起工日 | 昭和12年/1937年11月4日 |
進水日 | 昭和15年/1940年8月8日 |
竣工日 | 昭和16年/1941年12月16日 |
退役日 (沈没) | 昭和20年/1945年4月7日 |
(坊ノ岬沖海戦) | |
建 造 | 呉海軍工廠 |
基準排水量 | 64,000t |
全 長 | 263.00m |
水線下幅 | 38.9m |
最大速度 | 27.0ノット |
航続距離 | 16ノット:7,200海里 |
馬 力 | 150,000馬力 |
装 備 一 覧
昭和16年/1941年(竣工時) |
主 砲 | 45口径46cm三連装砲 3基9門 |
副砲・備砲 | 60口径15.5cm三連装砲 4基12門 |
40口径12.7cm連装高角砲 6基12門 | |
機 銃 | 25mm三連装機銃 8基24挺 |
13mm連装機銃 2基4挺 | |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 12基 |
艦本式ギアード・タービン 8基4軸 | |
その他 | 水上機 6機(射出機 2基) |
最終時 |
主 砲 | 45口径46cm三連装砲 3基9門 |
副砲・備砲 | 60口径15.5cm三連装砲 2基6門 |
40口径12.7cm連装高角砲 12基24門 | |
機 銃 | 25mm三連装機銃 52基156挺 |
25mm単装機銃 6基6挺 | |
13mm連装機銃 2基4挺 | |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 12基 |
艦本式ギアード・タービン 8基4軸 | |
その他 | 水上機 6機(射出機 2基) |
- なぜ「大和型」は「大和型」でなければならなかったのか
- 27ノット戦艦への私見
- 妥協の産物となった「A140-F6」
- 経験と勘、親方日の丸からの脱却 合理化を追求した省力建造
- 頂点にして終点 世界最大の戦艦大和の悲しい生涯
なぜ「大和型」は「大和型」でなければならなかったか
「大和型」戦艦を解剖する | 大和型の数ある設計案 |
※ここでは「大和型」および【大和】が誕生するまでの流れまでを追います。
「ワシントン海軍軍縮条約」と「ロンドン海軍軍縮条約」を締結していた日米英の海軍三強でしたが、日本ではこの「ロンドン海軍軍縮条約」の締結を巡って「統帥権干犯問題」や「五・一五事件」といった問題が噴出し、軍部や軍事力増強派にあたる面々の行動が先鋭化してきました。
国民は関東大震災と世界恐慌の煽りを受けて困窮を極めており、この問題そのものというよりかは国民を救済しない国家に対して不満が募っていました。
天皇陛下や国民を蔑ろにする政府を打倒しようという動きが国民の支持を集めるようになってしまい、特に「五・一五事件」後の国民からの助命嘆願が叶ってしまったことが、より日本を軍部主導に進めてしまいました。
関東軍の暴走と「満州事変」、国際連盟脱退と次々に世界の批判を浴びる行動に出た日本は軍国主義への道をひた走るようになり、ついには軍拡の足枷となっていた「ワシントン海軍軍縮条約」の破棄を昭和9年/1934年12月に通告し(2年間有効)、また「ロンドン海軍軍縮条約」からも昭和11年/1936年1月に「第二次ロンドン海軍軍縮会議」から脱退する形で条約締結を拒否。
ここに日本は制約なく軍拡を実施することができるようになり、再び海軍力の増強に本腰を入れ始めました。
両条約は戦艦の建造制限が第一でありましたが、現有戦艦は20年が経過すれば廃艦並びに代艦の建造をすることができました。
なので保有数を増やすことはできなくても維持することはできました。
しかし海軍力では新興かつ急成長をしてきた日本は、条約締結時の戦艦は米英と比較すると全体的に新しい艦が多い状態でした。
ただでさえ戦艦の保有数が劣る上に、新造も禁止されたことで日本の戦艦は改装をして性能を上げるしか方法がありませんでした。
そんな中で日本は「ワシントン海軍軍縮条約」の期限切れを見越して「金剛代艦」の設計案を求めたのですが、「ロンドン海軍軍縮条約」の締結によりこの計画も消滅しています。
保有量が多いことから必然的に古い戦艦も多い米英は、先駆けて新戦艦の設計に乗り出しました。
幸か不幸か日本も条約の脱退を決断したことで、他国同様次世代の戦艦研究が急ピッチで行われました。
当然、いざ建造解禁となってから研究を始めていれば遅いからです。
この時の世界の今の戦艦の最大口径は16インチ=40.6cmでした。
つまり次の戦艦は最低でも40.6cm、大きくて43cm程度の主砲を搭載する可能性は高かったわけです。
日本を焦らせる事情は他にもありました。
アメリカは世界恐慌に対応するニューディール政策と合わせて、条約に抵触しない範囲での海軍力増強を図ったヴィンソン・トランメル法を昭和9年/1934年に成立させました。
日本からしたらアメリカの海軍力増強は最も困るわけですから、何としてもこれを上回る戦力を用意しなければなりません。
さらに時期は「大和型」設計の最中にはなりますが、イギリスも新標準艦隊構想を立ち上げ、条約明けに海軍力を一気に増強するつもりでした。
米英いずれも計画の目玉に新戦艦の大量導入がありました。
今でこそ前時代的であると一笑に付す「大和型」ですが、当時は航空主兵論が大艦巨砲主義を覆すほど熟していませんでした。
可哀想に世界三大無用の長物とまで言われてしまいますが、個人的にはマジノ線も十分無用の長物やろがいと思いますし、そもそもこの3つも航空主兵論者の第一航空艦隊航空甲参謀だった源田実中佐が言い放ったものだとされていますから、話半分に捉える必要があるでしょう。
空母と航空機の存在は確かに急激に拡大していましたが、まさかそれが数年のうちに戦艦を沈めるどころか存在そのものを葬り去るまでに至る(止めはミサイルですが)まで想像できていたかどうか。
これは日本のみならず諸外国も同様です。
アメリカは世界に先駆けて大艦巨砲主義から脱却したのではありません。
「大和型」と同時期にアメリカも「ノースカロライナ級」の設計を行っていて、海軍の新しい顔となる戦艦に大きな期待を寄せていました。
アメリカは開戦前にちょうど「ヨークタウン級」の次の「エセックス級」の計画を進めてはいましたが、巨大空母をはじめ必要な艦船を、日本が逆立ちしてもできっこない超スピードで建造できる技術と人材があったことが凄いのです。
山本五十六連合艦隊司令長官が言う、「半年や一年は随分と暴れて見せましょう」というのは、奇しくも1年で戦況に即した戦力を整えることができるアメリカの評価が正当であったことを表しています。
むしろ大艦巨砲主義から脱却したのは日本のほうが早いまであります。
建造速度の問題があるとはいえ、日本は開戦前に【信濃】と【第111号艦】を戦艦として建造することは休止どころか完全に中止としています。
戦争中に戦艦を増やすことより空母や航空機、潜水艦などの建造を優先すべきだという決断はできたわけです。
一方アメリカですが、「モンタナ級」の建造計画が完全に中止となったのは昭和17年/1942年4月と言われています。
すでに「真珠湾攻撃」と「マレー沖海戦」という、航空機の時代到来を象徴する海戦が連合軍に手痛いダメージを与えているにもかかわらず、しばらくは低速高火力の「モンタナ級」の建造は行うべきだと考えられていたのです。
先制攻撃をした日本のほうが展望を予測しやすかったという面もありますが、「大和型」だけを見て大艦巨砲主義に執着していたというのは時系列を無視していて解せないわけです。
さて話を戻して、近いレベルでの凌ぎの削り合いは見ている側からしたら興奮しますが、確実に勝利するためには相手を絶対に上回る力を持っていなければなりません。
つまり、予測される敵戦艦の性能を上回る戦艦を建造して、敵の最新戦艦を戦う前から圧倒することで、日本の優位は絶対的なものになります。
そういう面では、日本はアメリカに先駆けて大艦巨砲主義を脱却し、機動部隊だけでアメリカを制圧できる状態で宣戦布告をできなかったのが一番の問題だと言えなくもありません。
それぐらいの相手なわけですから。
今この瞬間もそうですが、現代において兵器というものは国防の為でありますから、泥試合になる程度の兵器では徒に何もかもを消費するだけです。
特に日本の場合は仮想敵国をアメリカと据えた以上、対米7割の数の差を埋めるために圧倒的な質の高さ、つまり1隻の強さを誇示するのは必然でした。
ですから予測される次世代戦艦の41cmないし43cmを上回る46cm砲を搭載した(検討段階ですでに51cmという声もありました)戦艦を研究、建造するということが決定しました。
遡って「ワシントン海軍軍縮条約」が締結される前、日本は八八艦隊計画をぶち上げて際限のない海軍力の増強にひた走っていました。
有名なところでは「天城型巡洋戦艦」であったり「加賀型戦艦」がありますが、その後ろには「紀伊型戦艦」、そして「第十三号巡洋戦艦」と呼ばれる戦艦が控えていました。
つまり戦艦建造はこれほど先を見越していなければ、世界一の座を維持することができなかったわけです。
注目すべきは最後の「第十三号巡洋戦艦」で、こいつは45~50口径46cm連装砲4基8門(基・門数ともに複数案あり)、30ノットという化物性能で計画が立てられていました。
全体を見返してみると現実感がない設計なのは仕方ないとして、「大和型」計画の15年も前にすでに「大和型」に類する戦艦の構想は海軍の中に存在していたのです。
ただし当時は空母の存在感は微々たるものでしたから、純粋に艦隊決戦の中で一番硬くて一番攻撃力が高い船が足も速ければ最強だよね、という思いでの設計です。
この時アメリカには16インチ三連装砲を持つ「サウスダコタ級戦艦(計画艦)」と、33ノットというまさに巡洋艦クラスの速度で16インチ連装砲4基を持つ「レキシントン級巡洋戦艦(のち空母化)」の建造が計画されていて、これらを上回るためには「第十三号巡洋戦艦」程度の性能は不可欠でした。
他にイギリスも18インチ三連装砲3基を持つ低速の「N3型戦艦」と16インチ三連装砲3基かつ32ノットの「G3型戦艦」の建造を計画していて、高速大口径かつ相当の装甲を持つ高速戦艦が時代の中心になりつつありました。
この「第十三号巡洋戦艦」構想の背景には、すでに大正9年/1920年に「四十五口径五年式三十六糎砲」という秘匿名で行われていた47口径48cm砲の試射実験がありました。
当時の技術ではいろいろ問題があり、射撃は9発しかできずに砲尾が破損して、尾栓が吹きとぶ事故を起こして実験は終了しました。
しかし八八艦隊計画実現の為に46cm砲は実現可能な主砲であるという確信をこの当時から海軍は抱いており、46cm砲、50cm砲ともに研究目的の設計もされています。
このように海軍休日の前には今この瞬間と同じようなことが現実としてあったのです。
これを踏まえ、まず昭和9年/1934年3月21日の第二回軍備制限研究委員会において、艦政本部第四部主任の藤本喜久雄造船少将は次の戦艦に「基準排水量50,000t、全長290m、幅38m、50cm三連装砲4基、15.5cm副砲16門、艦載機3機、最大速度30ノット、出力140,000馬力、ディーゼル機関のみ、航続距離16ノット:12,000海里」という性能を提案しています。
建造できるかと言われればできるでしょうが、多分まともに戦えないんじゃないですかね。
「第十三号巡洋戦艦」と似たようなバランスで、少なくとも砲撃後の動揺は凄まじいものだったはずです。
しかも50cm三連装砲4基って、1cm小さいとはいえ門数は「超大和型」以上ですからね、えげつない。
10月の段階で軍令部は「46cm砲8門以上、基準排水量50,000t、15.5cm三連装砲4基12門もしくは20.3cm連装砲4基8門、最大速度30ノット以上、航続距離18ノット:8,000海里、20,000~35,000mからの敵砲撃に耐えうる防御力」という性能を要求しています。
要求の理由は、
イ.他国の追随を許さぬ卓越した戦闘力をそなえた戦艦とする。すなわち量的には競争する必要がないものとする。
ロ.緒戦において敵に大打撃を与えることができる主砲を装備する。このため46cm砲を採用する。
ハ.機動力を重視し、仮想敵国の同型艦より、3ないし5ノットの優速を必要とする。このためには32~35ノットを要する。
というものでした。
ハについてはあとで脱線しながら説明いたします。
また今後触れる機会がないので先に書きますが、防御に関しても最大30,000mにのちに引き下げられています。
日本がこの46cm砲にこだわった理由は先述していますが、もう1つの理由として、アメリカの大きなハンデであったパナマ運河の存在がありました。
パナマ運河は太平洋と大西洋をつなげる、スエズ運河に並ぶ超重要な運河です。
このパナマ運河は太平洋戦争で日本の破壊標的になるほどの存在なのですが、通過する船の幅の特例上限が当時は32.6mでした。
つまりこれより幅の広い船を造ってしまうと、パナマ運河を通れずに南米大陸のホーン岬をグルっと回らざるを得ません。
では18インチ砲を搭載してかつパナマ運河を通過できる戦艦とは、いったいどういうものなのか。
まず確実に防御が薄くなります。
軍艦の防御力は、基本的に自分が搭載している主砲の砲撃に堪え切れるように設計されます。
小型艦だとここまで防御に排水量を割くことができませんが、戦艦は主砲が強力になればなるほど、排水量は増大し、防御力も増していきます。
ですが18インチ三連装砲3基9門を搭載した艦幅33m以下の船を造るとなると、大きな主砲に対してアンバランスな細長い船になってしまい、防御も弱いし砲撃の反動が吸収しきれずに大きく傾斜するだろうと思われました。
じゃあ防御を損なわない戦艦を設計するとなると、必然的に排水量が大幅に増加するため、今度はパナマ運河を通過できる喫水12mを突破する可能性があります。
よしんば艦幅も喫水もクリアしたとして、そんな重たい船なら速度は23ノット程度と条約締結前ほどの低速になることが予測されました。
つまり、18インチ砲を搭載する戦艦をアメリカが建造するには、払う代償があまりに大きいのです。
現実ではパナマ運河を通過した最大の戦艦は「アイオワ級」でした。
最大幅は32.971mですが設計上スレッスレで通れるサイズでした。
「アイオワ級」の主砲は16インチ三連装砲3基ですが、結果として高速高火力の素晴らしい戦艦ではあるものの、非常に細長い形状だったためピッチングとローリングが大きいという問題がありました。
「アイオワ級」ですらこうだったので、18インチ砲だと常時の航洋性はもちろん、攻撃時の反動も相当酷かったでしょう。
じゃあパナマ運河を通過せずに、また無理をしない設計で18インチ砲の戦艦を配備する方法は何か。
それは太平洋と大西洋に2つの艦隊を配備するほかにありませんでした。
太平洋と大西洋の両方でアメリカの存在感を見せつけることができるのはパナマ運河のおかげです。
しかしパナマ運河を通過できない戦艦を建造してしまうと、太平洋にいるときに大西洋で何か起こった場合、またその逆の場合でも、毎回毎回南下北上しなければなりません。
この大きなタイムロスを回避するのであれば、同じ戦力を東西に同時に展開するしかありません。
いくら超大国アメリカでも、さすがにコストがかかりすぎるし、その後の運用も本来の倍の船を泳がせるわけですから費用対効果が悪すぎます(しかし現実でアメリカは「両洋艦隊法」を成立させているので、このとんでも構想を実現させるつもりでした)。
これらの理由により、アメリカはパナマ運河が拡張されない限り(これももし戦争が遅れていたら拡張される可能性がありました)、18インチ砲を搭載する戦艦は建造しない、と判断しました。
なので46cm砲を搭載する戦艦を建造すれば、まず5年は日本の有利は保たれる、という結論に至ったわけです。
そして設計の段階で議論になったのが、45口径か50口径かという砲身長の論争です。
当たり前ですが50口径のほうが射程も威力もググっと伸びます。
射程に関しては4,000m近く伸びて最大44,000m、貫通力は30,000mの距離で45口径が417mmに対して50口径だと464mmと、特に貫通力の差が大きいです。
しかし45口径46cm砲でもずば抜けて強力なので、果たして無理して50口径にする必要があるのかと議論が続きました。
結局50口径だとサイズが大きすぎることや製造技術が伴わないこと、そしてそれらのリスクを承知で製造しても得られる優位性がそこまで高いものではないことから、45口径に落ち着きました。
こうして正式名称「九四式四十五口径四十六糎砲」を搭載する新型戦艦の大黒柱が決まり、「大和型」の設計がより絞り込まれていくことになります。
27ノット戦艦への私見
ですが、この世界最強の戦艦の建造については計画段階から賛否両論がありました。
戦艦無用論というのはあまりに拡大解釈だと私は思っているので、個人的には航空主兵論という表現のほうが現実に即していると考えています。
「大和型」に関しては、山本五十六航空本部長(当時中将)が「大和型」原案の「A-140」の設計作業中の福田啓二造船大佐(「A-140」設計主任)の肩を叩いて「君たちは一生懸命やっているが、いずれそんなもん要らなくなるよ」と言ったというエピソードがあまりに強烈です。
他にも航空本部教育部長だった大西瀧治郎(当時大佐)が「斯かる無用の長物を取り止めて、空母、飛行機に切り替えていただきたい」「『A-140』1隻の建造費と維持費をもってすれば、第一線の戦闘機が製作できる」と軍令部に訴えたりと、時代の流れの変化を敏感に感じ取った有力な人物は複数存在しました。
山本の意見は戦後も様々な評価が乱れ飛んでいますが、山本の真意はここまで極端ではなく、群を束ねる立場としていかに戦艦と航空機をうまく連携させ、そして航空主隊にスライドさせるにはどうすればよいかを考えていたように感じます。
しかし「戦艦よりも航空機」という訴えは、明治5年/1872年に海軍が誕生して以来、常に追い求めた最強の存在を時代遅れと言わんばかりのものであり、さらには未だ根強く語り継がれる「日本海海戦」での戦艦の大活躍が背景にあることから、航空主兵論は非難の嵐でした。
別に空母や航空機が不要ということはありませんが、航空機はあくまで射程外から敵に攻撃をするだけのもので、止めを刺す兵器だとは考えられていませんでした。
爆弾の威力もこの時は250kgが最も重かったので、今後500kg、1tと増えていくことにはなりますが、そんなちゃっちい爆弾で戦艦が止まるものかと、攻撃する側としてもされる側としても大した脅威に感じていませんでした。
そんな存在がこれまで戦場を制圧してきた戦艦を蹴り落とすというのが航空主兵論ですから、そう簡単に納得できるものではありません。
この「大和型」建造は同時に「翔鶴型」の建造も決まっているため、戦艦に人と時間と金を注ぎ込むのなら航空戦力に割いたほうがいいという議論と、最後に勝負を決めるのは戦艦だから空母はそのお膳立てにすぎないという対立が根強く残っていました。
さて、航空主兵論は結局無視され続け、設計案がまとまったのはそこから1年半後。
20もの設計案で丁々発止を繰り返し、ついに46cm砲を搭載する、世界に2つとない戦艦の青写真が完成しました。
設計案の変遷については【大和型の数ある設計案】で紹介をしております。
ところが「大和型」の設計は、当初軍令部が求めた次代の戦艦の意義とは異なる形で完成してしまいます。
航空主兵論が少数派に留まったとはいえ、空母の価値が低いわけではありません。
かつて戦艦は鈍足であるのが当たり前でしたが、技術の発展と、艦船速度とは全く別次元となる航空機を搭載した空母の誕生により、艦隊全体の高速化が必要になってきました。
軍令部はこの点も勘案して「大和型」に何としても30ノットをと語気を強めて訴えたわけです。
しかし設計がより絞り込まれていく中で、いつの間にか最大速度は30ノットから28ノット、そして27ノットにまで低下してしまいました。
「大和型」が活躍できなかった原因の一つとして、この最大速度27ノットというのが、機動部隊との共同運用に不適であったとよく言われています。
ここで大切なのは、設計の時点で誤った判断だった、というような評価があるという点です。
結果論として27ノットの低速が足を引っ張ったというのなら、歴史は結果の積み重ねなので私もあえてここで私見を述べることもありません、私もそこそこ同意見です。
設計時の軍令部第一部主席班長であった中澤佑中佐は「大和型」30ノットを訴えた張本人ですが、27ノットになったことでこんな速度では戦えないし国防の責務は果たせないと辞職を申し出ています。
それほど作戦立案の立場からすると27ノットというのは重いハンデだったのです。
彼は昭和18年/1943年6月に軍令部第一部長、つまり作戦立案の総大将に就任していますから、27ノットの「大和型」の運用には少なからず苦労したでしょうが、この時期ならたとえ30ノットでも苦労しています。
欧州と日米の戦艦事情は異なりますが、欧州では戦艦の速度アップに躍起になっていて、ドイツの「シャルンホルスト級戦艦」(巡洋戦艦)は31ノット、フランスの「ダンケルク級戦艦、リシュリュー級戦艦」はともに30ノット、イタリアの「ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦」は30ノット程度と軒並み30ノット超え、イギリスの「キング・ジョージⅤ世級戦艦」でも28ノットと、他国には劣るものの従来の戦艦に比べれば十分速いです。
一方アメリカも、これまで極めて鈍足だった戦艦(「コロラド級戦艦」で21ノット)を「ノースカロライナ級戦艦」で一気に27~28ノットにまで引き上げています。
そして言わずもがな、「アイオワ級」は41cm三連装砲と30ノットという、総合面で欧州を上回る性能となりました。
この「アイオワ級」こそ、軍令部が求めた機動部隊共同運用能力を十分備えた強力な戦艦と言えるでしょう。
戦艦というくくりで27ノットは遅いとは言えませんが、結局速度面では各国の最新戦艦の中で最も遅い戦艦になってしまいます。
ただ問題としてあげられるのは、各国戦艦の中で最も遅いことではなく、運用上の大きな制約です。
同時期の計画である「翔鶴型」と、その前級の「飛龍型」は最大速度が約34ノットです。
「大和型」が最大速度30ノットだった場合、上記の空母の第四戦速に相当します。
しかし27ノットが最大の場合だとこれが第三戦速にまで落ちるわけです。
加えて最大速度を発揮するケースは稀で、駆逐艦などを除いてほとんどは戦闘中でも第四戦速より遅い速度で運用します。
結局「大和型」が広い視野と攻撃範囲を持つ空母の足を引っ張ってしまい、巡航時はともかく作戦時には大きな障害になってしまうのです。
結果として太平洋戦争で最も活躍した日本の戦艦は最大30ノットが発揮できる「金剛型」でした。
ですが、この27ノットが活躍できなかった、逆に言えば30ノットあれば「大和型」は活躍できたというのは、「大和型」とその設計に携わった人たちに対する評価としてはちょっと言いすぎじゃない?と思っています。
燃料投下することになりますが、まず、日本はもともと漸減邀撃作戦を掲げていたはずです。
潜水艦や水雷戦隊により日本にやってくるアメリカ艦隊を徐々に目減りさせ、最後に戦艦でドーンと叩き潰す、という考えが対米戦を行う上で海軍にはありました。
そして空母の誕生で、水雷戦隊よりも先に空母の航空機が敵艦隊に何らかのアクションを起こすことになるのは確実でした。
となると、戦艦は敵がこちらの間合いに入ってくるまでどっしり構えていればいいわけですから、高速運用する空母に随伴ができないことが必ずしも漸減邀撃という方針に反するわけではありません。
この作戦を軸にするなら、空母を護衛するのは戦艦ではなく、高速で中程度の攻撃力を持つ巡洋艦などの艦船で作戦を立案するのが本来の形ではないでしょうか。
ここで戦艦まで空母に就けると、もう最初っから全力でぶっ飛ばすという形に近いわけですから、漸減邀撃作戦とは似ても似つきません。
逃げる敵機動部隊に追いつかないから、という理由ならば低速が問題だというのはわかりますが。
漸減邀撃作戦が展開できなくなったから、というのであれば、そりゃ「大和型」よりも前からある大看板が外されたのだから運用に支障が出るのは当たり前で、それは「大和型」設計の問題ではなく作戦の問題です。
またアメリカは27~28ノットの「ノースカロライナ級」や「サウスダコタ級」を空母と共に戦場に派遣しています。
わかりやすいのは「南太平洋海戦」です。
この戦いには日本は「金剛型」4隻が、アメリカは【サウスダコタ】が戦場で【エンタープライズ】とともに参加しています。
【ノースカロライナ】も【伊19】に雷撃を受けていなければ【ホーネット】の護衛として参加していたはずで、いずれも「金剛型」より低速です。
また【ノースカロライナ】は「第二次ソロモン海戦」でも【エンタープライズ】とともに参加していますし、27ノットが機動部隊随伴を阻害したというのは無理があるでしょう。
この場合、アメリカはやったのに日本はやらなかった、と言うべきです。
続いて日本の空母に目を向けてみると、同時期に「翔鶴型」の建造が計画されていますが、「翔鶴型」が完成したとしても【赤城】【加賀】がお役御免になるわけがありません。
そして【赤城】は約31ノット、【加賀】に至ってはもともと鈍足で有名で約28ノットです。
もちろん最新空母との運用が最も好ましいですが、艦隊を構成する上で「翔鶴型」と「金剛型」、【赤城、加賀】と「大和型」や「長門型」の運用も十分可能です。
一部の制約が出るのは当初計画よりも速度が落ちているので当然ですが、すべてがパーになるほどの低速化とは思えません。
他には、「マリアナ沖海戦」では日米ともに戦艦が複数参加しています。
この戦いでは日本はアウトレンジ戦法、つまり空母主体の攻撃で戦うつもりでした。
その一方で、機動部隊の前衛には【大和、金剛】【武蔵】【榛名】、そして改装空母3隻がありました。
この改装空母には25ノット強の【飛鷹】【隼鷹】も含まれます。
主力である空母には戦艦は【長門】だけ配備していますが、このように機動部隊から高速の「金剛型」を剥がして前衛に置き、本隊にこの作戦で最も低速の【長門】を就ける運用も行っています。
対するアメリカですが、機動部隊護衛に戦艦を就ける運用をしたと言われながら、この戦いでは空母を護衛している戦艦は「ゼロ」です。
空母の数が潤沢だったということもありますが、3つの空母中心の輪形陣が前衛となり、その後方にもう1つの機動部隊、そして機動部隊随伴のために十分な速度を有した【アイオワ、ニュージャージー】ですら、他の5隻の戦艦と共に空母の後衛に配備されています。
つまり「マリアナ沖海戦」のアメリカの布陣は、完全に戦艦は空母の護衛を切っているわけです。
これは日本軍出撃の報告を受けてから、戦艦同士の砲撃戦があることも踏まえ、空母護衛に戦艦を混ぜて戦力が削がれることを嫌ったためです。
そして、「アイオワ級」が太平洋戦争に参加したのは昭和19年/1944年からだということも大切な点です。
【大和】が竣工したのは昭和16年/1941年末ですから、「アイオワ級」が機動部隊護衛ができたのに対して「大和型」ができなかったというのは、そもそも妥当な比較じゃないでしょというわけです。
最強戦艦はどれだ?とか、「大和型」と「アイオワ級」はどっちが強い?とかなら何の問題もないのですが、本論で「大和型」の比較になるべきは同時期設計の「サウスダコタ級」や「ノースカロライナ級」でなければなりません。
【大和】と【ノースカロライナ】の起工は1ヶ月だけ【ノースカロライナ】のほうが早く、それに対し【アイオワ】起工が3年も遅い昭和15年/1940年ですから、時代背景から戦艦を評価するなら「アイオワ級」が比較対象でないことは一目瞭然です。
そして27~28ノットの「ノースカロライナ級」「サウスダコタ級」が機動部隊の護衛も、逆に護衛から外れた共同運用も行っているんだから、これで「大和型」の27ノットが制約だったというのは説明が付きません。
明らかに速度以外の要因です。
他にも「大和型」2隻に使える燃料で駆逐艦を大量に動かすほうが先決であったり、30ノットあろうが【武蔵】がいないのに「ミッドウェー海戦」で前線運用はありえなかったり(もともと「ミッドウェー海戦」で【大和】が出る意味もなかった)、結構言えることはたくさんあります。
私個人としては、歴史的遺産として「大和型」を振り返ると、結果的に「アイオワ級」のような設計のほうがよかったね、と言うべきではないかと思っています。
当時の段階で誤っていたというのなら、もう「大和型」どころか何でもかんでも間違いまくってますから。
「大和型」と空母を同レベルで活躍させるのなら、航空主兵論というよりも航空戦術論とその効果がしっかり海軍に浸透し、かつ凝り固まった考えを改める柔軟性が必要だったでしょう。
この手の批判は運用側の問題もひっくるめて全部「大和型」に覆いかぶさってるような印象です。
過去に当HPでもこの27ノットが云々ということを書いたことがありそうな気がしますが、そこは素直に反省しなければなりません。
大きな寄り道をしましたが、個人的にこの評価・考え方は別の視点からも見るべきだと思い記述いたしました。
「ほーん」ぐらいで読んでもらえるとありがたいです。
しかし軍令部の要求通り高速性があったとすれば、少なくとも「ガダルカナル島の戦い」では出番があったかもしれません。
妥協の産物となった「A140-F6」
話を戻して、もともとの軍令部の希望は46cm砲8門以上、30ノット以上でしたが、これが27ノットに低下してしまいました。
前述の私見とは別に現実問題として、この2つを両立させるのはハードルが高すぎました。
8門以上ということは、連装砲4基か3連装砲3基もしくは連装・三連装の組み合わせ、四連装砲2基となりますが、どのタイプでも砲塔がめちゃくちゃ大きくなります。
そして砲塔のサイズに合わせるだけではなく、砲撃の際の衝撃に耐え切るためにも、艦幅はこれまでの戦艦よりも遥かにゆとりをとらなければなりません。
これは前述の通り「アイオワ級」も同じ憂き目にあっており、16インチ三連装砲3基の砲撃は約33mの艦幅では十分ではありませんでした。
46cm砲搭載案では、連装・三連装問わずみな艦幅38m以上です。
そして「友鶴事件」の記憶が新しい時期ですから、復原性を軽視することはできませんでした。
「大和型」の強さの象徴である46cm砲を8門以上、そして当然ながらその主砲に耐えうる防御力、さらに復原性を維持し、かつ30ノットを発揮するためには、全体のバランスを取らざるを得ません。
最大の幅が広くなればなるほど、高速化を実現するにはその艦幅にあわせて全長を伸ばして凌波性を高める必要があります。
また「アイオワ級」が出てきますが、「アイオワ級」は全長が270.4mで、完成した「大和型」の263mよりも7.4m(「大和型」比103%)長いです。
ちなみに「アイオワ級」の艦幅は32.97m(同84.7%)、排水量は48,400t(同75.6%)ですから、非常にひょろがり、もといスマートです。
「アイオワ級」の場合はパナマ運河の影響もあるので、艦幅に限度があったことも原因ですが、やはり30ノットという速度を出すためには全長を引き延ばさざるを得ませんでした。
「大和型」も同様に、30ノットを発揮するためには更なる巨大化は避けられませんでした。
全長が伸びると排水量やそれに影響する航続距離、馬力不足、またバイタルパートの広さなどにも影響が出てきます。
予算や港湾設備の問題もあって、「大和型」はできるだけ小さく造る必要があり、防御と速度の二者択一が迫られていました。
軍令部の要求に沿って設計されたのはおおよそ「A140-A」に相当しますが、口径が50口径とは言え公試排水量68,000t、全長277m、最大出力200,000馬力と、「A140-F5」と比較しても大型・強力です。
この調整の中で藤本の急逝もあり、福田啓二大佐と、その後ろに立つ、嘱託という形ではあるものの事実上の最高責任者となった平賀譲の意向に沿って徐々に速度が蔑ろにされていきました。
その結果、最終的に「大和型」の設計としてまとまったのは「A140-F5」、46cm三連装砲前方2基、後方1基の配置、そして最大速度27ノットという性能でした。
軍令部がかつて主張した30ノットという速度は、「友鶴事件」で重要視された復原性と、アメリカが採用するとは到底思えない46cm砲の優先度が非常に高かったことから、諦めざるを得ませんでした。
しかしこの27ノットという速度もバルバス・バウあってこそです。
攻撃・防御を重視した結果損なわれた速度ですが、その低下幅を何とかして軽減するため、設計が「A140-F5」案に落ち着くころに研究が急ピッチで進められました。
このバルバス・バウの成果をあげるために50以上の模型が製造されています。
バルバス・バウが大きく寄与するのは燃費ですが、最大出力を発揮した時の抵抗が減るということは疑似的に出力の上限が上がるわけですから、最大速度にも十分影響します。
「A140-F5」のタイミングということは、27ノットというハードルすらギリギリ超えることができたということですから、やはり30ノット維持の「大和型」建造はかなり大きな壁だったのでしょう。
話は変わり、「大和型」のもう一つの目玉に、戦艦にディーゼル機関を採用するというものがありました。
言うまでもなく機関の主流は蒸気タービンでしたが、蒸気タービンは燃焼効率が悪いことと、ボイラーとタービンをセットで搭載することが決まっているため、排水量増、スペースを取る上に煙突も大型化するという問題がありました。
日本は自国で資源を調達することができない癖に活動範囲が非常に広いため、これまで各艦種で長い航続距離が求められました。
この問題を解決する方法が、排水量削減と燃焼効率のいいディーゼルを搭載することでした。
経済性の問題から他国もディーゼルの研究を行っていて、特に煙突が不要になる恩恵を多く受ける潜水艦にはディーゼル機関が採用されています。
日本も同様で、潜水艦に搭載するために輸入していたディーゼルを元に徐々に技術力を磨いていきました。
しかしディーゼルは構造が複雑なため精密性が求められる機関で、そう易々と成果を出すことができませんでした。
それでも昭和8年/1933年から建造が始まった「伊68型潜水艦」には初めて国産ディーゼルである艦本式1号甲8型ディーゼルが搭載され、ここからより高出力のディーゼル開発に力が入りました。
そして今度は多種多様な取り組みが施されることになる【大鯨】に水上艦用の大出力ディーゼルを搭載することが決まりました。
この経緯もあって、「大和型」の設計はディーゼルオンリーもしくはディーゼルとタービン併用が大半を占めています。
藤本案では当初はオールディーゼルを訴えていました。
無論、ディーゼル開発に成功すれば大きな燃料節約とサイズ縮小に繋がるからです。
具体的には45,000馬力:タービン、70,000馬力:ディーゼルの併用はタービンオンリーの115,000馬力より燃費が3割も削減できます。
そして世界最大の戦艦がディーゼル機関のみで30ノットを発揮すれば、ディーゼル技術もあっという間に世界トップクラスになることも間違いありません。
しかしさすがにこれは冒険心が過ぎました。
まだ確立したとは言えないディーゼル、また大出力を安定して出すことではタービンが勝るため、やがて双方の長所を活かすためにディーゼルとタービンの併用という構成で話は進んでいきます。
機関は速力にばかり影響するものではありません。
船内の動力も多くが機関から発生するエネルギーを利用していて、特に主砲旋回にはボイラーの高出力が欠かせないということになり、ディーゼルだけでは何かと不便だということで併用案に落ち着きました。
併用する場合、ディーゼル2基が外側、タービン+ボイラーが内側に配置されることになります。
タービンやボイラーは被弾すると高温の熱気や蒸気が大量に噴出して死傷者が溢れかえりますが、ディーゼルはこのようなことが起こらないし、ディーゼルのほうが重量が重いので衝撃にも強いため防御に向いているからです(その後も動くかどうかは別として)。
紆余曲折を経て、すでに両条約から解放された日本は早速次期主力戦艦「A140-F5」の建造の準備に取り掛かります。
条約脱退後初の建艦計画である「マル3計画」で「A140-F5」2隻分の予算概算要求が提出されました。
対外的には、今度の戦艦は古くなった「金剛型」の35,000t級代艦2隻分であるという名目での要求です。
計画では1隻辺り9,800万の建造費として提出されています。
しかしこの予算にはからくりがあり、別に「甲型駆逐艦」3隻分と「伊号潜水艦」1隻の予算がそっくりそのまま「A140-F5」に回されることになっていました。
これは「A140-F5」の予算を見積通り計上してしまうと、予算規模から戦艦の規模がある程度予測がついてしまうからです。
軍艦の規模を知るにはいろんな方法があるのですが、当時の日本の物価をベースに1tあたりの鉄の単価さえあたりが付けば、後は予算から計算してだいたい排水量どれぐらいの規模の戦艦になるかはあっさりはじき出せます。
そして排水量がこれぐらいの規模だと口径はこれぐらいが想定されるから、日本がとてつもない戦艦を建造するつもりだぞとはい想定完了です。
なので「A140-F5」は存在そのものの隠匿に心血を注いだだけでなく、誕生する前からひた隠しにされていたわけです。
実際の「大和型」の建造予算は1隻辺り当時の価格で1億3,500~4,500万円(どこまでを建造費に含めるかで結構バラつきがあります)。
これは国家予算の3%ほどと言われていまして、これが計画では最大4隻ですから、単純計算で戦艦4隻に国家予算の1割超を突っ込むことになるわけです。
現在の価値に換算(約1,500倍として)するとだいたい2,100億円ぐらいになると思います。
ちなみに2021年時点での最新のヘリ搭載護衛艦である【かが】は建造費約1,200億円ですから、倍近い金額になってしまいます。
ところが「A140-F5」は起工前から躓きます。
燃費のことも考えて搭載予定だったディーゼル機関が、【大鯨】で不具合を頻発させたのです。
「伊68型潜水艦」で成功したとはいえ、この時の1基8気筒の馬力はおよそ4,500馬力。
対して【大鯨】やその後の【剣埼】【高崎】に搭載された11号10型ディーゼルエンジンは10,000馬力超と倍以上の性能で、かなり挑戦的な新ディーゼルでした。
結果的にこれが大失敗で、出力は半分しか出ないし、排煙はすごいしと問題だらけ。
帝国海軍でディーゼル機関をバリバリ動かすことができた水上艦は【日進】だけと言っていいでしょう。
実は11号10型ディーゼル問題もあって、海軍は「大和型」搭載予定だった13号10型ディーゼルの試験とその結果を急いで提出し、13号10型ディーゼルは144時間連続運転に耐えることができたから採用しても問題ないと訴えました。
そもそもまだ技術力が伴っていないディーゼル開発を無理に急がせた11号10型ディーゼルが失敗するのは当然で、急いては事を仕損じるの典型的な例でした。
しかしすでに平賀の腹のうちは決まっていて、排気に多少の煙がまじること、ピストンリングの折損が少し多いこと、シリンダライナやピストン胴環の磨耗が確認されることの問題、そして何と言っても11号10型ディーゼルの不安が解消されたとは言えないということで、ディーゼル搭載の夢は露と消えました。
ちなみにこの13号10型ディーゼルが【日進】に搭載されたディーゼルでしたから、結果論ですが、「大和型」に搭載してもさしたる問題がなかった可能性は十分あります。
とはいえ現実問題として機関不調で膨大な修理時間を要する危険性があるディーゼルと、燃費は悪いが早々ぶっ壊れることはない安心と信頼のタービンで、工期がほぼ決まっている中でディーゼルを選択するのも非常に勇気が必要です。
なにせ今度の戦艦は世界最強ですが、この世界最強戦艦がいないタイミングを狙って一気に攻め込まれると何もかもが無駄になってしまいます。
戦艦や兵器は、まず使える状態で存在していることが重要です。
工事中でしばらく出てこないのを知って、今攻めると可哀想だよねと思ってくれる敵がどこにいるでしょうか。
「大和型」にとって不幸だったのは、責任者が平賀であったことというよりも、計画、建造がこのタイミングであったことでした。
ディーゼル研究速度があと1年でも早ければ、と悔やまれる技術でした。
この結果「A140-F5」は蒸気タービンオンリーの「A140-F6」で建造することになりました。
このおかげで排水量も増えるし全長も伸びるし浮力も減るしと、簡単に計画変更していますが随分無理矢理ことを進めています。
この影響でさらに追加予算が計上されていますが、今回の予算の隠れ蓑は【比叡】と【蒼龍】の改装費用でした。
呉工廠造船部で設計を担当していた牧野茂(当時少佐)は、この報告を福田啓二から受けた時にちょうどイギリスのジョージ6世戴冠観艦式に出発する直前だったため、この急転直下の出来事にもほとんどの修正作業を部下に任せなければならない歯がゆさを感じていました。
牧野は「第四艦隊事件」直前の【叢雲】のしわを調査した人物で、直感力に長けており、この後の設計でも独自で手を加えて改善をするなど、思い切ったことをしています。
経験と勘、親方日の丸からの脱却 合理化を追求した省力建造
建造に際して、2隻には計画名から【第一号艦】【第二号艦】と仮称が与えられます。
この仮称は竣工するその時までの呼称でありますが、【大和、武蔵】と命名されてからもその名を知る者は数少ない上に、その名を呼ぶこともありませんでした。
敵を騙すにはまず味方からではありませんが、ここからは国内での隠密建造に全力が注がれました。
諸外国に対してはこの情報機密はかなり効果を発揮していて、新型戦艦を造ることは隠せなくても、その全容がぼんやりしていたら対策のしようがありません。
徹底して日本は新型戦艦の概要を「42,000t、40cm砲9門、25ノット」として公に扱ってきたため、この情報が漏れたとしても漏れた情報が嘘ですから機密は守られたことになります。
乗員ですら搭載砲が46cm砲だということを知らず、「大和型」の全てのスペックを知っていた人は本当に一握りでした。
結局「大和型」はその偽スペックを最も信頼できる情報として扱い、これ以上の情報がそれを覆すことはなく、連合国は当然として、同盟国のドイツ、イタリアにも知られることはありませんでした。
一方、呉海軍工廠では「A140-F5」の設計案の段階から【大和】の建造のための準備が始まります。
呉は日本一の工廠でしたから【大和】建造を受け持つのも当然でした。
そして日本一であることから技術者も選りすぐりの人材が集まっていました。
【大和】は日本が建造する久しぶりの戦艦であると同時に、未曾有の超大型戦艦です。
予算は軍部の圧力で多少上乗せされましたがかっつかつで、決められたスケジュールに収まるように計画を立てるにしても、工数が膨大過ぎる上に古い「長門型」をベースに計算することができないという問題に直面します。
ですが呉にとって幸運だったのは、親方日の丸体制や経験こそすべてに勝ると言った旧態依然とした環境を打破する人物が揃っていたことです。
まず日本は技術や戦術の進歩に対して合理化の進歩が追いついておらず、それは太平洋戦争全体を通してもそこかしこで見受けられます。
簡単に言えば、マニュアルや統一性、そしてそれを運用する環境が日本にはありませんでした。
アメリカは技術力だけでなくこの合理性に富んでいて、冷徹な一面もありますが利益になる方法を貪欲に取り入れる気質があります。
工業面においては大量生産を可能にする機械があるのも当然ですが、その機械をスムーズに運用する環境と、誰でも操作できるマニュアル教育や作業の単純化、画一化などの管理面も充実していました。
このアメリカの動きだけでなく、欧米の技術環境を存分に吸収していたのが、西島亮二造船少佐(当時)でした。
ざっくりとした紹介に留めますが、西島は呉工廠造船部長に玉沢煥が就任した際に非公式に設立された「優秀な艦艇を安価に短期間に建造するための研究会」のメンバーの一人で、低コスト化、標準化、工期の短縮、労働配置・管理などの勉強を絶やしませんでした。
今では民間で当たり前に行われている、マニュアルであったり規格統一であったりというものがこの頃はまだ浸透していなかったので、これをできるだけ高い位置から管理してコストと時間の無駄を削減していったのです。
予算と工数の調整を行っていた彼は、極秘の戦艦を建造することから民間委託も局限しなければならないことも含め、これを各工場に徹底させなければ絶対に計画通りに建造はできないと踏んだわけです。
また、電気溶接が片隅に追いやられた後も研究を惜しまなかった福田烈造船大佐(当時)の指令で、電気溶接先進国であったドイツにも、【大和】起工の直前まで派遣されています。
この視察の成果もあって、例えば材料の標準化、ブロック工法、部分的な電気溶接を戦艦に採用するなど、かつてない規模の戦艦建造はこれまでの造船とは比べ物にならないシステムで行われていきます。
電気溶接とブロック工法は構造上問題のない軟鋼が使われる艦橋で全面的に取り入れられることになりました。
また電気溶接は他に横隔壁、端部分の縦隔壁や甲板にも使われています。
全体で見てみると電気溶接が用いられた延べ長さは464,000mに達しています。
艦橋は他にもバイタルパートと共に模型(艦橋は1/50、バイタルパートは実物大)をわざわざ製造しています。
艦橋は細かい配線が多いため小さな穴を大量にあける必要があり、バイタルパートは逆に配管などのための大きめの穴を分厚い隔壁を通すためにあけなければなりません。
この時間がかかる穿孔作業をパーツの段階から行い、できるだけ現場では溶接・鋲接だけで済むように工夫されています。
呉はオール電気溶接の【敷設艦 八重山】の建造を昭和5年/1930年に始めています。
ちょうどこのころ、ドイツがポケット戦艦の名で知られる【ドイッチュラント級装甲艦 ドイッチュラント】の建造を始めていました。
28.3cm三連装砲2基搭載、ディーゼル機関搭載と特徴的なポケット戦艦ですが、電気溶接も多用していて、非常に意欲的な存在でした。
福田烈は藤本を説得して、リベット工法だった設計を電気溶接に変更させ、世界の新技術を早く取れようと動いたのです。
この経験はブロック工法にも繋がりますから、【八重山】が【大和】建造に大きく貢献しているのは間違いありません。
三菱は溶接の研究がゼロではありませんでしたが浅かったため、【武蔵】の建造でブロック工法を用いることができなかったのが工数の差にも表れています。
溶接のメリットは計り知れず、わかりやすいところでも工数が減る、重量が減る、隙間がなくなるので丈夫と、基本的にはいいことずくめです。
当時の鋲接技術は優れたものでしたが、鋲接は単純に重労働であることや基本3人1組で1本ずつ打ち込む必要があること、失敗した時の修正もこれまた大変なこと、温度管理が難しいこと(これは溶接も同じ)など大変な作業でもありました。
ところが排水量1,000t超の【八重山】は発生した問題もクリアして建造できましたが、横須賀で建造された同じく電気溶接で建造された【大鯨】は、排水量10,500tという桁違いの大きさだったこともあったのか、熱変形の歪みが許容範囲を超えて計画を変更せざるを得ない事態となっています。
加えて同じく意欲的に取り入れられたディーゼルエンジンも不調に次ぐ不調であったことは前述の通りです。
「第四艦隊事件」の発生もあって、ただでさえ未熟だった日本の電気溶接は平賀の否定的な言動もあってその成長速度も落ちてしまいました。
これを挽回するためにも、溶接推進派の福田烈は研究を絶やさずに継続しており、それが絶好の場面で活きることになりました。
環境においては、労働環境だけでなく設備環境もテコ入れが必要でした。
とにかく桁外れの戦艦な上、日本は造船技術こそトップクラスにはなっていたものの、1点1点の装備品や、それを製造するための設備や機械はまだ輸入に頼っている部分も多くありました。
欧米の新技術を会得したところで、それを使う機械がなければ製品は造れません。
なので必要になる機械はバンバン輸入しています。
進水時の工夫も事前に実行されています。
【大和】は大きすぎるがゆえに過去の戦艦と同じ流れで建造することができず、その対策の一つとして、進水前にできるだけ多くの構造物を取り付けるという方法がとられることになりました。
重量の大半を占めるのが分厚い装甲なのですが、この装甲に影響してくるのが装甲の内側に入る設備です。
そしてその中で最も重いのが機関類です。
従来なら機関は進水後に装甲を一度剥がして取り付けていましたが、【大和】は装甲が分厚すぎて取り外すのが大変です。
なので進水前に機関を先に取り付けて、その後装甲で蓋をすることにしました。
代わりに装甲に影響しない砲塔を進水後に取り付けることで、重量過多にならないように工夫しています。
それでも進水時の重量が従来より大きくなるのはわかり切っていたので、ドックの底を1m深くするなどの工事も行われています。
同様に【武蔵】建造の三菱長崎造船所、【信濃】建造の横須賀海軍工廠でも大規模な工事や増強が行われています。
他にも横須賀の改造に時間がかかりそうなことや更なる大戦艦の建造の可能性も考え、神戸川崎造船所も「大和型」建造のための改良が行われる計画もありました。
このように建造が始まる前から並々ならぬ準備が進められた【大和】は、ついに昭和12年/1937年11月4日に起工式を迎えます。
過去の造船とは規模も違えば工程も違うし構造も違う、戦艦というものの全然違う船を建造することになるため、工程の調整は一時たりとも欠かせません。
こういうものは遅れないように細心の注意を払っていても遅れてしまうものですから、その遅れに敏感にならなければ調整が間に合わないのです。
西島は建造前から工期を逆算して大小あらゆるスケジュールを立てていましたが、このスケジュールを達成するためには時々刻々の進捗に目を光らせる必要がありました。
まとめてしまうと、「【大和】は勘と経験、場当たり的な判断に頼らず、徹底分析、徹底計算、徹底管理の下で建造された戦艦」と言えます。
語る場所がないのでここで紹介をしますが、「大和型」の顔とも言える46cm三連装砲の砲塔、砲身がべらぼうに重たいため、呉で造られても長崎や横須賀に運ぶ手段がないという問題が当初からありました。
過去には【給油艦 知床】が「長門型」の41cm砲を運搬した実績がありますが、46cm砲は全く規模が違う主砲なので当然運べません。
既存艦の改装をするにもあまりに手間がかかりすぎるので、結局砲身、砲塔を運ぶため「だけ」の船として、1年かけて【給兵艦 樫野】が建造されることになりました。
【樫野】は砲塔と砲身3門、そして砲塔用の甲鉄などをまとめて運搬できる能力を有しており、さらには将来の為に51cm連装砲を搭載できたとも言われています。
もちろん本来の役割を終えた後は普通の給兵艦として活動し、太平洋戦争にも参加しています。
一方で【大和】は異常なほどの機密保持を行っていました。
工事に携わる者は誓約書にサインするのは当たり前、身辺調査もしますし、証明書がなければ上官でも一切お断り。
図面も大きいものはほぼ作成されず、小さい図面を何枚も組み合わせないと全貌が見えないようになっていて、正直設計や工事の障害にもなっていました。
また軍港は広いとはいえ建造しているものも巨大なので、道行く人も見たくなくても見てしまいます。
このためドックはあらかじめ仕入れておいた大量の棕櫚が鉄骨からぶら下げられていました。
ですがこれは側面だけが覆われているので、建造が進むにつれて山の上から双眼鏡などを使えばばっちりドックの中身が見えるようになってきました。
この対策として、今も残されている三角の屋根が取り付けられることになりました。
ドック全体を屋根で覆うとクレーンにぶつかってしまうので、実際に山から見える範囲を確認し、必要な部分だけ覆い隠す形となりました。
機密保持の関係でこの屋根の取付も工廠内の人材で行わなければならず、専門外の工事のためなかなか危険な出来事でした。
ただ、人の口に戸は立てられぬもので、やっぱり呉と長崎では「凄い戦艦を造ってるらしい」ぐらいの噂は立ってしまいます。
造船の町でこんなことをして戦艦を造っていないと思う人のほうが少ないでしょう。
軍港側の窓は家には木枠がはめられてバスや鉄道も軍港付近では窓を封鎖、道路にも長ーく塀を作って港を見られないようにするなど、実生活に影響を及ぼすほどの制限が課せられたのであれば当然です。
こんな厳しい条件の中で、何とか工期は踏み外さないように工事は進んでいました。
しかし重量オーバーは部分部分で明らかになりはじめます。
少し述べましたが、造船という面では日本は強いのですが、それを細分化するとあれもこれも欧米の劣化であるというものが珍しくありません。
発動機を始めとした比較的小型の機械類はその筆頭ですし、スクリューなどの鋳物技術もここまでの大きさになると質の問題を隠しきれず、さらに主舵と副舵を支える部分の船尾材は完成品が計画より14tも重い91tだったりしました。
分厚い装甲や砲弾にしても強度は欧米のものより劣っていて、特にそれは大型の船よりも戦車などの戦闘車両でまざまざと見せつけられています。
強度が弱いということは、予定の強度を得るためにはより分厚くしないといけませんからやはり重量が増えてしまいます。
このように超過した重量をどこで削減・調整するか、これは完成する瞬間まで付きまとう問題でした。
そして昭和15年/1940年8月8日、進水式の日を迎えようとしてします。
本来であれば久々の戦艦、それも世界最大の戦艦となれば大々的に報じ、国民的催事となりそうなものですが、そもそも誕生したことすら隠匿する戦艦ですから進水式は極めて簡素にちゃっちゃと終わらせるしかありませんでした。
【武蔵】と比較して【大和】はドック内に海水を入れて浮揚する方式ですからこちらの方が楽です。
それにしてもこれまで建造してきた【大和】のなんと巨大なことか。
2日前にはドックに水を入れて漏水等問題がないかの最終チェックと予行演習を行い、ほぼほぼ問題ないことが確認されました。
艦底の鋲接は目を皿にしてチェックしてきましたが、いかんせん数が多すぎるため、見落としがないか繰り返し繰り返しチェックしてきた部分です。
漏水がないということは鋲接に不備があるとは考えられないので、これまで苦労してきたかいがあったというものです。
そして進水式当日、ささやかながらも艦首には薬玉が取り付けられ、式の参加者も100人程度でひっそりと【大和】は曳船に曳かれて海に出ていきました。
直前にはご丁寧に陸海軍合同演習を実施して注意をそらすほか、外出禁止、窓も閉め切るように言われ、さらに大量の警備が町中で監視をしていました。
巨大な【大和】は左右わずか2mずつしかないスペースを接触しないように引っ張られていきます。
ドックから出るのには20分もかかりました。
無事進水が終わると、【大和】建造はこれまでの造船と比較しても随分スムーズに建造が進みました。
これまでの西島の取り組みが功を奏し、予定通りの竣工はまず間違いないと早い段階から判断できるほどでした。
通常なら進水してからも猫の手も借りたいほど仕事が山積みで、とにかく予定通りに終わらせるためにてんやわんやになるところです。
それが最大の戦艦である【大和】で発生しなかったということは、関係者は信じられなかったことでしょう。
西島が管理する呉の【大和】と、三菱長崎造船所が管理する【武蔵】は、なんと総工数が倍も違ったと言われています。
さらに【大和】の船殻工事工数は計画では1,474,000工数だったところが、現実では999,000工数にまで抑えられています。
これは排水量が約半分の【陸奥】の872,000工数に対してたった1.15倍ほどです。
三菱は【武蔵】建造を任されるほどの絶大な信頼がある造船所で、普通に考えればこの差が三菱の怠慢とは考えられません。
ただ西島が別の土俵で仕事をしてしまったので、その土俵にいない三菱が追いつけなかったのです。
しかし民間同士の争いではこういうことがざらに起こりますし、三菱も過去に同様の形でライバルを打ち破ってきたわけですから、甘んじて受け入れなければなりません。
ところがそんな努力・事情を知らない海軍はいつものように追加要求をしてきます。
アメリカとの緊張が増してきたことで当然のように工期の短縮を要請し、また艦橋内部の施設もあれを増やせこれを増やせと言ってきたのです。
工期に関しては多少の短縮は可能なぐらい余裕はありましたが、設計変更はかなり無茶な要求です。
造る側も乗る側も命を懸けている戦艦建造なので、交渉も互いに一歩も引きません。
結局【大和】は工期を優先して艦橋の改造は一部に留め、その代わり年内に竣工させることになりました。
旗艦設備の充実は【武蔵】で達成されることになるのですが、こっちもこっちで喧々諤々のやりとりが発生しているのは言うまでもありません。
本来の予定なら昭和17年/1942年5月竣工の予定が12月にまで縮められたというのは、普通なら到底間に合う規模ではありませんでした。
しかし幸いにも【大和】は建造スケジュールに若干の余裕はあったため、何とかこの要求を叶えることができました。
とはいえ日夜問わない休日返上工事であったことには変わりなく、無理矢理間に合わせたことになります。
10月22日から公試がスタートし、開戦間もない12月16日に【大和】は竣工。
こうして最新鋭戦艦は、戦艦が全く活躍せず、逆に停止中の戦艦を多数大破させた「真珠湾攻撃」と、雷撃によって【プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス】を撃沈させた「マレー沖海戦」という、戦艦逆境の戦果で幕を開けた太平洋戦争に参戦しました。
最後に一言言っておきたいのですが、
最善ではないが最良な形で誕生したのが現実の「大和型」】
だと思っています。
1年早ければ藤本の影響力がまだ大きく残っていた可能性もありますが、完成したとしても絶対にもっと重いしもっと工期乱れもあったしもっとお金もかかったしもっと大きい設計でした。
ディーゼルエンジンは結果オーライで13号10型ディーゼルが問題なく稼働していたかもしれませんし、建造途中でも無理矢理タービンに変更させられてさらにぐっちゃぐちゃになったかもしれません。
逆にもう1年遅ければ、史実になぞって開戦していたとすれば昭和17年末の完成ですから、絶対【信濃】と同じような運命を辿っていますし、史実に変化があったとすればハルノートに対する反応であったり、それこそ航空主兵論がより活発に沸き起こって高速戦艦が誕生したり、空母がより多く建造されたかもしれません。
「大和型」が誕生したのはまさにこの絶妙なタイミング、あの時流の中でなければなりませんでした。
頂点にして終点 世界最大の戦艦大和の悲しい生涯
【大和】は昭和17年/1942年2月12日に連合艦隊旗艦に就任します。
【長門】までのパゴダマストに押し込められた施設から、ちゃんと現代の戦闘に適した艦橋となった【大和】は大変快適なものでした。
しかしこの快適過ぎる船は、戦艦は航空機で落とすことができることが実証された以上、「こんなに莫大な費用をかけた、国の威信をかけた【大和】をそうやすやすと沈めさせる訳にはいかない。」という理由で、ほとんど表舞台に立つことがありませんでした。
最初の戦闘となった「ミッドウェー海戦」では、高速戦艦である【榛名】【霧島】が空母の護衛に就いて前衛にありました。
一方【大和】は他の低速戦艦と一緒に遥か後方を進んでおり、空母3隻が次々と火だるまになり、【飛龍】だけが一矢報いんと戦い続けている中でも何もできませんでした。
この時はまだ空母は露払い、戦艦が主役という考え方ではありましたが、結局戦艦が主力部隊であるという考えは、「レイテ沖海戦」のように空母を切り離すことになるまで遂に覆されることはありませんでした。
「ミッドウェー海戦」で大敗を喫した海軍ですが、くよくよしている暇はなく、国内では建艦計画の大幅な見直しを、現場ではガダルカナル島に飛行場を増設してソロモン諸島の防波堤にすべく奮闘が続いていました。
ところがその完成間近の飛行場がアメリカに搔っ攫われてしまい、一夜にして敵の反撃の拠点に成り代わってしまったのです。
ここから「ガダルカナル島の戦い」が始まり、【大和】は支援のために8月17日に【春日丸】らとともに柱島からトラック島に向けて出撃しました。
27日に道中で【春日丸】はラバウルへの輸送を急ぐために【曙】とともに分離。
【大和】らは翌28日にトラック島の目前までやってきました。
ところが入港直前に【大和】に対して魚雷が飛び込んできました。
一際巨大な何かを発見したのは【米ガトー級潜水艦 フライングフィッシュ】で、4本放った魚雷の撃ち3本が【大和】に向かってぐんぐん迫っていきました。
ですが幸運なことに2本の魚雷が早爆し、もう1本は回避できたため、【大和】に被害はありませんでした。
すぐさま日本は反撃に出ます。
【大和】の【零式水上偵察機】と【潮】【漣】が【フライングフィッシュ】に猛攻を加え、【フライングフィッシュ】は慌てて潜航し、逃げ出していきました。
撃沈はできませんでしたが、【大和】は無事にトラック島にたどり着きました。
が、【大和】の活躍はここまででした。
トラック島に来たはいいものの、ついにここから南下することはなく、連合艦隊旗艦として本土よりは近い場所から作戦を指揮するだけの存在となってしまいました。
「ガダルカナル島の戦い」は敵に制空権を奪われているため、戦艦どころか全ての艦艇が常に危険にさらされて行動を強いられます。
それを打破するためにはヘンダーソン飛行場を奪還もしくは再起不能になるまで破壊するほかありません。
アメリカは地理的な優位は獲得しましたが、戦力的にはまだギリギリの状態で、輸送がひっきりなしに行われていました。
アメリカの余裕がないうちにこちらが戦況を挽回しなければならなかったのに、ラバウルからの渡洋攻撃に頼るばかりで空母は出ず、「金剛型」の艦砲射撃だけが唯一そこそこの成果をあげている作戦でした。
あとは夜な夜な鼠輸送を高頻度で実施するしかなく、陸軍は敵との戦いよりも飢えと病との戦いに敗れていくものが続出しました。
【大和】が出ていけば何とかなった、という戦いではないかもしれません。
しかしアメリカは同等の速度の「ノースカロライナ級」や「サウスダコタ級」が戦場に現れ、「第三次ソロモン海戦」のような砲撃戦も繰り広げられました。
例え1回の機会であったとしても、【大和】があの戦いに参加していれば、敵戦艦にも相応の打撃があったことは言うまでもないでしょう。
結局「ガダルカナル島の戦い」は大量の犠牲を払いながらも遂に敗北し、翌年から撤退作戦が開始されました。
昭和18年/1943年2月11日、艦橋内部が【大和】より改善されている【武蔵】に連合艦隊旗艦が変更されます。
3月末には【飛鷹、隼鷹】の急降下爆撃の標的艦となり、4月18日にはトラック島で砲撃訓練を実施。
【大和】含め「金剛型」以外の戦艦は実戦経験がないため、練度を維持ないし底上げするのは大変な苦労があったと思われます。
5月8日、【大和】は護衛を伴って本土へ帰還。
この時本土で2隻は21号対空電探と22号対水上電探を搭載し、また対空兵装も増強されています。
ですが強化されてからもその力を発揮することはありません。
8月16日に呉を出撃した【大和】【長門】【扶桑】とその護衛達でしたが、戦艦勢は再びトラック島にどっかと腰を据えてしまい、日々命がけの戦いを繰り広げている駆逐艦や巡洋艦の助けになることはありませんでした。
傷を負って撤退してきた船達は、船が修理されている間に【大和】の風呂に入ったりと全く違う形で乗組員に貢献していました。
激闘による疲れを癒すためのような存在となった、豪華な内装を持つ【大和】は、いつしか「大和ホテル」と揶揄されるようになります。
人事異動だけはしっかり行われますが、世界最大の戦艦での勤務という誉にもかかわらず、あまりに退屈で、国家のために全く働くことができない【大和】勤務に嫌気がさす者も多かったと言います。
12月になって【大和】に出撃任務が下されました。
しかし巨大な主砲を放つための出撃ではなく、ニューアイルランド島への「戊号輸送」に使われるというのです。
46cm砲9門を搭載した【大和】が、独立混成第一連隊を運ぶ輸送船として使われることを、皆はどう見ていたのでしょうか。
その連帯を乗せた【大和】は、25日にトラック島まで約280kmという距離で【米バラオ級潜水艦 スケート】の雷撃を右舷3番砲塔付近に受けています。
ですがこんなとんでも戦艦ですから、乗員は誰もその衝撃に気付かなかったようで、不意に連隊兵だけが衝撃に驚いたと言います。
船に慣れている人間にとっては、単なる揺れとほとんど違いのない程の衝撃だったのでしょう。
ですが衝撃は感じなくても被害はあるわけで、何故か徐々に傾斜し始めた【大和】は左舷に700tの注水を行って傾斜回復をしております。
速度も幾分落ちましたが、それでも20ノットで無事にトラック島に到着しています。
トラックに到着後、【大和】は【明石】に対して浸水の原因究明を求めます。
そして潜水調査を行ったことで初めて浸水の原因が魚雷であったことに気付いたのです。
しかもこの時の浸水の被害は3,000tと凄まじいもので、【大和】の頑丈さと弱点の両方が露呈する事態となりました。
この大量浸水の原因の詳細については長くなるのでこちらでご確認ください。
【大和】は損傷を修理するため昭和19年/1944年1月10日にトラック島を発って本土へ帰投。
浸水拡大の原因は調査により明らかではあったのですが、それは構造的な問題だったため改善するのが大変困難でした。
結局弱点は弱点のまま放置され、ちょっと補強するだけの処置に留まっています。
「大和型」は浸水が増えても耐え抜く設計の為、この問題を放置したことがのちの2隻の最期を早めた可能性は十分考えられます。
本土にいる間に両舷の無用な副砲を撤去し、また高角砲と機銃が増備されました。
5月1日に【大和】はリンガ泊地に到着。
この時アメリカはマリアナやサイパンを奪取するために戦力を集中させつつあり、絶対国防圏となっているサイパン防衛の為に国内では議論が紛糾していました。
「あ号作戦」が立案されるものの、その作戦の元となる「新Z号作戦」が「海軍乙事件」によってアメリカ側に流出しており、日本は完全に後手に回った上、敵の侵攻もどこを目標にするか判断できずに頭を抱えていました。
そんな中でアメリカは27日にビアク島に侵攻を開始。
日本はビアクを捨てており、またマリアナ侵攻もそれほど近々にはないだろうと判断していたため、全てが真逆の結果となってしまいます。
ビアク侵攻に伴って日本は急遽ビアク島への逆上陸と敵艦隊の撃退を実施するために「渾作戦」を発動しました。
しかし第一次、第二次は共に失敗に終わり、第三次は敵艦隊の撃退と機動部隊を誘きだすために【大和、武蔵】までもが出撃。
遂に戦いの時か!?と思われたのですが、逆に日本は敵機動部隊に誘きだされてしまいます。
アメリカがマリアナに向かって11日に空襲を開始。
さらに15日にはサイパン島にも上陸し、日本は遅れをとるまいと「あ号作戦」を発動させて大艦隊を出撃させました。
そして19日、両機動部隊は「マリアナ沖海戦」で激突。
日本は数でも劣る上、かつて雲泥の差であったパイロットの腕も劇的に落ちていました。
加えて敵側は分厚い防空網を展開しており、たとえ戦闘機を突破しても無限の槍に突き刺されて次々と墜落していきました。
日本の機動部隊は、少ない直掩機で母艦を守ろうにも多勢に無勢で苦戦を強いられます。
そんな中に機動部隊の足元には【米ガトー級潜水艦 アルバコア、カヴァラ】が忍び寄り、この2隻の雷撃に端を発して【大鳳】と【翔鶴】が沈没してしまいます。
翌日には撤退中に【飛鷹】が捕まって空襲に合い、さらに潜水艦からと思われる魚雷も受けて沈没。
日本は再び機動部隊同士の対決で完敗し、太平洋海戦は絶望的な局面に陥ります。
【大和】はこの戦いで初めて46cm砲を27発放っていますが、全て対空弾である三式弾です。
しかも27発ということは、各砲いずれも3回ずつの砲撃の計算ですから、何とも寂しい攻撃でした。
昭和19年/1944年7月14日時点の兵装 |
主 砲 | 45口径46cm三連装砲 3基9門 |
副砲・備砲 | 60口径15.5cm三連装砲 2基6門 |
40口径12.7cm連装高角砲 12基24門 | |
機 銃 | 25mm三連装機銃 29基87挺 |
25mm単装機銃 26基26挺 | |
13mm単装機銃 2基4挺 | |
電 探 | 21号対空電探 1基 |
22号対水上電探 2基 | |
13号対空電探 2基 |
出典:[海軍艦艇史]1 戦艦・巡洋戦艦 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1974年
続いて悪夢の「レイテ沖海戦」では、早々にパラワン水道で潜水艦の襲撃を受け、旗艦【愛宕】と【摩耶】が潜水艦の雷撃により沈没、翌日には【武蔵】が海戦史上最大の猛攻を受け、シブヤン海に沈んでいきます。
さらに翌日、サマール島沖に割拠する米護衛空母艦隊を確認した【大和】は、ついにその46cm三連装砲の威力を発揮することになります。
「サマール沖海戦」の勃発です。
【大和】の砲撃を皮切りに、主力部隊の突撃が開始されましたが、結果として【大和】は大した戦果を上げることはできませんでした。
逆に敵の魚雷に左右を挟まれ、魚雷の射程距離が切れて沈んでいくまで延々戦地と逆方向へ逃げざるを得なくなるということもあり、散々な結果となっています。
【武蔵】の沈没は衝撃的でした。
不沈艦と名高い「大和型」の一方が、遂に敵機によって沈んでいったのです。
【大和】も沈むのでは、という不穏な空気がいつしか取り巻くようになりました。
そして、「レイテ沖海戦」によって帝国海軍は壊滅状態となった今、もはや特攻しかないと判断され、【大和】は「一億総特攻の魁となっていただきたい」という言葉の下、「坊ノ岬沖海戦」へと挑むことになりました。
艦隊には、帝国海軍随一の武勲艦【雪風】【初霜】も含まれていました。
【大和】は片道の燃料のみを載せ、一同を率います(搭載された燃料の量は結構いろんな証言があります)。
昭和20年/1945年4月7日、【大和】は米軍の爆撃機による爆撃によって遂に被弾、火災が発生し、その火災は沈没まで消火されることはありませんでした。
休む間もなく米軍の波状攻撃は続き、空からは爆撃、水中からは雷撃が【大和】を襲います。
護衛の駆逐艦や最後の第二水雷戦隊旗艦の【矢矧】が、空襲によって沈んでいきます。
そして、いくら強固な【大和】とはいえ、爆発による煙で視界は歪み、四方から放たれる魚雷は進路を塞ぎ、徐々に【大和】の船体は左へ傾いていきます。
それを見た米軍は左舷への集中雷撃に徹し(偶然との意見も多いです)、ついに注水でも傾斜回復がかなわない事態に陥ります。
そしてついに午後2時23分、【大和】は左へ横転し、弾薬庫の爆発による高さ6千メートルの巨大なキノコ雲を発生させながら、坊ノ岬沖に沈んでいったのです。
この戦いには、米軍はのべ11隻もの空母をつぎ込み、また攻撃もほとんどが【大和】へ向けられていました。
いかに【大和】を沈めることが重要視されていたかがわかります。
【大和】の一生は、やはり他の戦艦同様、戦地においては誇らしいものではなかったかもしれません。
しかし戦後、その圧倒的なスケール、その強靭な船体、そして特攻の末に沈んでいった散り際等、多くの国民の心を掴みました。
戦中、国民に秘匿にされてきた存在は、戦後最も人気な戦艦へとのし上がり、今も日本のみならず、世界中にファンがいる戦艦となっています。