を確信。
翌日哨戒機を飛ばして確認させても現場には何一つ残されていなかったが、これまで数々の戦果を作り上げてくれたレーダーと暗号解析が誤っているわけがないと、判断を変えることはなかった。
そして膨大な弾薬を消費してしまった艦隊は、あろうことかキスカ島周辺の哨戒駆逐艦を含めて全艦をキスカ島から補給のためにアダック島まで撤退させてしまった。
彼らの頭の中では「アメリカが8月には上陸することは知っているからこの日を選んだのだろうが、その艦隊は壊滅した。主戦場ではない北方にそう簡単に新しい艦隊が輸送にやってくるわけがない。数日留守にしても何ら問題はない」という解釈だったのだろう。
後にこのことを知ったアメリカは、この戦いを「ザ・バトル・オブ・ピップス」(幽霊との戦闘)と呼んでいる。
事情を知らないキスカ島の守備隊は、予定なら今日には到着する日本艦隊の代わりに砲撃音が聞こえてきて、霧の中に薄ぼんやりと光芒が見えたので、唯一の希望も絶たれたのかと落胆した。
しかしアメリカの砲撃記録の通信を傍受していた日本はこの砲撃が同士討ちのものであると思った。
アメリカが平文でこの通信をこなったのは、当然「傍受するものなどいない、その可能性は今潰した」という判断だろう。
当然この情報はキスカ島電信室にも届いており、日本艦隊は未だ健在であることを聞いて兵士たちは再び息を吹き返した。
救援艦隊は知らないが、幻影艦隊との戦いに勝利したアメリカは補給のためにキスカ島を離れた。
キスカ島の霧の中には確実に生還への道が続いている。
5,183人の命をつなぐ道が続いている。
突入の時は近い。