【八八艦隊計画】とは、大正9年/1920年に計画され、予算承認が降りた帝国海軍最大の軍備拡大のための計画(八ケ年計画)である。
世界全体でも膨張の歯止めが効かない軍拡は、「ワシントン海軍軍縮条約」によって保有制限が設けられ、いずれ訪れる際限なき軍拡による国家破綻の危機はこの条約によって回避された。
本項では【八四艦隊計画】、【八六艦隊計画】についても簡単に触れる。
まず建艦計画の数字の意味であるが、
「艦齢8年未満の戦艦◯隻と巡洋戦艦◯隻」
という基本構想があり、この◯の箇所に入る数字が各計画によって異なってくる。
それぞれ
【八四艦隊計画】→戦艦八隻、巡洋戦艦四隻
【八六艦隊計画】→戦艦八隻、巡洋戦艦六隻
【八八艦隊計画】→戦艦八隻、巡洋戦艦八隻
を配備するという計画になる。
当時はまだ水上戦の主力が戦艦であることは疑いようがなく、戦艦の数に応じてそれに相応しい各艦の建造数が変動している。
なお、基本的に艦艇の配備数は2の倍数、すなわち偶数であり、これは艦隊行動の際に奇数になると指揮系統に乱れが生じるという経験からであった。
(6については、6を2で割ると3、すなわち奇数であること、また過去の「日本海海戦」でも六六艦隊での行動となり不都合があったため、避けられた。)
「艦齢8年未満」という制限によって、【八四】【八六】【八八】の3つの計画で注意しなければならない存在がある。
「金剛型戦艦」である。
一番艦【金剛】が竣工したのは1913年で、最初の【八四艦隊計画】の策定は1917年である。
つまり【八四艦隊計画】時、更には翌年に計画された【八六艦隊計画】時には、「金剛型戦艦」4隻は巡洋戦艦として立派な戦力であった。
(ただし、【金剛】【比叡】と入れ替わりで配備する予定の【天城】【赤城】は建艦計画には含まれていた)
しかし【八八艦隊計画】時は1920年であり、【金剛】は艦齢8年目に突入、また残り3隻も1914年、1915年竣工と、近年中に第一線からは退くことになる。
【八八艦隊計画】はこれまで存在した「金剛型」4隻が全て計画から外れる上、八ケ年計画なので1920~28年までに艦齢8年目を迎える【扶桑】【山城】【伊勢】【日向】すら計画外の戦艦となる。
【八四】【八六】と比べて戦艦・巡戦の建艦数が劇的に増えているのはこれが原因である。
以下、【八四艦隊計画】【八六艦隊計画】の戦艦配備計画についてまとめる。
【】内の船は配備済み、『』内の船は増備計画艦を表す。
1917年【八四艦隊計画】
戦艦:【扶桑】【山城】【伊勢】【日向】【長門】『陸奥』『加賀』『土佐』
巡戦:【金剛】【比叡】【榛名】【霧島】『天城』『赤城』
1918年【八六艦隊計画】
戦艦:【扶桑】【山城】【伊勢】【日向】【長門】『陸奥』『加賀』『土佐』
巡戦:【榛名】【霧島】『天城』『赤城』『愛宕』『高雄』
前計画より外れた艦:(金剛)(比叡)
(※『高雄』の当初の計画名は「愛鷹(あしたか)」である)
1920年に策定された【八八艦隊計画】は、前述の通り既存の戦艦の大半が計画外となり、残るのは【長門】と建造中の【陸奥】のみである。
そのため、都合十四隻もの新戦艦と、それに応じた巡洋艦や空母を建造することになり、予算も【八六】のほぼ倍の6億円、年度をまたぐ総建造費は13億円、さらに艦隊を維持するために年間6億円が必要とされた。
当時の日本の年間歳出が約15億円で、これが実現すれば、歳出の4割が【八八艦隊計画】に使われることになる。
常識的に考えて不可能でしかなかったが、この計画は国会の抵抗により数度予算却下されているものの、ついにこの計画の予算は通過したのである。
ちなみに、この異常な軍拡の流れは日本だけの問題ではなく、アメリカやイギリス、フランス、ドイツ、ロシアなど、いわゆる海軍大国では1900年に入ってから続々と発生していた。
いずれも仮想もしくは明確な敵国との軍拡合戦という背景がある。
日本の【八八艦隊計画】も、アメリカの軍拡計画「ダニエルズ・プラン」と規模が似通っている。
しかし日米については互いの軍拡に呼応したものではない。
戦艦・巡戦は最終的には【長門】【陸奥】しか配備されていない。
1920年【八八艦隊計画】
戦艦:8隻
「長門型戦艦」:【長門】『陸奥』
「加賀型戦艦」:『加賀』※1『土佐』※2
「紀伊型戦艦」:『紀伊』『尾張』他3番艦、4番艦
巡戦:8隻
「天城型巡洋戦艦」:『天城』※3『赤城』※1『愛宕』『高雄』
「十三号型巡洋戦艦」:計4隻
※1 空母へ改造
※2 実験後海没処分
※3 空母改造予定も関東大震災によって修復不可能となり廃艦
以下、戦艦以外の建艦計画である。
航空母艦:2隻
翔鶴(「翔鶴型航空母艦」の【翔鶴】とは異なる)
他1隻
巡洋艦:12隻
「川内型軽巡洋艦」3隻
他9隻
駆逐艦:32隻
「神風型駆逐艦」他
潜水艦:28隻
砲艦:5隻
水雷母艦:2隻
敷設船:1隻
工作艦:1隻
給油船:6隻
掃海船:5隻
「ワシントン海軍軍縮条約」によって【八八艦隊計画】は消滅し、日本は一悶着あった【陸奥】を最後に戦艦の増強は10年間凍結された。
代わって空母と駆逐艦の建造に力を注ぎ、続いて重巡洋艦を生み出していく。
最後に【八八艦隊計画】廃案後のお金について触れよう。
【八八艦隊】の予算規模については戦術の通りだが、廃案に伴って1922~1927年の関連予算のうち、4億6600万円が削減された。
しかし条約に影響しない艦種の建造が戦艦らに代わって行われるため、別で3億6800万円が申請されている。[1-P24]
また建造中止による軍需企業への補償として2000万円が計上され、金額だけで見れば【八八艦隊計画】の廃案によって削減された額は乏しい。
ただし維持費は年を重ねるにつれて別で発生するものであるから、年間6億円前後が別で削減されていることになる。
参照資料(把握しているものに限る)