②昭和14年/1939年(改装完了後)
起工日 | 昭和8年/1933年12月11日 |
進水日 | 昭和9年/1934年11月20日 |
竣工日 | 昭和12年/1937年10月31日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年10月25日 |
(レイテ沖海戦) | |
建 造 | 横須賀海軍工廠 |
基準排水量 | ① 8,500t |
② 12,000t | |
全 長 | ① 200.60m |
水線下幅 | ① 20.20m |
最大速度 | ① 35.0ノット |
② 34.7ノット | |
航続距離 | ① 14ノット:8,000海里 |
② 14ノット:8,000海里 | |
馬 力 | ① 152,000馬力 |
② 152,432馬力 |
装 備 一 覧
昭和12年/1937年(竣工時) |
主 砲 | 60口径15.5cm三連装砲 5基15門 |
備砲・機銃 | 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門 |
25mm連装機銃 4基8挺 | |
13mm連装機銃 2基4挺 | |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 4基12門(水上) |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 重油8基 |
艦本式ギアード・タービン 4基4軸 | |
その他 | 水上機 3機 |
昭和14年/1939年(改装) |
主 砲 | 50口径20.3cm連装砲 5基10門 |
備砲・機銃 | 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門 |
25mm連装機銃 4基8挺 | |
13mm連装機銃 2基4挺 | |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 4基12門(水上) |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 重油8基 |
艦本式ギアード・タービン 4基4軸 | |
その他 | 水上機 3機 |
姉2隻の被害を繰り返すな 改良最上型 鈴谷
重巡洋艦に比肩する世界最強の軽巡として「最上型」の建造が始まったのが昭和6年/1931年。
【最上】【三隈】が相次いで起工したのですが、実は3番艦である【鈴谷】の起工にはそこから2年もの空白があります。
【鈴谷】は【大鯨】が進水した後すぐに横須賀海軍工廠第二船台にて起工されました。
すでに【最上】と【三隈】の建造も順調であり、3月に【最上】が、5月に【三隈】が無事に進水を終えております。
ところが進水こそ無事に終えたものの、【最上】の進水式の直前に海軍を震撼させる大事件が発生しました。
昭和9年/1934年3月12日、水雷艇の【友鶴】が傾斜40度で転覆した「友鶴事件」です。
「友鶴事件」の原因は徹底した武装強化と軽量化による復原力の低下であり、当初の計算だけでは船の復原力が全く賄えていないことが発覚しました。
【友鶴】は2月に竣工したばかりの最新の水雷艇でしたが、駆逐艦不足を補うために条約に抵触しない水雷艇を二等駆逐艦並みの性能にまで押し上げた存在でした。
そのため基準排水量500t強で、排水量1,300tほどの「睦月型」よりも口径の大きい12.7cm連装砲1基と単装砲1基を備えるという無茶を強いられています。
トップヘビーとなった【友鶴】の転覆は、特に「ロンドン海軍軍縮条約」前後に設計、建造された各艦に大きな影響をもたらしました。
この時期の船は、艦種は違えどいずれも高火力軽量化を徹底追及していたため、同じような顛末を迎える未来はありありと想像できたのです。
当然「最上型」も例外ではありません。
「最上型」は「高雄型」のようなどでかい艦橋を備えているわけではありませんが、しかし15.5cm三連装砲5基と61cm三連装魚雷発射管4基に加え、8,500tという排水量を遵守するために限界まで軽量化が図られています。
軽量化のために電気溶接が幅広く採用されたのですが、電気溶接が使用されれば使用されるほど、重心は構造物の多い上へと移動してしまいます。
重心が上がると安定性が損なわれ、最悪【友鶴】の二の舞になってしまいますから、今のまま設計を改めずに建造するわけにはいきませんでした。
【最上、三隈】はとりあえず進水させてから抜本的な改善策を施されることになり、とにかく重心を下に下げる対策が徹底されました。
そして起工してからまだ4ヶ月だった【鈴谷】と、起工もしていなかった【熊野】に関しては設計のし直しという根っこの部分から改善が行われることになりました。
艦橋をさらに小型にしたり、マストも材質と高さを変更するなどできるだけ余計なものを排除、さらに740tのバラストを積んで重心を下へ下へと下げていきました。
こうして新しい設計図で【鈴谷】と【熊野】は改めて建造が始まりました。
が、【最上、三隈】ではまだ問題が山積みとなっていたのです。
とにかく電気溶接の技術力と艦の設計がかみ合わず、公試中に艦首にしわが寄ったり、主砲付近で発生した溶接部分のひずみが旋回を妨げるなど問題が噴出します。
対策のために電気溶接から鋲打ちへ変更になったことから、重心がさらに上がることになるためバルジが2層にわたって取り付けられるなど、当初の設計とはどんどんかけ離れた姿になっていきました。
まだ【鈴谷、熊野】は進水していませんでしたが、「最上型」の行く末には暗雲が垂れこめていました。
そして止めとなったのが昭和10年/1935年9月26日に発生した「第四艦隊事件」です。
強行された悪天候での演習によって幾多の艦が波浪による被害を受け、公試の後に補強を受けたはずの【最上】は以前よりもさらに酷い艦首損傷を負ってしまいます。
これは全く想定外の荒天だったこともあるとはいえ、駆逐艦では【初雪、夕霧】が艦首を切断するほどの大被害をもたらしています。
結局「友鶴事件」後の各艦の改善工事はあくまで復原力強化のための工事で、強度改善という面では全く不十分であり、再び多くの船がドックに押し込まれて大改修工事を行う羽目となったのです。
この時【鈴谷】は進水して1年近く経っており、間もなく運転かというところでした。
そこへ飛び込んできた「第四艦隊事件」の結果を受けて、【鈴谷、熊野】の工事は完全に停止。
根本的な改善策を立てずして建造続行は不可能となったため、約半年間そのままの状態で待ち続けることになってしまいました。
そしてすでに完成していた【最上、三隈】と、まだ未完である【鈴谷、熊野】では大小さまざまな違いが残ることになりました。
一番わかりやすいのがボイラーと煙突です。
【最上、三隈】にはボイラーが大型8基備わっていましたが、それに加えて37ノットという快速性をより確実にするために、予備として小型のボイラーが2基搭載されていました。
「最上型」は4基1組と6基1組の2組で機関が構成されていましたが、6基の機関の砲の煙突は当然上記の排出量が多いため、第2煙突が少し太く設計されています。
ですが小型の2基は37ノット発揮のために必ずしも必要ではないことが分かったため、【鈴谷】と【熊野】では搭載されないことが決定。
これによって4基1組の構成に統一することができ、艦体構造に余裕を生み出すことができました。
はっきりわかるのが第2煙突の径の縮小で、当然ながら第1煙突と同じ太さとなっています。
また出力が安定したことから、この機関構成は「翔鶴型」【大鳳】にも取り入れられ、超馬力を誇った各艦の特徴とも言えます。
2基の補助缶がなくなったことで艦の操作や通信も便利になり、主横隔壁も減少させることができています。
給気路も【最上、三隈】が3番砲塔と艦橋の間にある高角砲甲板上にあったものが、艦橋の横へ移動しています。
他には中甲板と上甲板の高さが35cm減、上甲板と高角砲甲板の高さが15cm減、高角砲甲板の幅が1.4m狭くなり、重量軽減と重心の低下を図っています。
更に上甲板の舷側部、船底部に20mm前後のDS鋼を張り付けて、同じく重心の低下と装甲の強化がなされました。
継ぎ足しの箇所ではなく設計の部分での違いが大きい「最上型」は、【鈴谷、熊野】を「鈴谷型」と分けることもあります。
【鈴谷、熊野】は未完成の状態で問題にぶち当たったため、先の2隻よりもまだちゃんとした形で構造を改善することができました。
「ロンドン海軍軍縮条約」からの脱退が決まった後、「最上型」はご存じの通り主砲を15.5cm三連装砲から20.3cm連装砲へと換装します。
ですがちょちょいと取り換えることができるはずが、あっちこっちの砲塔関連の構造が手軽な換装に向いておらず、結局ほとんど入れ替えることになってしまい、【鈴谷】は主砲換装だけで何と9ヶ月も時間を使っています。
このことが主砲換装が前提ではなかったという説が唱えられる大きな要素となっています。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』
沈没するまで被害僅少 淡々と任務をこなし貢献度大なり
太平洋戦争が開戦すると、「最上型」は第七戦隊を編成し「マレー作戦」の支援のために出撃。
開戦時の艦長は「キスカ島撤退作戦」や「礼号作戦」で指揮を執ったことで有名である木村昌福大佐です。
ただ一方で第七戦隊の司令官は栗田健男少将であり、特に栗田少将が戦隊旗艦として多く座上することになる【熊野】と第一小隊を組んでいた【鈴谷】はこの栗田少将に振り回されることが目立ちます。
「マレー作戦」が大成功に終わったことで、次に日本はジャワ島の制圧に取り掛かります(「蘭印作戦」)。
このジャワ島攻略のために陸軍の第16軍が輸送船総勢56隻という大船団を以てカムラン湾を出撃していました。
この護衛として第三護衛隊と第七戦隊が参加しています。
ところが護衛のくせに第七戦隊は、船団から分離した東海林支隊7隻を狙っているかもしれない連合軍の艦隊を【熊野】の水上機で発見した後、なんと船団から距離をあけ始めたのです。
第三護衛隊からは当然どういうことだと文句が出るわけですが、この後第七戦隊と第三護衛隊とは1日中電文での言い合いが行われたのです。
理由としては「軍令部より第七戦隊を大事にしてくださいと言われたから」という、耳を疑うものだったようです。
その後なんやかんやで【米ノーザンプトン級重巡洋艦 ヒューストン】と【豪パース級軽巡洋艦 パース】を沈めて「バタビア沖海戦」には勝利するわけですが、結局第一小隊の【鈴谷、熊野】は索敵のみ行い戦いには一切参加していません。
木村艦長はこの後第二小隊と合流した際、「ご健闘を祝す。われに敵の配給なく面白くなし」という通信を発したと【三隈】航海長が記憶しています。
4月からは【熊野】らとともにベンガル湾を航行する連合軍側の商船を攻撃する、通商破壊作戦に参加します。
この際、【鈴谷】は輸送船を攻撃し、とどめの攻撃を仕掛けようとしていました。
輸送船からは乗員が必死になって離脱しようとしています。
そこで木村艦長は機銃指揮官へ「撃っちゃあいかんぞぉ!」と大声で攻撃を制止、無事乗員が脱出後、輸送船へ攻撃をして船を沈めています。
「ミッドウェー海戦」では、日本の機動部隊は油断慢心思い込みのオンパレードで一気に壊滅します。
唯一健在だった【飛龍】も日暮れ前に襲撃されて大破炎上。
【飛龍】の艦載機によって敵空母2隻を仕留めればまだ何とか、そしてそのあと水上艦によるミッドウェー島砲撃で大打撃を与えて引き分けの言い訳がたつような戦果を目指したわけですが、【飛龍】の戦力もなくなったことでミッドウェー島砲撃も中止されます。
この時ミッドウェー島へ向かっていたのは第七戦隊の4隻のみ。
第七戦隊では、夜間とは言え空母の護衛もない中で敵機の本拠地に突っ込むという危険極まりない作戦に不満タラタラでしたが、作戦中止となってやれやれと引き返すことになります。
しかしすでに第七戦隊はアメリカの警戒網の中に飛び込んでおり、28ノットで進む4つの航跡を捉える存在がありました。
その反応は【熊野】でもすぐさま感知されました。
【米タンバー級潜水艦 タンバー】と【熊野】はほぼ同時にお互いを確認。
【タンバー】が潜航する中、【熊野】は慌てて魚雷を回避するために「緊急左45度一斉回頭」の信号を出します。
ところが【熊野】は回頭角度を45度ではなく90度とするため、更に電話で同じく「緊急左45度一斉回頭」を命じました。
本来ならここにはさらに「赤赤計算九」という言葉が付かなければならないのですが(岡本功参謀は「出した」と証言)、結局【鈴谷】以下後続は皆本当の命令角度は45度なのか90度なのか判断できていませんでした。
言ってる間に【熊野】が回頭をはじめ、そして【鈴谷】がそれに続きます。
ところが【熊野】がさらに45度回頭を始めたため、このまま【鈴谷】は直進しても同じく45度回頭しても【熊野】に衝突するのは明白でした。
瞬時の判断で【鈴谷】は左ではなく右に大きく舵を取り、【熊野】の艦尾をかすめてなんとか衝突を避けることに成功します。
ですがこれで【鈴谷】は隊列から外れてしまい、その後連鎖的にお互いの位置が確認できないまま【三隈】の左舷に【最上】が衝突。
【三隈】には大穴が、【最上】は艦首がグシャッと潰れてしまう大惨事となります。
【タンバー】からの雷撃がなかったのは不幸中の幸いでしたが、結局【タンバー】の存在で1隻中破、1隻大破という自爆をしてしまった第七戦隊。
2隻とも浸水を抑えることには成功しますが、艦首がなくなっている【最上】は10ノットぐらいしか速度が出せなくなりました。
そして今ここは敵の制空権内。
第七戦隊の未来は暗いのですが、しかし朝は必ずやってきます。
太陽の光が【最上】を、そして【三隈】から漏れ出る燃料の跡をギラギラと照らすのは間違いありませんでした。
そこで第七戦隊は、第一小隊だけが先行して艦隊と合流を急ぎ、第二小隊はまずはミッドウェー島砲撃の際に置いてけぼりとなった【朝潮、荒潮】との合流をすることになりました。
1隻でも多く生き残るか、【最上】を救うために全艦で防御陣を敷くかという選択だったわけですが、航空機の護衛もないことを考えると第一小隊の決断は止むを得ないことかもしれません。
ただ、ここから先が問題です。
第一小隊、ここから完全に行方をくらませるのです。
【最上】らが敵機の空襲を受けている最中も第一小隊は通信も無視して沈黙を貫き、7日の近藤信竹中将(第二艦隊)からの第二小隊救援へ向かえという通信でようやく自身の所在地を明らかにしたものでした。
通信を行ったときは、すでに【三隈】はスクラップ同然となっており、すべては後の祭りでした。
8日午前4時頃、第二艦隊は【最上】らと合流して再び西進を開始。
すると雲隠れしていた第一小隊が西側からひょっこりと顔を出し、部隊に合流しました。
呉へ帰投後に栗田少将は第三戦隊司令官へ移動となり、新しい第七戦隊司令官には【熊野】の初代艦長である西村祥治少将が就きます。
2隻になってしまった第七戦隊ですが、7月からインド洋での通商破壊作戦(「B作戦」)に参加します。
ところがアメリカが奇襲を仕掛けてガダルカナル島へ上陸し、半年にわたる泥沼の「ガダルカナル島の戦い」が勃発。
「B作戦」は中止され、【鈴谷、熊野】は8月22日に機動部隊と合流、「利根型」2隻と共に機動部隊の前衛に配置されました。
「第二次ソロモン海戦」では前衛として、続く「南太平洋海戦」では本隊へ回された【鈴谷】ですが、いずれも個艦としては被害も戦果もありません。
「南太平洋海戦」では戦闘中に7本もの魚雷を回避する神業を披露しますが、ついに魚雷の挟み撃ちにあい、回避は不可能という事態に陥ります。
そこで木村艦長は「真っすぐいけ」と命令し、あえて回避行動をとらずに突っ込むように言いました。
どうせ回避できないのだし、あとでこの件を問いだたされても、「艦長の命令に従ったまで」と言って逃げることができるだろう、という木村艦長の配慮でした。
彼のこの心遣いを天は見ていたのか、【鈴谷】に襲いかかっていた魚雷は1本が途中で爆発、もう1本も深く潜りすぎて【鈴谷】の下をくぐっていき、無事に【鈴谷】は生還しています。
【熊野】がこの海戦で至近弾を受けて損傷したために本土への帰投が決定。
【鈴谷】は「ガダルカナル島の戦い」の発端となった、奪われたヘンダーソン飛行場を機能不全に陥らせるための艦砲射撃に参加します。
11月13日に【鈴谷】と【摩耶】がショートランド泊地を出撃、翌14日午前2時に2隻による艦砲射撃が30分にわたって繰り広げられました。
【鈴谷】は504発の砲弾を発射し、ヘンダーソン飛行場は至る所で炎が燃え上がるなど大きな戦果を残した、かに見えました。
ですがヘンダーソン飛行場はすでに新しい滑走路が完成ではないものの使える状態までには整備が進んでおり、そしてその存在に気付かなかった日本は帰り道に大きなしっぺ返しを食らいます。
予定通り2隻は艦砲射撃後に第八戦隊と合流。
ところが新しい滑走路を利用して無事だった航空機がこの部隊に襲い掛かりました。
相応の被害をもたらしたと思っていたらとんでもない反撃を受けることになった日本は、この空襲で【衣笠】を失い、【摩耶、鳥海、五十鈴】が損傷しています。
幸いにして【鈴谷】はこの戦いでも無傷でした。
直後の「第三次ソロモン海戦 第二夜」で【霧島】らを失った日本は、「ガダルカナル島の戦い」での海上での存在感を一気に失います。
あとは飢えに苦しむ日本陸軍を蹴散らすだけとなり、連合軍の優勢は確実となりました。
11月24日に艦長は木村少将から大野竹二大佐へと変わり、そして【鈴谷】は鼠輸送などの支援を行います。
ですが鼠輸送も焼け石に水でしかなく、年明けの昭和18年/1943年1月4日、【鈴谷】はトラック泊地へと移動、そして日本もガダルカナル島からの転進を決意します。
5月17日、艦後部が飛行甲板となった【最上】が第七戦隊に復帰。
6月末から「ニュージョージア島の戦い」が始まり、第七戦隊はラバウルを拠点にニュージョージア島やコロンバンガラ島への輸送支援と敵艦隊の攻撃のために出撃を繰り返します。
ですが第七戦隊は敵艦隊と遭遇することはなく、第二、第三水雷戦隊の司令部が相次いで全滅するなど重大な被害を負ってしまいます。
その後も日本はどんどん西へ西へと追いやられ、ついには「ラバウル空襲」によってトラック島から出てきたばかりの重巡らがボロ雑巾となって追い返されます。
この結果日本はトラック島以東の大きな拠点を失い、活動可能エリアは劇的に狭くなり、【鈴谷】らは細々と輸送支援を行うほかありませんでした。
昭和19年/1944年6月19日、久々に日本は機動部隊を含めた艦隊決戦に出撃する、いや、出撃せざるを得なくなります。
「マリアナ沖海戦」です。
この戦いも機動部隊(+潜水艦)だけの戦いとなり、【大和】ら戦艦の出番は全くありませんでした。
強力な輪形陣による防御態勢、強固な機体、圧倒的な空母と敵機の数、練度不足の日本機。
勝ち目のない戦いで「マリアナの七面鳥撃ち」が繰り広げられた挙句、【翔鶴、大鳳、飛鷹】を一気に喪失した日本は落ちるところまで落ちてしまいました。
昭和19年/1944年6月30日時点の主砲・対空兵装 |
主 砲 | 50口径20.3cm連装砲 5基10門 |
副砲・備砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 8基24挺 |
25mm連装機銃 4基8挺 | |
25mm単装機銃 18基18挺 | |
電 探 | 21号対空電探 1基 |
22号対水上電探 2基 | |
13号対空電探 1基 |
出典:[海軍艦艇史]2 巡洋艦 コルベット スループ 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1980年
大型空母が【瑞鶴】だけとなり、更には艦載機もパイロットも壊滅している日本の機動部隊。
もはや空母に存在価値なし、レイテ島に上陸してアメリカ軍を追い返すために全てをかなぐり捨てた戦へ臨みます。
太平洋戦争で断トツの存在価値を誇った空母を囮とする、肉を切らせて骨を断つ戦い、「レイテ沖海戦」です。
【鈴谷】は【熊野】と共に第一遊撃部隊(栗田艦隊)に所属し、本隊としてレイテ島を目指すことになります。
ですが「シブヤン海海戦」では絶え間なく飛来する敵航空隊の空襲に翻弄される一方。
当然です、こちらは空母も直掩機もゼロで、対空兵装のみで対抗するわけですからバランスは完全に崩壊しています。
【武蔵】が沈没し、そして被害を受けた【妙高】【浜風】【清霜】が艦隊から離脱しました。
第一遊撃部隊はシブヤン海を突破し、サマール島東部までやってきました。
そしてそこに現れたのが、通称タフィー3と呼ばれる第77任務部隊第4郡第3集団でした。
そこには憎き憎き空母も存在することがわかると、部隊は一斉にこのタフィー3を追撃することになりました。
ですがこのタフィー3が要する空母はすべて戦闘用ではなく輸送などをメインとした量産型護衛空母であり、日本海軍が求めてやまなかった、敵主力空母を戦艦の大口径で木っ端微塵にするという目論見とは全く違った存在でした。
これまで敵機動部隊から受けてきた溢れんばかりの屈辱を今こそ晴らさん、11月25日午前6時58分、【大和、長門】からの砲撃を合図に各艦一斉にタフィー3へ向けて攻撃を開始しました。
タフィー3からすれば輸送部隊に対して世界最大の戦艦が砲撃をしてくるわけですから、恐ろしいことこの上ありません。
護衛の駆逐艦らの煙幕や魚雷、艦載機による決死の抵抗が始まりました。
煙幕の中へ飛び込んだタフィー3に対して有効な砲撃ができない中、第一遊撃部隊には航空機による空襲が始まりました。
さらに海上では身軽な駆逐艦による雷撃も繰り広げられ、数でも戦力でも上回ってはいますが、日本側が決して有利に戦いを運んでいたわけではありません。
そんな中で7時20分ごろ、巡洋艦の中でも先頭集団にいた【熊野】が【米フレッチャー級駆逐艦 ジョンストン】の魚雷を艦首に受けてしまいます。
この被害で【熊野】の艦首が吹っ飛んでしまい、速度が14~15ノットに低下、たちまち艦隊から落伍してしまいます。
旗艦であった【熊野】は司令部を移乗する必要に迫られ、【鈴谷】はそのために【熊野】の元まで戻ることになりました。
ところが【鈴谷】も艦載機からの爆撃によって左舷後部に至近弾を受け、スクリューの1つが停止、最大速度22~23ノットにまで落ちてしまいます。
【利根、筑摩】が引き続き進撃を続けていたこともあり、結局【鈴谷】は速度が落ちたにもかかわらず旗艦任務を引き継ぐことになりました。
【熊野】は単艦でまずはコロン湾まで落ち延び、そこから長い長い旅に出ることになります。
一方速度の落ちた【鈴谷】が艦隊に追いつくのは不可能であり、結局【鈴谷】も海上に1隻取り残されてしまいます。
そしてそこを目ざとく発見され、【鈴谷】に約30機の爆撃機が襲来。
直撃弾こそありませんでしたが、4発の至近弾を受けた【鈴谷】は右舷1番魚雷発射管室で火災を生じてしまいました。
誘爆するととんでもないことになるのですが、しかし発射管室での火災となると、魚雷を投棄するには燃え盛る部屋に飛び込まなければなりません。
急いで消火活動が行われますが、被弾してから10~20分後についに魚雷に引火、艦中央部で大爆発が起こりました。
凄まじい威力で艦は途端に右舷へと傾斜していきます。
機関室の浸水も食い止めることができず、さらには隣接する高角砲の弾薬庫への注水もむなしく引火爆発。
魚雷発射管の爆発からわずか5分で総員退去準備が命令され、【鈴谷】の命はここで潰えることになりました。
【雪風】が救助のために【鈴谷】に接近し、また【利根】が司令部移乗のためにカッターを派遣しています。
救助は途中で【沖波】と入れ替わることになりますが、40分には火災が左舷側にも回って同じく誘爆。
そこから2時間ほど浮かび続け、【沖波】も艦上、海上で多くの乗員の救助を機銃掃射を受けながら行っていましたが、ついに13時20分ごろに【鈴谷】は横転。
ここまで数々の作戦に参加しながらも大事無く戦い続けた【鈴谷】は、この大一番で直撃弾もない中での沈没という結末を迎えました。