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大鷹【大鷹型航空母艦 一番艦】
Taiyo【Taiyo-class aircraft carrier First】

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①昭和16年/1941年(竣工時)
②昭和19年/1944年(甲板延長時)

起工日 昭和15年/1940年1月6日
進水日 昭和15年/1940年9月19日
竣工日 昭和16年/1941年9月5日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年8月18日
(フィリピン近海)
建 造 三菱長崎造船所
基準排水量 ① 17,830t
② 15,600t
水線長 ① 173.70m
垂線間幅 ① 22.50m
② 23.50m
最大速度 ① 21.0ノット
② 21.6ノット
航続距離 ① 18ノット:8,500海里
② 18ノット:8,538海里
馬 力 ① 25,200馬力

装 備 一 覧

昭和16年/1941年(竣工時)
搭載数 艦上戦闘機/9機
艦上攻撃機/14機
補用機/4機
格納庫・昇降機数 格納庫:1ヶ所
昇降機:2機
備砲・機銃 45口径12cm単装高角砲 6基6門
25mm連装機銃 4基8挺
缶・主機 三菱水管ボイラー 4基
三菱ツェリー式ギアード・タービン 2基2軸
飛行甲板 長162.0×幅23.5
昭和19年/1944年(甲板延長後)
搭載数 艦上戦闘機/9機
艦上攻撃機/14機
補用機/4機
格納庫・昇降機数 格納庫:1ヶ所
昇降機:2機
備砲・機銃 45口径12cm単装高角砲 6基6門
25mm三連装機銃 6基18挺
25mm連装機銃 4基8挺
缶・主機 三菱水管ボイラー 4基
三菱ツェリー式ギアード・タービン 2基2軸
飛行甲板 長180.0×幅23.5
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客船としては末っ子 空母としては長女 大鷹

昭和15年/1940年に東京オリンピックを控えていた日本は、外国人の輸送のための船舶が必要になっていました。
現状活用している船はすでに老朽化が進み、さらに船舶の建造技術も日々進歩していることから、特に他国の船との差が開き始めていたのです。

欧州航路ではドイツが最新の客船である「シャルンホルスト型」を完成させ、日本郵船もこの最新貨客船に刺激を受けます。
オリンピックを目当てにやってくる多くの外国人を招き入れる船が貧相では国の威信に関わる。
日本郵船は腹をくくり、昭和12年/1937年に「シャルンホルスト型」をベースとした豪華客船【新田丸、八幡丸、春日丸】の建造を決定します。
この3隻は「新田丸級貨客船」に分類されましたが、Nihon Yusen Kabushikigaisyaの会社のイニシャル「NYK型」とも呼ばれ、名前もまた、このイニシャルを頭文字としたものとなりました。

この計画は何も3隻の建造だけでなく、25隻総トン数25万トンの船舶を建造するという壮大なものでした。
欧州航路はもちろん「シャルンホルスト型」に並ぶ16,500t、21ノットの超豪華客船を投入し、さらにシアトル航路・豪州航路にも11,000t級の貨客船を2隻ずつ配備する予定でした。

日本郵船がここまで思い切った建造計画を立てたのには、1つの国の制度があったからです。
同じく昭和12年/1937年、国は「優秀船舶建造助成施設」制度を導入します。
これは昭和7年/1932年~36年まで存在した、「船舶改善助成施設」という、老朽化の進んだ船舶を、助成金を出して更新を促す制度の延長のようなものです。
「船舶改善助成施設」は古い船の解体などが条件でしたが、「優秀船舶建造助成施設」はそれをなくし、ただただ船をたくさん作ってもらおうという内容に変わっています。

しかし善意だけでこの制度が生まれたわけではありません。
新造する船の設計には海軍がどっぷり関わって、高速・大型であることは当然、さらに国家が窮地に陥る、すなわち当時だと戦争などの状態に陥った際、海軍がその船を買収して戦力として使えるようにすることが条件だったのです。
なので、航空機を持ち上げるエレベーターなど、特に大掛かりな場所は「空母に改装したらここにエレベーター」と、設計の段階ですでに盛り込まれていました。

日本郵船としてみれば、船舶の設計段階から海軍の声が入ってくるのは厄介ですが、なにせ25隻の船を新造するという壮大な計画ですから、資金の問題を避けることはできません。
貨客船の助成金は速度に応じて算出されるのですが、「シャルンホルスト型」の22ノットというのは貨客船としてはかなりの速さでした。
助成金の額も大きくなることから、日本郵船としてもこの案に乗ることはやぶさかではなかったのです。
例えば【春日丸】は建造費が1,148万円でしたが、おそらくその1/3程の助成金が出ていました。

しかし事態の改善の可能性は潰え、東京オリンピックどころか戦争待ったなしの最悪の局面となり、豪華客船三姉妹は揃って制度の規約に則り、帝国海軍所属となったのです。
【春日丸】は三姉妹の末っ子でしたが、買収が決まった時はまだ建造途中でした。
なのでもっとも空母への改造が早く、航空母艦としては逆に長女として登場します。
それがこの【大鷹】です。
【大鷹】は当初【春日丸級特設航空母艦 春日丸】と分類されていました。

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守る空母 輸送と護衛に走り回った一生

しかし【春日丸】は、空母としては非常に小型かつ低速でした。
飛行甲板も狭かったため、発艦そのものは可能な飛行機はありましたが、飛行甲板に多数の艦載機を用意することができず、連続発艦ができなかったのです。
さらにカタパルトもないため、大型艦載機は助走距離が短くて発艦もできません。

当初はこの大きさでも良かったのですが、航空機開発の速度は船舶の建造技術の進化を遥かに凌ぐもので、特に欧米では半年経てば後継機の目処が立つぐらいの異常な速さでした。
なので、建造中の主力だった【九九式艦上爆撃機】【九七式艦上攻撃機】は、もう製造がストップし、後継の艦載機の開発に全力が注がれていました。
そして【春日丸】はその後継機を連続で飛ばせるほどの大きさや能力がありません。

無理やり使うとなると、2~3機だけエレベーターで上げて、甲板の端から端まで目一杯使って発艦し、エレベーターを降ろして、また2~3機だけあげて、の繰り返しとなります。
こんなのでは戦闘どころか編隊すら組めません。
そこで【春日丸】は実戦用の空母ではなく、輸送用の空母として任務に従事しました。

【春日丸】は23機しか搭載できませんでしたが、輸送船としての21ノットは高速であり、しっかりと輸送任務をまっとうしていきます。
貨物船だと分解している航空機も、空母が運べば完成した状態、つまりすぐに飛べる状態で輸送できます。
入港中に空襲を受けるとたまったものではないので、時によっては基地近くまでは輸送、基地が近づいたら随時発艦して陸上基地へ着陸するという方法も取られました。
格納庫があるという大きな利点を活かし、特にガダルカナル島を巡る戦いでは、トラック島を中心にラバウルやパラオなどを駆け回りました。

その輸送を行っている最中の昭和17年/1942年8月31日、【春日丸】は次に完成した【八幡丸】とともに【大鷹】【雲鷹】へと名前が改められました。
そして同時に「春日丸級特設航空母艦」「大鷹型航空母艦」へと変更されています。

しかし9月28日に【米タンバー級潜水艦 トラウト】の魚雷を1発受けて損傷し、トラックで【明石】の応急修理を受けたあと、呉へと帰投しています。
1ヶ月弱の修理を経て【大鷹】は再びガダルカナル島の戦いに復帰しますが、戦況は悪化する一方で、特に航空機の消耗率は劇的に増えていました。
【大鷹】は日本と激戦地の往復に奔走しましたが、その働きも虚しく、ついに昭和17年/1942年末に日本はガダルカナル島からの転進を決定しました。

それでも【大鷹】の輸送任務は続きます。
度重なる潜水艦の襲撃を耐え忍び、陸海軍問わず【大鷹】は航空機の輸送に励みました。
しかし前回の被雷から1年後の9月24日、【島風】【冲鷹】の3隻でトラック島から日本へ向かっていた航路で悪天候に見舞われます。
その荒波に潜んでいた【米バラオ級潜水艦 カブリラ】の放った魚雷が【大鷹】の艦尾に直撃し、【大鷹】は前回とは比べ物にならない大損害を負ってしまいます。
3発中2発は不発でしたが、艦尾の1発はスクリュー・舵・機関室のすべての機能を停止させ、【大鷹】は洋上に浮かぶ鉄の塊と化しました。

【大鷹】【冲鷹】に曳航されて横須賀に入港。
7ヶ月に及ぶ大修理を受けることになります。
そしてこの修理期間中、「大鷹型空母」の3隻は連合艦隊の所属から外れ、新設された海上護衛総司令部へと転属が決まります。
これは船団護衛・対潜掃蕩とも言える部隊で、日本もようやく輸送とその護衛の重要さに気づいた表れでもありました。

【大鷹】の艦尾被雷跡

しかし対潜哨戒機は【九七式艦上攻撃機】の流用で、さらには編制された第九〇一海軍航空隊は哨戒訓練をちゃんと受けたわけでもないため、「ないとまずいからとりあえず作った」だけの部隊でした。
その後、なんとか訓練を受けた第九〇一海軍航空隊と、新たに第九三一海軍航空隊が結成され、【九七式艦上攻撃機】だったら運用できる「大鷹型」3隻は船団護衛艦の任務を背負うことになります。

昭和19年/1944年5月 あ号作戦直前の対空兵装
高角砲 45口径12cm単装高角砲 6基6門
機 銃 25mm三連装機銃 6基18挺
25mm連装機銃 4基8挺
電 探 21号対空電探 1基

出典:[海軍艦艇史]3 航空母艦 水上機母艦 水雷・潜水母艦 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1982年

【大鷹】と2つの対潜航空隊の活躍は、これまで駆逐艦や巡洋艦の護衛だった輸送任務に新しい目を与えてくれて、船団もその存在のありがたさを評価しています。
【大鷹】自身も大破工事中に水中聴音機や九五式爆雷、21号対空電探などを新規搭載していたので、これまでの輸送に比べると格段に安全性は高まりました。

しかし、例え日本側の備えが改善されても、それを上回る襲撃があれば大した意味をなしません。
この時はもうどこの海域でも数隻の潜水艦が獲物を狙っていて、端的に言えばキャパオーバーでした。
そんな中で任された「ヒ71船団」の輸送は、駆逐艦4隻、海防艦9隻が高速タンカーなどの護衛に就く大規模なものでした。

昭和19年/1944年8月8日、門司出港。
途中での合流を経て大船団となった「ヒ71船団」でしたが、獲物が膨らんでいくのをじっと追い続けていたのが3隻の潜水艦です。
8月18日、【永洋丸】が被雷して高雄まで撤退。

そしてその日の夜、【米ガトー級潜水艦 ラッシャー】が放った魚雷のうち1本が【大鷹】を直撃。
夜間は哨戒機は飛ばせないので、昼間ともに哨戒を行っていた第九〇一海軍航空隊の【九六式陸上攻撃機】からは夜間の停泊を勧められていました。
しかし輸送を急ぐことを優先した結果、護衛艦の本丸が崩れるという最悪の結末を迎えてしまいます。
【大鷹】が魚雷を受けた箇所は右舷後部で、ここには運悪くガソリンタンクがありました。
闇夜に突然吹き出る火柱と轟く爆発音は、【大鷹】の最期を告げる断末魔でした。
弾薬庫が誘爆し、左舷側のガソリンタンクにも引火した【大鷹】は、護衛の本懐を果たせずに沈没していきました。

地獄はこれだけではありません。
【大鷹】という柱を失った輸送船団は襲撃を恐れて駆逐艦や海防艦の護衛を受けることなく一目散に逃げ出したのです。
足が遅くてソナーも爆雷も持っていない輸送船など潜水艦からしたらまな板の鯉同然です。
あっという間に料理されてしまい、輸送船5隻が沈没し、生き延びても損傷を負った船で溢れてしまいました。
さらには海防艦3隻までもが撃沈され、輸送船団は壊滅しました。
「ヒ71船団」の人的被害は8,000人にのぼります。

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