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日進【水上機母艦】

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起工日 昭和13年/1938年11月2日
進水日 昭和14年/1939年11月30日
竣工日 昭和17年/1942年2月27日
退役日
(沈没)
昭和18年/1943年7月22日
ブーゲンビル島付近
建 造 呉海軍工廠
基準排水量 11,317t
全 長 174.0m
垂線間幅 19.7m
最大速度 28.0ノット
馬 力 47,000馬力

装 備 一 覧

昭和17年/1942年(竣工時)
主 砲 50口径14cm連装砲 3基6門
機 銃 25mm三連装機銃 8基24挺
缶・主機 (補助缶:ホ号艦本式ボイラー 2基)
艦本式13号10型ディーゼル2基+艦本式13号2型ディーゼル1基
 両者をフルカンギアで接続 2組2軸
その他 水上機 12機
カタパルト 2基
甲標的 12隻
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ディーゼル成功の高速水上機母艦 しかし役目は輸送が主流

大正11年/1922年の「ワシントン海軍軍縮条約」、そして昭和5年/1930年の「ロンドン海軍軍縮会議」によって、海軍列強だった5カ国は艦艇の保有や建造にお互いで制限をかけることで際限なき軍拡に歯止めをかけることができました。
しかし日本はこの条約の抜け穴である補助艦艇に目をつけて、短期間で改造が可能な水上機母艦であったり、武装を強化して駆逐艦に近い働きを見込める水雷艇の建造を計画しました。

この構想に伴い、【千歳、千代田】【瑞穂】がまずは水上機母艦として、またいずれは甲標的を運搬する甲標的母艦へ改装することを前提に建造が始まりました。
この時点では「千歳型」の2隻は空母になることは検討されていませんでした。

そして【日進】ですが、先の3隻が順々に建造されていったことから、4番目の【日進】は建造が始まるのがかなり遅くなってしまいます。
起工したのは昭和13年/1938年と、「ロンドン海軍軍縮会議」からもう8年も経過してしました。
そしてこの8年のうちに日本は「ロンドン海軍軍縮会議」から脱退しており、すでに「有事の際には」の事態に入ってしまっていました。
そのため、当初は大型敷設艦として建造される予定だった【日進】は起工直後から改装後の姿で想定していた水上機母艦、そして甲標的母艦として計画が改められました。

艦型は「千歳型」【瑞穂】と同じですが、全体的にサイズはやや大きめ、そして特徴的なのは【瑞穂】同様ディーゼルエンジンのみという点です。
しかも【瑞穂】では悩みのタネになったこのディーゼルですが、【日進】に搭載された13号10型2基と2型1基の組み合わせは見事成功を収めたのです。
この13号は【瑞穂】【大鯨】で使われた11号の改良型で、試作機が「大和型」で使えないか検証されたものの見送られてしまい、その余りが【日進】にあてがわれました。
13号は日本で初めて実用化に成功したディーゼルエンジンと言ってもよく、速度は28ノットとかなりの高速性を生み出しました。

【日進】の特徴はこのディーゼルだけでなく、他の水上機母艦や甲標的母艦に比べてかなりの重武装であったこともあげられます。
12.7cm連装高角砲ではなく14cm連装砲3基、これは「香取型練習巡洋艦」に搭載されていた主砲と同じです。
しかもこの3基は全て前部に搭載されており、戦う気満々でした。
なぜこれだけの主砲を持っているかというと、高速敷設艦ということで、機雷の強行敷設が任務の1つになることから遭遇戦に対応するためでした。

25mm機銃は三連装8基で、カタパルトも大型なもので【紫雲】 を運用することを想定していました。
ただ、【紫雲】の末路は言わずもがなです。
カタパルトは当初4基搭載の予定でしたが、建造中に水上機母艦からさらに甲標的母艦になることが決まったため、数は半減した2基となっています。

艦内は甲標的をスムーズに送り出すために【あきつ丸】【神州丸】のようなレールが敷かれており、艦尾ハッチが開いてそこから甲標的が発進します。
逆に戻ってきた甲標的は両舷2基ずつ搭載されているクレーンで収容します。
敷設艦、水上機母艦、甲標的母艦と、起工から竣工までのたった2年半のうちに3つの艦種変更が行われた【日進】ですが、最終的な水上機搭載数は水偵12機でした。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』

太平洋戦争開戦後、【日進】はまずポートモレスビー攻略やインド洋の通商破壊のため、第六艦隊(潜水艦隊)に所属して潜水艦を率います。
しかし甲標的母艦ではあったものの、実際に甲標的を発射させたのは潜水艦ばかりで、【日進】は生涯で発射させたという記録が残っていません。
逆に【日進】は魚雷艇運搬を始めとした高速輸送艦としての役割が増えていきます。
「ミッドウェー海戦」ではその魚雷艇を5隻搭載して出撃しますが、海戦は知っての通りの大敗北、【日進】と魚雷艇は活躍することなく、撤退しています。

ガダルカナル島を巡る半年の激闘では、銃火器、弾薬、大発などなどあらゆる輸送に【日進】を投入したいという構想がありました。
しかしアメリカに奪われたヘンダーソン飛行場がこの輸送の大きな障害で、ショートランド泊地を拠点としていた【日進】【千歳】も空襲にあっています。
終始制空権を奪われていたために輸送もスムーズにはいかず、ヘンダーソンへの艦砲射撃も焼け石に水、結局駆逐艦や直掩機などの護衛を受けながら決死の輸送が続きました。
しかし【日進】はもはや海軍が保有する最速の輸送艦とも言えるので、【日進】なくして輸送は成し得ません。
ドラム缶輸送や蟻輸送、【日進】の護衛、そして何と言っても海戦など、駆逐艦は息つく暇がありませんでした。

有名な「サボ島沖海戦」では、【日進】は実際に輸送を行っていたのですが、その時に敵影を認めておらず、ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を行うために出撃していた後続の第六戦隊も【日進】たちから敵影の情報を得ていなかったため、唐突の遭遇戦となりました。
そしてこれ以後、輸送がいよいよ危険となったために水上機などの輸送が中止となり、【日進】「千歳型」はガダルカナル島任務から外されてトラック島へ移動しました。

やがてガダルカナル島を失陥すると【日進】は日本へ帰投し、メンテナンスのために舞鶴に入渠します。
1ヶ月ほどで再び南方諸島へ出撃しますが、この時にオランダから徴収した魚雷艇を運んで使ってみたりしています。
しかし南方に入ってすぐにアリューシャ方面のアッツ島、キスカ島の陥落の危機に際して【日進】が引き抜かれ、踵を返して一気に北上。
「キスカ島撤退作戦」の一員として高速輸送艦の役割を求められたのか、と思いきや、何故か【日進】は作戦に参加することなく、結局北方では【日進】の任務はありませんでした。

夏になり、【日進】は再び南方に送られます。
アメリカの進軍は止まらず、「ニュージョージア島の戦い」が勃発。
日本は本土より増援のために陸軍部隊や兵器を送り込み、第三艦隊が本土から南方に大移動します。
その中に【日進】も含まれていました。
この輸送中、暗号を解読されたために潜水艦の襲撃を受けたのですが、幸い被害はなく、まずは7月15日にトラック島へ到着します。

輸送先はマーシャル諸島からブーゲンビル島へ変更となり、【日進】とその護衛艦となった【嵐】【萩風】【磯風】は7月21日にラバウルへ移動。
その日の夜にラバウルを出撃し、ブーゲンビル島ブインを目指して輸送艦隊は出発します。

この輸送艦隊にはラバウルや第二航空戦隊などの【零式艦上戦闘機】が直掩についてたのですが、その護衛をあっさり突き破るほどの大部隊が、日中突如として輸送艦隊に襲いかかりました。
【零戦】16機に対してアメリカがヘンダーソン飛行場から派遣した航空機の数は約150機。
うち戦闘機は134機と、駆逐艦メインの輸送艦隊相手には些か過剰にも思える数の襲撃を受けます。
艦隊は対空戦闘に備えていたものの、この数はあまりにも圧倒的すぎました。

【零戦】は多勢に無勢でバタバタと落とされ、さらに中央に位置する【日進】は優先的に攻撃対象となり、瞬く間に6発の爆弾が命中します。
更に多くの至近弾を受けた【日進】はあっという間に大炎上、退艦する余裕もなく、すぐに沈んでいきました。
駆逐艦が懸命に救助するものの、第一波に続いて第二波が今度は駆逐艦に襲い掛かってきたため、3隻はやむなく救助を中止、空襲を避けながらブインを目指しました。

駆逐艦の被害は大きくなかったのですが、物資はもちろん【日進】の搭載量が圧倒的に多いため、それが陸揚げできない今回の輸送は大きな成果とはなりませんでした。
帰投時に沈没箇所を通って再び救助を行いますが、またもや米軍機がやってきたために今度の救助作業も満足に行うことができず、無念の帰投となりました。

輸送任務の要とも言えた【日進】を失った日本は、搭載量の少ない駆逐艦の酷使、強固な護衛必須の鈍足輸送船の徴用、虎の子の空母の活用という、あまりにもデメリットの大きい三択を常に迫られることになったのです。