香椎【香取型練習巡洋艦 三番艦】

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起工日昭和14年/1939年10月4日
進水日昭和15年/1940年10月15日
竣工日昭和16年/1941年7月15日
退役日
(解体)
昭和20年/1945年1月12日
キノン湾沖
建 造三菱横浜造船所
基準排水量5,890t
全 長133.50m
垂線間幅15.95m
最大速度18.0ノット
航続距離12ノット:7,000海里
馬 力8,000馬力

装 備 一 覧

昭和16年/1941年(竣工時)
主 砲50口径14cm連装砲 2基4門
備砲・機銃40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
25mm連装機銃 2基4挺
魚 雷53.3cm連装魚雷発射管 2基4門
缶・主機ホ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基/
艦本式22号10型ディーゼルタービン 2基2軸
その他
水上機 1機
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3ヶ月だけの練習艦 丸腰の船団護衛の末路を知る香椎

3番艦【香椎】は、姉2隻とは建造計画が異なり、昭和14年/1939年度の「マル4計画」での建造となります。
そのため竣工は1年以上遅く、開戦まであと半年を切った中での登場でした。
【香取】【鹿島】は中途とは言え練習航海で大連や上海に起工していますが、【香椎】は全く練習艦としての役割を果たすことなく太平洋戦争に突入しています。

【香椎】は竣工早々新編された南遣艦隊の旗艦に就任します。
南遣艦隊とは、南部仏印進駐によって編成された、南シナ海周辺を管轄する艦隊です。
旗艦として【香椎】はサイゴンへ進出。
しかしまもなく、太平洋戦争の際にはマレーやシンガポールを早期攻略するためにこの艦隊の重要性が大きく増しました。
そのため10月に司令長官に小沢治三郎中将が就任したと合わせて、この艦隊に大幅な戦力増強の準備が始まりました。

開戦直前の12月1日、軍艦は【香椎】【占守】のたった2隻、他は砲艦や掃海艇という警備しかしない艦隊に【鳥海】「最上型」4隻、【龍驤】、第三水雷戦隊、潜水戦隊などがぞろぞろと加わります。
一気にバリバリ武闘派の連中が加わり、また旗艦も【鳥海】が臨時で担当。
【香椎】は裏方に回ることになり、輸送支援などで「マレー作戦」に参加します。
「マレー作戦」は輸送も順調で、【香椎】【占守】はひっきりなしに行われる輸送の船団護衛で働きづめでした。

昭和17年/1942年1月3日、警護海域の拡大に伴って南遣艦隊は第一南遣艦隊へと改称され、新たにフィリピン周辺を管理する第三南遣艦隊が、そして「蘭印作戦」終了後の3月には第二南遣艦隊が編成され、この3つの艦隊で南シナ海周辺を治める形となります。
開戦から4ヶ月で想定以上の大戦果を挙げ、フィリピンやシンガポールを手中に収めたことで南遣艦隊の攻撃部隊は役目を終えました。
【鳥海】らは次なる壮大な作戦の為に南遣艦隊から外れ、【香椎】は4月12日から旗艦に戻りました。

ところがその壮大な作戦「MI作戦」で大ポカをやらかした日本は、たちまちこの戦争での戦い方を改める必要に迫られます。
しかし戦艦以上に存在感があった空母を4隻も失った日本の立ち直りは遅く、アメリカはこの機を逃さずにグイグイ押し込んできました。
日本はここで背後を突かれるのを恐れて、イギリス艦隊が進出するであろうインド洋での通商破壊作戦を実施するために多くの駆逐艦らをシンガポールに集めます。
そんな日本を尻目にアメリカはガダルカナル島に奇襲上陸。
日本が造成していたルンガ飛行場を奪い取り、これでガダルカナル島はとんでもない激戦地へと変貌してしまいました。

急いで輸送を行う必要に駆られ、【香椎】らは「沖輸送」と呼ばれる日本やシンガポールからラバウルへ向けての緊急輸送に参加。
【香椎】は戦場の奥深くまで進むことはありませんでしたが、シンガポールとラバウルを中心に支援に徹しています。

昭和18年/1943年になり、日本は「ガダルカナル島撤退作戦」をもってガダルカナル島から脱出します。
しかしこれはガダルカナル島が連合軍の反攻拠点として確立したことを意味し、ここから周辺諸島の防衛がより一層重要になってきます。
【香椎】はアマンダン諸島、ニコバル諸島の防衛の為に陸海軍の輸送に参加しますが、いよいよ【香椎】やその船団にも明確な危機が迫るようになってきました。

8月23日にはカーニコバル島に輸送に向かいますが、【香椎】が護衛を終えてシンガポールへ戻ったところでカーニコバル島が空襲に合い、護衛してきた【屏東丸】が沈没。
29日にはインドネシアのサバンに入港する直前で【英T級潜水艦 トライデント】による雷撃を回避するなど、船団護衛も一筋縄ではいかなくなってきます。
一方で戦況の最前線はどんどん押し戻されており、諸島の防衛はより一層強化していかなくてはならなくなりました。
警戒と輸送に勤しむ中、12月末には第一南遣艦隊には新たに【青葉】【敷設艦 津軽】が加わりました。
そして同時に、【香椎】は長く在籍した第一南遣艦隊を外れ、新たに南遣艦隊などで任務をこなしてくれるであろう若い兵士たちの教育に就くことになりました。

12月31日付で【香椎】は練習艦兼警備艦として呉練習戦隊に編入。
遠洋航海には出れませんが、ついに【香椎】にも教育係としての役目が回ってきたのです。
練習戦隊にはすでに姉の【鹿島】が所属しており、ここから長く次女と三女で練習艦として働くことになります。

と言いたいところですが、【香椎】は昭和19年/1944年3月25日には練習戦隊から外れてしまいます。
【香椎】は22日の海軍兵学校の卒業式の後、江田内から大阪に卒業生を送ったのを最後に、海上護衛総隊に編入されました。
この海上護衛総隊、実は2月15日に【香取】が編入されていたのですが、そのわずか2日後に「トラック島空襲」に巻き込まれてしまい沈没したため、補充をしなければなりませんでした。

編入と同時に【香椎】は装備の改装が始まりました。
使うことのない魚雷発射管は撤去され、新たに12.7cm連装高角砲を2基搭載。
機銃も計38挺と激増し、他にも対潜装備が皆無だったために九四式爆雷投射機が両舷2基ずつ、また司令部居住区を改造して爆雷を300個搭載できるようにスペースを作りました。

昭和19年/1944年8月20日 あ号作戦後と竣工時の対空兵装比較
高角砲40口径12.7cm連装高角砲 3基6門(+2基)
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺(+4基)
25mm連装機銃 4基8挺(+2基)
25mm単装機銃 10基10挺(+10基)
13mm単装機銃 8基8挺(+8基)
電 探22号水上電探 1基(+1基)

海上護衛総隊とは言うものの、任務内容は練習艦以前のものとほぼ変わらず、船団の護衛です。
しかし敵の脅威は非常に大きなものとなっており、1回の輸送が貴重でかつ危険な航海となりました。
これに対処するために船団輸送はいわゆる大規模船団方式という、1回の輸送で大量の輸送船や護衛艦を集結させる方法を取りました。
その対処の為に【香椎】は改装を受けたわけですが、ここからかなりの頻度で日本とシンガポールを結ぶ「ヒ船団」の護衛として駆けずり回ることになります。

この「ヒ船団」は日本の生命線で、トラックを失った日本はシンガポールまで墜とすわけにはいきません。
しかしこの航路には潜水艦が跳梁跋扈しており、何度も雷撃を受けて油槽船や海防艦が被害を受けていきます。
そんな中でも「ヒ船団」は輸送失敗までの大損害はなく、多くの輸送でその任務を達成しています。

10月下旬の「レイテ沖海戦」で大量の艦艇を失った日本ですが、それでもシンガポールへの輸送は続きます。
11月には第101戦隊が編成され、【香椎】はその旗艦として海防艦と共に船団護衛に引き続き従事。
この頃は主力艦も風前の灯火でしたから、動ける艦はほとんどが船団護衛に回っていました。

風前の灯火ということは、いくら輸送を行っても海上の敵の侵攻はほぼ野放しになったということに他なりません。
船団の危険度はさらに増し、これまでの潜水艦や敵基地からの攻撃に加えて、水上艦や空母による攻撃も始まりました。
その結果、これまでの大規模船団方式で多少の被害があっても輸送を成功させてきた日本の行く末が再び真っ暗になっていまいます。
その最たる例が「ヒ86船団」であり、【香椎】らは空母からの大量の航空機に蹂躙されてしまうのです。

昭和20年/1945年1月9日、「ヒ86船団」はサン・ジャックを出撃します。
この時すでに航路の東に位置するルソン島にアメリカ軍が上陸していることが判明していましたが、ここでもし躊躇してしまうと完全に航路は航空機の網で封鎖されてしまいます。
船団にはこれまでの高速タンカーに加えて、日本とボルネオ島ミリを結んでいたものの航路が危険になったために廃止された「ミ船団」のタンカーも参加します。
しかしこの「ミ船団」のタンカーは低速なものばかりで、船団の速度はわずか8ノットに限定されてしまいます。

潜水艦からの襲撃を避けるために、船団はできるだけ海岸伝いに進んでいきます。
出撃から2日間は何事もなく進むことができましたが、危惧していた通りすでにルソン島では機動部隊などがしっかりと出撃準備ができており、12日にいよいよその目に留まってしまいます。

第38任務部隊は「レイテ沖海戦」でとり逃している【伊勢】【日向】を探すために出撃していました。
この2隻はリンガ泊地からカムラン湾への出撃の予定だったのですが、この第38任務部隊の警戒を予期して出撃を中止していました。
その結果第38任務部隊はお目当ての戦艦2隻の発見ができなかったのです。
しかし他の獲物が現れました。
のんびり進む「ヒ86船団」です。

いくら対空兵装が増したとはいえ、数には限度というものがありますし、すでにアメリカの航空機にとって13mm機銃なんて蚊に刺されたようなものですし、25mm機銃でもそう簡単に火は吹きません。
そしてアメリカの力は何と言っても数の暴力です。
「ヒ86船団」に対抗する術はほとんどありませんでした。

11時ごろからひっきりなしに上空から降り注ぐ爆弾。
次々とタンカーに爆弾が命中し、あちこちで火柱が上がりました。
たまらずタンカーは急いで沿岸に向かって突っ込みます。
自ら擱座させて脱出を図ったのです。

そんな中【香椎】にも1発の魚雷と2発の直撃弾(命中数諸説あり)を受けてしまい、後部弾薬庫に引火してしまい大爆発の末に沈没。
艦尾から沈んでいく【香椎】の姿を捉えた鮮明な写真が残されています。

【香椎】が爆沈してからもアメリカの攻撃は止みません。
とにかく船に片っ端から爆弾を落とし、擱座しているタンカーにも物資を焼き尽くすために容赦しませんでした。
結局16隻で構成された「ヒ86船団」は【鵜来】【大東】【第二十七号海防艦】の3隻しか助からず、他の船はみな沈没か擱座炎上という、「ヒ船団」史上最大の大損害を負ってしまいました。

さらに当日は周辺を別の船団も航行していて、第38任務部隊は暴飲暴食の限りを尽くします。
最終的にサン・ジャックそのものにも空襲を行い、1月12日だけで日本の輸送船を合計で35~6隻も撃沈や使い物にならなくさせたのです。
もともと空襲には弱いことを承知の上で大規模船団方式を採ってきた日本ですが、この空前の被害と「ヒ87船団」の壊滅的打撃を受けて、【香椎】とともに大規模船団方式は終焉を迎えます。

沈没していく【香椎】

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』

2021年01月24日 加筆修正

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