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【大和】建造の一部始終
The whole process of building Yamato

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艦型と個艦の説明を分けましたが、単純に分割しただけなので表現に違和感が残っていると思います。
起工日昭和12年/1937年11月4日
進水日昭和15年/1940年8月8日
竣工日昭和16年/1941年12月16日
退役日
(沈没)
昭和20年/1945年4月7日
(坊ノ岬沖海戦)
建 造呉海軍工廠
基準排水量64,000t
全 長263.00m
水線下幅38.9m
最大速度27.0ノット
航続距離16ノット:7,200海里
馬 力150,000馬力

装 備 一 覧

昭和16年/1941年(竣工時)
主 砲45口径46cm三連装砲 3基9門
副砲・備砲60口径15.5cm三連装砲 4基12門
40口径12.7cm連装高角砲 6基12門
機 銃25mm三連装機銃 8基24挺
13mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 12基
艦本式ギアード・タービン 8基4軸
その他水上機 6機(射出機 2基)
最終時
主 砲45口径46cm三連装砲 3基9門
副砲・備砲60口径15.5cm三連装砲 2基6門
40口径12.7cm連装高角砲 12基24門
機 銃25mm三連装機銃 52基156挺
25mm単装機銃 6基6挺
13mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 12基
艦本式ギアード・タービン 8基4軸
その他水上機 6機(射出機 2基)
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

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経験と勘だけに頼るな 管理型省力建造を追求

「1号艦」の基本計画が決まったとき、艦政本部長だった中村良三大将は、各部長に対してこのように述べています。

「十数年の建造休止期間、技術練熟の機会を失い、かつ補助艦等の整備には全力を傾注するのやむを得ざりし情勢なりしため、主力艦建造に必要なる基礎的研究もとかく遷延をかさね、いまなおおそのけつろんをも得ざるものある現状なるをもって、これが計画を担当する各員は、異常なる決意のもとに、その蘊奥を傾注して、この大任務達成に邁進するを要す」

引用:戦艦「大和」の建造 著:御田 重宝 講談社文庫よりP97

昭和12年/1937年10月15日、作業工程が決定しました。

計 画実 際
起 工1937年11月4日予定通り
汽缶積み込み1939年5月中旬~10月中旬予定通り
主機積み込み1939年5月中旬~11月中旬予定通り
進 水1940年8月上旬1940年8月8日
主砲積み込み1941年5月下旬~10月下旬1941年3月下旬~5月下旬
予行運転1941年12月下旬~翌年1月上旬1941年10月16日~18日
公試運転1942年1月下旬~2月下旬1941年10月22日~30日
第一期工事終了1942年5月上旬1941年11月上旬
第二期工事終了1942年6月下旬1941年12月10日
引き渡し1942年6月15日1941年12月16日

[1-P80]

「大和型」建造に際して、2隻には計画名から【第一号艦】【第二号艦】と仮称が与えられます。
この仮称は竣工するその時までの呼称でありますが、【大和】【武蔵】と命名されてからもその名を知る者は数少ない上に、その名を呼ぶこともありませんでした。

敵を騙すにはまず味方からではありませんが、ここからは国内での隠密建造に全力が注がれました。

諸外国に対してはこの情報機密はかなり効果を発揮していて、新型戦艦を造ることは隠せなくても、その全容がぼんやりしていたら対策のしようがありません。
徹底して日本は新型戦艦の概要を「42,000t、40cm砲9門、25ノット」として公に扱ってきたため、この情報が漏れたとしても漏れた情報が嘘ですから機密は守られたことになります。
乗員ですら搭載砲が46cm砲だということを知らず、「大和型」の全てのスペックを知っていた人は本当に一握りでした。

結局「大和型」はその偽スペックを最も信頼できる情報として扱い、これ以上の情報がそれを覆すことはなく、連合国は当然として、同盟国のドイツ、イタリアにも知られることはありませんでした。

一方、呉海軍工廠では「A140-F5」の設計案の段階から【大和】の建造のための準備が始まります。
呉は日本一の工廠でしたから【大和】建造を受け持つのも当然でした。
そして日本一であることから技術者も選りすぐりの人材が集まっていました。
【大和】は日本が建造する久しぶりの戦艦であると同時に、未曾有の超大型戦艦です。
予算は軍部の圧力で多少上乗せされましたがかっつかつで、決められたスケジュールに収まるように計画を立てるにしても、工数が膨大過ぎる上に古い「長門型」をベースに計算することができないという問題に直面します。
ですが呉にとって幸運だったのは、親方日の丸体制や経験こそすべてに勝ると言った旧態依然とした環境を打破する人物が揃っていたことです。

まず日本は技術や戦術の進歩に対して合理化の進歩が追いついておらず、それは太平洋戦争全体を通してもそこかしこで見受けられます。
簡単に言えば、マニュアルや統一性、そしてそれを運用する環境が日本にはありませんでした。
アメリカは技術力だけでなくこの合理性に富んでいて、冷徹な一面もありますが利益になる方法を貪欲に取り入れる気質があります。
工業面においては大量生産を可能にする機械があるのも当然ですが、その機械をスムーズに運用する環境と、誰でも操作できるマニュアル教育や作業の単純化、画一化などの管理面も充実していました。

【大和】設計主任には牧野茂造船少佐、造船部船殻工場主任には西島亮二造船少佐が任命されます。
当時の欧米の技術環境を存分に吸収していたのが、西島でした。
ざっくりとした紹介に留めますが、西島は呉工廠造船部長に玉沢煥が就任した際に非公式に設立された「優秀な艦艇を安価に短期間に建造するための研究会」のメンバーの一人で、低コスト化、標準化、工期の短縮、特殊能力率曲線などの合理化を図る勉強を絶やしませんでした。
今では民間で当たり前に行われている、マニュアルであったり規格統一であったりというものがこの頃はまだ浸透していなかったので、これをできるだけ高い位置から管理してコストと時間の無駄を削減していったのです。
予算と工数の調整を行っていた彼は、極秘の戦艦を建造することから民間委託も局限しなければならないことも含め、これを各工場に徹底させなければ絶対に計画通りに建造はできないと踏んだわけです。

また、電気溶接が片隅に追いやられた後も研究を惜しまなかった福田烈造船大佐の指令で、電気溶接先進国であったドイツにも、【大和】起工の直前まで派遣されています。
この視察の成果もあって、例えば材料の標準化、ブロック工法、部分的な電気溶接を戦艦に採用するなど、かつてない規模の戦艦建造はこれまでの造船とは比べ物にならないシステムで行われていきます。

電気溶接とブロック工法は構造上問題のない軟鋼が使われる艦橋で全面的に取り入れられることになりました。
また電気溶接は他に横隔壁、端部分の縦隔壁や甲板にも使われています。
全体で見てみると電気溶接が用いられた延べ長さは464,000mに達しています。
艦橋は他にもバイタルパートと共に模型(艦橋は1/50、バイタルパートは実物大)をわざわざ製造しています。
艦橋は細かい配線が多いため小さな穴を大量にあける必要があり、バイタルパートは逆に配管などのための大きめの穴を分厚い隔壁を通すためにあけなければなりません。
この時間がかかる穿孔作業をパーツの段階から行い、できるだけ現場では溶接・鋲接だけで済むように工夫されています。

呉はオール電気溶接の【敷設艦 八重山】の建造を昭和5年/1930年に始めています。
ちょうどこのころ、ドイツがポケット戦艦の名で知られる【ドイッチュラント級装甲艦 ドイッチュラント】の建造を始めていました。
28.3cm三連装砲2基搭載、ディーゼル機関搭載と特徴的なポケット戦艦ですが、電気溶接も多用していて、非常に意欲的な存在でした。
福田藤本を説得して、リベット工法だった設計を電気溶接に変更させ、世界の新技術を早く取れようと動いたのです。
この経験はブロック工法にも繋がりますから、【八重山】【大和】建造に大きく貢献しているのは間違いありません。
三菱は溶接の研究がゼロではありませんでしたが浅かったため、【武蔵】の建造でブロック工法を用いることができなかったのが工数の差にも表れています。

溶接のメリットは計り知れず、わかりやすいところでも工数が減る、重量が減る、隙間がなくなるので丈夫と、基本的にはいいことずくめです。
当時の鋲接技術は優れたものでしたが、鋲接は単純に重労働であることや基本3人1組で1本ずつ打ち込む必要があること、失敗した時の修正もこれまた大変なこと、温度管理が難しいこと(これは溶接も同じ)など大変な作業でもありました。

ところが排水量1,000t超の【八重山】は発生した問題もクリアして建造できましたが、横須賀で建造された同じく電気溶接で建造された【大鯨】は、排水量10,500tという桁違いの大きさだったこともあったのか、熱変形の歪みが許容範囲を超えて計画を変更せざるを得ない事態となっています。
加えて同じく意欲的に取り入れられたディーゼルエンジンも不調に次ぐ不調であったことは前述の通りです。
「第四艦隊事件」の発生もあって、ただでさえ未熟だった日本の電気溶接は平賀の否定的な言動もあってその成長速度も落ちてしまいました。
これを挽回するためにも、溶接推進派の福田は研究を絶やさずに継続しており、それが絶好の場面で活きることになりました。

環境においては、労働環境だけでなく設備環境もテコ入れが必要でした。
とにかく桁外れの戦艦な上、日本は造船技術こそトップクラスにはなっていたものの、1点1点の装備品や、それを製造するための設備や機械はまだ輸入に頼っている部分も多くありました。
欧米の新技術を会得したところで、それを使う機械がなければ製品は造れません。
なので必要になる機械はバンバン輸入しています。

有名なのがドイツから輸入した15,000tの水圧プレス機です。
「大和型」の分厚い装甲を均質装甲で造り上げるためには、その装甲を鍛錬して伸ばすことができる機械が必要でした。
この超強力なプレス機はドイツでも製作したことがない未知の装置で、日本は気が狂ったと言われながらも製作された本機は、ドイツでテストもされずに設計図と部品が送られてきました。[1-P117]
このような特注機械の輸入を始め、工廠の工事も建造前から慌ただしく進みます。
【大和】がでかすぎるので吃水も深くする必要があり、ドックの底を1m深くするなどの工事も行われています。
またガントリークレーンも従来の60t級が100tのものに変えられたりと、「大和型」のことは何にもわからないけど、次に造る船はかなりやばいという事は誰もがわかっていました。

進水時の工夫も事前に実行されています。
【大和】は大きすぎるがゆえに過去の戦艦と同じ流れで建造することができず、その対策の一つとして、進水前にできるだけ多くの構造物を取り付けるという方法がとられることになりました。
重量の大半を占めるのが分厚い装甲なのですが、この装甲に影響してくるのが装甲の内側に入る設備です。
そしてその中で最も重いのが機関類です。

従来なら機関は進水後に装甲を一度剥がして取り付けていましたが、【大和】は装甲が分厚すぎて取り外すのが大変です。
なので進水前に機関を先に取り付けて、その後装甲で蓋をすることにしました。
代わりに装甲に影響しない砲塔を進水後に取り付けることで、進水時に重量過多にならないように工夫しています。

同様に【武蔵】建造の三菱長崎造船所、【信濃】建造の横須賀海軍工廠でも大規模な工事や増強が行われています。
他にも横須賀の改造に時間がかかりそうなことや更なる大戦艦の建造の可能性も考え、神戸川崎造船所も「大和型」建造のための改良が行われる計画もありました。

このように建造が始まる前から並々ならぬ準備が進められた【大和】は、ついに昭和12年/1937年11月4日に起工式を迎えます。
過去の造船とは規模も違えば工程も違うし構造も違う、戦艦というものの全然違う船を建造することになるため、工程の調整は一時たりとも欠かせません。
こういうものは遅れないように細心の注意を払っていても遅れてしまうものですから、その遅れに敏感にならなければ調整が間に合わないのです。
西島は建造前から工期を逆算して大小あらゆるスケジュールを立てていましたが、このスケジュールを達成するためには時々刻々の進捗に目を光らせる必要がありました。
まとめてしまうと、【大和】は勘と経験、場当たり的な判断に頼らず、徹底分析、徹底計算、徹底管理の下で建造された戦艦」と言えます。

語る場所がないのでここで紹介をしますが、「大和型」の顔とも言える46cm三連装砲の砲塔、砲身がべらぼうに重たいため、呉で造られても【武蔵】【信濃】を建造する長崎や横須賀に運ぶ手段がないという問題が当初からありました。
過去には【給油艦 知床】「長門型」の41cm砲を運搬した実績がありますが、46cm砲は全く規模が違う主砲なので当然運べません。
既存艦の改装をするにもあまりに手間がかかりすぎるので、結局砲身、砲塔を運ぶため「だけ」の船として、1年かけて【給兵艦 樫野】が建造されることになりました。
【樫野】は砲塔と砲身3門、そして砲塔用の甲鉄などをまとめて運搬できる能力を有しており、さらには将来の為に51cm連装砲を搭載できたとも言われています。
もちろん本来の役割を終えた後は普通の給兵艦として活動し、太平洋戦争にも参加しています。

一方で【大和】は異常なほどの機密保持を行っていました。
これは【武蔵】も同じですが、建造に関わる者はトップから末端まで区別なく身辺調査が行われ、さらに宣誓書への署名が必要でした。
しゃべるな詮索するなただ黙って働けというわけです。

【大和】の全容がわからないようにするために、敵を騙すにはまず味方から、ではありませんが、仕事が不便になってでもどれほどの規模の船のどこにかかわっているかを悟らせないような措置が取られています。
多くの資料や図面が最高機密ランクである「軍機」に指定され、図面も大きいものはほぼ作成されず、小さい図面を何枚も組み合わせないと全貌が見えないようなパズル状態で、設計や工事の障害になるのは目に見えています。
なのでせめてもう1つ下のランクの軍極秘にしてくれと頼みこむ資料もたくさんありました。[2-P176]
船は線を引かなければ始まりませんが、製図のために呉に集められた人達は、頭に?マークを浮かべながら言われた部分の製図を進めていきます。
砲に関する線も引かなければなりませんが、もちろん直径なんて特級機密事項ですからわかりません。
「九四式五〇口径、二〇センチ砲」と表紙に書かれていますが、線を引くうちに絶対嘘ということはわかります。
36cm、41cm砲にも携わってきたベテランはさすがに46cmだとは察していますが、それを口外することは許されません。[1-P62][1-P91]

また軍港は広いとはいえ建造しているものも巨大なので、道行く人も見たくなくても見てしまいます。
このためドックはあらかじめ仕入れておいた大量の棕櫚が鉄骨からぶら下げられていました。
ですがこれは側面だけが覆われているので、建造が進むにつれて山の上から双眼鏡などを使えばばっちりドックの中身が見えるようになってきました。

この対策として、今も残されている三角の屋根が取り付けられることになりました。
ドック全体を屋根で覆うとクレーンにぶつかってしまうので、実際に山から見える範囲を確認し、必要な部分だけ覆い隠す形となりました。
機密保持の関係でこの屋根の取付も工廠内の人材で行わなければならず、専門外の工事のためなかなか危険な出来事でした。

ただ、人の口に戸は立てられぬもので、やっぱり呉と長崎では「凄い戦艦を造ってるらしい」ぐらいの噂は立ってしまいます。
造船の町でこんなことをして戦艦を造っていないと思う人のほうが少ないでしょう。
軍港側の窓は家には木枠がはめられてバスや鉄道も軍港付近では窓を封鎖、農家には証明書の携帯を義務付けていつでも要求に応じて提示するようにし、道路にも長ーく塀を作って港を見られないようにするなど、実生活に影響を及ぼすほどの制限が課せられたのであれば当然です。

こんな厳しい条件の中で、何とか工期は踏み外さないように工事は進んでいました。
しかし重量オーバーは部分部分で明らかになりはじめます。
少し述べましたが、造船という面では日本は強いのですが、それを細分化するとあれもこれも欧米の劣化であるというものが珍しくありません。
発動機を始めとした比較的小型の機械類はその筆頭ですし、スクリューなどの鋳物技術もここまでの大きさになると質の問題を隠しきれず、さらに主舵と副舵を支える船尾材は完成品が計画より14tも重い91tだったりしました。
ただ「大和型」の艦尾重量は「長門型」より1,000t以上重いので、多少大目に見る必要があるかもしれません。

分厚い装甲や砲弾にしても強度は欧米のものより劣っていて、特にそれは大型の船よりも戦車などの戦闘車両でまざまざと見せつけられています。
強度が弱いということは、予定の強度を得るためにはより分厚くしないといけませんからやはり重量が増えてしまいます。
このように超過した重量をどこで削減・調整するか、これは完成する瞬間まで付きまとう問題でした。

船尾材の重量について、計画と実際の数値の乖離を示す表がございます。

設計重量実際重量
前部材32.0t37.6t5.6t
中間材14.2t14.2t0t
後部材31.0t39.5t8.5t
77.2t91.3t14.1t

[1-P189]

この数字は船尾材に限ったものですが、船殻重量全体でみると計画よりも1,600tもオーバーしています。[2-P169]
「大和型」は集中防御方式を取っている関係上、非バイタルパートはかなり防御力が低く、浸水が起こりやすい設計でした。
なので予め大量の防水区画を用意し、隔壁で浸水を防ぐ方式だったのですが、この隔壁の厚みが当初設計案だとめちゃくちゃ薄かったので厚くせざるを得なかったのです。
防水区画が浸水の圧力で破られると次の隔壁にまた浸水して、より増した圧力がまた次の隔壁を破っていきます。
こうなると防水区画があればあるほど浸水しますから、重量が増えようとも絶対やるべき対策でした。
しかし【武蔵】は艦首の浸水がどんどん酷くなって浮力を失い沈没しましたから、もっと強固なものにすべきだったと設計主任の牧野茂(当時造船少佐)は後悔の念をあらわにしています。[2-P170]

そして昭和15年/1940年8月8日、進水式の日を迎えようとしてします。
実現しませんでしたが、当初は天皇陛下もご臨席の予定でした。[1-P216]
本来であれば久々の戦艦、それも世界最大の戦艦となれば大々的に報じ、国民的催事となりそうなものですが、そもそも誕生したことすら隠匿する戦艦ですから、進水式は極めて簡素にちゃっちゃと終わらせるしかありませんでした。

【武蔵】と比較して【大和】はドック内に海水を入れて浮揚する方式ですからこちらの方が楽です。
それにしてもこれまで建造してきた【大和】のなんと巨大なことか。
2日前にはドックに水を入れて漏水等問題がないかの最終チェックと予行演習を行い、ほぼほぼ問題ないことが確認されました。
艦底の鋲接は目を皿にしてチェックしてきましたが、いかんせん数が多すぎるため、見落としがないか繰り返し繰り返しチェックしてきた部分です。
漏水がないということは鋲接に不備があるとは考えられないので、これまで苦労してきたかいがあったというものです。

そして進水式当日、ささやかながらも艦首には薬玉が取り付けられ、式の参加者も100人程度でひっそりと【大和】は曳船に曳かれて海に出ていきました。
直前にはご丁寧に陸海軍合同演習を実施して注意をそらすほか、外出禁止、窓も閉め切るように言われ、さらに大量の警備が町中で監視をしていました。
巨大な【大和】は左右わずか2mずつしかないスペースを接触しないように引っ張られていきます。
ドックから出るのには20分もかかりました。

無事進水が終わると、【大和】建造はこれまでの造船と比較しても随分スムーズに建造が進みました。
これまでの西島の取り組みが功を奏し、予定通りの竣工はまず間違いないと早い段階から判断できるほどでした。
通常なら進水してからも猫の手も借りたいほど仕事が山積みで、とにかく予定通りに終わらせるためにてんやわんやになるところです。
それが最大の戦艦である【大和】で発生しなかったということは、関係者は信じられなかったことでしょう。

西島が管理する呉の【大和】と、三菱長崎造船所が管理する【武蔵】は、なんと総工数が倍も違ったと言われています。
さらに【大和】の船殻工事工数は計画では1,474,000工数だったところが、現実では999,000工数にまで抑えられています。
これは排水量が約半分の【陸奥】の872,000工数に対してたった1.15倍ほどです。
三菱は【武蔵】建造を任されるほどの絶大な信頼がある造船所で、普通に考えればこの差が三菱の怠慢とは考えられません。
ただ西島が別の土俵で仕事をしてしまったので、その土俵にいない三菱が追いつけなかったのです。
しかし民間同士の争いではこういうことがざらに起こりますし、三菱も過去に同様の形でライバルを打ち破ってきたわけですから、甘んじて受け入れなければなりません。

ところがそんな努力・事情を知らない海軍はいつものように追加要求をしてきます。
アメリカとの緊張が増してきたことで当然のように工期の短縮を要請し、また艦橋内部の施設もあれを増やせこれを増やせと言ってきたのです。
工期に関しては多少の短縮は可能なぐらい余裕はありましたが、設計変更はかなり無茶な要求です。
造る側も乗る側も命を懸けている戦艦建造なので、交渉も互いに一歩も引きません。
結局【大和】は工期を優先して艦橋の改造は一部に留め、その代わり年内に竣工させることになりました。
旗艦設備の充実は【武蔵】で達成されることになるのですが、こっちもこっちで喧々諤々のやりとりが発生しているのは言うまでもありません。

本来の予定なら昭和17年/1942年5月竣工の予定が12月にまで縮められたというのは、普通なら到底間に合う規模ではありませんでした。
しかし幸いにも【大和】は建造スケジュールに若干の余裕はあったため、何とかこの要求を叶えることができました。
とはいえ日夜問わない休日返上工事であったことには変わりなく、無理矢理間に合わせたことになります。
10月22日から公試がスタートし、開戦間もない12月16日に【大和】は竣工。
こうして最新鋭戦艦は、戦艦が全く活躍せず、逆に停止中の戦艦を多数大破させた「真珠湾攻撃」と、雷撃によって【プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス】を撃沈させた「マレー沖海戦」という、戦艦逆境の戦果で幕を開けた太平洋戦争に参戦しました。

最後に一言言っておきたいのですが、

【1年早ければ全く違う姿、1年遅ければ恐らく完成していない
最善ではないが最良な形で誕生したのが現実の「大和型」】

だと思っています。
1年早ければ藤本の影響力がまだ大きく残っていた可能性もありますが、完成したとしても絶対にもっと重いしもっと工期乱れもあったしもっとお金もかかったしもっと大きい設計でした。
ディーゼルエンジンは結果オーライで13号10型ディーゼルが問題なく稼働していたかもしれませんし、建造途中でも無理矢理タービンに変更させられてさらにぐっちゃぐちゃになったかもしれません。
逆にもう1年遅ければ、史実になぞって開戦していたとすれば昭和17年末の完成ですから、絶対【信濃】と同じような運命を辿っていますし、史実に変化があったとすればハルノートに対する反応であったり、それこそ航空主兵論がより活発に沸き起こって高速戦艦が誕生したり、空母がより多く建造されたかもしれません。
「大和型」が誕生したのはまさにこの絶妙なタイミング、あの時流の中でなければなりませんでした。

工事中の【大和】

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参考資料(把握しているものに限る)

Wikipedia
[1]戦艦「大和」の建造 著:御田 重宝 講談社文庫
[2]艦船ノート 著:牧野茂 出版共同社

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