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三隈【最上型重巡洋艦 二番艦】その1
Mikuma【Mogami-class heavy cruiser Second】

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①昭和10年/1935年(竣工時)
②昭和14年/1939年(改装完了後)

起工日 昭和6年/1931年12月24日
進水日 昭和9年/1934年5月31日
竣工日 昭和10年/1935年8月29日
退役日
(沈没)
昭和17年/1942年6月7日
(ミッドウェー海戦)
建 造 三菱長崎造船所
基準排水量 ① 8,500t
② 12,100t
全 長 ① 197.00m
② 198.30m
垂線間幅 ① 18.00m
② 19.15m
最大速度 ① 37.0ノット
② 34.7ノット
航続距離 ① 14ノット:8,000海里
② 14ノット:8,000海里
馬 力 ① 152,000馬力
② 152,432馬力

装 備 一 覧

昭和10年/1935年(竣工時)
主 砲 60口径15.5cm三連装砲 5基15門
備砲・機銃 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門
25mm連装機銃 4基8挺
13mm連装機銃 2基4挺
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 4基12門(水上)
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 重油10基
艦本式ギアード・タービン 4基4軸
その他 水上機 3機
昭和14年/1939年(改装)
主 砲 50口径20.3cm連装砲 5基10門
備砲・機銃 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門
25mm連装機銃 4基8挺
13mm連装機銃 2基4挺
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 4基12門(水上)
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 重油10基
艦本式ギアード・タービン 4基4軸
その他 水上機 3機
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。


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バタビア沖海戦で暴れすぎてしまう大失態

【最上】と同じく、将来的に重巡洋艦として20.3cm連装砲を装備することを前提に建造された(?)軽巡洋艦【三隈】です。
起工、進水ともに【最上】の2ヶ月後で、竣工は1ヶ月後、設計から完成まで【最上】とほぼ同じように進んでいました。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

ということは、「友鶴事件」「第四艦隊事件」で度重なる強度改善工事を受けたことも同じで、双子のように育ち、紆余曲折を経て重巡洋艦に生まれ変わっています。
「第四艦隊事件」には【三隈】も遭遇していますが、【最上】が外板への亀裂被害を受ける一方で、【三隈】はこれといった被害は受けていないようです。
20.3cm連装砲を搭載したものの、もちろん【三隈】も書類上は軽巡洋艦のままです。

開戦後も2隻はともにあり、【三隈】「最上型」4隻で第七戦隊を編制し、マレーや蘭印方面への侵攻に参加。
第七戦隊の第二小隊であった【三隈、最上】は、昭和17年/1942年3月1日に「バタビア沖海戦」に遭遇します。
これはつい先日ABDA連合軍が日本海軍に惨敗した「スラバヤ沖海戦」の生き残りである【米ノーザンプトン級重巡洋艦 ヒューストン】【豪パース級軽巡洋艦 パース】が日本の輸送団を襲撃した海戦です。

「スラバヤ沖海戦」で海上の脅威を薙ぎ払った海軍は第16軍輸送船団をジャワ島に揚陸させるために3月1日ちょうど日付が変わったころに到着。
ところがこれを【ヒューストン、パース】が発見し、周辺にも護衛艦がいないことから攻撃を決意。
狙いは【神州丸】らがいるバンタム湾上陸部隊であり、【ヒューストン、パース】はどんどん目標へ接近します。

が、輸送船団は丸腰ではなく、周辺にしっかり警戒隊が存在していました。
この2隻を発見したのは【吹雪】でした。
逐一2隻の動向を8,000m後方という結構近い距離で追尾していた【吹雪】の報告により、周辺から【三隈】をはじめ続々と船団を守るために艦が集結していきました。

ただ、【三隈、最上】の重巡が到着する前に【ヒューストン、パース】が砲撃を始めてしまったため、【吹雪】が2,500mという超近距離で0時44分に砲雷撃を開始(夜とはいえ2,500mの距離の駆逐艦を発見できないのはまずいでしょ)。
この3基9本の魚雷を全て躱したのは見事ではありますが、【吹雪】はすぐさま煙幕に隠れて退避。
さらに同じタイミングで船団の前に割って入った【春風】の煙幕によって輸送船団も隠匿し、【ヒューストン、パース】は輸送船団への攻撃が極めて困難となりました。

続いて駆逐艦が四方から攻撃を開始しますが、集団で行動していたわけではなく、周辺からバラバラのタイミングで接敵・攻撃となったため、12cm砲や12.7cm砲では全く敵いません。
【旗風】【初雪】【白雪】【朝風】が攻撃を行い、【旗風】を除いて魚雷も発射しているのですが全て命中せず、第五水雷戦隊の旗艦であった【名取】は自身の魚雷発射後に一度態勢を整えるために駆逐艦へ撤退を指示。
12.7cm砲の威力が巡洋艦に通用しないのはともかく、ご自慢の魚雷が全く命中しなかったのは、「スラバヤ沖海戦」に続く日本の深刻な問題であったと言えるでしょう。

とは言え、まず輸送船団から引きはがすこと、そして真打である重巡2隻がやってくるまで戦場に留まらせることには成功しました。
揚陸箇所の西方にて警戒を行っていた【三隈、最上】【敷波】が1時19分に戦場に到着。
この直前に水上偵察機を発射していますが、2号機と3号機が接触事故を起こしており、1号機しか発射できませんでした。

まず【三隈、最上】は後方から魚雷を6本ずつ発射。
22分からは【三隈、最上】の砲撃が始まり、砲弾は【ヒューストン】に降り注ぎました。
一時的に【三隈】は電気系統の故障により砲撃が停止してしまいますが、【最上】からの砲撃もあって【ヒューストン】の速度は徐々に低下していきました。
ここを狙って雷撃を試みるために再び駆逐艦が接近するのですが、【ヒューストン、パース】の砲撃は有効弾がなかなか見込めない重巡2隻ではなく、一撃必殺を狙ってくる駆逐艦を振り払うために放たれます。
駆逐艦もその砲撃に悩まされて雷撃がなかなか命中しませんでしたが、26分についに【パース】に2本の魚雷が命中しました(魚雷は【春風】のものと推定)。

被雷した【パース】は15分後に沈没。
さらに【ヒューストン】にも魚雷の命中が確認され、【ヒューストン】の命運は尽きました。
最終的に4発の魚雷を受け、数十発の命中弾を受けた【ヒューストン】は、最後はまだ魚雷を放っていなかった【敷波】の雷撃によって沈没。
1時間半の海戦に及んだ「バタビア沖海戦」は、最終的には被害軽微、重巡軽巡各1隻の撃沈という戦果、そして『輸送船1隻と掃海艇1隻撃沈、輸送船1隻着底のち沈没、揚陸艦1隻大破、輸送船1隻座礁』という、戦場に存在しない船にも被害をもたらしたのです。

この想定外の被害艦の正体は、何を隠そう輸送船団の一員でした。
振り返ってみれば、戦場に到着した際に【三隈、最上】は前方の【ヒューストン、パース】へ向けて魚雷を発射しています。
そのあとも護衛艦隊はひっきりなしに魚雷を放ち、そしてそれは海戦が集結する間近まで命中することはありませんでした。
そして【ヒューストン、パース】のさらに前方にはジャワ島、つまりバンタム湾上陸部隊が揚陸のために停泊していました。

つまりこの海戦で放った魚雷が【ヒューストン、パース】をかすめた後、そのまま輸送船団にまで到達してしまったのです。
まず【第二号掃海艇】が右舷に魚雷を受け、小さな船体はあっという間に分断され沈没。
突然の雷撃に面食らった船団は、急いで闇討ちをしてきたと思われる周辺の魚雷艇の捜索に当たります。

そのあとすぐに【陸軍輸送船 佐倉丸】にも魚雷が命中、30分後に足掻いている【佐倉丸】にさらに1発の魚雷が命中してしまい、こちらも沈没してしまいます。
他に【陸軍病院線 蓬莱丸】が魚雷1発を受けて横転着底、のち放棄沈没。
【陸軍輸送船 龍野丸】は被雷こそしなかったものの回避の結果座礁してしまい、陸軍自慢の【神州丸】にも見事に魚雷が命中し大破してしまいました。

被雷の瞬間に考えられた魚雷艇は一向に見つかりません。
第16軍輸送船団の今村均司令官はのちの証言で魚雷艇らしき存在があり、砲撃もあったと証言していますが、
最終的な調査結果としては周辺に魚雷艇の形跡はなく、魚雷がやってきた方向や「九三式」と刻印された破片が【神州丸】の船倉から発見されたこともあって、護衛隊からの魚雷が命中したと結論付けられました。
海軍は陸軍に謝罪をしていますが、正式発表としては連合軍の魚雷艇による襲撃による被害としていて、連合軍に責任が擦り付けられました。

ジャワ島の制圧は9日にオランダ軍が降伏したことで完了。
続いて【三隈】はマレー半島への攻略に参加。
「セイロン沖海戦」で障害を排除することに成功したため、【三隈】所属の馬来部隊機動部隊が通商破壊作戦を実施して商船20隻以上を沈めています。

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