【ワシントン海軍軍縮会議・条約】とは、1921年11月11日から1922年2月6日までワシントンで行われた、主要五カ国の海軍力増強を抑えるための会議と、採択された条約のこと。
第一次世界大戦終結後、戦争の教訓を元に戦勝国は争うように海軍力の増強を図った。
当時は航空機こそ存在したが、まだ戦闘に使えるほどのものではなく、また空母についても研究・建造が始まりつつあった程度であった。
つまり時代はまだ海軍こそが国際的な国の軍事力であり、主力である戦艦もまた軍事力そのものであった。
アメリカの「ダニエルズ・プラン」や日本の「八八艦隊計画」のように、軍拡の流れは国家財政を破綻させかねないレベルにまで至っており、このままでは戦争時も去ることながら、戦争前に国が崩壊してしまう。
第一次世界大戦は戦争景気を巻き起こしたものの、このような景気は終戦と同時に萎むのが常であり、各国の懐は寒くなる一方である。
そこでイギリスのロイド・ジョージ首相がアメリカに持ち掛け、アメリカのハーディング大統領が主導して日本・フランス・イタリアを巻き込み、この五カ国での軍縮会議を行うことになった。
日本にとっても、海軍の影響力が留まるところを知らなかった最中のこの呼びかけは地獄に仏で、参加を快諾した。
しかし米英ともに、第一次世界大戦でドイツが弱体化した一方で、すでに中・露との戦いを優位に終えてアジアでの台頭が著しい日本の勢力を抑えたいという思惑もあった。
直近の日本の軍事費だが、1919年(大正8年)度は陸海軍合わせて約5億4千万円。
これは同年度の総支出の45.8%である。
同会議が開催された1921年(大正10年)度は海軍だけで4億8千万円(総支出の32.5%)に達していた。
そして「八八艦隊計画」は維持費だけでも同水準の軍事費を毎年必要とし、加えて新艦建造が適宜行われるため、とても当時の国家財政で賄える計画ではなかった。
会議の冒頭で、アメリカは建造中・計画中の15隻全艦を廃艦とすることを宣言し、またイギリスも世界最大の海軍大国としての地位を捨ててでもこの会議に挑むという姿勢を見せた。
まず参加国は、戦艦と空母の建造に厳しい制限を設けることに合意。
保有する艦艇の総排水量と、1隻あたりの最大排水量、また搭載できる主砲の最大口径に制限がかけられた。
空母に関してはまだその能力が未知数だったため、空母にも搭載砲についての制限がかけられている。
実際にはほぼ空母が砲撃をすることはないのだが、戦艦からの改造とは言え、【赤城】【加賀】が大型砲塔を搭載していることから、空母の運用については各国ともまだ手探りだったことがわかる。
また、建造中や計画中の戦艦は全て廃艦となることが決まり、条約締結後10年間は新戦艦の建造が禁止された。
ただし艦齢20年を超える艦の置き換えに限り、建造が許された。
改修に関しても、水兵及び水中防御に限り許された他、3,000t未満の制限の下で各戦艦の改修が認められている。[1-P46]
一悶着があったのはこの建造中の戦艦の廃艦についてで、日本は米英が未完成であると主張する【陸奥】を完成していると抗議。
日本はもともと対米英6割弱の保有比率に不満を持っており、さらに【陸奥】まで廃艦に追いやられると、いずれ米英に飲み込まれるという懸念から抵抗を続けた。
最終的に日本の【陸奥】の保有は認め、その代わり自国付近を除いた太平洋の要塞の新設を禁じられた。
また保有比率も対米英6割は当初のままで変更されることはなかった。
当初は41cm砲を搭載するのは【長門】とアメリカの【コロラド級戦艦 メリーランド】だけだったが、比率維持のため米英それぞれ建造中止の予定だった戦艦の一部の建造が復活した。
そして復活した5隻が全て41cm砲を搭載することになり、結果的に日本は同程度の主砲を要する敵を1:1から2:5へと増やしてしまったことになる。
この41cm砲を搭載した戦艦は「世界のビッグ7」と呼ばれた。
巡洋艦にも最大排水量と搭載砲の制限は設けられたが、保有制限はなかった。
駆逐艦やそれ以下補助艦艇にはまったく制限が設けられていない。
「世界のビッグ7」
日本:【長門】【陸奥】
アメリカ:【コロラド】【メリーランド】【ウエストバージニア】
イギリス:【ネルソン】【ロドニー】
この変更によって、戦艦の保有比率は当初の
米英:日:仏伊=5:3:1.75
から
米英:日:仏伊=5:3:1.67
となった。
艦 種 | 保有総排水量 | 一隻あたりの 基準排水量 | 最大口径 |
主力艦 (戦艦) | 米・英=50万t 日=30万t 仏・伊=17.5万t | 3.5万t | 主砲16インチ以下 |
空母 | 米・英=13.5万t 日=8.1万t 仏・伊=6万t | 2.7万t ※2隻に限り3.3万t | 8インチ以下 6インチ以上を装備する場合 →5インチ以上の砲を合計10門以下 ※3.3万t以下の2隻に限り5インチ以上の 砲を合計8門以下 |
巡洋艦 | 各国制限無し | 1万t以下 | 5インチ以上8インチ以下 |
最終的に【ワシントン海軍軍縮条約】では廃艦が【摂津】ただ1隻で最新の戦艦2隻を保有できた日本が最も得をし、超弩級戦艦4隻を廃艦にした上、アメリカに保有比率が並ばれたイギリスが大損している。
一方で保有が許された戦艦の特に攻撃力においては依然としてイギリスが優勢であった。
41cm砲搭載戦艦は上記の通りだが、38.1cm砲搭載艦は日米ともゼロ、対してイギリスは戦艦10隻、巡洋戦艦3隻と圧倒的であった。
この他、満期を迎えた「日英同盟」は更新されないことが決定。
代わりに日米英仏で「四カ国条約」が締結され、これにより四カ国それぞれの太平洋における権益の相互尊重と非軍事拠点化が決められた。
しかしこれは急速に存在感が増す日本の勢力を削ぎたいというアメリカの思惑が大きく反映されており、日本もこの【ワシントン海軍軍縮条約】をきっかけに最大の仮想敵国をロシアからアメリカに定めることになる。
本条約締結の翌年である大正12年/1923年度の「帝国国防計画」の一文を記す。
「近き将来、我と衝突可能性最大にして、且つ強大なる国力と兵備を有する米国を目標とし、主として之に備ふ」
日本全権としてこの会議に挑んだのは加藤友三郎海軍大臣である。
対米英6割というこの条約に対して日本海軍は反対派が多数を占めていた。
欧米に追い付け追い越せでここまで来たのに、その機運に蓋をされるこの条約に賛成する者は、いたとしても大きく声を上げることはできなかったであろう。
そんな中でも加藤は冷静に世界情勢を見つめていた。
それは何よりも加藤本人が「八八艦隊」提唱者であることからもうかがえる。
反対を唱えることはできるが、そうした場合、日本の未来はどうなるのか。
米英が日本抑止に動いているのは明白だが、それを突っぱねると米英は軍拡を可能な限り続けるだろう。
そうなると、疲弊しているイギリスとの距離は一時期は縮まるかもしれないが、アメリカとの差は広がる一方である。
もちろんイギリスも復活後にそれに甘んじるわけがなく、結局今の日本ではより差を広げられる反対よりも、差が広がらないことが確約された10:10:6の提案で我慢せざるを得ない。
そして何よりも、悲惨な第一次世界大戦後でも主戦論を唱える東亜の島国というマイナスイメージが国際的に植え付けられるという、数値で表すことのできない大きなデメリットがあった。
加藤は多くの反対派を抑え込み、【陸奥】の建造承認など海軍の怒りを抑え込むための対策も訴えつつ、この提案を飲んだのである。
シビリアンコントロールがうまく機能し、アドミラル・ステイツマン(高い政治センスを持つ提督)と海外でも評価された加藤の偉大な決断であった。
しかし強硬派はこの結果に大変不満を持っており、日本の海軍力を「六割艦隊」と蔑視した。
加藤はこの会議の中で、ともに会議に出席していた堀悌吉中佐に「会議の目的は日米関係の改善だ。議場に入ったとき、これは大変なことになったと思ったが、主義としては米案に反対できぬ。反対すればひどい目にあう」と漏らしている。[1-P22]
資源がなく、石炭の代替燃料である石油はアメリカに大きく依存している日本が、アメリカに睨まれるとどうなるか。
彼は日本の生死をアメリカが握っている現状を正しく理解し、日本を生かすために決断をしたのである。
ここから「海軍休日」と呼ばれる、約15年間の建造休止期間が生まれる。
しかしそれはあくまで戦艦についてであり、空母は保有枠内で、そして保有数の制限のない巡洋艦や駆逐艦の建造は、むしろ主力艦の制限によってより活発になった。
日本は「古鷹型重巡洋艦」を経て制限いっぱいの20.3cm砲を10門搭載した「妙高型重巡洋艦」を生み出し、アメリカは三連装砲2基、連装砲2基の合計9門で魚雷を搭載しないバランス重視の巡洋艦を、イギリスは植民地支配の観点から居住性が高い巡洋艦を建造している。
これを「条約型巡洋艦」と呼び、また「ネルソン級戦艦」や「リシュリュー級戦艦」は「条約型戦艦」と呼ばれた。
「条約型戦艦」はともにこれまでの戦艦設計とは一味違い、「ネルソン級」は主砲を艦前方に集中させ、「リシュリュー級」は四連装砲塔を搭載するなど、条約制限内で最大の攻撃力を備えるための試行錯誤が伺える。
参考資料(把握しているものに限る)