ニ・一ゼネスト

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【二・一ゼネスト】とは、1947年2月1日に実施される予定だったゼネラル・ストライキ。
ゼネラル・ストライキとは一企業や組織の枠を超え、全国規模で一斉に行われるストライキのこと。
決行直前にGHQによって中止に追い込まれ、戦後日本の労働運動に大きな影響をもたらした。

【逆コース】
の1つでもある。

戦中の日本は、国家として意思統一をする必要があることから労働運動を禁止し、また労働組合などの争議団体も解散させられていた。
戦後の日本は文字通り焼け野原であったが、GHQは占領に際してこの抑圧されていた労働運動を奨励し、全国で労働組合などが急速に勢力を拡大させた。
それに伴い、日本は未だ国力が地を這っている中で、労働組合などによる賃上げ要求や労働環境改善要求が多発。

国会でも共産党が先頭に立ち、当時の吉田茂内閣に労働環境の改善要求を行い、また全官公労などの公務員の団体もそれを後押しした。
しかし吉田茂はこの訴えにしっかりとした対応を行わなかったため、共産党は全国の労働組合に「打倒吉田茂内閣」の旗印の下、一致団結して戦うことを宣言した。

この事態を重く見たのは、名指しで批判された吉田茂だけでなく、労働運動を奨励したGHQである。
労働組合・労働組合は日本の民主主義化を達成する上で必要不可欠な国民の権利であった。
しかし労働組合を率いるのは共産党であって、その共産党はまさに日本の共産国化を目指している。
手段に対する結果がすり替わってきていたのである。
冷戦の兆しを見せる世界情勢からも、GHQはこの事態を看過することはできなかった。

12月18日、GHQは労働運動にGHQの利益を損なわないようにするという文言を追加し、これまで組織の自主性が尊重されていた労働運動をGHQの管理下に置くことにした。
続いて1947年の念頭挨拶で、吉田茂はいわゆる「労働組合不逞の輩発言」で、国家の混乱を招いている労働組合を批判した。

対決姿勢を示された労働組合は、この批判に対して徹底抗戦する構えを見せる。
各労働組合は全官公庁労組拡大共同闘争委員会と全国労働組合共同闘争委員会を立ち上げ、2月1日までに国が要求を受け入れない場合は、無期限ストに入ると宣言。
これが【二・一ゼネスト】である。
民間企業だけでなく公の仕事も全てストップするということは、役所・鉄道・インフラなどありとあらゆるものが停止することになり、国は確実に混乱する。
労働組合は国を人質にとり、国民の権利を脅かしてる内閣に決死の覚悟を示した。

これに慌てたのがGHQである。
インフラが停滞するということは、GHQの占領体制にも大きな影響が出る。
GHQはこのゼネストをなんとしても阻止する必要があった。
たとえ民主主義に反する行為だとしても。

【二・一ゼネスト】の指導者であった国鉄の井伊弥四郎は、1月22日にGHQからのゼネスト中止勧告を突っぱねる。
井伊マッカーサー元帥の正式な命令でなければ梃子でも動かないという姿勢を示しており、口頭での命令に留まっていた今回の勧告に対しては全く動かなかった。
同じく1月30日にも中止命令が出されたが、直接命令でない今回の要求に対しても動かなかった。
井伊はアメリカ大統領選挙へ出馬を目指しているマッカーサー元帥にとって、民主主義を否定する今回の行為は汚点になると考え、強気な姿勢を貫いていた。

しかし1月31日、ついにGHQはマッカーサー元帥が直々に【二・一ゼネスト】の中止命令を発令。
井伊はGHQに強制連行され、【二・一ゼネスト】は公共の福祉に反する行為だとし、ラジオで【二・一ゼネスト】を中止することを伝えるように命令。
井伊は涙を流しながら【二・一ゼネスト】の中止を発表した。

これにより、GHQはGHQ管理下における民主主義しか認めないこと、また共産国化を否定することがはっきりわかった。
やがて公務員の労組活動は徐々に禁止の幅が広がっていくようになり、以後ゼネストは計画はされても実行されることはなくなった。