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峯風【峯風型駆逐艦 一番艦】

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艦型と個艦の説明を分けましたが、単純に分割しただけなので表現に違和感が残っていると思います。
起工日 大正7年/1918年4月20日
進水日 大正8年/1919年2月8日
竣工日 大正9年/1920年5月29日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年2月10日
台湾沖
建 造 舞鶴海軍工廠
基準排水量 1,215t
垂線間長 97.54m
全 幅 8.92m
最大速度 39.0ノット
馬 力 38,500馬力
主 砲 45口径12cm単装砲 4基4門
魚 雷 53.3cm連装魚雷発射管 3基6門
機 銃 6.5mm単装機銃 2基2挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 4基
三菱パーソンス式ギアード・タービン 2基2軸
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太平洋戦争前が全盛期 哨戒・輸送が主任務

今後登場する全ての「峯風型」および「神風型」に共通することですが、誕生は大正14年/1925年以前であり、太平洋戦争時には最も若い艦ですら15年以上の艦齢でした。
ゆえに戦力としては見込めず、また老朽化も進んでいたため、これら2種類の駆逐艦型は後方支援や輸送任務などで活躍することになります。
それに伴い開戦時はすでに不要な雷装は撤去されていました。

【峯風】は誕生から10年以上、平穏な日々を過ごしていましたが、1930年、いよいよ空母運用が本格的になってきた時に重宝されることになります。
空母というのは際限のない広さである海上にポツンと浮かぶ非常に小さな滑走路です。
この限られたスペース内に適切な角度、適切な速度で侵入し、着艦させるというのは大変困難な作業でした。
そのために着艦準備に入るものの再び上昇したり、甲板からはみ出してしまったり、そして落下してしまったりするケースも珍しくありません。

この着艦を綺麗に行うのは訓練を積むしかないのですが、その中でどうしても海上に着水してしまうケースがあります。
また戦闘中においても、機体の損傷が激しく着艦ができなかったりしてやむを得ず着水することも想定されました。
その場合、機体の流用は絶望的ですが、人命だけは救い出さなければなりません。
【峯風】を始め【澤風】【矢風】【沖風】で編成された第二駆逐隊は、そのパイロットを救う「トンボ釣り」を行うため、第一航空隊に編入されていました。

やがて勃発した「上海事変」および「日華事変」に参戦し、数々の作戦に参加することになりました。
しかしネームシップである【峯風】は、「日華事変」後の時点ですでに艦齢20年を目前に控えていました。
軽いとはいえ、最も海を駆け巡る機会が多い駆逐艦です、衰えも早く、最大でも35ノット程度の速度が限界となっていました。
しかもこの35ノットというのはほんとに要目上のことだけであり、オーバーヒートの危険性もあることから、24ノット以上の速度を発揮する可能性がある場合は事前に海軍大臣の許可が必要というほどでした。
また、すでに画期的な駆逐艦である「特型駆逐艦」はもちろん、最も活躍した「陽炎型駆逐艦」も竣工し、【峯風】は戦場での活躍は見込まれませんでした。

やがて【峯風】は日本近海の哨戒活動が主任務となり、国防警備にあたります。
太平洋戦争が開戦すると、哨戒に加えて輸送船団の護衛任務にも従事。
いくら速度が落ちたとはいえ、輸送船より遅いわけはありません。
兵装は竣工当時のままではありましたが、サイパンやトラックなど日本の要衝を結ぶ船団護衛を務めました。

最初こそ潜水艦があちこちに張り付いているわけではなかったため、護衛も問題なくこなしていました。
ですが昭和18年/1943年に入ると戦況は悪化、潜水艦の配備も広範囲となり、特に南洋諸島への輸送は日に日に危険となっていきます。
にもかかわらず対潜兵装は爆雷と爆雷投下台、爆雷投下軌道が多少増備された程度で、ソナーなどは一切補強されませんでした。
潜水艦対策が疎かなまま活動を続けていた【峯風】ですが、昭和19年/1944年2月5日、門司港から台湾高雄へ向かうモタ02船団を護衛中、【米ガトー級潜水艦 ポーギー】の放った魚雷を受けて、その長い生涯に幕を下ろしました。

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駆逐艦
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※1 当HPは全て敬称略としております(氏をつけるとテンポが悪いので)。

※2 各項における参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
わかっている範囲のみ、各項に参考文献を表記しておりますが、勝手ながら今は各項の参考文献、引用文献をすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。

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