起工日 | 大正7年/1918年8月15日 |
進水日 | 大正9年/1920年4月10日 |
竣工日 | 大正9年/1920年7月19日 |
退役日 (除籍) | 昭和20年/1945年9月15日 |
建 造 | 三菱長崎造船所 |
基準排水量 | 1,251t |
垂線間長 | 97.54m |
全 幅 | 8.92m |
最大速度 | 39.0ノット |
馬 力 | 38,500馬力 |
主 砲 | 45口径12cm単装砲 4基4門 |
魚 雷 | 53.3cm連装魚雷発射管 3基6門 |
機 銃 | 6.5mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 4基 |
三菱パーソンス式ギアード・タービン 2基2軸 |
標的艦から護衛まで 終戦まで耐え切った矢風
【矢風】は昭和5年/1930年に【峯風】【澤風】【沖風】と共に第二駆逐隊を編成。
第一航空戦隊に編入されて「トンボ釣り」を行う一方、航空隊の協力を得て対空射撃訓練などを行いながら日々を過ごしていました。
昭和6年/1931年には第一航空戦隊として空母とともに「上海事変」へも参加しています。
昭和12年/1937年、すでに艦齢が17年を迎えた【矢風】は、籍は駆逐艦のままですが、元戦艦で当時は標的艦となっていた【摂津】の無線操縦艦となります。
【摂津】は日本初の弩級戦艦「河内型」の二番艦で、誕生した時からすでに時代遅れとなっていたためにほとんど戦力としては計算できませんでした。
しかも一番艦の【河内】は竣工からわずか6年で古い火薬の発火によって爆沈。
【摂津】は居心地の悪い年月を過ごしていました。
そんな中、大正11年/1922年の「ワシントン海軍軍縮条約」によって主要5ヶ国は戦艦の保有制限を受けることになります。
日本は強引に【陸奥】の完成にこぎつけますが、その代償として【摂津】の廃艦が決定します。
日本にしてみればすでに不要だった【摂津】の代わりに最新戦艦の【陸奥】を認めさせたので、そういう面では米英の戦艦保有数が増えたとはいえ、交渉に勝利したと言えるかもしれません。
しかし条約では、廃棄する主力艦のうち1隻は標的艦としてよろしいという決定があったので、日本は【摂津】をその標的艦とすることにしました。
【摂津】は当然攻撃ができないように主砲副砲が撤去され、また装甲も外されてただの大きな船となりました。
当初は【摂津】自身が標的となるのではなく、その馬力を活かして標的を目標地点まで曳航する役目を負っていました。
しかし訓練とは言え、戦闘になると相手は動いているわけですから、停止した状態の標的を狙う訓練で養える能力にも限界があります。
日本はドイツの無線操縦技術やボイラーの自動燃焼装置を研究し、自国での開発に成功するとそれを早速【摂津】に搭載することが決定。
これで行動する戦艦級の標的に対しての砲撃や爆撃訓練が行えるようになります。
【摂津】は訓練用の砲撃・爆撃に耐えられるように甲板や艦橋を強化し、そしてその【摂津】を操縦する艦として【矢風】が選ばれました。
この【摂津、矢風】のコンビは訓練に非常に有益だと判断した海軍は、戦闘に直接関与することはないにもかかわらず2隻を連合艦隊に編入させることを決めます。
さらにすでに「ワシントン海軍軍縮条約」から脱退済みだったことで、撤去していた装甲を復活させるほか、より大型の砲撃、爆撃に対応、さらにはただ爆撃を受けるだけではなく、逆に操艦して爆撃を回避する訓練にも使えるように改装されました。
甲板や舷側装甲が強化されたほか、操艦スペースも爆撃を受けても貫通がないように防禦区画とし、さらに速度を少しでも上げるために、使っていなかった第2ボイラーを【金剛】改装時に陸揚げしていたものと交換。
撤去されていた2番煙突が復活し、速度も16ノットから17.4ノットと多少増えました。
これによって10kg爆弾だけが使えた改装前から30kg爆弾の爆撃訓練が可能となり、また20cm砲、つまり重巡級の砲撃でも大丈夫な堅牢さを持ちました。
【摂津】と【矢風】は昭和15年/1940年5月に連合艦隊に編入。
海軍戦力の一助を担う存在として大いに活躍しました
翌年末から太平洋戦争が勃発。
戦地が広大となった中で、【摂津】を遠路はるばるトラックやラバウルなどに運ぶのはなかなか難しい問題でした。
また【摂津】はあくまで大型の標的艦であり、小型で疾駆する駆逐艦に対する訓練に結びつくのかと言われるとなかなか難しいところでした。
そこで海軍は【摂津】は国内に止め、【矢風】もまた標的艦にすることとします。
昭和17年/1942年3月から2ヶ月間の工事を経て、【矢風】は小型標的艦となりました。
この時は邪魔な主砲や魚雷は全部なくなっています。
しかしもともと旧式艦である上に駆逐艦ですから、爆撃訓練にはたった1kgの演習爆弾しか使えませんでした。
昭和18年/1943年3月、【矢風】はカビエン付近で「第34号哨戒艇」と衝突事故を起こします。
この衝突によって【矢風】は艦首を喪失、「第34号哨戒艇」は艦前部がゴッソリ沈没してしまいます。
【矢風】は呉で至急修理を行い、簡単な艦首を付けてもらってサイパンへ向かいました。
この時完全無兵装状態だった【矢風】に2基の木製の偽砲が搭載されています。
潜水艦が【矢風】を発見した際、主砲もない状態だと威嚇もできないからです。
やがて【矢風】も訓練だけ行っていればいい状態ではなくなってきます。
船の絶対数が少なくなってきたため、爆雷8個と機銃(計3挺?)だけを搭載して船団護衛も担うようになりました。
11月5日、【矢風】はトラックからシンガポールへ向かう2隻の油槽船の護衛を任されてトラックを出発します。
ですが翌日に【米ガトー級潜水艦 ハダック】の襲撃を受け、その砲撃を回避する中で【矢風】は【油槽船 玄洋丸】に衝突してしまいます。
これによって【矢風】の艦首は脱落こそしなかったものの曲がってしまいます。
さらに【寶洋丸】は艦尾と艦首に1発ずつ被雷。
沈没しなかったのは不幸中の幸いでしたが、輸送は中止、【寶洋丸】は救援にやってきた【長良】に曳航され、また【矢風】も【長良】と共にやってきた【金城丸】の支援を受けてトラックへと戻っていきました。
現地で修理を受けた後、翌年2月に船団を護衛しながら【矢風】は呉へ入港。
そしてそこからは外に出ることはなく、内地での爆撃訓練に参加しながら終戦を迎えることになります。
昭和20年/1945年7月、横須賀で停泊中に空襲に巻き込まれますが、深刻な被害はありませんでした。
昭和23年/1948年9月に【矢風】は解体。
戦闘に参加しないものの、訓練兵には馴染みの深い駆逐艦でした。