②昭和14年/1939年(改装完了後)
③昭和18年/1943年(航空巡洋艦改装完了後)
起工日 | 昭和6年/1931年10月27日 |
進水日 | 昭和9年/1934年3月14日 |
竣工日 | 昭和10年/1935年7月28日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年10月25日 |
(スリガオ海峡海戦) | |
建 造 | 呉海軍工廠 |
基準排水量 | ① 8,500t |
② 12,400t | |
③ 12,300t | |
全 長 | ① 200.60m |
水線下幅 | ① 18.22m |
② 20.51m | |
最大速度 | ① 37.0ノット |
② 34.7ノット | |
③ 35.0ノット | |
航続距離 | ① 14ノット:8,000海里 |
② 14ノット:8,000海里 | |
③ 14ノット:7,700海里 | |
馬 力 | ① 152,000馬力 |
② 152,432馬力 | |
③ 152,000馬力 |
装 備 一 覧
昭和10年/1935年(竣工時) |
主 砲 | 60口径15.5cm三連装砲 5基15門 |
備砲・機銃 | 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門 |
25mm連装機銃 4基8挺 | |
13mm連装機銃 2基4挺 | |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 4基12門(水上) |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 重油10基 |
艦本式ギアード・タービン 4基4軸 | |
その他 | 水上機 3機 |
昭和14年/1939年(改装) |
主 砲 | 50口径20.3cm連装砲 5基10門 |
備砲・機銃 | 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門 |
25mm連装機銃 4基8挺 | |
13mm連装機銃 2基4挺 | |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 4基12門(水上) |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 重油10基 |
艦本式ギアード・タービン 4基4軸 | |
その他 | 水上機 3機 |
昭和18年/1943年(航空巡洋艦改装) |
主 砲 | 50口径20.3cm連装砲 3基6門 |
備砲・機銃 | 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門 |
25mm三連装機銃 10基30挺 | |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 4基12門(水上) |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 重油10基 |
艦本式ギアード・タービン 4基4軸 | |
その他 | 水上機 11機 |
ロンドン海軍軍縮条約と軽巡の新たな道
名実ともに偉大なる「高雄型巡洋艦」を誕生させた日本海軍。
海軍の意向が広く反映されたこの艦隊旗艦型巡洋艦は海軍に非常に好評でしたが、一方で設計側にとっては数々の構造上の問題を残したままの建造、また諸外国からも「甲状腺の肥大したカバ」という酷評を浴びるという負の側面も残されていました。
「高雄型」によって日本は大型巡洋艦の基盤が固まったと言えますが、しかし「高雄型」でも残っていた問題点を改善させた最新の巡洋艦の建造も待ったなしでした。
何しろ戦艦は建造できませんから、日本にとって巡洋艦は量産できる最強の艦種。
今はまだアメリカに対して優位ではありますが、いずれ追いつかれるのは自明の理。
日本は「ワシントン海軍軍縮条約」に束縛される以上、常に最強の巡洋艦を保持する必要があったのです。
この「高雄型」を上回る巡洋艦は、「C37」という計画番号が振られていました。
ですが、世界の軍縮の機運は巡洋艦、どころかかなりの艦種に及ぶ形で再び日本に降りかかってきました。
昭和5年/1930年の「ロンドン海軍軍縮条約」です。
「ワシントン海軍軍縮条約」はほとんどが主力艦たる戦艦の保有制限であって、空母は制限はありましたが性能が未知数だったためぼんやりした感じ、巡洋艦はとりあえず最大基準排水量10,000t、主砲口径5インチより大きく8インチ未満でいくらでも造っていいというざっくりしたものでした。
ですがこの制限のためにいわゆる「条約型巡洋艦」の建造合戦が始まってしまい、またもや日本が他国に先んじた性能を持った巡洋艦を世に送り出してきたのです。
加えて艦隊型駆逐艦の祖となる「特型駆逐艦」も誕生させ、米英は肝を冷やしたわけです。
この「ロンドン海軍軍縮条約」では、巡洋艦や駆逐艦を主軸として、空母や潜水艦といった艦種にも制限が加えられました。
そして巡洋艦においては大きく2つの分類が決められました。
言うまでもなく、重巡洋艦と軽巡洋艦です。
巡洋艦に関する制限の表です。
重巡軽巡 | 軽巡洋艦 | |
備砲 | 6.1インチより大きく8インチ以下 | 5.1インチより大きく6.1インチ以下 |
総基準排水量 | 米:英:日=18万t:14.68万t:10.80万t | 米:英:日=14.35万t:19.22万t:10.045万t |
保有比率 | 米:英:日=10:8.10:6.02 | 米:英:日=10:13.4:7.0 |
補助艦、つまり戦艦と空母を除いた艦種全体の保有比率は米英:日=10:6.975なのですが、重巡洋艦に着目すると日本は対米6割です。
結局一番強い船は押さえつけられてしまったのです。
数でいうと日本は重巡12隻で、対してアメリカは18隻。
当時の日本でこの重巡洋艦に相当する艦は、「古鷹型」2隻、「青葉型」2隻、「妙高型」4隻、そしてすでに建造中である「高雄型」4隻。
あれ、12隻・・・。
つまり日本はもう条約期間中(昭和12年/1937年まで)に重巡が建造できないけど、まだたった5隻であるアメリカはどんどん建造できるという、非常に苦しい立場に置かれたわけです。
ちなみにこの軽巡重巡という言葉はアメリカからの輸入になります。
「ロンドン海軍軍縮条約」においては重巡は(a)cruiser・(甲)級巡洋艦、軽巡は(b)cruiser・(乙)級巡洋艦と称されました。
日本ではこの条約締結に伴って、もともとの7,000tを境とした一等巡洋艦・二等巡洋艦の分類をそのまま甲・乙の基準へ変更しています。
アメリカではこの(a)をheavy、(b)をlightと称するようになり、日本でもこの言葉も使われるようになりました。
ただ、軽巡に限って言えば「妙高型」の計画案の中で「一万トン十三万馬力軽巡」という記述があります。
ですがこれは軽装甲巡洋艦の略称と思われるので、意図は全く異なります。
とはいえ条約を締結した以上、何とかするしかありません。
日本は戦艦が建造できないから重巡を建造したのと同じように、重巡が建造できないから軽巡の建造へとシフトしていきました。
この段階での日本の軽巡保有量は21隻、計98,415tでした。
こっちも随分いっぱいいっぱいなのですが、軽巡には古い船がたくさんあります。
「天龍型」どころか、防護巡洋艦である【利根、筑摩、矢矧、平戸】すら現役で軽巡枠に入っていましたし、その他「球磨型」の特に初期建造である【球磨】【多摩】はいずれも起工が1920年より前でした。
代艦の建造は艦齢16年以上となるため、まずこれらの艦を廃艦として排水量の枠を増やします。
さらに昭和12年/1937年末には残りの【北上】【大井】【木曾】の計15,300tが廃艦可能となるため、この艦齢超過によって合計50,955tを捻出することが可能でした。
(【矢矧、平戸】が含まれてない資料もあるけどなぜ?)
このあたりどの資料も同じ書き方でよくわからないのですが、艦を廃艦にするタイミングで完成する計画なら建造してもいいということだと思います。
でも本来なら「ロンドン海軍軍縮条約」からの脱退が正式に決まる前に複数の軽巡を廃艦としていなければ「最上型」は建造できません。
1番艦【最上】が竣工した昭和10年/1935年までに廃艦となったのは【旧利根、旧筑摩】ですが、同年には同じく【三隈】も竣工しています。
もともとの余りが約2,000t、【旧利根】約4,000t、【旧筑摩】約5,000tですから、合計11,000tですね。
「最上型」は一応計画では8,500t→のち9,500tですが(実際は11,200t)、もうこの段階で【三隈】誕生時に排水量の枠は賄えていないのです。
つまり、【旧利根、旧筑摩】以降の廃艦がない状態だった当時は、単艦の排水量オーバーだけでなく、総排水量も誤魔化していたことになります。
ただ、このタイミングではもう「ロンドン海軍軍縮条約」脱退が決定的だったので、遵守するつもりなんてなかったのでしょう。
新「利根型」については、下記の通り当初は8,450tでの建造が計画されていましたが、完成時期が条約失効後の昭和11年/1936年以降になることが確定的だったので、設計の段階ですでにこの排水量は考慮されていないようです。
この1935年時点での判断はともかく、1930年の段階ではこのように軽巡枠を増やすことで新造艦の建造を継続させることにします。
しかし転んでもただは起きないのが日本です。
かつては戦艦の建造中止を受けて、20cm砲6門を搭載した「古鷹型」をお披露目して世界を驚かせました。
そして今度もまた、とんでもない火力を兼ね備えた、重巡に引けを取らない奇想天外な軽巡を生み出すことになるのです。
最上型の溢れる魅力と米艦との比較
9,500tの破格の軽巡 代償は大きく改修の連続
ながーい「最上型」の特徴はご覧になりましたか?
超簡単にまとめますと、
・15.5cm三連装砲×5基で、射程は20.3cm砲に劣るもののかなり長い、分間砲撃数と分間弾丸重量は20.3cm砲よりも多い
・砲塔の防御力は射程の犠牲となった
・ライバルの「ブルックリン級」15.2cm三連装砲もなかなか強い
・20.3cm連装砲×5基に換装可能、ただしこれが計画の段階から考慮されていたとしたら不備も多いから後付けかも
・普通搭載砲分の防御力でいいのに、「最上型」は20.3cm砲に対してもある程度耐えうる堅牢さ
・防御力は軽量化や装甲との一体化、傾斜、材質などあらゆる工夫が施された
・「大和型」を超える超馬力で最大37ノットの高速巡洋艦
という感じです。
圧倒的最強の軽巡となり、重巡に勝るとも劣らない性能で建造がスタートした「最上型」。
前述の「利根型」の建造時期の関係と、相変わらずの兵装強化の要求によって、起工時の「最上型」は排水量が1,000t増えて計画基準排水量が9,500tになっていました。
ですが「最上型」建造中の日本は予想だにしない、いや、ごく一部のものだけは予見していた落とし穴に嵌ろうとしていました。
そしてその落とし穴は2段トラップという形で海軍を転落させます。
まずは昭和9年/1934年の「友鶴事件」です。
武装強化を優先しすぎた結果、過剰なトップヘビーとなった「千鳥型水雷艇」の【友鶴】が、たった40度の傾斜でそのまま起き上がれずに転覆してしまいました。
この事件によって、「動復原力」という、重心以外の移動(例えば傾斜で物や人が片方に偏った重量移動)によって発生する傾斜を抑えるための復原力が不足している新造艦が多く存在していることが判明。
見た感じ明らかにヤバそうなのは「初春型」と「高雄型」ですが、「特型駆逐艦」や現在建造真っ只中の「最上型」も対象だったため、急いでトップヘビーを解消するための措置が取られました。
大半が艦橋を始めとした甲板上構造物の小型化や撤去で、これによって「最上型」の艦橋は一番最初の「C37」計画の半分以下にまでなってしまいました。
艦橋の小型化や重心を下げるためにバラストを搭載したりと対策をとった「最上型」。
元々無茶な超軽量設計のため、公試の前に問題が発覚したのは不吉でした。
そして更なる問題が「最上型」にのしかかってきます。
それは【最上】の公試の時に判明します。
溶接を多用した結果生じたひずみが、主砲の旋回を妨げる。
溶接が甘く、その箇所から浸水する。
艦首外板にデコボコが発生。
推進器付近の外板や肋材に亀裂が発生。
原因はずばり、電気溶接の不備でした。
軽量化を図るためにかなりの広範囲で採用された電気溶接でしたが、まだ未熟な技量で使ってしまったために強度不足のまま完成に至ってしまったのです。
この結果【最上、三隈】はドック入りとなり、重量が増えることは止む無しとして改修を実施。
重心が上がった分はバルジで復原力や浮力を補うこととしました。
まだ建造中だった【鈴谷】【熊野】はいったん工事を中断して対策がされています。
この改修の結果、「最上型」は遂に排水量が大幅増加。
基準排水量11,200tとなってしまい、またもや条約違反の船となってしまいました。
ですがもうこの頃は条約延長には同意しないつもりだったので、どうでもいいと言えばどうでもいいことです。
さらに排水量が増えたことで速度も低下し、35ノットと2ノット落ちる結果となります。
このように苦難を乗り越えた【最上、三隈】はようやく竣工を迎えます。
そして9月21日から演習に参加。
当時は台風がくることがわかっていましたが、荒天での演習もまた訓練であると演習は強行されることになりました。
ところがこの台風はこれまで遭遇したこともない、気象予報ですらここまでの予測はしたことがない、とんでもない台風だったことがわかります。
最大瞬間風速34.5m/s、波高は最大15~20mとのちの調査で報告され、多くの船が波やピッチングによって損傷します。
「第四艦隊事件」です。
酷いものだと【初雪】【夕霧】が艦首切断まで至り、【最上】は艦首外板にまたも大きなしわや亀裂が発生。
【最上】は公試後に対策した箇所が再び損傷したということで、前の対応では全く不足していることがはっきりします。
結局三度【最上、三隈】はドック入り。
もう一度総点検と改修となりまして、2回も不良となった艦首は高張力鋼であるDS鈑を二重張りにするなど大規模に補強。
さらに一部の電気溶接個所を鋲打ち変更することで強度も回復させました。
これらの改修の影響で、【鈴谷、熊野】を加えた4隻が無事に揃うのは計画より2年も遅くなりました。
この2大事件の原因となった復原力不足と過度な軽量化に起因する設計を行ったとして、藤本喜久雄造船少将が謹慎処分になり、翌年に脳溢血で死亡しています。
ただ、氏が謹慎処分になったのは「友鶴事件」直後であり、そして「第四艦隊事件」が発生した時はすでに死亡しています。
「妙高型」以前の艦艇を設計していた平賀譲氏の船の被害が微々たるものであったことを考えると、藤本氏は海軍の強い要望を跳ね返すことができなかったためにこのような結末を迎えることになってしまったのでしょう。
そして昭和14年/1939年にはいよいよ主砲を20.3cm連装砲へ換装。
15.5cm三連装砲は非常に優秀な砲だったため、現場では惜しむ声が続出しました。
砲術長は15.5cm三連装砲なら「高雄型」を沈めることができるとまで言っていましたが、その声は届きませんでした。
この時に余った15.5cm三連装砲は、【大和】の副砲の砲身や【大淀】の主砲として再利用されています。
これで名実ともに重巡洋艦になった、とおもいきや、実は書類上は軽巡洋艦のまま。
実は重巡、名は軽巡として【最上】は戦争に挑むことになります。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
ミッドウェー海戦の三隈の沈没は航空巡洋艦を生み出した
「最上型」が誕生したことで、またもやアメリカとイギリスは焦ります。
やれやれ日本の重巡には蓋をしたし、あとは悠々と「高雄型」に負けない重巡を造るだけ、と思っていたら15門の15.5cm砲を搭載した軽巡ができてしまったわけですから、そりゃビックリです。
アメリカでは条約下での新軽巡の設計案はあったのですが、有無を言わさず最大門数を搭載する案を採用せざるを得なくなりました。
それが「米ブルックリン級軽巡洋艦」です。
「ブルックリン級」は6インチ(15.2cm)三連装砲5基15門を搭載。
案の中では魚雷を搭載する予定でしたが、15門の火砲に加えて敵重巡(想定として「妙高型」)と戦う上では何としても防御力を高めなければならないということで、雷装は断念されました。
この6インチ三連装砲は、別項でも述べていますが射程が劣る一方で砲塔が非常に強固で投射量に勝ります。
「ブルックリン級」は艦の構造が日本の巡洋艦、特に「妙高型」と似通った点が多いのが特徴です。
航空兵装は艦尾にありますが、前部に3基の主砲、後部に2基の主砲を搭載し、全部に関しては2番砲塔が背負い式、3番砲塔は後方に向いた状態が標準でした。
「ブルックリン級」のアメリカでの評価は「最上型」と同じで、「性能としては優れているが、対重巡を考えると力不足」ということでした。
つまりアメリカも、主砲の換装はしていないだけで15.2cm砲で対重巡との戦いは困難であると判断しているわけです。
続いてイギリスでは急遽「サウサンプトン級軽巡洋艦」の建造が決まりました。
イギリスでは小型で多くの巡洋艦を配備する方針をとっていて、重巡に関しては配備を停止していました(結局この後も重巡は誕生しません)。
それまで日本の軽巡は14cm砲7門で、「ロンドン海軍軍縮条約」以後には「リアンダー級、アリシューザ級軽巡」を建造してそれらの力で十分対抗できました。
ですが突如現れた15.5cm三連装砲5基15門の化物に対して、かつてのドレッドノート・ショックのように、国内の軽巡の全てが「最上型」に全く敵わない状態となってしまったのです。
しかも残っている重巡である「カウンティ級」を含めてです。
イギリスにとっては悪魔のような存在でした。
なんとか誕生させたのが「サウサンプトン級」でしたが、門数は6インチ三連装砲4基12門と1基不足、また排水量は大きいのに防御力が「最上型」より低い、さらに速度も遅いと完全に劣化版となってしまいました。
「サウサンプトン級」は3つのグループに分けられるのですが、第二グループの「グロスター級」では排水量を増やして防御力を底上げし、また機関も更新して速度低下を抑えました。
第三グループの「エディンバラ級」は更なる排水量増とギリギリまでの大型化によって、遂に防御力が6インチ砲に耐えうるものにまで向上。
主砲は三連装砲4基のままでしたが、イギリスでも屈指の防御力を持った艦として第二次世界大戦を戦っています(大英帝国戦争博物館として現存している【ベルファスト】がこの「エディンバラ級」です)。
この両国の軽巡をもってしても、「最上型」には総合力で敵わなかったわけですが、排水量が誤魔化されているので、ここをどう差し引くかで特に「ブルックリン級」との比較は評価が変わってきそうです。
さて、前述の通り開戦2年前には主砲は20.3cm連装砲となり、「最上型」は重巡として太平洋戦争に突入しました。
しかし優秀な性能を持つ【最上】は、戦争中はなかなか恵まれない重巡でした。
開戦後、【三隈】とともに「バタビア沖海戦」に出撃し、【米ノーザンプトン級重巡洋艦 ヒューストン】と【豪パース級軽巡洋艦 パース】を沈めることに成功するのですが、その2隻を狙って発射した魚雷が、なんと陸軍の【特種揚陸艦 神州丸】と輸送船に直撃し、大破擱座してしまいます。
それだけではなく、【輸送船 佐倉丸】と第二掃海艇に至っては撃沈させてしまうという、全く喜べない勝利となってしまいました。
これはジャワ島にて揚陸作業を行っている輸送船を砲撃しようとやってきた2隻の背後から【最上】らが砲撃と雷撃を行ったためで、命中しなかった魚雷はそのままジャワ島へ一直線、哀れ味方に直撃するという非常に安直な行動をした結果の惨事でした。
最初は発見できていない魚雷艇からの攻撃ではないかと慌てたのですが、調べてみると【神州丸】が被雷した右舷付近には見事に「九三式」と刻印された破片が船倉に落ちていたそうです。
この大失態はさすがに公にすることはできず、陸軍もこの被害を連合軍によるものとして海軍の責任を不問としました。
陸軍にとって貴重な貴重な揚陸船だった【神州丸】はこの後はサルベージされるのですが、復帰まで1年と2ヶ月を要しています。
「ミッドウェー海戦」では、機動部隊の壊滅より夜襲を試みるも【飛龍】が沈没したことでこの突撃も中止。
やむなく撤退が決定するのですが、「最上型」が属する第七戦隊にはその通達が伝わるのが遅く、その連絡が来た時には、ミッドウェー島へ向けて最も進行していました。
そもそも夜襲も破れかぶれの突撃に巻き込まれると不満が多かった中で、やっぱり中止と朝令暮改、ため息をつきながら彼女らは北北西へと進路を変更して連合艦隊との合流を急ぎました。
変針してから1時間20分後、【米タンバー級潜水艦 タンバー】が第七戦隊を発見し、すぐさま司令部へ報告します。
しかし戦隊旗艦の【熊野】も浮上している潜水艦を発見し、【熊野】は雷撃を回避して距離を取るために左45度一斉回頭を2回、つまり90度の回頭を命令します。
ところがこの命令が非常にまずく、1回目は信号灯で、そして短時間で無線電話による2回目の命令が行われました。
【熊野】の後に続いていた【鈴谷】は、同じ命令が違った方法で飛んできたことに混乱します。
そうこうしているうちに【熊野】は45度回頭し始めたため、【鈴谷】もそれに続きます。
が、【熊野】はさらに45度グイっと曲がり始めたため、【鈴谷】はこのまま同じように左に舵を取ると衝突すると咄嗟に判断し、舵を思いっきり右に切りました。
何とか【鈴谷】は衝突を免れましたが、隊列からは外れてしまいます。
次に【三隈】ですが、【三隈】も同様に回頭角度がはっきりしていないままでした。
そして【三隈】はどんどん曲がってくる1つ前の【鈴谷】(実際は【熊野】)と衝突を避けるために今度は同じように左へと舵を取りました。
そして最後の【最上】。
【鈴谷】と【三隈】が進路上から見えなくなり、見つけた艦影とは結構距離が離れていることがわかりました。
【最上】は最初左45度回頭、さらに独断で左25度回頭して安全な位置、距離を取ろうとしていました。
ところがいつの間にかか【三隈】との距離が離れてしまい、距離を縮めないとと考えた【最上】は、右25度回頭をして隊列を立て直そうとしました。
そこへ突然右舷から突っ込んできたのが、【最上】の視界から消えていた本当の【三隈】でした。
【最上】が距離を詰めた相手は、先頭の【熊野】だったのです。
【最上】の進路を大きく塞ぐように横断してきた【三隈】に、【最上】は急ブレーキをかけますが間に合うわけもなく衝突。
被雷したと思ったほどの衝撃で、【三隈】の左舷につっこんだ【最上】の艦首は完全にひしゃげていました。
幸い【タンバー】は魚雷攻撃をしてこなかったために事なきを得ますが、【最上】は14ノットの速力が限界となります。
まずいまずいまずい、夜が明けると空襲がくる。
そうなったらこんな状態じゃ対処できない。
そして【三隈】からは重油が漏れてしまい、海上にくっきりと足跡を残してしまいます。
第七戦隊は【熊野、鈴谷】が先行して退避、【最上】には【三隈】が護衛として付くことになり、更にミッドウェー島突撃の際に追いつけないため一度戦隊を離れた【朝潮、荒潮】と合流(合流したのは翌7日)、一刻も早くトラック島を目指します。
ですが夜が明けると、案の定【タンバー】の報告を受けて追撃に出てきたミッドウェー島の爆撃機と【米航空母艦 エンタープライズ、ヨークタウン級 ホーネット】の艦載機が空襲をしかけてきました。
6日の空襲は何とか踏ん張り切ったものの、7日の空襲ではついに大きな被害を受けてしまいます。
【最上】は空襲に巻き込まれた結果5~6発の被弾を受けて大破。
5番砲塔は吹き飛ばされ、4番砲塔や飛行甲板にも直撃。
魚雷の誘爆を防ぐためにすべての魚雷を投棄し、何とか最悪の事態は免れましたが、ズタボロの【最上】の命運は尽きかけていました。
【最上】沈没確実と見たアメリカは、今度はまだ十分動き回れる【三隈】にターゲットを変更。
【三隈】は【最上】以上の猛攻を受けてしまい、まさに焼けただれた廃墟となって沈没。
奇しくも先に沈みそうだった【最上】が九死に一生を得、救援にきていたい第二艦隊に合流し、トラック島まで逃げ切ることができたのです。
ちなみにこの時の【最上、三隈】への空襲で、初めてアメリカは「最上型」が20.3cm連装砲に換装していることに気付きます。
トラック島では【明石】の応急修理を受けて、仮艦首などを取り付けた後に8月11日に佐世保へ到着。
艦首は吹っ飛び、艦尾も4番、5番砲塔に直撃弾を受けたために完全にお釈迦となるなど満身創痍な状態である【最上】は、「ミッドウェー海戦」による戦訓を受けて航空戦力の緊急増強を図るために大改装を受けることになりました。
4隻の空母を1日のうちに沈めてしまった日本は、とにかく空母が必要だったため、5番砲塔で爆発事故を起こしていた【日向】と同型艦の【伊勢】に飛行甲板を取り付けるという奇想天外な航空戦艦構想を立案。
一方で、艦隊の前衛について索敵で貴重な情報を次々ともたらしてきた「利根型」2隻が便利すぎるという声も強く、【最上】は思い切って「利根型」以上に水上機を搭載できる航空巡洋艦として復活させることになりました。
この根本には、もともと日本は巡洋艦の航空兵装の強化に積極的であり、それと同時に水上機の開発にも果敢に挑戦してきた背景があります。
「利根型」は水上機が6基、無理矢理で8基搭載が可能でした。
そして後部の構造は上甲板と最上甲板の2段に分かれていて、最上甲板に4機、さらに2機が上甲板にある1本の軌道上に繋止されていました。
これに対して【最上】は最上甲板を艦尾まで延長させて、本物の空母のようなスタイルとなりました。
艦全体のおよそ4割が飛行甲板となり、それにクレーンやマストを加えると船の半分が航空兵装です。
カタパルトとクレーンは使いまわしとなり、またアメリカのように格納庫が搭載されることはありませんでしたが、露天繋止でなんと11機もの水上機を搭載させることができました。
「利根型」の倍近い数字から、新しい索敵巡洋艦としての在り方を【最上】に追い求めたことがよくわかります。
この航空巡洋艦という海軍初の艦種ですが、実は世界には先代が存在します。
航空巡洋艦という名前ではありませんが、まずイギリスの【フューリアス】が、数々の改装の間で中央に煙突があるだけで前後がいずれも飛行甲板に近い構造となった時期がありました。
これを航空巡洋艦と呼ぶことはありませんが、実質的には数少ない主砲と大掛かりな航空設備を備えていることから、航空巡洋艦のような存在ではあります。
ただ、載せている航空機を直接着艦できる(というかさせる)点が水上機運用型の航空巡洋艦とは異なります。
名実ともに初の航空巡洋艦といえるのは、スウェーデンの【ゴトランド】です。
【ゴトランド】は【最上】同様艦後部がほとんど飛行甲板となっていて、露天繋止、カタパルトでの射出とデリックによる揚収も同じです(「最上型」はクレーンですが)。
搭載機数はいろいろあって6機と少し少ないですが、【最上】の構造はほとんど【ゴトランド】と同じです。
【最上】に搭載する水上機はこれまで通り「零式水上偵察機」が採用されるはずでしたが、日本ではかねてより水上偵察機ではなく、水上戦闘機、また水上爆撃機といった、巡洋艦からも発艦できる攻撃機の開発にも取り組んでいました。
もしそれを【最上】に搭載できれば、索敵だけでなく簡易空母的な存在にまですることができる、そのような野望があったのは間違いありません。
昭和12年/1937年に愛知航空機が急降下爆撃もできる「十二試二座水上偵察機」の開発に挑戦しましたが不採用となり、水上爆撃機の開発は一時期下火となっていました。
ですが愛知航空機はその後も水上爆撃機の研究を進めていて、昭和15年/1940年から「十六試水上偵察機」の開発が再び始まりました。
これが「瑞雲」です。
【最上】の改装の段階で「瑞雲」の開発は比較的順調で、このままいけば【最上】の改装が完了する頃には「瑞雲」も採用されるのではと目算されていました。
「瑞雲」は7.7mm機銃を2挺装備し、更に60kg爆弾を2発搭載、最大速度は448kmで急降下爆撃も可能という、なにこれ「九九式艦爆」より(スペック上は)強いんですけどというトンデモ水上機でした。
これがもし搭載できれば、偵察も戦闘も爆撃もできちゃう万能水上機として【最上】の最大のパートナーとなるのは確実でした。
ところが徐々に愛知にはとても支えることができない負担が押し寄せてきます。
まず「瑞雲」の完成、そして航空戦艦【伊勢、日向】用のカタパルト発射タイプの「彗星二二型」、さらに艦爆不足(「彗星」投入の遅れ)による「九九式艦爆」の量産と、三足の草鞋を履かされていたのです。
「九九式艦爆」の量産を抑えてもいいから「瑞雲」の開発を急げ、日本飛行機にも製造を手伝わせる、となったのですが、完成が現実的となると欲深い海軍は機銃の口径を13mm、さらには20mmにまで大きくするように要求(もともと「九九式艦爆」の豆鉄砲7.7mm機銃は役に立たないと言われていました)。
おかげでどんどん開発は遅れていき、その影響で生産も遅れるし、訓練も遅れるし、ということで結局【最上】に、どころかすべての艦に「瑞雲」が載ることはついにありませんでした(実験はあります)。
結局最大11機の「零式水偵」を艦隊の目として【最上】は戦場に復帰。
ですが実際に11機すべてを搭載したことはないようです。
また同時に対空兵装として既存の機銃がすべて撤去され、代わりに25mm三連装機銃が10基30挺装備されました。
この強力な対空装備は当時の巡洋艦No.1のものでした。
そして昭和18年/1943年4月末に工事は完了、【航空巡洋艦 最上】が誕生しました。

スリガオを超えよ 三隈同様破壊の限りを尽くされ沈没
しかし復帰後の6月8日、突如の轟音と振動が【最上】を襲います。
まるで大和砲が直撃したような衝撃を受けて辺りを見渡すと、何とあの【陸奥】の艦後部がボッキリと折れて大量の煙と炎を吐き出していました。
【陸奥】謎の爆沈です。
周囲は騒然としながらもすぐに潜水艦の潜伏を疑い、【最上】は爆雷を2個投下していますが、これは慌ててやみくもに放ってしまったようです。
その後、【最上】はトラック島で待機することになります。
この頃は多くの重巡がトラック島を拠点としていましたが、やがて11月になると「ブーゲンビル島の戦い」が勃発。
これまで大きな任務もなかった【最上】らは、上陸支援のためにやってくる輸送艦やそれの護衛を撃破するためにトラック島からラバウルへと移動します。
ところが11月5日に到着するや否や、ラバウルは【レキシントン級航空母艦 サラトガ、インディペンデンス級航空母艦 プリンストン】による大空襲に見舞われることになります。
実はラバウルは2日にも空襲を受けていて、すでにラバウルは敵制空権に落ちつつある中で警戒心の薄い出撃ではありました。
そしてやってきた重巡は、ゾロゾロとやってきた瞬間にこの大空襲でボッコボコにされてしまい、情けない姿をさらしながら再びトラック島へ帰っていくことになりました。
【最上】は1番、2番砲塔の間右寄りに直撃弾を受けたほかに複数の至近弾の被害があり、最大12ノットという速度で引き下がっていきました。
トラック島でまたもや【明石】の世話になった【最上】。
その後呉に戻って本格的な修理をし、3月には呉を出発してリンガ泊地へと到着しました。
そして6月19日の「マリアナ沖海戦」に参戦。
【最上】は【飛鷹】【隼鷹】【龍鳳】を中心とした第二航空戦隊に所属しますが、もともとこの海戦では水上部隊の出る幕はなく、【最上】も攻撃面では戦闘に貢献できていません。
この戦いで日本は空母の中核である【翔鶴】と貴重な新造空母【大鳳】を失い、さらに【飛鷹】も空襲によって沈没。
貴重な空母とそれを支えた機体、搭乗員の大半が海に飲み込まれ、もはや機動部隊は張りぼて状態。
そして乾坤一擲起死回生、戦力ではなくなったが存在感は未だ戦艦よりも大きな空母を囮にして、現存戦力を総動員してレイテ島へ突入する作戦を練り上げます。
【最上】は西村艦隊に所属し、【扶桑、山城】を基幹としてスリガオ海峡を突破、レイテ島付近で栗田艦隊と合流することになりました。
【扶桑】【山城】はこの長い太平洋戦争で初めての戦場でした。
そしてこのルートは細い海峡を突破するため、待ち伏せがあっても逃げられない、まさに捨て身の特攻でした。
「足の遅い【山城】や【扶桑】を出すようでは日本海軍も先が見えている」
西村艦隊の未来は暗いどころか漆黒でした。
昭和19年/1944年6月30日時点の主砲・対空兵装 |
主 砲 | 50口径20.3cm連装砲 3基6門 |
副砲・備砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 14基42挺 |
25mm単装機銃 18基18挺 | |
電 探 | 21号対空電探 1基 |
22号対水上電探 2基 | |
13号対空電探 1基 |
出典:[海軍艦艇史]2 巡洋艦 コルベット スループ 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1980年
10月22日15時30分、ブルネイから西村艦隊が出撃。
24日午前2時、【最上】は索敵機を発射して敵情の視察を命じます。
その結果はおよそ5時間後の6時50分にもたらされましたが、その内容というのは「戦艦4隻、巡洋艦2隻、駆逐艦16隻、輸送艦80隻余り」というものでした。
これが獲物だったら選り取り見取り、しかし相対する敵としては非常に困難な勢力です。
ですがこの数字も把握できた内容だけのものであって、実際はさらに多くの艦、更に護衛空母も陣取っていました。
この索敵機は敵情を報告した後、命令通り【最上】に戻らずにミンドロ島へと向かっています。
やがて西村艦隊も敵の知るところとなりますが、意外にも空襲は1回だけ、至近弾を受けたものの大事無く、西村艦隊はスールー海を抜けてミンダナオ海、つまりスリガオ海峡の手前へと到着しました。
このころアメリカの機動部隊は本体である栗田艦隊と「シブヤン海海戦」の真っ只中でした。
つまり【武蔵】の強靭すぎる体力が、西村艦隊を無事にスリガオ海峡まで送り届けたのです。
この間に【最上】はさらに2基の偵察機を飛ばしており、敵情はより正確に西村艦隊、栗田艦隊にもたらされました。
19時になると、西村艦隊はスリガオ海峡を進むうえで必ず現れる魚雷艇を先に潰しておこうと考えます。
【最上】が駆逐艦と共に先行し、【扶桑】【山城】【時雨】がゆっくり別針路でそのあとを追いました。
20時を回り、西村艦隊はまだ【最上】らからの通信を受け取っていません。
この段階では後発の志摩艦隊もまだ合流できていませんし、「シブヤン海海戦」を戦った栗田艦隊は予定よりむしろ突入が遅れるのが確実でした。
しかし予定の変更に関する通信は一切ないどころか、栗田艦隊が今どのような状況なのかすら西村艦隊は知りませんでした。
結局西村艦隊は他艦隊との連携を待たずして、単独でスリガオ海峡に突撃することとしたのです。
23時ごろ、掃討隊ではなく本体に向けて先に魚雷艇が迫ってきました。
しかし2戦艦の副砲と【時雨】によって簡単に追い払われます。
掃討隊側も0時過ぎに魚雷艇と遭遇しますが、これも魚雷を回避して事なきを得ます。
ですが猛烈なスコールに巻き込まれることもあって、魚雷艇を悉くなぎ倒した、というわけにはいきませんでした。
夜間のスコールは効果的な攻撃を妨げることもあり、西村艦隊は25日1時30分にスリガオ海峡の入り口で合流。
艦隊は単縦陣を組み、海峡の出口を目指していました。
しかし2時53分、複数の駆逐艦がこちらへ迫ってくるのを【時雨】が発見します。
3時9分に西村艦隊は探照灯によって暴かれた駆逐艦に対して砲撃を開始。
ですが命中はなく、また駆逐艦もすぐに引き返していきました。
そのわずか1分後、まず【扶桑】が右舷中央に魚雷を受けて減速し始めます。
すでにあの時駆逐艦は魚雷の発射を終えていて、反転するところだったのです。
電源系統が故障したためか、この後【扶桑】は体勢を立て直すことができず、憤懣やるかたない、1時間ほど復旧に努力が続けられましたが、やがて大爆発を起こして沈没してしまいました。
【扶桑】が被雷してから10分後、【山雲】が右舷からの魚雷を受け、水柱を上げるや否や瞬く間に轟沈。
呆気にとられる中、【満潮】も被雷大破してのち沈没、【朝雲】も魚雷が艦首を抉り取り大破。
たった10分で2隻が沈没3隻が大破。
戦力は半減し、残るは【山城、最上、時雨】の3隻のみとなってしまいました。
その【山城】も魚雷を受けてしまい、5番、6番砲の弾薬庫に注水されたため8門の火砲を失います。
そして日本艦艇の断末魔を号令として、単縦陣に対して単横陣、つまり丁字戦法で待ち構えていた、ジェシー・B・オルデンドルフ少将率いる第77任務部隊の総砲撃が始まりました。
実は第77任務部隊はこの海戦の前までに結構な弾薬を消費していて、いくら数的有利があると言っても無駄打ちできる余裕はありませんでした。
第77任務部隊の戦艦群は、6隻中5隻がかつて「真珠湾攻撃」で徹底的に痛めつけられながらも復帰してきた、いわゆる旧戦艦群でした。
この戦いは絶好の復讐のチャンスではありましたが、彼らはこの戦いのためだけにいるのではありません、命令に従い、戦艦の砲撃は【コロラド級戦艦 ウェストバージニア】の16斉射が最大でした。
その代わりに魚雷艇と駆逐艦による大量の雷撃と巡洋艦による徹底的な砲弾の嵐により、西村艦隊は救いのない結末を迎えます。
「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク、各艦ハワレヲ顧ミズ前進シ、敵ヲ攻撃スベシ」
この命令を最後に、【山城】は日本の命の灯火のように燃え上がり、それを標的としてさらに砲弾が降りかかります。
対して西村艦隊はその発砲による閃光を頼りに砲撃するしかなく、信用に足るレーダーを備えている第77任務部隊とは正に格が違いました。
【山城】はその灼熱地獄の中から怨嗟の砲弾を放ちながら沈没。
【最上】は振り返りざまに魚雷を4本放ちましたが、3番砲塔への直撃弾を皮切りに、巡洋艦からの砲弾が次々と命中して炎上し、左舷機関部の被弾で急激に速度が落ちてしまいました。
この時艦内では、艦長であった藤間良大佐が【最上】をレイテ島に座礁させて陸戦隊として戦う意思を示しています。
これに対して中野信行航海長は、「本艦は戦闘艦艇です。われわれは船乗りです。誰も生きて帰ろうとは思っていません。最後まで戦い、艦と運命をともにしましょう。1門でも撃てる限り、弾丸のある限り、湾内に突っ込むべきです」と強い口調で進言。
ですが藤間艦長は「そんなこと言っても君、たいまつを背負って突入は無理だ」と意見を聞きません。
中野航海長は艦長に対して「何はともあれ、現状のままで進撃していただきます!」と上官に対してかなり威圧的に反抗を示しました。
中野航海長は普段は部下を叱ることもめったになく、言葉遣いも丁寧な人物で、このやり取りを後世に伝えることになった艦長伝令の長谷川桂氏はたいそう驚いたと言います。
いずれも【最上】の最期を迎えるための真剣な問答でした。
しかしこの問答はすぐに終わりを告げます。
この直後、4時2分に艦橋に砲弾が2発直撃。
【最上】の行く末の決定権を首脳陣から無理矢理引きはがし、多くの士官が戦死しました。
長谷川氏は辛うじてこの直撃弾によっても命を落とさずに済みましたが、それでも重傷を負っています。
この時、幸いにして第77任務部隊はレーダー射撃による誤射で【フレッチャー級駆逐艦 アルバート・W・グラント】が被弾したことから一時砲撃を中断していました。
ちょうど西村艦隊と第77任務部隊の間に位置することになってしまった【アルバート・W・グラント】は、双方から合計22発という命中弾を受けてしまったのです。
いやぁいくらなんでも数が多すぎる気がしますけど。
この隙に【最上、時雨】は辛くも戦場を脱し、スールー海を目指しました。
一方、遅れていた、というか先行していた西村艦隊を追いかけていた志摩艦隊はすでに戦場を目視できる距離まで迫っていました。
当初は闇夜に浮かぶ真っ赤な火柱を西村艦隊の大戦果だと思っていましたが、その正体は2つに割れた【扶桑】であり、そしてその【扶桑】の姿こそが、西村艦隊の末路であったことを知ると一気に沈黙が支配することになります。
そこへ【時雨】が志摩艦隊と交差。
【時雨】は操舵故障中とだけ残して戦場を離脱していきましたが、やがて志摩艦隊旗艦の【那智】からはこちらに艦首を向けた炎上停止中の巡洋艦が見えました。
ボロボロの状態から逃げ出してきた【最上】でした。
【那智】は【最上】とその後方にレーダーで2隻の敵影を発見し(実際はヒブリン島)、【足柄】とともに雷撃を行いました。
ところが【那智】は【最上】は停止していると勝手に思い込んでいました。
【最上】は舵は故障していたもののスクリューの回転調整で進路を選びながら、ちゃんと出し得る最大の10ノットで航行していたのです。
【最上】からは信号灯で「ワレ最上」を連送していたのですが、ついに【那智】は全く気付くことなく、【最上】の右舷前部に艦首をぶつけてしまいました。
後ろの【足柄】はちゃんと気付いていたのに・・・。
【最上】と【那智】の衝突で旗艦負傷、さらに【阿武隈】がすでに道中で被雷大破していたこと、スリガオ海峡の火柱と閃光は日の丸を焼き尽くす煉獄であることを悟った志摩艦隊は、西村艦隊の仇討ちを断念。
志摩艦隊は撤退を開始し、【最上】も這う這うの体でそのあとに続きます。
こんな状態にもかかわらず、【最上】は襲い掛かってきた3隻の魚雷艇を機銃などで追い払っています。
7時ごろ、志摩艦隊の【曙】が【最上】の護衛にやってきます。
その頃はすでに周辺も明るくなっており、闇夜で蹂躙された【最上】の惨状が明らかになりました。
左へ傾斜しながらも懸命に動く【最上】からは艦橋がほとんどなくなっていて、砲塔は直撃弾によってぐちゃぐちゃ、砲身もひん曲がった状態で、そして焼け爛れ、認めたくないが、よくわからない黒くて赤い物体、大きい物、小さい物、丸い物、長い物は、ほんの数時間前まで日本を守るために戦い続けた仲間達の成れの果てでした。
その姿は、まるでかつて同じように衝突し、そしてその後の空襲によって散った僚艦【三隈】のようでした。
【三隈】の運命を知っている彼らにとって、今の状況は当時とそっくりであることは否が応でも頭によぎったことでしょう。
それを知ってかしらでか、やはり再現映像のように【最上】の上空には敵機が現れました。
「ミッドウェー海戦」での【最上】は「もう沈むだろう」という甘さに救われました。
しかし今度はそんな甘さは微塵もありません。
【最上】と【曙】は対空射撃や高角砲で抵抗しますが、【最上】にはさらに機銃掃射と空襲が行われました。
彼らの信じる神はこれほどまでに残酷なのか、【最上】はさらに衝撃を受けて火災が大きくなり、消火はできず、そして引きずりながらも動いていたその速度もついにゼロとなりました。
【曙】が【最上】の後部に横付けします。
総員退去が決まり、生存者を移乗するためです。
先任将校であり、スリガオ海峡からここまで【最上】を連れてきてくれた砲術長荒井義一郎少佐をはじめ、生存者が【曙】へと移っていきました。
この時に救助された人数はいろんな記述があってはっきりしませんが、【最上】は約600人の生存者がいます。
救助を終えた【曙】は【最上】から離れます。
雷撃による介錯をするためです。
【最上】には暗号文が残されたままでしたが、通信科が全滅していたため人の手による処分はできませんでした。
訓練通り、【曙】は目標に向けて魚雷を1発発射。
見事に右舷中央部に命中し、【最上】は横転しながら艦首より沈んでいきました。
その時持ち上がった艦尾には、【最上】を動かすには至らずとも、1軸だけ無事だったスクリューがまだ日本を目指して回り続けていました。
【最上】沈没。
スリガオ海峡海戦の最後の犠牲者でした(唯一戦場に取り残された大破艦【朝雲】も撃沈させられています)。
最強の軽巡として生まれ、アメリカを驚かせた重巡化改装、そして「利根型」に見た巡洋艦の未来を反映させた航空巡洋艦。
波乱万丈な艦生を送った【最上】は、2019年9月9日、同年5月8日にポール・アレン氏創設の探査チームが発見したことが公表されました。
横転沈没した【最上】は、若干右舷に傾きながらも垂直に近い状態で着底していました。
艦橋などは喪失していますが、1番砲塔や方位盤などの装備でははっきりとその姿が残っているものもあります。
2017年に【扶桑、山城】らが発見された際、1隻だけ沈没地点が異なっていた【最上】の捜索が期待されていましたが、これではれて「スリガオ海峡海戦」で奮戦沈没した艦の姿をすべて確認することができました。