神威【水上機母艦】

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起工日大正10年/1921年9月14日
進水日大正11年/1922年6月8日
竣工日大正11年/1922年9月12日
退役日
(除籍)
昭和22年/1947年5月3日

建 造ニューヨークシップビルヂング
基準排水量17,000t
全 長151.79m
垂線間幅20.42m
最大速度15.0ノット
馬 力8,000馬力

装 備 一 覧

昭和13年/1938年
主 砲50口径14cm単装砲 2基2門
備砲・機銃40口径7.6cm単装高角砲 2基2門
毘式12mm単装機銃 6挺
缶・主機バブコック&ウィルコックス缶 4基
GE製ターボエレクトロリック推進機関 2基2軸
その他
水上機 12機
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最後の海外建造依頼艦 研究目的から改造された神威

すでに自国での艦艇建造技術は飛躍的に進化を遂げ、戦艦、駆逐艦、空母など、様々な艦種の艦艇の建造が日本では可能でした。
しかし建造技術はともかくとして、その内部、質、最新技術については、他国が秀でている箇所もいくつも残されていました。
例えば電気溶接については日本はなかなか技術を高めることができませんでしたし、航空機のエンジンや艦艇のボイラーなども、それ1点で比較をするとドイツやアメリカに劣るのはわかっていました。

それ故、日本はこの時点でもやはり世界の技術が手に入る方法を探していました。
その一番の方法が、技術そのものを仕入れることです。
この時日本が欲していたのは、電気推進技術でした。

かつて超弩級巡洋戦艦【金剛】をイギリスに発注したように、日本は世界に船を発注し、それを仕入れて艦隊を構成していました。
ただ、今はそこまでの強力な艦艇を買う必要はありません。
電気推進技術は大型艦艇にしか使われていない、というわけではないからです。
日本はアメリカに、この電気推進技術を採用している給油艦を発注することにしました。
それこそがのちの水上機母艦となる【給油艦 神威】です。
そしてこの【神威】が、日本が海外に建造を依頼して入手した最後の艦艇となりました。
【神鷹】は日本から帰れずに残されたドイツ艦を購入したので、依頼ではありません。)

電気推進とは、その名の通り電動機の力で推進力を得る技術です。
日本では終戦まで、ディーゼル機関の船もありましたが、多くの船がボイラーやタービンを搭載し、蒸気を動力の源としていました。

ちなみに簡易な説明ですが、
ボイラー:燃料を燃やす装置(エンジンの一種)
タービン:燃料を燃やすことで得たエネルギーを動力に変換する装置
です。

それに対して電気推進は、燃焼エネルギーを電気エネルギーへ変換して、その電気で発動機を動かしてパワーとする方法です。
電気推進は制御性が高いというメリットがあったのですが、最終的にはタービンやディーゼル方式の技術が向上し、また重量や容積がかさむというデメリットもあったことから、電気推進方式の船は日本では【神鷹】を含めた2隻しか存在しません。
つまり、電気推進を採用して日本で建造された船は1隻もいないのです。

電気推進の研究という目的は、上記の理由でさほど熱心に取り込まれなくなりました。
複雑な構造だったため、現場も電気推進を望んでいませんでした。
しかしこの【神威】という船の性能は決して悪いものではなく、給油艦としての役割は着実にこなしていきました。

そして昭和7年/1932年、同じく給油艦から改造されて水上機母艦となっていた【能登呂】「第一次上海事変」の活躍を見て、水上機による偵察・護衛の有用性が明らかになりました。
そこで急遽水上機母艦の増備が決定され、【神威】【能登呂】同様給油艦から水上機母艦へ改造されることが決定。
昭和8年/1933年には早くも水上機母艦へ装いを改めることになりました。
改装内容は【能登呂】とほとんど同じでしたが、搭載機4機(常用補用2機ずつ)の【能登呂】に対して【神威】は常用6機、補用6機搭載可能という、大型の水上機母艦となりました。
また、これも【能登呂】同様に、給油艦としての設備も残されていました。

また昭和8年/1933年末には、ドイツで実用されていたハイン式マットという方式を採用しています。
これは水上機収容の際に双方が安定停止しないと収容できなかった問題を解消するための方法で、30mほどの大きなマットに水上機を載せて、水上機が完全停止しなくてもこのマットを引き寄せることで水上機を艦艇に近づけ、それをクレーンで吊り上げるというものでした。
確かに8ノットの速度で収容ができたのですが、この方式はあまり効率が良くなかったようで、昭和13年/1938年には撤去されてしまいました。
貴重な真水をかなり消費するようで、海に出っぱなしの船には難しい条件だったでしょう。

昭和9年/1934年には分類も水上機母艦となり、昭和12年/1937年には【能登呂】とともに「支那事変(日中戦争)」へ参加。
ところが昭和14年/1939年になると、【神威】は水上機を下ろすことになり、逆に飛行艇を搭載する飛行艇母艦へと改造されることになりました。
当初は水上機母艦としての搭載機増を含めた改造工事でしたが、完成間近になって急遽飛行艇母艦への変更が決定。
再度改造が施され、この状態で太平洋戦争に突入しました。

太平洋戦争開戦後は主に輸送任務に専念し、第四艦隊に所属してウェーク島やギルバート諸島の攻略に従事していました。
その後も比較的平穏に輸送任務を行っていたのですが、昭和19年/1944年1月にはマカッサル海峡付近で【米バラオ級潜水艦 ボーフィン】の雷撃を受けて損傷します。
この修復のためにシンガポールへ入りますが、その際に同時にあまり活用されることのなかった飛行艇母艦としての設備も撤去されてしまいました。

母艦としての役割がなくなった【神威】は、シンプルに給油艦として任務に戻りました。
しかし昭和20年/1945年1月には、「ヒ87船団」の一員として香港寄港中に4発の爆撃を受けて大破してしまいます。
この「ヒ87船団」の輸送任務は、幸運艦【時雨】が沈没したことで有名です。

もちろん船団に同行することはできず、【神威】は香港に残り修復に入ります。
ところが4月には香港が再び戦火に見舞われ、またも爆撃を受けてしまいます。
この爆撃によって【神威】は大破着底し、修復は絶望的となりました。

終戦までおよそ4ヶ月、【神威】は香港に放置され続けますが、終戦後もしばらく【神威】はその場にとどまり続けました。
そして昭和22年/1947年5月、【神威】は除籍されて任務を終え、イギリスの手によって処分されて生涯を閉じました。